『ほう……妖になりたいと申すか』
しっとりとした闇のはびこる、深更。
決意を固め、突然訪ねて「願い」を告げた自分に、陵という名の天女はそう言って笑った。その唇は、血を塗ったように紅かった。
美しいが物寂しい虫の声が韻と響き、香炉から月下美人の香りに似た甘い匂いが立ち昇る中──その紅い唇と、紙燭に揺らめく炎の影を、やたらと鮮明に覚えている。
『やれ可愛やのう。ちこう寄れ』
そう手招きした天女は、ぬばたまの如く闇夜色の髪が長く流れ落ち、翡翠色の瞳には底知れぬ深淵をたたえていた。
傾城といっても良いほど美しいひとなのに、そう思うよりも先に肌がぴりりと緊張し、怖気が背筋を這い上がった。恐かったけれど、勇気を出して言われた通り傍に寄ると、ますます甘い香りが強くなった。
折れそうに細く白い天女の指が、緊張している額にふれてきた。
『ここに妖力の根を感じる。あの御方が封じたのだね』
天女の指に嵌まった指甲套が、まだ幼く丸い額をなぞり、それから髪を梳く。月光を紡いだような乳白色の、えもいわれぬ艶を纏う髪。まだ身体が育ち切っておらず、華奢で頼りない肩にかかる髪を、天女の手は可愛くてならぬように、繰り返し撫でた。
『人の血を恨み、妖であることを疎みながら、尚妖になりたいと申すか。面白い。そなたの望み、妾が叶えてやろう。ただし、只でというわけにはゆかぬ。それ相応の代価を払ってもらわねばのう』
くつくつと楽しそうに、紅い唇で天女は笑う。そして領巾の下から、水晶の数珠を取り出した。紙燭の明かりを受けて光るそれを、天女の白い手が、幼く細い首に掛けた。
小さく柔らかな掌で、掛けてもらった珠の連なりを掬い、怪訝に見下ろしてみる。小さな珠の連なる中に、それよりいくらか大粒の珠があった。
その大粒の珠を、天女の美しい指甲套の尖端が、かちりと突いた。
『その大珠はの、冥魂珠という。まことの心を持つ相手とそなたが契ったとき、呪が発動し、珠が割れる。珠は相手の魂魄を喰らい、封じ込める。そこにある冥魂珠の数は十。その数だけ贄を奉じ終えたとき、そなたの望みを叶えてやろうぞ』
ぞっとするほど美しい翡翠色の瞳が笑み細められ、魂の底まで覗いてくるように煌めいた。
『そなたに界渡りが出来れば話は早いのじゃが……あの御方に角を封じられておるのでは無理じゃろう。幸い、ここは妓楼。ここで麗しい花となり、その手に堕ちてくる贄を待つが良い。艶やかな蜘蛛の巣を、慎重に張り巡らせてな』
くつくつと天女は笑っている。そこに地獄の底へと誘うような暗い愉悦を感じ、思わず悪寒がして、かけられた数珠にふれる指が震えた。
その動揺さえ楽しむように、天女は告げた。
『良いな。心と、契りと、命じゃ。それが揃えば、贄の証として珠が割れる。一つ目の珠が割れたとき、そなたの願掛けを正式に請けたものとしようぞ。……じゃが、知っておくがよい。そのときそなたの前に開かれるのは、奈落への道往きやもしれぬ。その行く手には煉獄しかないやもしれぬこと、ゆめ忘れぬようにな』
紅い唇が語る、恐ろしげな内容とは裏腹に。
水晶の珠の連なりが、ちりり……と、かぼそく美しく、儚い音色を、闇の中に奏でた。
◇
明かりの消えた丸障子を、夜半の煌々とした月が浮き上がらせている。窓辺に置かれた白梅を挿した花器の輪郭が、まるで影絵のようだ。
褥にうつ伏せていた夜光は、ふ、と乳白色の睫毛を震わせた。深い紫の瞳を、ゆっくりと瞬かせる。
いささかぼんやりした脳裏を、斑な夢の残滓がよぎった。あれは、もうどれくらい昔の出来事になるのだろう。紅い唇と、紙燭に揺らめく炎の影……どうやら、自分は眠ってしまっていたらしい。
