一章 紅の相克 (3)

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「貴様……」
 地獄の底から響いてくるような恨みと憤怒を滲ませた声音を、少年が低く発した。
 鎖を緩められているとはいえ拘束され、腕は自らの首にも届かない程度にしか上がらず、少年は身を起こすこともかなわない。ウィッグを外され化粧を落とされたことで、女ではなく男であることをフィロネルに既に知られていることも理解したのだろう。
 細かい成り行きはどうあれ、自分が万事追い詰められた窮地に立たされていることは飲み込んだらしく、しかし少年はそれで取り乱すことはなかった。むしろすべて覚悟の上だったように、少年はフィロネルを睨み据えた。
 その燃え上がるような深く美しい藍色の瞳に、ああこれだ、とフィロネルは確信する。
 どれほど餞別され磨き抜かれた至上の宝玉でも、これほど美しいものはかつて見たことがない。問答無用で心を揺さぶられ吸い込まれそうな、凶暴なまでの烈しい美しさ。
「殺せ」
 少年は起き上がることもできない姿勢のまま、しかし傲然と顔を上げ、昂ぶる感情に幾分かすれた声ではっきりと言った。
 自分がやろうとしたことも、それに失敗した以上どうなるかということも承知の上の、揺るがない声音。
 その怒りと憎悪に満ちた眼差しと形相からして、さぞかしその胸中では持て余すほどの感情の嵐が吹き荒れているのだろう。それでも冷静に状況を受け止めて事態を把握し、必要以上のことを語る素振りもない強固な意志と潔さに、フィロネルは胸がすく思いがした。
 フィロネルの形の良い唇に、美酒に酔い始めたような淡い笑みが刻まれる。
「これはおまえの一存か」
 フィロネルは優雅に長い脚を組み、手を伸ばしてサイドテーブルに置いておいた少年の短剣を取り上げた。
 ただ見てくれが良いだけの馬鹿は嫌いだ。真の意味で聡く賢い、そして美しく自尊心の強い者を虐げることにこそ愉しみがある。
 少年は何も答えず、ただあの獰猛なほどに憎悪と憤怒に燃え上がる瞳をフィロネルに向けている。
 濁りなく叩きつけられてくるその感情を感じれば感じるほど、フィロネルの笑みは妖しく深くなった。
「そんなわけがないな。手引きもなく給仕を装ってこの皇宮に入り込むことなど、不可能だ」
 バルコニーで出自を問いかけたときに名乗ってはいたが、どうせそんなものは出鱈目だろう。嬲るようにことさらゆっくりと言いながら、フィロネルは短剣をするりと抜いた。不自然なほどにぎらつく刃を持つ小振りの短剣を、少年に見せ付けるように、部屋を仄明るく照らす燭台の光にかざしてみる。
「殺せと言っている」
 会話そのものを頑なに拒むように、少年が吐き捨てた。
 ドレスを纏い鎖に繋がれた憐れなその姿に、しかし不思議なほど滑稽さはない。フィロネルに対し微塵の怯懦も媚びもない、徹底した拒絶。そこにあるのは、宮廷の堕落した貴族達が持つような腐臭のする自己偏愛ではなく、魂からの高潔な誇り高さだった。
 ​​​──面白い。
 ますます思いながら、フィロネルは寝台に腕をつき、身を捻るようにしてやや少年の方に乗り出した。その拍子に、長い黄金の髪がはらりと一房落ちてシーツの上に垂れる。
 少年の青ざめた頬にぎらつく短剣の刃を近づけると、ぎくりと少年の身が強張った。ほんの僅かにフィロネルが手首を返せば肌が傷つく距離に寄せられた刃に、深い藍色の虹彩が動いて瞬きの回数を増す。
「これには毒が塗られているのだろう? 大方、ほんの少々かすっただけでも死に到るのだろうな」
 少年は相変わらず無言だったが、その表情の強張り方と睨み付けてくる眼光とが、充分に答えを物語っていた。
 ​​​──こいつは、自分から死ぬことは決してできない。
 悔しげにも見える少年の様子に、フィロネルは薄く笑う。不思議なほど、面白いほどに、この少年の考えていることが読み取れる。
