一年を通して曇天が多いこの国に、今日も雨が降っていた。霧雨と本降りの間くらいの、まだ弱く優しい雨だ。
お世辞にも整備されているとはいえない路地の片隅に座り込んだ「彼」は、襤褸の外套を頭から被り、気持ち程度の庇の下で、懐中に小振りの短剣を抱き締めていた。
小さな庇はさして雨避けの意味をなさず、弱い雨が外套を濡らし、前髪を湿らせている。闇の色に近い濃紺の髪は、水分を吸って完全な黒色に見えた。
初夏を過ぎつつあるとはいえ、濡れた肌から体温は次第に奪われてゆく。
それでも彼は動かず、自分の前髪が黒い簾になって掛かる景色を、目深に下ろしたフードの下から凝視していた。
眼差しの先にあるのは、人々が雨から身を庇いながら足早に行き交う風景の向こう。雨霞みに滲んだ遠い高台に、優雅に重厚に横たわる巨大なシルエット──この国の支配者の住まう壮麗な宮殿だった。
見つめる深い藍色の瞳が、磨き抜かれた刃より、研ぎ澄まされた鏃よりも鋭く剣呑な光を弾いた。
そのとき、ぱたぱたという二つの足音がその場に近付いてきた。彼がいるのと同じ庇の下に、貧しげな身なりの親子らしき女と少女が駆け込んでくる。
微動だにしない彼の横で、母親はまだ幼い少女に抱えていた荷物を持たせ、自分の身につけていたつぎはぎだらけのストールを外した。
「ねえ、おかーさん。おうじさまがお出かけから帰ってきたって本当?」
頭からストールをかけられた少女が、母親にあどけない声で問いかけた。母親はその幼い手に預けていた荷物を取り、抱え直しながら答えた。
「そうね。ご無事に戻られたって、大騒ぎになってるわねえ」
「となりの国の悪いやつらをやっつけにいってたんでしょ?」
「そうよ、皇子様は私たちのために戦って下さったの。ご無事で本当に何よりだわ。さ、雨がひどくなる前に行きますよ」
母親と少女は、再び庇の下から小走りに駆け出してゆく。入り組んだ路地の向こうにすぐに見えなくなった親子を、座り込んだ彼は、とうとう一瞥だにしなかった。
ただ、外からは見えないように懐深くに抱き込んだ短剣を、その痩せた指が強く握り締めた。その力と共に、思い詰めた感情を焼き付かせるように。あるいは、己の内に荒れ狂う、痛みを伴う感情を堪えるように。
「……もうすぐだ。もうすぐ……」
自分に言い聞かせるように、血の気の薄い唇が小さく呟いた。
抑え込まれた感情に炙られたしわがれた声音は、その陰鬱な響きに似合わぬほど、まだ若々しい。
硬く唇を引き結んだまま、襤褸の下から、闇色の恒星のようにぎらつく双眸だけが、真っ直ぐに遠い宮殿を見据え続けた。
◇
大陸北方に広がるフィンディアスは、強い封建制度と整備された荘園制度に支えられた、歴史ある帝制国家である。
興きては滅びる国々の多い大陸にあって、最も長く続いている国でもあり、現在ある列強の国々からも一目を置かれている。
フィンディアス領内には寒冷地が多く、気候的にどうしても農業に向かない場所もあったが、豊富な鉱物資源が安定して国庫を潤していた。
そんな古き重き血に支配される帝国で、現皇帝ルカディウスが重い病を得、政治の表舞台から引退してより三年。
現在の皇帝代理執政者は、皇帝ルカディウスの唯一の嗣子であり、「氷血の皇子」の異名を取る、皇太子フィロネル・バロアという。
父親譲りの優れた文武の才、母親譲りの美貌とに恵まれた皇太子は、齢十九歳という若さでありながら、帝室の血と軍部の支持と貴族達の忠誠とに支えられ、卓越した内政手腕をもって、父皇帝が病に倒れた後も変わらずに帝国を維持していた。
フィロネルの言動は、怜悧にして峻烈。フィロネルは十八歳の成人を迎えると共に、皇帝が倒れてからそれまで国政を私していた宰相とそれに連なる門閥貴族達を、一族郎党まで粛清した過去を持つ。若く才気と覇気にあふれた皇太子は、汚職の横行する腐敗した宮廷を快く思わない軍部から圧倒的な支持を得ており、それがこの大規模な粛清を可能にしたと言われている。