鼻先をかすめた香りに誘われ、丸窓に浮かび上がる白梅に視線を巡らせた。丸障子の向こうはまだ暗く、どこかで誰かが弾いている気怠げな三味線の音が聞こえた。
清潔な寝床の上、細い手脚や薄い身体は、ほぼ剥き出しだった。夜の蒼い闇に仄白く浮かび上がるのは、穢れひとつ知らぬような真珠色の素肌。その首筋から肩に散るのは、月明かりに幻想じみて煌めく、乳白色の髪。
傍らでは、先ほどまで身体を重ねていた大柄な男がいびきをかいていた。男の肌色は赤銅、その額には捻れた角。人間であれば、男を異形の化け物と呼ぶのだろう。
夜光は男に気取られぬように起き上がった。
汗がひき、夜気はいっそう肌寒い。空蝉のように傍らに脱ぎ捨てられていた単衣を、薄い肩にそっと羽織った。
その単衣の袂から、ちりり、という硬質で幽かな音がした。白い手が単衣の袂を探り、儚げに煌めくものを取り出した。
薄く光ったのは、透明な水晶を連ねた数珠だった。それは首から掛けられるほど長く、珠の中には幾つか大きめな粒のものがある。大きな珠のうち二粒は、細かく入った罅のせいで白く濁っていた。
乳白色の睫毛の下で瞬く紫の瞳は、玻璃のように冷えた光を宿している。数珠を見つめたまま、青白い指が、手に絡んだ珠を握り込んだ。
夜光は立ち上がり、畳の上に白い素足を運んだ。腰窓の障子を静かに開くと、まだ冷たい夜風がすべり込み、肩につく程の長さの白い髪をふうわりとなびかせた。
視界は広く、遠く、きららかだった。幾重にも重なる楼閣のかなり上層に、この部屋はある。朱や金の明かりが賑々しく溢れる歓楽街の喧噪も、ここまではほとんど聞こえてこない。
障子を開けきった窓枠に腰を下ろし、夜光は朱塗りの手摺りに肘をもたれさせた。
深い藍色の星空には、空を飛ぶ屋形車や船の灯りが遠くまたたいている。それらの遙か上空には、虹色の環のかかる十六夜の月。夜風は冷たいが、仄かに香る春の兆しを含んでいる。
夜光はうっとりと瞼を閉じ、柔らかな唇で唄うように呟いた。
「はて、人となろうか、鬼となろうか……ただ何事も夢まぼろしや、水の泡、笹の葉に宿る露の如く……あじきなし、と申すこの世にありて。さても……悩ましいこと」
楼閣の高みで呟かれた、言葉遊びのような呪歌のような声など、その遙か下方に広がる街にまでは届く由も無い。
夜光は緩く単衣を纏っただけの姿で、寝床の男が目を覚ますまで、そこに座っていた。
やがて目を覚ました男に、夜光、と呼ばれた。夜景を眺めていた白い面輪が、柔らかく嫋やかに微笑み、男を見返った。
「はい。夜光はここにおります、旦那様。申し訳ありません。月があんまり明るかったもので」
その頬をかすめ、どこからともなく、ひらり、と一枚の桃の花びらが舞い込んできた。見ると天空の月を彩るように、桃色の花びらが高い夜空をくるくると舞い踊っている。まだこの街で桃は咲いていない。あれはきっと、春の花神達がもうすぐ訪れる先触れだろう。
──ああ、そういえば、月にかかる虹環が、春を言祝ぐようにいつもより少し幅を増している。
夜空に浮かぶ月を見上げ、夜光は褥の男に目を転じ、艶やかに促した。
「旦那様。ほら、今宵の月はとても美しゅうございますよ。夜光のそばにいらして、一緒に眺めては下さいませんか。夜風にも、仄かに花の香りがいたします。もうすぐこの終の涯に、春が参りますね……」
このあいだまではきりりと張り詰めるようだった月影も夜風も、次第に潤みを増してやわらいで。夜光の手の中できらりと光り、そっと袂の中に落とされた数珠の存在も、美しい夜が隠してしまう。
何もかもが夢まぼろしであるかのような、虹のかかる月。その月が仄かに照らす、「人ならぬ者達」の住まう街。
まだ端々に雪の白が残る終の涯に、今年も変わらず、もうじきに春が来る──。