エレクシオン (3)

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 突然現れた新参が時の権力者に妙に贔屓されている、となれば、ねたみや恨みの一つくらい買わない方がおかしいだろう。と、ユアン自身も思う。
 だが幸いにも、普段からわりあい高い頻度で顔を合わせる人々​​​──皇子の護衛達や、公務上の関わりが多い者達​​​──からは、ユアンはさほど悪意を向けられることはなかった。むしろユアンの身を案じてくれたり、その復帰を喜んでくれる者が大半だった。
「おまえ、けっこう殿下に苦労させられてたからなぁ……」
 中には、そんなことをしみじみと言う者などもいた。
「そうそう。おまえ、殿下に妙な賭け?をふっかけられたりもしてただろう。殿下は冗談がきついことがあるからなあ」
「ここだけの話、殿下の側近って心労で続かない人が多いんだよね。頭の良い御方だけど、容赦がないし何か恐いじゃない? だから実はユアンもそうじゃないかって、ちょっと心配してたんだ」
 ここだけの話も何も、皇子の従者に任命された直後から、ユアンの耳にはそんな話は多方面から入ってきていた。そんなことを案外軽々しく皆が言える、という時点で、実は皇子は周囲が思うよりずっと寛容なのだ、ということでもあるのだが。
 ともあれ、だからこそ皇子との間を取り次ぐ役目でもあるユアンの存在が、周りからありがたがられているのだろう。
 執務室で仕事の合間にそんな話をすると、フィロネルはおかしそうにくつくつと笑った。
「それはそうだろう。自分の首根っこを押さえている相手と、そうそう誰も面と向かって話したくはないだろうよ。まして俺は、我が儘で気難しくて冷血ときている。俺は愛される君主ではなく、恐れられる君主にしかならんだろう」
 随分笑うことが増えたな、と、そんな皇子を見てユアンはなんとなく思いつつ、ささやかながら訂正した。
「敬愛されている、と思いますよ。殿下は」
「ほう。おまえも宮廷人らしい阿諛追従を覚えたか?」
「その減らず口のせいで、皆から誤解されるんでしょうに」
 ユアンが呆れて返すと、フィロネルはまた笑ったが、その目許からは笑みが消えたように見えた。
「俺はこのくらいでいい。身の丈に合わないことをしても続かん。だから、おまえが周囲との間に入ってくれるのは俺にもありがたい。俺はあの男から外見はそっくり引き継いだが、自分を取り繕う才能については少しも受け継がなかったようだ」
 その言葉に、ユアンは小さく息を飲んだ。あの男、というのが誰のことを指しているのかは、聞かずとも読み取れた。
 その人物のことを話題に出すのは、フィロネルとの関わりが関わりなだけに、レインスターにいた頃は勿論、フィンディアスに帰ってきてからもユアンは憚っていた。フィロネル自身から口にしない限りは、ユアンも口にするまいと思っていた話だった。
「……ウェルディア様とのご対面は、いかがでしたか?」
 言葉を選びながら、ユアンは訊いてみた。フィロネルの本当の父親だという、その人物。
 二人の対面の場を、ユアンは結局見ていない。ウェルディア王はユアンのことを見知っているだけに、下手に顔を見られると厄介だと思って、ユアンはレインスターでは公の場に出ることを控えていたのだ。
 血を分けた親子であるウェルディア王とフィロネルは、金髪紫眼という持ち前の色彩もさることながら、顔立ちが実によく似通っている。まさか誰も二人が実は血縁にあるなどとは思わないだろうが、やはりユアンにはいくばくかの懸念はあった。
 だがそれについては、フィロネルが手を打たないわけもなく、髪型や装束や化粧の意匠を凝らすことで、うまく印象を違えていたようだ。そのため二人の対面後も、意外なほど「似ている」点については取り沙汰されることはなかった。
「取り立てて何も。万事つつがなく、というやつだ」
 大体察しはつく気はしたが、予想にたがわずフィロネルはそう答えた。