 この少年が、どのような理由でフィロネルを殺したいほど憎んでいるのかは分からない。そもそも殺されるほどの恨みなど、自分の過去を省みればいくらでも買っている。だからフィロネルは、その点にはさして興味もなかった。
 重要であるのは、この少年に「命と引き換えにしても良い」と思うほど恨まれ憎まれている、ということだ。
 この少年は思い余って自らフィロネルを討ちに来るほど、強い使命感と荒れ狂う激情を飼っている。それだからこそ、殺されるならまだしも、決して自ら命を絶つことはできない。生き延びて宿願を果たす可能性が少しでも残っているうちは、自らそれを投げ打ち、命を切り捨てることはできない。
 その予想が間違っていないことを裏付けるように、フィロネルがわざと刃を間近でひらつかせるたび、少年は息を飲むようにして強張った。ぎりぎりとその奥歯が噛み合わされる音が聞こえ、命を弄ばれる緊張と恐怖とに、次第に少年の額にじっとりと脂汗が浮かぶ。息を詰めるたびに少年の呼吸が不規則になり、しかし少しでも身じろぎしようものなら刃が肌にふれるのではという恐怖で、声を張り上げフィロネルを罵倒することもできないようだった。
 そして自分のそんな反応を不甲斐なく惨めに思うのだろう、何度も生唾を飲み込む少年の喉が震え、下瞼のあたりがうっすらと赤みを増した。
「ふん。殺しに来たくせに、自分は命が惜しいと見える」
 少年が屈辱に震える様子を一通り楽しんでから、フィロネルはやっと刃を引いた。あからさまに少年の身体から力が抜け、しかしフィロネルの言葉が聞き捨てならなかったように、ぎっと眼差しが動いた。
「惜しいに決まっている。貴様なんぞにくれてやる命はない」
 端的なものではなく、初めてまとまった意味を成す言葉を発した少年に、フィロネルは興味を持って視線を動かした。無明の闇に続くような色合いを孕んだ深く美しい紫色の瞳に、揶揄の光がよぎる。
「随分威勢がいいな。女もののドレスを着込んだ上に枷に繋がれ。今の自分の姿がどれほど無様なのか、哀れなことに自覚がないようだ」
 言われた途端、かっと少年の頬に朱が昇った。自分の置かれている状況がお世辞にも格好のつくものではないとは、自分でも思っているのだろう。
 それに素直に反応してしまうあたり、随分と実直な性分でもあるようだ。もっともそうでもなければ、これほど純粋な殺意と憎悪を滾らせて刺客として単身乗り込んでくることなど出来ないだろうが。
 フィロネルは短剣を鞘におさめると、サイドテーブルの上に投げ出した。そのかわり、普段から愛用している手に馴染んだ短剣を取り出す。
「祖国の仇、と言っていたな」
 問いかけると、再び少年は唇を引き結んだ。一言たりとも答えるまいと言わんばかりの様子に、フィロネルは淡々と言葉を重ねる。
「さすがに俺も、他国を滅ぼした覚えはまだひとつしかない。おまえはファリアスの人間か」
 ファリアス聖王国​​​──そう呼ばれていた国こそが、一ヶ月程前にフィロネルが自ら出陣して王都を陥落させた隣国だった。その名の通り神殿勢力が強く、武よりも学と信仰心で統べられていた、小さく美しく平穏な国。それ故に、戦については所詮机上の空論程度に素人のフィロネルでも、初陣にして簡単に攻め陥とすことができた。
 少年は黙っている。この場合もまた、沈黙こそが答えではあった。
 フィロネルは短剣を抜くと、その白銀の刃を少年の顎先に当てた。ほんの少しでも力を加えれば皮膚が裂ける、という冷ややかな刃の感触に、少年が再び喉を引きつらせた。
「おまえの名は?」
 この少年に対する興味と愉快さで熱を帯びてゆく心情とは裏腹に、フィロネルは冷え切った口調で淡々と問い重ねた。
 フィロネルに祖国を滅ぼされた恨みがこの少年を駆り立てているのだとして、それとはまた別に素性は気になった。この少年がどこの誰であるのかを知ることもまた、頑なに閉ざされたその内に踏み込み、不可侵の領域を犯す材料になる。少年が高潔に自身を閉ざし、フィロネルを拒めば拒むほどに、それを割り裂いてやることに興味が湧いた。
