Farasha (2)

 白い少年の掌が、ぽかんとしている慧生の上腕から肩に、ごく当たり前のように移動してくる。少年の小柄な身体つきそのままに、あまり大きくはない手。そして少女の手を思わせるほど繊細な指と、すべらかな手の甲。
 邪気の欠片も見えない真紅の大きな瞳が、やけに嬉しそうに、そしてやたらうっとりと至近距離から慧生を見つめていた。状況の唐突っぷりに困惑するのも通り越して、慧生はその瞳の鮮やかな真紅に魅入られていた。
 流れ出したばかりの鮮血の色、あるいは選別された最高品質のルビーの色。限りなく純度の高い真紅の上に、髪にも帯びている不思議な虹色の光沢がふわりとかかっている。アゲハ、というらしいその名前の由来なのだろうか。揚羽蝶の翅を思わせる、夢のような煌き。
「ひゃっ」
 少年の指先がバスローブのはだけかかった肩から首筋に伝ってきたところで、ようやく慧生はその感触にぎょっとした。
「ちょ……ちょっと待てっ!」
 一気に我に返り、慧生は少年の手を振りほどくと、その細い身体を押し返した。
「あ」
 ふわん、と何の抵抗もなく少年の身体が傾ぐ。振り払われることなど予想もしていなかったような軽さでふらついた少年に、慧生は慌てて、今度は逆にその肩に手を伸ばした。白い少年が目をぱちくりさせ、支えられたことを理解したのか、にこりとまた嬉しそうに笑った。
「あー……えっと」
 何だよこれは一体どーいうこった。とまくし立てそうになっていた慧生だが、そんな少年の様子を見ていたら、どうにも毒気が抜けてしまった。
 あまりに得体が知れないが、ともあれ相手の姿は、自分より十歳程も年下の子供なのだ。しかもやたらとにこにこと、邪気がない。
 慧生は少年から手を放し、床の上に完全に腰を降ろした。生乾きのまま頬まで落ちてくる邪魔すぎる黒髪をかき上げて視界を確保し、慧生はあらためて、まじまじと白い少年の姿を眺めた。
 白い少年はケースの中にちょこんとおさまったまま、正座を崩したようないわゆる女の子座りをしている。今は全裸だから性別も分かるが、これに服を着たら本気で女の子にしか見えないんじゃないのか、と危ぶんだ。
 慧生をつぶらな瞳で真っ直ぐに見上げながら座っている少年の様子が、なんだか妙に小柄な動物に、とくに白い仔犬あたりにだぶって見える。犬種でいうなら、真っ白いポメラニアンかパピヨン、といったところか。
「……あのさ。アゲハくん?」
「アゲハ、と呼んでほしいです。あなたは僕のマスターですから」
 白い少年​​​──アゲハが、慧生を見返して即訂正した。口調は柔らかいが、わりあい滑舌の良い、そして明るく素直な喋り方だった。
「……じゃあ、アゲハ?」
「はい」
 マスターて何だよなんか俺おされてないか? と思いつつ慧生が言い直すと、嬉しそうにアゲハは返事をした。ぱたぱたと尻尾を振っている様子が見える、と錯覚してしまいそうになる。何がいったいそんなに嬉しいのだろうか、と思ってしまうような姿だった。
 それはさておいて、まずはこの少年の正体を把握することに、慧生は努めた。
「えーと。おまえさん、人間……じゃあ、ないんだよな?」
「はい。僕はAT社製の、奉仕型高級アンドロイドです。あ、取説とか保証書とか仕様書は、このケースの内側のポケットに入ってます」
「マジでか」
 アンドロイド、とあっけなく名乗られ、慧生はのけぞりそうになった。いや確かにアンドロイド自体はさして珍しくもないし、人型アンドロイドも多くの企業や施設、一般家庭にまで、昨今ではサポートシステムの一貫として導入されているのだが。
 が、少なくとも慧生が知っているそれらは、どれほど人間に近い外見と動きを持っていても、どこか無機質的で「人工物」の印象を拭えないものばかりだった。アゲハのような、ここまで完璧に「人間」との見分けも区別もつかないほど精巧なアンドロイドなどには、今までお目にかかったことがなかった。
「お訊ね下さったら、僕がお答えもしますけれど。仕様書くらいは見てもらえ、と言われて来ました」