皇子の専横と言ってしまってもいい事態に、「皇帝陛下に直々に陳情を」と考えた者も、勿論居なかったわけではない。しかし皇宮の奥深くで厳重に守られ、面会できるのは皇子と専属の医師団のみという重篤な状態が続いている皇帝ルカディウスに会うことはかなわず、そればかりか「皇帝陛下の御心をみだりに惑わせ、ひいてはそのお身体に害をなした不届き者」として、家財没収の上に斬罪か、軽くて一族もろとも国外追放されてしまった。
「国政をいたずらに惑わせた者」や「反逆者」と見なした相手を問答無用で一掃した、その迅速にして容赦のない皇子の手腕は、畏怖と戦慄を伴って他国にまで広く伝わった。
氷血、の異名をフィロネルが取るようになったのは、この出来事からである。
大陸南側の国々の間で様々な争いが起こり、フィンディアスとて同じ大陸の国として我関せずというわけにもいかず。
皇子フィロネルによる大粛清が敢行されてから一年余り後に、実権が皇子に掌握されてから初めての戦争が起きた。
皇子が直々に兵を率いて出陣したのは、帝国領の南と境を接していた小さな隣国。
その隣国の更に向こう側には、最近急速に勢力を強めてきた新興国レインスターがあった。地理的に交通の要衝でもあり、対南方への防波堤ともなる、隣国の立地。質量ともに優れた帝国軍が押し寄せ、その王都はあっという間に攻め陥とされた。
季節は、風も水もぬるむ初夏。
執政者としてだけではなく、戦争の指揮官としても優秀であることを示したフィロネルは、現地での事後処理の後、出陣からわずか一ヶ月程で凱旋した。
その夜、皇宮ではささやかな戦勝の宴が催されていた。
皇子自身の意向によって出来る限り小規模にされたものの、広間に設えられた宴の支度は、さすがに贅を尽くされている。
手の込んだ料理がずらりと並ぶテーブルに、宮廷楽団の奏でる明るく優雅な音楽。虹のような明かりを煌びやかに降りそそぐ照明と、広間中にこぼれんばかりに飾られた生花の芳香。
招かれた要人達の顔ぶれもそうそうたるもので、国政を担う大臣達や貴族達の華やかな姿で、広間は埋められていた。
晴れに恵まれることの方が珍しい皇都の上空は、今夜も星々の明かりを通さぬ、澱んだ藍。
ただ時折薄くなる灰色の雲間から、ぼんやりと滲んだ僅かな青白い月影だけが、不安定に現れては揺らめいている。
一通りの式辞や祝辞が述べられ、皇子フィロネルからの挨拶とねぎらいがあった後は、すぐに宴は無礼講となった。
古く格式張ったフィンディアス宮廷には、本来であれば代々伝わってきた様々なしきたりがある。しかし歳若く合理性を好むフィロネルはそういったことを敬遠し、「自分が主催の宴では中身のない古いしきたりは排除する」ことを定例化させてしまっていた。
そういったことを勿論内心苦々しく思っている者もいたが、なにしろ相手は事実上の最高執政者であり、一年前の流血の大粛清がまだ記憶に新しいだけに、誰もそれを表立って口にすることはなかった。
皇后イザリア、すなわちフィロネルの母親も三年前に既に他界しており、つまるところ正当な血筋を有し軍部の強い支持を得ているフィロネルをたしなめることのできる者は、現在は皆無だった。
とはいえ、政治の腐敗を嫌う清廉さと確かな才幹を有してもいるフィロネルを、執政者として支持している者も多い。何よりこの古く長い歴史を持つ帝国では、建国以来続く帝室の血は、何よりも神聖視され尊ばれる。
南方の国々の不穏な動きに先手を打っての今度の出陣と戦勝は、皇子の持つ先見の明と、戦闘指揮官としても有能であることを知らしめる結果となった。
自分が主役である宴でも、まして戦勝祝いという内輪のものなので、華美を好まないフィロネルの装いは普段と大差がない。もっとも皇太子であるから、どれほど簡素に見えても、使われている布の一枚、糸の一本、施されている刺繍や細工のひとつに到るまでが、最高級の品質のものではある。
美男美女の間に生まれたフィロネルは、誰もが見惚れるほどに美しい長身の青年だった。深いアメジスト色の瞳に、ゆるく結われた癖はないが柔らかな黄金の長い髪。彫りが深く程良い甘さを帯びた顔立ちは美麗ではあるが、表情の鋭さから精悍さがまさって、軽佻浮薄な印象とは無縁である。
立ち居振る舞いには針の先ほども隙がなく、すっきりと背筋の伸びた姿勢は、文官であるよりも武官の印象の方が強い。肌は引き締まり、曇天の多いこの国にありながら、頻繁に外に出て武術の鍛錬や狩りに励んでいるので、よく陽に焼けていた。