「っ……!」
 ぴりりと走った痛みに、少年が息を飲んだ。答えようとしない少年の顎先から喉元にかけて、フィロネルはゆっくりと、薄皮一枚を裂きながら刃の先端をなぞらせてゆく。少年の青ざめた肌に細く薄い赤い筋が生じ、その筋に沿ってぷつぷつと小さな赤い珠が滲み出す。
 ひりつく痛みと、ほんの少しフィロネルが力加減を変えれば致命傷になる部位にふれる刃に、少年が身を強張らせて呼吸を詰めた。無意識のうちにだろう持ち上がった顎が震え、それほど目立たない喉仏が動いた。
 だが少年は、結んだ唇を開こうとはしなかった。額ばかりではなく頬や首筋にもいつしかびっしりと脂汗を浮かせながら、少年はぎゅっと目を瞑った。
 やるならばやれ、ということのようだ。
 その様子を見下ろしながら、フィロネルは少し思案した。
 ただの恐怖や力尽くで口を割らせようとしても、この少年はおそらく何も喋るまい。皇太子の暗殺を謀る時点で、それが失敗したときのことも覚悟の上だろう。
 それならば。
「おまえを内部から手引きした者……」
 一旦刃を引き、よく掌に馴染んでいるその柄を弄びながら、フィロネルは問わず語りに言った。
「それとおまえが、どう繋がっているのかはさておき。ファリアスに縁あるおまえを、今この時期に皇宮仕えに潜り込ませることができるとなれば、相当な力を持つ者なのだろうな。俺を恨んでいる者など、宮廷にどれだけ居るかそれこそ分からんが……」
 ゆるりと語りながら、そこでわざとフィロネルは間を置いた。
 それに気をひかれたのか、少年が閉じていた瞼を薄く持ち上げる。その瞼にまでうっすらと汗が滲み、女のように長く反った深い色の睫毛が濡れているのが、妙にフィロネルには煽情的に見えた。
 それを横目に見やりながら、フィロネルは手の中で弄んでいる短剣の鞘に、手持ち無沙汰のようにその柄先をかつりと打ち当てた。
「おまえが口を割らぬのなら、手っ取り早く疑わしい連中を粛清するまでだ」
 何を言っているのか、というように怪訝に眉をひそめた少年が、言葉の意味を飲み込んだように大きく目を見開いた。その藍色の瞳に、明らかに今までとは違う感情​​​──強い動揺が走ったことを、フィロネルは見逃さなかった。
 淡々と流し目をくれたまま、フィロネルは口調を変えずに続けた。
「それが一番面倒がないかもしれんな。次期皇帝の暗殺未遂など、皇帝陛下を弑逆しようとすることに次ぐ大罪だ。そうだな……一族郎党女子供まで捕らえて、家族の前で一人ずつゆっくりと生皮を剥いでやるとするか。それからノルア湖の塩水を張った樽に漬けて。最後は、一寸刻みにして鴉の餌に撒いてやろう」
「な……なにを……そんなことを、本気で」
 薄笑いしながら流暢に語るフィロネルに、ただでさえ悪かった少年の顔から、さらに血の気がひいていった。
 その様子に、フィロネルは冷然と一笑した。
「しないとでも思うのか? 一年前の大粛清も似たようなものだったぞ」
 勿論、フィロネルも本気で言っているわけではない。少し疑わしいというだけで皆殺しにしていたら膨大な人数を虐殺することになる上に、それではさすがに反感を買いすぎる。
 しかし少年に対しては、充分な揺さぶりになったようだった。フィロネルが氷血の皇子と称されていること、そして事実一年前に血で血を洗う大粛清を行ったこと、何より無慈悲にファリアスを攻め滅ぼしたことから、フィロネルならやりかねない、と考えたようだった。
「……この、下劣な悪魔が」
 少年が呻き、その瞳に口惜しげな、しかし隠しようもない気弱な光を滲ませてゆく。自分が死ぬのは割り切れても、無関係な者達を自分のせいで無惨に死なせるのは耐えられないのだろう。
