In the blue sky

栞をはさむ

 今でも強烈に覚えているのは、骨まで凍りつくような海の冷たさ。

 真冬の海の水は、既に冷たいというよりも痛いほどで、桟橋から何も考えずに飛び込んだ少年の身体を、悪魔のようにあっという間に侵食した。
 体温を奪われ、水を含んだ服が重く手脚にからみつく。必死に泳ごうとするものの、ろくに身体が動かず、ほとんど前に進めなかった。何度も塩辛い水を飲んで、頭の奥がジンジン痛んで耳鳴りがした。
 沖合いに停泊している貨物船に向かって走り出していた小さなボートが気付いてくれなければ、今頃レンはこの世に存在していなかったに違いない。ましてやあのとき、時刻は深夜。気付いてもらえたのは奇跡のようなものだった。
 溺れかけていたレンに気付いたボートは、するすると戻ってくると、今にも暗い海中に沈んでしまいそうだった身体を引き上げてくれた。何か説明しようにも、頭からずぶ濡れになってガタガタ震え、歯の根も合わず、何度も咳き込みながら酸素を取り込むだけで必死で、意味のある言葉を吐き出せなかった。
 そんなレンの胸元に下がっている銀色のドッグタグに、ボートに乗っていた男達は気付いた。
 しまった、と思った。見られたら自分がどこの部隊に所属しているのかすぐに分かってしまう。逃亡兵だということも一目瞭然だろう。逃げるのに必死で、身に着けていることがすっかり習慣になっていたそれを外すのを完全に忘れていた。
 レンを引き上げてくれた男は、ドッグタグを手に取ってじっと見下ろしていたが、震えて動けないレンの首からそれを外すと、そのまま海に向かって放り投げた。
 ぽかんとしていると、男はにやりと笑って、ずぶ濡れのレンの金髪をぐしゃぐしゃに撫でた。そして、乗せてやるから働けよと言った。その言葉と笑顔が、死すら覚悟して逃げ出してきたレンを救った。
「ありがとう」
 青ざめた唇はなかなか動いてくれなかったが、なんとか笑った。顔全体をほころばせるようなその表情と澄んだ青い瞳を見て、ボートの上の男達も笑った。
 近付いてくるボロボロの貨物船が、すべてを変えてくれる希望に満ちた夢の城のように見えた。

       ◇

「レンてさあ。不思議だよねー」
 夜の街の片隅で、少女がそんなことを言った。
「うん? 何が?」
 その細い肩を抱きながら、こめかみや頬にたわむれるようにキスを繰り返しているレンに、少女はくすぐったそうに身をすくめる。
「だって、ちょーナンパでタラシで女癖最悪じゃん。なのにぜんっぜんイヤラシイ感じがしないの。それってさあ、すっごい得だよねー」
「ひっでえ言い方すんなぁ」
 重ねて言われた表現に、レンはその整った眉根を不満そうに寄せる。
 まだ少年のやわらかさを残した、しかし大人になりつつあるその風貌は、やけに甘く見た者を魅了する。WW3以降、それ以前より格段に外国人の姿も増えたとはいえ、金髪碧眼で背の高い、そして華やかなその外見は、島国であり単一民族国家であるこの国では人目を引く。
 真正直に傷ついたようなレンに、少女は笑ってその首に抱きついた。可愛くてたまらない、というように。
「あはは。わかってるって。レンはみんなのことが大好きなだけだよねぇ」
「うんうん。すっげー好き。大好き。あんたのこともだーい好き」
 楽しそうにキスを繰り返しながら、くびれた腰に手をまわしてくるレンに、少女はますます笑う。少女は背伸びをして、レンの唇にキスをした。
「ガイジンの男はキスが挨拶がわりっていうけどさ。レン見て、ほんとなんだってびびったよ。つーかレンの場合はそれよりちょっと、やっぱりいきすぎ? ぶっちゃけ誰彼かまわず抱きすぎじゃない?」
「えー。でも好きだって思ったらやりたくなんない?」
「うーん、相手によるかなあ。誰でもいいとは思わないよぉ」
「じゃ、俺は?」
「イヤなわけないじゃん。あたしもあんたのこと、だーい好きだもん」
 それを聞くと、嬉しそうにレンは笑って、少女の身体を抱き締め直してまたキスをした。今度は唇に。甘くとろけるようなその感触に、少女もうっとりしたように応えた。