 アゲハはなんとも緊張感のない、おっとりとした調子で受け答えをする。いつの間にか酔いも吹っ飛んでいた慧生は、アゲハの言葉もあって、やっと送り主についてを思い出していた。
ALPHA TRINITY COMPANYアルファトリニティ・カンパニー』。
 ラベルにあったそれは、橘家の経営するグループ企業のひとつ、主に医療機械や看護シュミレーター、筋電義肢といったものの開発製造を取り扱っているメーカーを示す名称だった。それを思い出して、やっとあの配送業者が一般の業者ではなく、アルファトリニティ社から直接来た専用配送だったことに気が付いた。
「見てもらえってさ。誰に言われたの?」
 慧生の指紋が解除キーに設定されていたことといい、アゲハが慧生の名前をインプットされていて、「マスター」つまり「奉仕型アンドロイドとして仕えるべき主人」であると認識していることといい。何者かが意図的に、こんなことを仕組んだのは間違いない。
鷹司たかつかさ先生です」
 慧生の問いかけに、自分の存在が慧生に困惑を与えているとは微塵も思っていないような罪のない笑顔で、あっさりとアゲハは答えた。
「……またあの人か」
 果たして、咄嗟に頭に浮かんだ人物と一致したその名に、思わず慧生は舌打ちした。
 鷹司礼二。アルファトリニティ社の開発部門に所属しているその人物は、昔から何かと慧生を可愛がってくれている叔父だ。奔放な人間が多い一族の中でもとくに破天荒で、優秀な開発研究者ではあるのだが、「人生のすべては退屈しのぎの遊び」と常々言い切っている変わり者。もう四十代も半ばのはずだが独身を通しており、たまに会えば常に違う女性を​​​──それもとびきり綺麗な​​​──連れているような人物。
「いきなりこんなもん送ってくるかよ、普通。何考えてんだ、あの人は」
 ぶつくさぼやきながら、慧生はケースの内蓋についたポケットを探った。
 そこにはそれぞれ厳重に封をされた、古典的な紙媒体と、指先程度の大きさのメモリーカードが収められていた。機密保持性が高い書類の保存に関しては、WW3を経て様々な技術が大きく発展した今でも、なんだかんだで未だに紙媒体が生きている。
 ケースの中におとなしく座っているアゲハのことはこの際捨て置き、慧生は真っ先に目に付いた保証書を手に取った。真っ先に目に付いたのは、保証書それ自体のせいではなく、無造作に大きめの付箋が貼り付けられていたからだ。
 そこに書き付けられているのは、礼二の特徴ある癖字による一方的なメッセージ。
『親愛なる甥・慧生へ。アゲハは我が社が自信を持って送り出す次世代型アンドロイドのプロトタイプだ。どうだ、可愛いだろう? とりあえずモニタリングよろしく。報酬はアゲハの労働で等価交換。異論は認めず』
「うっわ。本気か、あの人」
 深々とした溜め息と共に、慧生は唸った。職業柄最新鋭コンピュータに囲まれた生活をしているくせに、なぜメッセージなりを寄越すでもなく、しかも手紙でもなく、いかにも適当な付箋に殴り書きなのか。いや問題はそこではない。
 鷹司礼二は、これまでも社の試作品を一方的に慧生に押しつけ、その使用感や感想をレポートさせることがあった。つまり今回もそのケースに洩れないようだが、だがしかし、まさかこんなものをよこされるとは。
 ちら、と慧生はアゲハを見た。これほど精巧なアンドロイドであれば、このマンションよりもずっと高額なはずだ。慧生はあと数年で三十歳になるというのに独身のまま、しかも作家などという浮き草稼業で、特に最近は自堕落に拍車がかかり身のまわりのことに手が回っていない。そんな慧生への、ある意味これは気遣いだろうか。いや。
「皮肉も絶対兼ねてるだろ。あの人のことだから」
 眉間に皺を寄せている慧生に、アゲハが細い首を小さく傾げた。案じているようにも様子を窺っているようにも見える表情で慧生を数秒見つめ、その視線に慧生が気付くと、アゲハはニコと微笑んだ。