「女子供にも人気が高い、と聞いていたが、あれなら納得だな。あの見かけで虫も殺さぬような顔ができるなら、皆あっさりとあの人畜無害な笑顔に騙されるだろう」
「殿下もあながち不得手ではない、と思いますが。そういう顔を装うことは」
 ユアンが世話になっていたエルティーダ卿の屋敷に、レインスターを発つ前に皇子は改めて挨拶に訪れたのだが、そこでの出来事をユアンは思い出した。
 屋敷には愛らしい幼い姉妹がいて、彼女達はユアンのことを「お兄様」と呼び、随分となついてくれていた。妹の幼かった頃を思い出させる姉妹のことをユアンも可愛く思っていたから、ぽろぽろと泣きながら別れを惜しんでくれる二人に、ついもらい泣きをしてしまいそうになった。
 そして姉妹は、あからさまに周囲と空気が違うフィロネルに驚いて、夫人の後ろに隠れてしまった。しかし圧倒的な雰囲気と美貌を持つ皇子のことが気にはなったのだろう、夫人のドレスの陰から、おっかなびっくり顔を覗かせていた。
 そんな彼女達に気が付いたフィロネルは、ユアンが驚いて目を剥くほど優しく爽やかな笑顔を二人に向けた。フィロネルは彼女達の前に足を運ぶと、淑女に対するように丁寧に一礼してから自ら腰を屈めて目線を下げ、ユアンが世話になったことの礼を言い、大事な「お兄様」を連れ去ることを詫びた。
 ユアンはぽかんとしてそれを眺めていたのだが、そんな皇子に、二人の愛らしい少女達はあっという間に懐柔されてしまった。いや、懐柔という言い方は良くないのかもしれないが、あのときユアンは様々な意味で感心すると共に、心底ぎょっとしていた。
 記憶にある限りの優しげなウェルディア王の姿と、あのときのフィロネルは、驚くほど似ていた。血は争えない、という言葉が、あのときのユアンの頭には浮かんでいた。
 外遊の間、フィロネルは「美しく聡明で理想的な大国の皇子」を演じ切っただろうが、ウェルディア王もそのあたりは似たようなものだろう。華やかな催事の中、二人はあんな顔で和やかに言葉を交わしながら、その一枚下ではどれほどすさまじい腹の探り合いをしていたのだろうかと思うと、想像するだけでユアンは胃が痛くなりそうだった。
 フィロネルもウェルディア王のことを思い出しているのか、ふと遠くを見るような目つきになった。
「腹芸なら負けず劣らずか。しがらみは抜きにして、一度本音で様々なことを語り合ってみたいとは思う相手だった。あの男と腹を割って一対一で飲む酒は、どんな味がするのだろうな」
 フィロネルのその言葉に、ユアンは小さく目を瞠った。
 自身は知ってか知らずなのか。そんなことを言うフィロネルの眼差しに窺えるのは、怒りでも憎しみでも不可解さでもなかった。ただ懐かしげな、遠くてよく見えないものを瞳を眇めて見ようとしているような顔をしていた。
 フィロネルが本来最も恨んで然るべきなのではないか​​​──とユアンには思える存在が、ウェルディア王その人だ。しかし不思議なほど、ウェルディア王について語るときのフィロネルには、そういった気配が見当たらない。それはいつかの皇帝の寝所でも、ユアンは気になった部分だった。
 あまりにも遠すぎる存在だからだろうか。昔一度だけ会いに来た、というそのときのウェルディアが、フィロネルにとっては余程、憎むこととは正反対の位置にある存在として記憶に残っているのかもしれない。
 それは誰にも望まれずに生まれ、「両親」に一片も愛されずに育ったフィロネルにとって、自分自身でも気付けないほどの哀しい弱さなのかもしれなかった。手が届かず、よく見えないからこその、遠い存在に向けられた憧憬。
 それ以上のことは、フィロネルは続ける様子はなかった。ウェルディア王についてをあまり追求することも無神経に思えて、ユアンはその名をそれ以上口に出すことはせず、話の先を促した。
「収穫はあったのでしょう? わざわざあんな大事を催してまで訪問したのですから」