 昔から人なつっこく愛嬌のあるレンは、それこそ誇張ではなく、性別年齢問わず誰からも可愛がられていた。裏表のない表情はいつでも生き生きとして、からりとした笑顔は明るく周囲をなごませる。
 女癖が悪すぎるのが難点だけれど、と誰もが口を揃えて笑いながら言う。男性として致命的であるはずのその難点も、なぜか誰もが、親しみを込めて表現する。それはレンが、それこそ気が向けば誰とでもという、気ままといえば気まま、無節操といえば無節操な性分であるにも関らず、一人一人に対しては誠実で決して相手に不快な思いをさせないこと、特定の恋人を一切作っていないが故に「裏切り」も存在しないからだった。
 だがそれにしても、すっごい得、と言われるのも、あながち的外れではない。ろくな身寄りもなかったが、なぜか昔から、レンの周囲にはレンに何かと世話を焼きたがる人間が絶えなかった。おかげで、あまり生きるのに苦労した覚えがない。


「レンてさあ。どっから来たの?」
 なんとなく知り合って意気投合し、そのまま一晩中一緒に騒いでいた少年に、名前も知らない街の明け方の路地で問われた。
 レンが無意識に手元を寂しそうにひらひらさせているのに気付き、少年は取り出した煙草を差し出す。嬉しそうに笑うレンと、互いに一本ずつ咥えて少年は火を点ける。
「えれーキレイなガイジンだーって思ってたら、いきなりすっげえ流暢な日本語喋り出したからさ。びっくりしたわ。レンてガイジンなんだよね?」
「ガイジンよー。んー、海の向こう?」
「そりゃ分かってるって。海って、この国全部周り海じゃん」
 思わずのように吹き出した少年に、レンはガードレールに凭れ、首を傾げるようにする。後ろでざっくり括られた長い金髪が、ビルの合間から差してきた透明感のある朝陽に透けた。
「ステイツかなあ」
「アメリカ? へえ。家族は?」
「いないよー」
「ひとりでコッチ来たの?」
「そそ」
「いくつんとき? つか、いつ?」
「えーと。二年くらい前。十四? まぁそんくらい」
「なんで?」
「なんでって?」
「だってさ。んな歳で一人でコッチ来たりする? よっぽどなんか、逃げて来たいことでもあったのかなって」
 質問攻め状態なのだが、気を悪くした様子のカケラもなく、煙草を咥え直しながらまたレンは首を傾げた。
「んー。まあ、逃げて来たのかなあ」
「なんかあったの?」
「アーミーにいてさ。めっちゃイヤで、なんかもー全部めんどくさくなってさ」
「アーミーて……軍隊?」
「そそ」
「レンが兵隊ぃ?」
 目をぱちくりさせた少年が、盛大に笑い出した。
「すっげー似合わねえ。おまえそれ、逃げて正解」
「だろー? 俺もそう思うわ」
 少年二人は、人気ひとけのない朝の路地で声を揃えてけたけたと笑った。
「じゃーさ。戦争とか行ったりしたの?」
「ちょっとだけどねー。訓練だけでも最悪なのに、あんなんやってらんねっての。死ぬわ」
「おまえ根性なさそうだもんなあ」
 ほぼ同時に煙草が燃え尽き、また少年がレンに一本差し出した。また同じように揃って咥えて火を点ける。
「あんなもんに根性見せてもしゃーないだろー」
「まーな。人とか殺した?」
 真っ直ぐにレンを見つめながら直球で問うた少年に、レンは広い肩をすくめた。
「撃ったことはあるけど。正直よくわかんね」
「そっかあ。でもたぶんさ、おまえはやってねーよ」
「そう?」
「うん。だってさ、おまえみたいのが撃って命中するとか思えねーし」
「ひっでーな、それ」
 二人はまた笑い合った。少年が朝陽に目を細めるようにして、レンを見た。
「おまえに似合わねーよ。めっちゃ似合わねえ。良かったなあ、逃げて来れて」
「マジそう思う」
 レンも笑って、煙を朝焼けの空に吐き出した。