「あと、それから。鷹司先生、慧生さんに宜しく伝えるように、と仰っておいででした」
「……ああ、そう」
 まあ、奉仕型高級アンドロイド、しかも次世代型ということは、家事全般を任せても問題はないのだろう。礼二のよこすものは時々妙なものもあるが、大体においては実用性のあるまともな製品ではある。
 慧生は溜め息をつきつつ、適当にカタログタイプの仕様書をめくった。
 このアゲハという白い少年は、名乗った通り奉仕型アンドロイドであることに間違いはないようだ。優れた身体機能や能力を所有し、優れた外見を所有し、生身の人間の頭脳と比べても遜色ない優れたAIやパーソナリティを所有する……。
 おざなりに流し読みしていた慧生は、ある項目に目をとめて思わず唸った。
「……すげーな、今時のアンドロイド」
 生殖機能こそないが、いわゆる性愛的なパートナーも勤められる。という旨を読み取り、慧生はちらりとアゲハを見た。
 モニタリングとは、まさかそっち方面まで含めるのだろうか。しかしいくら相手がアンドロイドといっても、成人男性である慧生とこの少年とでは、いろいろと問題がありはしないか。
「あの人の考えてることはマジでわかんねぇ……」
 慧生が早くも頭痛を覚え、またしても眉間に皺を寄せていると、つい、と白い少年が動いた。
 慧生に心なしか身を寄せ、燦めくような瞳で真っ直ぐに見上げてくる。
「僕は慧生さんの日々の生活を快適にサポートできるように、一通りのことは何でもこなせます。僕の外見は鷹司先生の趣味ですが、パートナーとしては慧生さんのお好みに合わせることもできます」
「礼二さんの趣味なのかよ。って、パートナーって何だ」
「慧生さんもきっと気に入るはずだ、と仰ってました」
「いやまあ。って、そういう話じゃなくて」
「鷹司先生は、僕に慧生さんの話をたくさんして下さいました。僕、慧生さんのことが大好きです」
 白銀の前髪の下から、アゲハが慧生に微笑みかけた。ケースの中で目覚め、起き上がったときに慧生に向けたあの表情。柔らかく純粋な、そして花のような色香を湛えた微笑だった。
「慧生さんは、僕がお嫌いですか?」
「嫌いってか、そういう問題じゃ……」
 それを目にした瞬間、慧生はまた動けなくなっていた。
「慧生さん……?」
 アゲハが再び動いた。膝で立ち上がって、ケースの中からフローリングの床に出る。再び硬直してしまった慧生に白い腕を伸ばしてその首にゆるく絡め、アゲハは躊躇う様子もなく唇を寄せてきた。
 このアンドロイドには、対象の脳波をジャックしてコントロールする機能でも備わっているのだろうか。そんなことを疑ってしまうほど、外見は慧生から見れば幼いくらいの少年であるのに、その瞬間のアゲハはぞくっとするほど官能的な存在に見えた。
 だが呑まれたように停止していた思考力が、少年の唇が自分の唇にふれてきた途端に、一気に甦った。
「いやいやいや、──だからちょっと待てッ!」
 またしても慌てて慧生はアゲハをはねのけ、だがあまりに少年の身体が手応えなく傾いだので、これもまた同じく慌ててその細い腕を掴んで支えた。
 それを確認したアゲハが、やはり嬉しそうに顔をほころばせた。
 アゲハは慧生の真正面にきちんと正座をすると、その目線よりもだいぶ高い位置にある慧生の顔を真っ直ぐに見上げた。
「なぜですか? 僕は、慧生さんにご奉仕して差し上げたいです」
「奉仕って、おまえなぁ」
 それがいわゆる性的な意味でのものであることは疑いようもなく、慧生は頭痛が本格化するのを感じながら、また溜め息をついた。
 慧生は健康な成人男性であるから、そういった行為そのものは嫌いではない。「セクサロイド」と呼ばれる性処理専用のアンドロイドが存在していることも、知識の中では知っている。
 しかし唐突すぎるこの状況で、そんな気分になれるわけもない。アンドロイド相手、というのは正直作家としての好奇心がうずかないでもなかったが、何と言ってもアゲハの外見が外見だった。
