暗い非常階段を昇り切った先にある錆び付いた重い鉄のドアを、身体ごとで押し開けてゆく。隙間が広くなるにつれて、陰鬱な暗さの中に切り込むように、真っ直ぐな真昼の明るさが入り込んでくる。
凍えるような冬の冷気に晒された鉄のドアは冷え切っている。それに身体を押し付けるようにして開いていくと、じんわりと上着を通して冷たさが染み込んできた。
蝶番が軋む音を立てる重たいドアをやっと開き切り、視線を持ち上げた途端、抜けるような青空が視界いっぱいに広がっていた。
何もない屋上に踏み出すと、それなりに高いビルの屋上なので、風がかなり強く吹きつけてきた。サクは風に持ち上げられて暴れる上着の裾や長めの黒髪を押さえながら、ゆっくりと屋上の際まで歩いていった。
屋上の際をぐるりと囲むフェンスは、長く放置されたままの鉄のドアと同様に、ところどころ破れ、赤黒く錆び付いている。ざりざりという感触のするそれに、サクは白い指を掛けた。
黒い瞳で見晴るかす視界には、ひたすら灰色で生気のない街が広がっていた。この冬で十七歳になったばかりのサクが、この世に生まれるよりも前の時代に、戦渦によって廃墟と化した街。今では「廃都」と呼ばれている、かつてのこの国の首都。
こんな死に絶えたように何もない灰色の廃墟の街の中でも、ドブネズミやゴキブリのように、這いつくばるようにして、「外」では行き場のない人間達が生活している。サクもまた、そうした人間達の一人だった。この街を出たら、それこそ「生き場」のない人間。法も秩序も機能していない剥き出しの欲望の坩堝であるこの街でしか生きていけない、欠陥品の人間。
フェンスを掴んだ指に少し力をこめると、錆びてざりざりしたそれは、耳障りな、けれど妙に懐かしいような軋む音を立てた。
この街に初めて来たときも、フェンスを越えてきた。この街と「外」とを隔てる、鉄条網を巻かれて監視塔に見張られたフェンスを。高い壁でもなく、たったのあれだけのものなのに、それは嘘のように「外」とこちらとを隔てている。
茫漠とした廃都の様を、髪や上着を風に煽られるまま、サクはぼんやりと見下ろしていた。
色彩も何もない、灰色の虚無に彩られたようなこの街の上にも、空だけは「外」の世界と変わらず広がっている。大気が冷え切り透明感のある雲ひとつない空をサクは見上げ、上向いた拍子に、右の耳朶にひとつだけ嵌っている真紅のガーネットのピアスが陽光を反射した。
青空の眩しさに、サクは少し目許を顰めた。
その青さに、同じ色をしたものがサクの中に蘇ってくる。つい先日たまたま道すがらに出会い、妙にひかれるものを感じて、そのままベッドを共にした相手の、同じ青色をした瞳。
金髪碧眼でサクよりも大柄で、いやに流暢な日本語を喋るその相手の名前は、「レン」といっていた。サクよりいくらか年上のように見えるのに、見せる表情はやたらと子供っぽくて邪気がなかった。妙な愛嬌すら漂うそいつは、背中の中ほどまで長く髪を伸ばしていて、金色に透ける柔らかなそれはとても綺麗だった。いつも笑みを湛えているような青い瞳も、なんだか吸い込まれてしまいそうなほど、綺麗だった。
抜けるような青空に、サクはしばらくぼんやりと目を向けて、ああ、と一人で納得した。
なぜ空を見て、あのレンという奴を思い出したのか。それは、あの瞳の色とこの青空の色がそっくりだからだ。
この街に来て以来、サクはあまりものを考えなくなっていた。そのせいで随分と鈍り緩慢になったままの思考力を手繰り寄せるように、サクはレンという相手についてを、ゆっくりと思い出し始めた。同じベッドに横たわり、サクより大柄で健康的に陽に焼けた身体が上に乗ってきたときのことを。その意外なほど繊細に動く手がサクの白い身体を這いまわり、鳥肌が立つほど甘美に震え上がらせたことを。