 フィロネルとウェルディア王は、今は親子云々よりも一国の君主同士としての立場を貫いている。公式に友好関係を結んだのであれば、今後もまた二人が遣り取りをする機会はあるだろう。
 二人がこの先、互いに真実を口にすることがあるのかどうかは分からない。それがもし、互いに斬り付けるための武器としてではなく済めば、と期待してしまうユアンは、きっと甘いのだろうとは思う。
 親子として名乗り合うなど、たとえ極秘にであれ、あまりにも二人は難しい立場だ。まして野心家のウェルディア王にとっては、この話は武器でしかないと思う方が妥当なのかもしれない。
 それでもどうか、できるのならば、このまま二人の間で刃が振りかざされることのないように祈りたい。フィロネルがウェルディアを憎んでいない​​​──憎めない​​​──のならば、尚更に。
「まあな。最大の収穫は、この国はレインスターと戦になれば負ける可能性が高い、と分かったことかな」
 そんなことを考えていたユアンは、皇子が執務机に頬杖をついて気軽な世間話でもするように言った言葉に、数秒遅れてやっと反応した。
「……はい?」
 思わず耳を疑う思いで目を向けると、フィロネルは普段と変わらぬ何食わぬ顔で、視線を投げ返してきた。
「この国は、レインスターと正面から戦えば、おそらく負ける。ある程度分かっていたことではあるがな。街道から王都まで移動して、あの国の賑わいと活力をこの目で見て、あらためてそう思った」
「……そうなのですか?」
 そんなことを何を悠長に言い切っているのかと、ユアンの方が狼狽した。
 フィンディアスとレインスター両国のあらゆる情報を突き合わせても、それが一概にどちらに有利で不利だとは、ユアンの目からは判断しがたい。だいたい、レインスターとフィンディアスの間で戦争が起きるだなんて、一番考えたくない話でもあった。
 フィロネルは椅子の背凭れに寄りかかると、軽く手脚を組んで考え込む風情になった。
「もともとこの国は、冬将軍の加護もあって守るに易く、攻めて出るにはかたい。守ることで長く保たれてきた国だ。並の国ならば寄せ付けないが、レインスターの勢いと国力はやはり別格だ」
「レインスターは確かに強国ですが……それほどまでとお思いですか?」
「冬将軍の加護を得られない時期もある。向こうの兵士は士気が高く戦い慣れている、というのもある。正面からの戦いを避ければ、勝てはしなくても負けもしないだろうが……戦が長引けば、当然民は疲弊する。その間にもし飢饉でも起きれば、兵も民も飢えて戦線を維持することが難しくなる」
 もともと気候が厳しく貧しい土地の多いフィンディアスでは、寒冷地でも収穫しやすい作物を多く開発して育ててはいる。だが輸入と備蓄に頼っている部分もどうしても一定量あり、それを支えているのが様々な鉱物資源と技術力によって賄われる豊かな財源だ。とくにフィロネルが政権を握ってからは、平時であれば飢饉が発生しても最低限の被害で民の生活を維持できるよう、対策に力を入れていた。
 だがそれでも、なんとか維持できるのは平時に限る。飢饉は規模だけでいえば、戦などよりもよほど甚大な被害をもたらす、支配者にとって最も恐ろしい問題だ。そして寒冷地のフィンディアスでは、暖かく気候に恵まれた南方の国々よりも飢饉が起こりやすい。
 だが、ウェルディアも王なのだから、飢饉が何より民衆をどれほど苦しめるものであるのか、よく分かっているはずだった。
「確かにそれは考えられることですが……仮にもし交戦中に飢饉が発生したとして、ウェルディア様はそこにつけ込むような方でしょうか?」
「さあな。少なくとも、しない、と言い切る根拠は俺にはない」
 正道を往く王ならそんなことはしない、と思いたいユアンに、フィロネルは素っ気ないほど淡々と答えた。
「だからこそ、つけいる隙を与えない為にファリアス領を死守せねばならん。後は、あの男が野心の矛先をこちらに向けないことを祈るしかない。戦は避けたい。戦が起きれば真っ先に犠牲になる民の一人一人にも、生活と人生がある」