 ステイツで軍隊に所属していたのは、訓練期間も含めて三年程か。
 レンは誰からも愛されたが、唯一レンを愛さない存在がいた。両親だった。その親に捨てられるように、軍隊に入った。
 母親は黒髪に黒い瞳のとても美しい人で、日本という極東の島国の出だと聞いていた。レンはその母親に似ているらしい。
 レンは混血だがほとんどアングロサクソンにしか見えず、しかしその容貌にはなんとも言えない柔らかみと甘さがある。それは母譲りの、東洋系の血が混ざっているからのようだった。異国の言葉で「蓮」と書くという名前は、父親がつけたという。
 父親は母親を溺愛していたが、美しく奔放だった母親は、移住してきた片田舎の平凡な暮らしにすぐに飽きたらしい。レンを産んでからさほどもせずに浮気をして、父親と泥沼の大喧嘩になった末に離婚して出て行った。それ以来母親は二度と現れず、だからレンは母親を知らない。
 父親は彼女を憎んだが、同時に忘れることもできなかったのか、日本人の女性ばかりを家に連れ込んだ。かつての妻が自在に操った、まろやかな響きの異国の言葉を愛し、文化を愛した。家に出入りする女性達の喋るその言葉を聞き、また彼女達に可愛がられたレンは、自然とその異国の言葉を覚えていた。
 父親は深い愛情ゆえにいっそうかつての妻を憎み、彼女の存在を思い出させるレンを激しく憎んだ。幼い頃から、抱き締めてもらった記憶は一度もない。


「大丈夫よ。あたし達がいくらでもあんたを愛してあげるから」
 隣家の年上の女性​​​──姉のように慕っていた娘は、ことあるごとにレンを抱き締めながらそう言った。
 そしてあるとき、父が数日留守にしていて誰もいなかった家の明るい庭先で、レンは彼女に抱き締められ、繰り返しキスをされて、初めて性的な快楽というものを知った。十か十一になった頃だったように記憶している。
 それはとても甘くて不思議で、天国にいるのかと思うほど気持ちの良い体験だった。彼女はとても優しく笑いながら、愛情を込めて接してくれたから、歳のわりに相当に早熟だったその行為に対して、レンは恐れや後ろめたさといったものをまったく覚えなかった。ただ漠然と、愛されるということはこんなに心地良いものなのか、と思った。
 学校にも行かせてもらえず、家に置いてやるだけありがたいと思えと言わんばかりの扱いを受けていたレンは、父親の連れ込む女性達や隣家の娘のおかげで、意外に不自由はなく育った。どうしても飢えることや寂しいことはあったが、その翌日には、それを埋め合わせるように彼女達が抱き締めてくれた。教育を与えられないレンに、彼女達が分かる範囲で勉強を教えてくれた。両親に愛されることはなくとも、意外にレンは幸せだった。

 隣家の娘との蜜月は、一年ほどで終わった。父親がレンを軍隊に放り込んだのだ。
 WW3以降様々に変わった世相の中、子供のうちから入隊させ英才教育を施すことは、ステイツでも秘密裏に進められていた。レンを軍隊に入れることで、父親は見返りにいくらかの金銭を受け取ったのだと聞いた。
 最後まで一度も抱き締めてはくれなかった父親は、最後の日も姿を見せなかった。迎えに来た軍のジープを背後に、その生まれ育った片田舎の家を見上げ、隣家の娘に抱き締められながら、レンは初めて声を上げて泣いた。明らかに体よく厄介払いされるのだと分かるその様子に、迎えに来た兵士達は、大きな掌でレンの明るい金髪をくしゃくしゃにして、ジープの上に抱き上げると優しく抱き締めてくれた。