 瞳に強い光を失って視線を弱々しく彷徨わせた少年の鼻先に、フィロネルは抜き身の短剣を無造作に突きつけた。
「おまえの名は」
 あらためて問う。別段凄むでもないフィロネルの言葉に、少年の瞳が頼りなく揺れ、表情が歪んで唇が震えた。
「…………ユアン……」
 ようやく観念したように、これまでと打って変わって儚いほどの弱い声音で、少年が呟いた。
「それだけか?」
「ユアン……レイス」
 本名を名乗っている保証もなかったが、この少年はこの状況で保身のための偽りを言えるほど狡猾な性分ではないだろう。それができるのであれば、フィンディアス宮廷の誰がどれほど残酷に、無差別に殺されようと、無視できるはずだ。そもそもフィンディアス自体が少年にとっては仇敵なのであろうし、フィロネルを恨むのならば、フィンディアスという国自体も恨んでいるのだろうから。
 この少年は、殺意と動機と衝動はあっても、目的のためにまったくの無慈悲になれるほど冷酷ではない。その甘さが結局のところ、少年をしくじらせてこのような状況に落とし込んだのだと言えた。その暗殺者としては不必要で未熟な甘さと愚かさは、フィロネルにしてみれば随分と可愛げのある、嬲り甲斐のある性分でもあった。
「ユアンか」
 悪くない響きだ。フィロネルは一度確かめるようにその名を口にしてから、少年​​​──ユアンに先を促した。
「やはりファリアスの残党か?」
 問いかけられたユアンは、その名が出たことで奮い立ったように、真っ直ぐに眼差しを持ち上げた。
「そうだ。俺は、絶対に貴様のことは許さない。たとえどんな地獄に堕ちようと、貴様が命絶えるまで追いかけて呪い続けてやる。貴様は祖国の仇だ!」
 自棄になったような激しさで、ユアンは続け様に言葉を叩きつけた。嬲るように問い詰められ脅され、どうせこのまま殺されるのなら恨みつらみをぶちまけてやろうとでも思ったのだろう。
「おまえを手引きした者は誰だ」
 それを淡白に受け流し、フィロネルは問い重ねた。
「…………」
 ユアンは唇を噛んだ。いかにも真っ直ぐな性根をしているらしいこの少年にとって、その名を明かすことは相手を売り渡すことに他ならないのだろう。
「…………誰も」
 迷い戸惑った末、いかにも苦し紛れにユアンは答えた。
「すべて俺が一人で計画して、忍び込んだ。手引きした者などいない」
 フィロネルは悠然と脚を組んだまま、短剣の腹で自らの掌を繰り返しゆっくりと打った。
 そんな子供じみた言い訳が通じるとは、ユアン本人だとて思ってはいないだろう。だが手引きをした相手を裏切ることもできず、かといって黙っていれば自分のせいで無差別に等しい粛清が起こるとなれば、そう言う他になかったに違いない。
 ……まあ、元々そんなことにはたいして興味もないが。
 にやり、とフィロネルは唇の端を笑ませた。
 この少年の素性についても、外見とその名を元に詳細を調べ上げれば良い。手引きをした者の名が分かるに越したことはないが、フィロネルを不快に思い疎んじている者など、それこそいくらでもいる。実際に暗殺未遂沙汰などは、さほど珍しい話でもなかった。
「そうか。では、おまえ一人が咎を負うと言うのだな」
 このまま言葉でからかうのも楽しいが、そろそろこの少年の地肌にふれて、その体温と生命の脈動を、熱い肉の反応を味わってもみたい。その誘惑は、妖しい幻惑と深い快楽に誘う麻薬のように、フィロネルをざわりと煽った。
 フィロネルは短剣を握り直すと、寝台の上に乗った。ぎしりと大きく揺れた寝台に、ユアンがはっと息を飲んだ。
 本能的に恐怖を感じたのだろう、逃げられないと分かっていながらも、ユアンが緩い鎖にまだ動く余地のある身をよじらせる。その上にフィロネルは馬乗りになると、少年の纏ったドレスの喉元から短剣を差し込み、布地を一息に切り裂いた。

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