──ふるり、と、性の快楽にも似た震えが、一瞬サクの身を這った。
なんだろう、と考える。嫌な感じはしない。それどころか、そうだ。あのときは、とても気持ちが良かった。時間が経つことも忘れて溺れるほど。
身一つで何一つ持っていないサクは、この街に彷徨い込んだとき、生きることと引きかえに自分の身体と意思と矜持とを明け渡した。結果、アリサという変態女に、人としてではなく玩具として養われている。そしてアリサは勿論、アリサに仕える名前も知らない男達に、夜ごといいように弄ばれている。今では小金のために、見知らぬ相手に身体を投げ与えることも覚えた。
そんな日常を繰り返すうちに、サクの身体は穢れた快楽に簡単に染めあげられるようになった。石のように心は固く冷たくなったまま、身体だけが熱をもって醜く絶頂する。そんな日々も身体の反応も、サクには当たり前になりすぎて、それに対して何かを思うことすら既になくなっていた。
でも。
「…………」
素肌の上を這ったレンの手の感触を思い出した途端、サクは柔らかな吐息を零していた。思わず目を閉じて自分を抱き締め、見知らぬその感覚に委ねてみる。何だろう。アリサのところでされることや、そのへんの奴らとすることと、やっていることは最後は同じだったのに。あいつとのことは、思い出しても嫌じゃない。そりゃあアリサにいいようにされるのよりはずっと「普通」で、身体も楽だったけれど、どうして思い出す感覚がこうまで違うんだろう。
優しくキスしてきた唇の感触を思い出し、サクは自分の唇に無意識にふれて、ハッとした。
夢から覚めたように瞬きをすると、頭上に果てしなく広がっている、相変わらずの抜けるような青空が網膜に映り込んだ。
「…………」
白昼夢でも見ていたような感覚に、サクは少し驚いたまま、フェンスに両手をかけて馬鹿のように空を見上げた。
……なんだろう。よく分からないけれど。あいつは、違うのだ。それだけは分かる。何がどう違うのかはよく分からないけれど、違うのだということだけは分かる。
あいつが歳に似合わないのではというほど、やけに嬉しそうに笑ってばかりいたせいだろうか。こんな灰色の街で、あんな顔で笑う相手なんて、サクは一人も見たことがなかった。
何だろう。
「……変な奴」
よく分からない。分からないけれど、あいつは嫌じゃない。
たどたどしく考えながら、サクは首を傾げた。
上着の下、腰のベルトに突っ込んである鉄の硬い感触を確認する。それはアリサにねだって手に入れてから、お守りのようにほとんど肌身離さず身につけている、小振りの自動式拳銃だった。
この場所に上がり、青空を見ると、いつも思うのは「死」についてばかりだった。とりあえず今は、死んでたまるかという意地だけで生きている。けれどどうせこんな場所で、病気かそれ以外かは分からないが、そう長生きできるわけもない。だから漠然と思考の片隅で、何もかもつまらなくなったら、天気の良い日にここで頭を撃ち抜こうと思っていた。
でも、なぜか今日は、今の今までそれを思い出さなかった。
「……レン……」
また無意識に唇が動いた。指が持ち上がって、その音を発した唇にふれた。
また会いたい。また、この身体にふれてほしい。
鈍磨して何かを感じたり考えることも稀になっていた心に、確かにそんな衝動が、淡く湧き水のように生まれていた。それはサクを無性にざわめかせ、落ち着かない気持ちにさせた。
思ったときには、サクはくるりと身を返して、非常階段に続く錆びた鉄のドアへと向かっていた。
足早に歩き始めたその姿が、ドアに到達する。重く軋むそれを引き開けると、サクは躊躇なく通り抜け、ほとんど光の差し込まない暗い階段を駆け下りていった。
(了)