 レンという名前が嫌いだ。
 はっきりとそう認識するようになったのは、養成所に入り、また成長期に入り急速に身も心も変化し始めた頃だった。
 金髪碧眼という外見は、幸い父親には似ていない。過去に写真で見た限り、どうやら祖父から受け継いだもののようだ。
 だが「蓮」というこの名前は、父親がつけたものだった。思い出したいとは到底思えないその存在につながる名前が、レンは次第に忌々しくなった。
 あんたが大嫌いだ。
 訓練で死ぬほどくたびれ果てた夜、殺風景な宿舎の片隅で、暗い感情を抑えることができず、心の中で何度もそう呟いた。
 父親は妻を憎むがゆえに、レンを憎悪した。だが父親は、それでも彼女を愛していた。愛するがゆえに、いつまでも憎悪から解放されることがなかった。
 ​​​──自分もそれと同じなのだ。
 一度でいいから抱き締めてほしかった。たくさんの人達からあふれるほどの愛情を与えられてはいたが、最も欲しかった人達からの愛情だけは得られなかった。
 母親はなぜ自分を捨てたのか。愛せないなら産まなければよかったのに。あんた達が大嫌いだ。でも何よりも許せないのは、与えられることはないと分かっていながら、まだあんた達からの愛情に焦がれている自分自身だ。
 自分の存在と自分の名前を憎みながら、レンは暗い部屋で膝を抱えて、まわりを起こさないように、声を殺して泣いた。


 いわゆる性の対象としての男を知ったのは、軍の宿舎でだった。
 レンが放り込まれたところは基地と養成施設が併設されており、訓練兵も兵士も大きな宿舎でまとめて生活していた。
 女性が圧倒的に少ない世界であるから、まあ必然というものだったのかもしれない。幼いほどに若く、また常に明るく人なつっこく愛嬌にあふれたレンを、周囲が放っておくわけがなかった。軍属の女性達や数少ない女性兵士達もレンを甘やかし、愛したが、それ以上に男達もレンに構った。
 訓練は厳しく、座学も慣れない知識に頭が破裂しそうで、毎日死ぬほどへとへとにくたびれたが、それでもレンはそこでの生活自体はそれほど嫌ではなかった。「そういう行為」となると、疲れも吹き飛んでやる気がわいてくるのが不思議だった。
「おまえ、可愛いなあ」
 初めて男に性的な意味で抱き締められたとき、相手の若い男はしみじみとそう言った。女性にも普通に人気のある、ゲルマン系の整った顔立ちの男は、男女の別にこだわらず、相手を気に入れば気軽にベッドを共にしているようだった。
「へへ。そう?」
 可愛い、とは、昔からしばしば言われていたので、レンは抵抗もなく受け入れて笑った。
 もともと穏やかで見ているだけで気持ちがほぐれてくるような顔が、笑うとさらに無垢に愛らしくなる。レンを愛する人々は皆、その眩しいばかりに素直な笑顔に魅せられているといっても過言ではなかった。だからレンが笑うところを見たくてあれこれ世話を焼くし、レンが落ち込んでいれば、なんとか慰めようとする。
 肌と身体が硬く、そして身体も大きく体重も重い男に上にのしかかられることに、レンも最初は戸惑いがあったが、知識だけはあったから、わりあいにすぐ慣れた。なんといっても、男同士というのは互いに相手がどこをどうされるのが好きなのか、異性相手よりも数倍飲み込みが早い。
 慈しむように全身に与えられる甘い愛撫に、レンはあっという間に蕩けて喘ぎ声を上げた。その男は階級が高めで、個室を与えられていたせいもあり、レンは遠慮なく乱れて快楽にうち震えた。
 たやすく達してしまい、甘い汗にまみれた瑞々しい身体をぐったりさせているレンに、男が低い声で囁きかけた。
「レン、おまえさ。誰かを殺す前に、早くこっから逃げろよ?」
「へ……?」
「あんまり正反対だろ、おまえとここじゃ。殺しちまったらさ、もう絶対それ、消えないから」
「……でも、逃げるたって、そんなカンタンにできないだろ」
「そりゃあな。でもおまえには似合わねぇよ。見たくもねえし」
 汗の浮いた額に優しくキスをされ、それから今度はレンから奉仕するよう求められた。
 最初はまったく抵抗がないわけではなかったが、自分の愛撫で相手が快楽を得てくれることに、そしてそれを喜んでくれることに、次第に嬉しさと喜びが生まれてきた。基本的に、相手が男だろうと女だろうと、抱き締めて身体を交えることの根は変わらないのだと思った。