 慧生は同性と付き合ったことはないが、仮に美玲羽が同性だったとしても惚れただろうと思う程度には、同性をそういった対象とすることへの抵抗は薄い。というよりも、好悪の感情が先で性別はその後、という方が正しい。
 だがさすがに、十歳以上も年下の子供を対象として考えたことはなかった。いや、アンドロイドなんだからこの際年齢的なタブーもないのか? とちらりと一瞬考えたが、いやいや何を言っているんだ俺は、と自分で自分に突っ込み、慧生は困惑しっぱなしの頭をぶるぶると振った。
「慧生さん?」
 そんな慧生を見て、アゲハはきょとんとしている。
 慧生はもう一度長く深い溜め息をつき、ようやく言葉を切り出した。
「……あのな、アゲハ。悪いけど俺は子供は趣味じゃないし、アンドロイドをパートナーにとは考えたこともない」
「そうなんですか?」
「別に相手に困ってはいないし、わざわざ機械を相手にする必要もないだろう」
「アンドロイドとなさったことはあるんですか?」
 アゲハは口調や言葉こそ丁寧だが、訊ねていることは直球もいいところだったので、一瞬慧生はむせた。
「……いや、それはないけど」
「でしたら、ためしてみてはいかがでしょうか」
 白い頬を仄かに上気させ、いとも簡単にアゲハは言った。
「僕は心身共に人を解放し、リラックスさせて差し上げるために生まれました。こうして慧生さんのところにおじゃまさせていただいたことも、何かのご縁です。僕が少しでも慧生さんのお慰めになれたら、こんなに幸せなことはありません」
「いや、あのな」
 慧生はやけに意気込んでいるアゲハを制止しようと口を挟みかけた。が。
「僕では駄目なのですか?」
 懸命な顔で、アゲハが縋るように慧生の顔を見つめた。反応が渋い慧生に不安を煽られたのか、その大きめの瞳が潤んで揺れ始める。
 その様子がどう見ても無機質的な機械の塊には見えず、それどころか全身全霊で主人になついてくる小動物のようで、慧生はたじろいでしまった。
「いや、だから……俺は、機械相手なんて考えたこともないから」
 なんてものを造りやがるんだ。と、慧生は心の中で鷹司礼二を毒づいた。
 これに欲望を抱くかどうかは別として、こんないかにも庇護欲を煽るようなものにこんな態度を取られたら、アンドロイドと分かっていても、冷たく当たるのに躊躇するではないか。
 いや、そもそも「これ」をアンドロイドだと思うことが、既に困難だった。どこからどう見ても、アゲハのその繊細な姿やなめらかな仕種に無機質的な違和感はない。どう見ても「人間」そのものとしか思えない。
 ​​​──これが、本当にアンドロイドなのか?
 慧生が黙っていると、アゲハがついと逸らすように視線をうつむけた。首に掛かった銀色のタグプレートが揺れ、細い鎖がしゃらりと鳴る。その白銀の長い睫毛に、光の加減で色合いを変える虹色が踊った。
「……僕は確かに、骨格や皮膚は人工蛋白や炭素繊維だし、内臓は機械です。でも」
 呟くようにアゲハが言い、その白い手を静かに動かした。慧生の片手にその手を伸ばし、重ねるように触れる。
 慧生は少し驚いたが、人間にしか見えない子供の手を、やはり無造作に振り払うことはできなかった。
 アゲハはそんな慧生を見て、小さく微笑んだ。
「僕の手は、あなたの手と何も変わらないでしょう?」
 アゲハは慧生の手の上に、自分の白い小さな手をそっとなぞらせた。その仕種は柔らかく、そしてその感触も柔らかかった。これが生身の人間ではないなどとは到底信じられない、体温のあるしっとりとした感触。
「まぁ……変わらない、かな」
 気が付いたらぽろりと答えていた慧生に、アゲハが瞳を持ち上げた。赤い瞳が慧生を真っ直ぐに見て、また嬉しそうに笑った。
 そのとき、アゲハがふれていた慧生の手から、かちりと小さな音がした。正確には、バスローブの袖に覆われて見えない手首のあたりから。
 アゲハがそれを聞きとめて、バスローブの袖の下にちらりと覗いていた、丸く研磨された石の連なりに気付いた。