瞳の色に合わせた紫色の装いは飾り気のないものだが、媚びのまったくないフィロネル自身の冷めた美貌と、見事に翻る黄金の髪とが、何よりの装飾となって映える。余計な装飾は無用と思えるほど、小さな黄金の耳飾りや細い首飾り、普段から身につけている皇家の紋を刻まれた指輪だけで、充分にその長身の彩りになっていた。
フィロネルは宴が始まってからしばらくは挨拶に来る者達に対応していたが、ある程度のところで「あとはかわりに聞いていろ」と、宰相に相手を任せてしまった。
長年の風習や慣例を「仰々しく面倒なだけ」と嫌う傾向が強く、気まぐれで思うままに行動するフィロネルに、最近では宮廷も慣れてきている。護衛も遠ざけて明るく華やかな宴の間からバルコニーに歩いてゆく皇子の姿を、皆いつものことと、恭しく見送った。
大きく開け放たれたバルコニーに出ると楽の音や人々の談笑の声が遠ざかり、空気ががらりと夜の涼みを増した。
文武に秀でたフィロネルは、徒手空拳から剣術に槍術など、達人といってもいいほどの腕前を持っており、そのせいもあって周囲をものものしく守り固められることをあまり好まない。かといって皇子を無防備にするわけにもいかないので、あらかじめ皇宮では人々の出入りを厳しく監視し、警護に当たる衛兵を増強している。とくにこういった宴のときは、興を削がぬよう露骨に目立たぬようにはされていたが、近辺の警備は厳重になっていた。護衛達も少し距離を置いて、何かあればすぐに駆けつけられるように控えている。
バルコニーはここでもちょっとした宴を開けるほどに広く、夜風に当たりに出る者達のために花で飾られ、いくつかのテーブルや優雅な椅子が並べられていた。ちらほらとそこに腰を下ろして歓談している者もおり、彼らはフィロネルの姿を見ると、いずれも慌てて立ち上がって礼を取った。
適当にそれらを流しながら、フィロネルは年代を経てかなり磨り減っている石造りの手摺の前まで足を運ぶ。見上げると青白い幽霊のような月が、灰色の雲間で揺らめいているのが見えた。
手摺に凭れると、適当に括っただけの長い黄金の髪が、夜風を孕んで肩から落ちた。
「まったく。鬱陶しいことだ」
煩わしい宴の声が遠ざかり、涼みのある夜気にふれると、フィロネルは本音と共に溜め息を吐き出した。
貴族達との着飾っての宴など、フィロネルにとっては正直まったくもって下らなく退屈極まりなかった。フィロネルの宴嫌いは有名で、よほどの祝祭事でもなければ主催しないことは既に知れ渡っている。フィロネルが実権を掌握する以前は毎晩のように何かしらの宴が開かれていたので、結果的に催される宴は大幅に減った。
それを不満に思っている者もいるようだが、しかし「ただ馬鹿騒ぎをするだけの不必要な宴」が減ったことを喜んでいる者も、存外に多い。その分の散財が減り、各地の開墾や公共事業や治水工事などの費用にまわされるようになったことで、国民からの受けもよかった。そもそも分別や節度を持って宮廷が宴を催すこと自体をフィロネルは禁じたわけでもなく、第一に「皇帝陛下が不予の事態なのだから出来るだけ慎むべきである」というフィロネルの表向きの言い分に、逆らえる者もいなかった。
ずきり、と頭の芯に痛みが走り、フィロネルは金の絹糸のような己の長い髪が不規則に靡くのを眺めながら、優美な眉根を顰めた。
──こんなふうに優雅な音楽を遠くに聞き、穏やかな夜風に吹かれて庭園を見下ろしていると、「あの日」から絶えず自分の中に巣食っているざらついた苛立ちと空虚と焦燥感が、いっそう金切り声を立てるようだ。
頭痛と共に耳鳴りが脳髄に響いたその感覚に、フィロネルの整った眉間にますます深い皺が生じた。
今回の出兵とその成功も含み、フィロネルを「名君の素質あり」と誉め讃える者も現れた始めたが、そんなものはフィロネルにとっては、内心では嘲笑の対象でしかなかった。
──自分が名君などであるものか。
自分がこの国の執政者として取り憑かれたように邁進し続けているのは、別に使命感だとか義務感のためなどではない。無論、この因習だらけの古く黴臭い国に一身を捧げるなどという、殊勝な心構えのためなどでもない。