 次第にレンは、片田舎の家でのことを思い出さなくなった。毎日訓練に追い回され、余暇があれば仲間達とバカ騒ぎをして、煙草も酒もここで覚えた。毎日誰と誰がくっついたの別れたの喧嘩したの、誰を好きだの嫌いだの、流行りのあれこれの話題だの、一夜の甘い夢を見ることやパーティだの何だのに忙しかった。
 時折無性に帰りたいと思うその家の光景を、隣家の優しかった娘が懐かしいせいだと思い込むようにした。いつしか記憶にあるその家は、やけに明るく優しく見えるようになっていった。


 一通りの訓練を終えたレンは、そのときちょっとした小競り合いが続いていた中東方面に送られた。そのときに限らず、昔からこの地域は、年中行事のように何かしらのトラブルが起きていた。
 一度目の派兵は、幸い後方待機で実際の交戦に立ち会うことなく、じきに帰還した。
 その次に送られた戦地でのことを、レンはあまりはっきりと覚えていない。覚えているのは、鼓膜が破れそうな轟音と、誰かの上げる絶叫、そして強烈なあらゆる臭いだ。様々なものの焼ける臭い、硝煙の臭い、生き物の燃える臭い、人間の中身の臭い。
 戦禍のために廃墟と化したかつての市街地を哨戒中に、ゲリラ部隊と思わぬ遭遇をしたレンの属する小隊は、混乱に陥りながら撤退した。
 必死に逃げながら、レンはすぐ隣にいた男が散弾を浴びて倒れるのを見た。甘い物や煙草をしばしば分けてくれ、笑いながら頭をよく撫でてくれた、本国に可愛い妻子が待っているという気の良い男だった。彼が盾になったおかげで自分が助かったのだ、ということを、すぐに理解した。
 続く極度の緊張と、全身にその男の破片と血を浴びたことで、レンの神経はそこでブツリと焼き切れた。
 混乱状態の中で、初めて人を撃った。煙と土埃で視界がひどく悪くて、それが相手に当たったのかは分からない。呻き声が聞こえたから、当たったのだろうとは思った。
 自分が生きるために邪魔なものに武器を向け、相手の生死も確認しないまま、ひたすら走った。どこをどう通ったのかも分からないうちに、気が付いたら仲間たちに保護されていた。
 レン自身もいつの間にかかなりの怪我を負っており、療養のために本国に送り返された。

 軍の付属病院で過ごした期間も、レンはあまり覚えていない。ただひたすら自分を抱えて震え、何かひどく恐ろしい夢を見て悲鳴を上げては泣いていたことしか、後になっても思い出せなかった。