 最後に呟くように言った皇子に、ユアンは意外な思いで瞬いた。
「え?」
 その眼差しに気付いたのか、フィロネルがユアンを見返してきた。
「おまえを見ているうちに、それが身に染みた。今さら、と言われるかもしれないが」
「…………」
「俺は戦は避けたい。だが俺がしたくないと言っても、いつか状況が許さなくなるときが来るかもしれん。そのときは、すまない」
 胸の奥に軋むものはあったが、皇子の語る言葉を、ユアンはわだかまりなく静かに聞くことができた。
 戦争は嫌だ。祖国ファリアスを滅ぼされ、それまでの生活と家族を失い、それによって負った痛みや哀しみは、この先もユアンの中で決して癒えることはない。フィロネルの暗殺を苦悩の末に思いとどまったのも、フィンディアスがフィロネルを失えば確実に戦争が起きる、自分と同じ思いをする者がどこかに生み出されてしまう、と分かってしまったせいだった。
 フィロネルが家族を奪った仇であることは変わらない。憎めたらどれほど楽だろう、と思う気持ちも、きっと一生消えない。けれどその痛みも矛盾も一緒に飲み込んで、すべてをフィロネルに捧げようと思えたから、今ユアンはここにいる。
 だが、どこまでいっても個人の枠を出られない自分は、氷血とも呼ばれるフィロネルとはどうしても分かり合えないだろう、という一抹の哀しさはついてまわっていた。フィロネルの視点は雲の上の支配者の視点であり、決して自分とは相容れない部分だと。
 でも、フィロネルがたとえその立場を棄てることはできなくても、地べたにいる者達の姿を顧みてくれることがあるのならば。
「……いいえ。相手のあることですから、殿下の意志ひとつではままならないことはあるでしょう」
 ユアンはフィロネルに向かって、心から頭を下げていた。略式ではあるが、背筋を伸ばして胸元に手を当て、敬礼の姿勢を取った。
「俺は戦は望みません。ですが、いつかもしそのときが来ても、殿下の選択であれば従います。むやみに罪無き民を苦しめることを、殿下はなさらないでしょうから」
 自分はもしかしたら、フィロネルに新たな苦しみを与えたのかもしれない。雲の上の神の視点から降りてきて、一人一人の苦痛と命を背負え、と、強いたも同然なのかもしれない。
 だがそこにいるフィロネルは、その深い紫色の瞳を微塵も揺るがせてはいない。フィロネル自身が選択し、すべてを承知の上で受け止める、という覚悟を既に持っているのなら、自分も何も言わずフィロネルに従うことに、何を躊躇う必要があるだろう。
 ユアンは一度はすべてを失い、涙と苦しみしかない泥沼の底でのたうちまわった。そこから立ち上がって、一筋の光のようだった譲れない心を手探りで握り締めた。
 どんな矛盾や苦しみを含んでいても、それを凌駕するものがあって、このまま前に進むことに後悔はないと、魂から響くものがある。そんなふうに生きる道があってもいいだろう、と思える。そして、躊躇わずにそちらに進める自分は、おそらく幸せなのだ。
「この先何があっても、俺はあなたについて行きます。フィロネル殿下」
 ユアンが共にあることでフィロネルの中で何かが救われ、人として真っ直ぐにあることができるのなら、決して離れずに傍にいよう。どこまでも共にあって、フィロネルが見るものと同じものを、それがどんなものであっても見続けよう。
 真正面にフィロネルの姿を捉え、はっきりと告げると、フィロネルはややあってから小さく相好を崩した。どこか気が緩んだようにも見える表情だった。
「そうしてくれ。俺は、それだけでいい」
「はい」
 短く答え、もう一度ユアンは頭を垂れた。
 ​​​──自分は幸せなのだ、と、そうしながらあらためて沁み渡るように思った。それは、愛しく優しいものたちに囲まれて、穏やかに生きていた頃に漠然と思い描いていた「幸せ」からは、相当にかけ離れてはいたけれど。

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