「あの日」から深く焼き付いて消えない、すべてを──それこそ自分自身を含むこの世界のすべてを──灰燼に帰してしまいたいと思う、暗くざらついた空虚と衝動を抑えるため。そのためだけに、フィロネルは目の前にあるものに手当たり次第に強く打ち込んでいる。ただ、それだけのことだ。
峻烈で容赦がないと評されるようになったのも、「あの日」を境にしていると自覚している。そんなものはいくらでも好きに呼ぶがいいと思ってはいるが、「氷血」と称されていることだけは、的外れすぎて片腹痛かった。
──感情も血も、死人のように凍りついてしまったなら、どれほど楽なことか。
「あの日」の出来事を、それからの日々を思い起こしながら、フィロネルは極上のアメジストの色を纏う瞳を苦々しく笑み歪めた。
自分が才覚に恵まれているのは否定しないが、自分は決して名君などではない。ただ、何もしていないと「己を内から喰い破るのではないか」と危惧するほど噴き上がる、暗く強い衝動のせいでじっとしていられないだけだ。絶えず燻っている、ざらついた焦燥感に背を衝かれるままに、あらゆるものに喰い付き消化していった結果が、「今」であるだけのこと。
帝国の皇子という身分柄、「弄ぶに丁度良い玩具」が退屈だけはしないほど目の前に溢れていることは、せめてもの幸運なのだろうかと思う。
実は自分は、たいして何も考えてなどいない。それどころか、この国はおろかこの世界そのものが、自分自身すらもが、今のフィロネルにとっては「玩具」にすぎない。それを知ったら、いったい宮廷中の者達はどう反応するだろう。
その想像はなかなか愉快で、フィロネルは思わず笑みを洩らしたが、すぐに馬鹿らしくなった。夜風になぶられて頬に掛かってくる髪を掻き上げ、今度は乾いた自嘲を洩らした。
「……それにしても、今回は期待外れだったな」
幼い頃から兵法を学んではきたが、今回の出兵はいざやってみたら拍子抜けな程あっさりと片付いてしまった。相手が争いごとを好まない平和惚けした小国だった、という事情もあるが、華々しくあるべき初陣を飾るには、あまりに物足りない手応えではあった。
勿論、小国とはいえひとつの国家を攻め滅ぼしたことに理由はある。このフィンディアスという国の行く末を安定させるために、そして最小限の犠牲で済ませるためには、それを今為すことが必要だ、と判断したからだ。だがそれを己の最も暗く深い場所で煽り立てていた衝動は、本当はそんな筋道の立った言い分ではないのではと、自分でさえ疑わしかった。
──焦らずとも、世界は広い。まだまだこの先いくらでもやることはある。
そう自分に言い聞かせるものの、胸に巣食う錆びたような燻りとざらつきは、少しもやわらぐことはなかった。
すべてを破壊し尽くしたい、という暗く激しいこの衝動は、いったい何にぶつければ晴れるのだろう。これまで手近なものに当たっても、それは募るばかりで、いっかな鎮静することはなかった。際限のない空虚感と餓えたような焦燥は、もはや他を浸蝕し、目の届く範囲のすべてを貪り尽くすことでしか薄れることはないようにすら思えた。
いつもの癖で宙を凝視したまま思い詰めているうちに、眩暈と頭痛が耐え難いほどに強まってきた。フィロネルは思わず眉間を押さえ、そこで無理矢理思考を打ち切った。
頭痛は気がつけば、それこそ「あの日」からおさまったことがない。強くなり弱くなり、常にフィロネルを蝕んでいる。
思い詰めるほど考え込んでおきながら、ふいにすべてがあまりに馬鹿馬鹿しくも思えた。
──考えたところで、今さらどうなるわけもないのだ。「あの日」の出来事は消えはしない。歴然としてここに存在する世界も自分自身も消えはしない。ならば、前に進むしかないのだろう。
限界まで進んだ果てで、もしこのざらついた衝動から解放されることがあるのなら、むしろその甘い終焉に今から期待してみるのもいい。
投げやりな気分で、フィロネルは眩暈を払うために軽く首を振った。腰近くまであろうかという長い黄金の髪が夜風になびき、幽魂の纏う燐光のような青い月光を孕んで、手摺から振り返る仕種に緩く広がった。
そして振り向いた視線の先に、一人の娘が立っていた。