 三度目の派兵が決まったとき、レンは取るものもとりあえず逃げ出した。もうごめんだ、と思った。捕まって連れ戻された後のことなど考えもしなかった。
 どこにも逃げ場のない頭に浮かんだのは、この国を出ることだった。
 だけれど、どこに行けばいいのか。考えるなり浮かんできたのは、かつて母が住んでいたという、極東の島国だった。
 愛しいのか憎いのか分からないその国。そしてその国には、不思議な場所があるという。その国にありながらその国ではない、廃墟と化し閉ざされたかつての首都。「廃都」と呼ばれる場所。その国からだけではなく、世界のあちらこちらから、行き場にあぶれた人間達が集まっているという、荒廃し退廃した街。
 その国の中にあるその場所が、なぜかレンにはたまらない甘さを覚える場所であるように思えた。そこに行ってみたい誘惑に、激しくかられた。
 その国に行ったところで、そんな場所にそう簡単に足を踏み入れることはできないだろう。そもそも、その国まで辿り着けるかどうかすらあやしい。
 それでも、まるで恋焦がれるように、レンは廃都に惹きつけられた。
 身体ひとつ、心ひとつで、昔から他に何も持たないからだろうか。
 その極東の島国の中にある、混沌極まる廃墟の都市でなら、自分の居場所が見つかるかもしれない。愛情を求めて常に彷徨っている自分でも、そんな社会の則から切り離された場所でなら、法も則も越えて、誰かが強くつかまえてくれるかもしれない。
 その極東の島国へ向かう貨物船が物資補給のため寄港する港を、レンはひたすら真っ直ぐ目指した。
 なけなしの金をほぼ使い果たしたところで、やっと港に着いた。警備員達の目をかいくぐって桟橋に近付き、そして今まさに出航しつつある沖合いの貨物船と、そこへ向かって漕ぎ出したボートを見た。
 季節は真冬。
 夜の海は真っ黒で恐ろしくうねっているように見え、そこに飛び込んで無事にいられるという保障は何一つなかった。一瞬だけ躊躇い、レンは大きく息を吸い込んで、助走をつけて一気に海に飛び込んだ。

       ◇

 砂浜が真っ白に見えるほど照りつける陽射しの下で、携帯電話がずっと鳴っていることにやっと気付き、レンはハーフパンツのポケットから取り出した。海水浴に訪れた者達の嬌声と波音とで、意外に周囲は騒がしい。
「はいはい俺っ。……あれ、サトシさん? ひっさしぶりー」
 日陰を求めてビーチパラソルの陰に移動したその腰に、一緒にいたレンよりいくらか年上の女が、悪戯するように日焼けした腕をからめてくる。その身体を片腕で抱き返してやりながら、レンは電話の向こうの相手と会話を続けた。
「うんうん。こっちは元気ー。バイト楽しいよー、キレイなおねーちゃんイッパイだし。……うん、今は休憩中。つーかコッチ暑すぎね? 死ぬわ毎日こんなんじゃさぁ。……うん? て、え? こっち来んの? これから?」
 その言葉に、レンにしなだれかかっていた女が、窺うようにその顔を見上げる。常に朗らかなレンの表情が、いつになく真面目なものになっているのを見て、レンにちょっかいをかけようとしていた手を止める。
「……うん。うん。大丈夫、そっちに合わせるから。つか、声ひどいよ? 俺がそっち行こうか? ……いやまあ、そりゃそうだけど。……ん、わかった。じゃ、また後でね」
 そんなことを喋って、レンは通話を終わらせる。じっと自分を見上げている女の視線に気付き、たった今までの真面目な表情が嘘のように、にこやかな顔になる。そして彼女の頬にキスをした。
「話し込んじゃってゴメン。ちょっと大事な人からの電話だったからさ」
「いーよー。てか、レンもそんな真面目な顔できるんだね。ちょっとカッコよかったかも」
「えー、なんだよそれ。いつもカッコいいっしょ、俺?」
「バッカじゃないの。チョーシ乗りすぎ」
 思わずのように女がレンの腕を叩いてケラケラ笑い、レンも一緒になって笑い出す。そしてあらためて露出の高い格好の彼女を両腕に抱き締めて、耳元に口付けながら囁きかけた。
「んなこといってさあ。俺にめっちゃホレてんの知ってんだけどなー」
「それとあんたが馬鹿なことは別よ」
 強気に笑いながら女が言い返し、くすぐったそうに丸い剥き出しの肩をすくめる。それから少しばかり物陰に移動して、二人は互いの唇を求め合った。甘い恋人同士そのもののように。