「あれ……ブレスレット、ですか?」
「ああ。うん」
 それは昔、何処かの国の土産にもらったもので、光沢や色合いが気に入ってなんとなく身につけているものだった。
 アゲハが興味津々な顔つきになり、ブレスレットを覗き込む。石と石とがふれ合って、かちりとまたごく軽い音を立てた。
 アゲハを振り払うことはたやすかったが、その仕種があまりに素直で物珍しそうで、やはり慧生はどうにも邪険にできなかった。
「なんだか、不思議な色ですね」
 アゲハはまじまじとその丸い石の連なりを見つめ、見る角度を変えるように何度か首を傾けた。
 銀色とも灰色ともつかない鈍い色をしたその石の透明度は低く、そのかわりのように不思議な艶を帯びている。全ての色彩を内包しているようなその光沢は、愛好家達からは「孔雀の羽」や「揚羽蝶の翅」のようだ、と讃えられている。
 そういえば石は、アゲハの髪や瞳の帯びている虹色の光沢とよく似ていた。もしかしたら「アゲハ」という名の由来はそこにあるのだろうか、と慧生が考えていると、一通り眺めて気が済んだのか、アゲハが丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。とっても綺麗。慧生さんに、よく似合ってます」
 心からのように言うアゲハに、正直、慧生は悪い気はしなかった。外見そのものを褒められるよりも、身の回りのものを褒められる方が嬉しい。
 というのは人を褒めるときの常套手段ではないかと、慧生は若干顔が赤くなって思わずよそを向いた。俺って案外ちょろいのか、と思いながら立ち上がる。
「慧生さん?」
 呼びかけるアゲハを無視し、洗濯したはいいがたたみもせずに床に積み重ねていた衣類の山まで歩いて行くと、適当にシャツを一枚拾い上げる。
 アゲハを見返ると、白い少年は床の上に座ったまま、心なしか不安そうに慧生の姿を目で追っていた。
「着てろ」
 慧生はアゲハの上にシャツを放り投げ、その前に腰を下ろすことはせず、ソファまで戻った。
 寝室のベッドまで移動するのもだるくて、ここ数日は慧生はずっとここで眠っていた。丸まっていた毛布を引き上げながら、そのまま横になる。
 シャツを頭から投げられて急に視界をふさがれたアゲハが、あたふたしながらそれを引き下ろし、そんな慧生に視線を向けた。
「はい。ありがとうございます」
 アゲハはシャツのしわくちゃさ加減など気にもしていないように、嬉しそうに両手できゅうとシャツを抱き締めた。
 その様子を視界の隅に見てしまい、慧生はまたなんとも複雑な気分が込み上げた。
 欲望がわくのか、と言われれば、やはり子供すぎて対象外だ。だがあまりに素直な反応をするので、仔犬か何かのように「可愛い」とは思ってしまう。
 自分がこの白い少年のことを、決して不快には感じていないことに気付き、慧生は複雑な気分のまま、もう数えることも放棄した溜め息をこぼした。
 何にしても事態があまりに唐突すぎて、そしてあらゆることに疲弊しきっている頭は、込み入ったことを考えるのがもう億劫だった。
 急に眠気がやってきた慧生は、ばさりと毛布をかぶり、アゲハに背中を向けた。
「おまえのことは、とりあえずハウスキーパーとして預かる。眠いから今日はもう寝る。おやすみ」
「はい。おやすみなさい、慧生さん」
 顔も向けずに言ったのに、アゲハからは丁寧な響きの柔らかな声が返った。今頃また酔いが回ってきたのか、やけにその声が心地良く聞こえた。
 嫌いな声ではないな、とぼんやり思ううちに、急速に重さを増した瞼が落ちる。寝つきの悪かった最近では珍しいほどすんなりと、眠りの翼にあっさり抱き込まれるのを慧生は感じた。
 ​​​──しゃらり、という細い鎖の軽やかな音が時折かすかに響くのが、夢うつつに耳朶を洗うようだった。

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