 いわゆる海の家で泊り込みのバイトをしてその夏を過ごしていたレンは、女の誘いのままに、いつものように彼女の泊まるホテルを訪れた。ちょっと予定があるからと、少しばかり遅めの時間になってからの訪問だったが、若い二人が互いを求め合うには充分だった。
「あとどれくらいコッチにいるっていったっけ?」
 一通り楽しんだ後、ベッドに寝転がったまま煙草に火をつけて一服しつつ、レンが尋ねた。
「あと三日かな。どうして?」
 豊かな胸元を隠そうともせずに、その隣に同じように寝転がった女が聞き返すと、レンは悪びれた様子もなく笑って言った。
「んー。じゃ、明日もっかい会お。俺、急用入っちゃってさ。明日の夜にはコッチ引き払うことになったの」
「どうしたの、急に? バイトは?」
 少し驚いたように女が言った。
「俊さんが代わりの人入れてくれるって。あ、俊さんて、用事の相手の人なんだけどさ。あの人が代わりを入れてくれるって、どんなんだよって。ヤクザなおにーちゃんが来るのかなあ」
 想像したらおかしくて仕方がないのか、レンはけらけら笑っている。
 長い金髪に覆われたその肩から背中に、女は横たわったままそっと掌を這わせた。
「……よっぽどなのね。あんたは馬鹿だけど、いい加減な子じゃないと思ってるから。どこに行くのって、聞いてもいい?」
「んー。廃都?」
 煙草を咥えながらあっさりと言ったレンに、女が目を丸くした。思わずのように飛び起きる。
「廃都? ……ええぇ? 嘘っ?」
「嘘じゃないよー。まあ、すぐってわけじゃないけどねぇ。イロイロ準備いるしさ」
「何しにいくのよ、そんなところに」
 WW3による激しい戦禍で、今では廃墟と化したかつてのこの国の首都。周囲をぐるりと鉄条網に囲われ、軍の厳重な監視下に置かれて閉鎖されている街。
 そこはあらゆる場所から流入してくるならず者達の巣窟となっており、まさに混沌とした治外法権の無法地帯と化している。まっとうな人間なら近付こうとすら思わない、超一級危険区域だった。異国人であるレンはそれを知らないのかと思ったが、笑顔の中の瞳の奥が真面目な光を帯びているのを見て、女はそうではないと悟った。
「ちょっとね。人捜し」
 レンはそれだけ言って、短くなった煙草を枕元の灰皿でもみ消した。
「人捜しって……あんなところで?」
「あんなところだから、かなぁ。いやどんなトコか知らないけどさ、俺も」
 底抜けに明るく笑っているレンを見つめながら、女がやがてひとつ息を落とした。
「レン。あんた、いくつ?」
「俺? えっと、今十七? 今年で十八なるよ」
「そっか。まだまだ若いわねぇ」
 女は笑うと、レンに抱き付いてベッドに倒れ込んだ。レンの金髪に覆われた頭を胸元に引き寄せるようにして、そのやわらかな手触りの髪を優しく梳く。
「無茶するんじゃないわよ?」
「どうかなあ。しないつもり」
 引き寄せられたまま、レンは心地良さげに彼女に身を任せる。甘えるようにそのまま目を閉じたレンに、彼女はまた笑った。少しばかり仕方なさそうに。
「……ねえレン。あんたはね、いつか、きっと運命の相手っていうのに出会うよ」
「へ?」
 耳元に優しく降ってきた声に、レンは聞き慣れない言葉を聞いたように青い瞳を持ち上げた。ふふ、と女はそれを間近から見つめ返して微笑む。
「そんな気がする。一目であんたの全部を、まるごと持っていっちゃうような誰かにさ。そういう相手に会ったら、きっとあんたは、愛だの恋だのっていうのも全部超えたところで、全力でその誰かを想うんだろうなって気がする」
「そうなの?」
 きょとんとしているレンに、女は愛しげにその金色の額髪を梳いた。
「そうよ。だから今はまだ、そんなにフラフラ定まらないのよ」
 あふれるほどに豊かな愛情を持っていながら、それをこれという誰かに向けることなく。レンという器の中にあるその深く尽きない海のような愛情は、レンという人間の核になりながら、周囲にいる者達を魅了しながら、ただ一人に向かって解放されるときを待っている。そんなふうに彼女は思った。
「だから、ね。そういう相手に会うまでに、たくさん愛して愛されて、うんといい男になっておきなさい」
 額に口付けられ、レンが不満そうに言った。
「えー。今だって充分いい男でしょー?」
「馬鹿ね。今よりもっとよ」
 そして彼女はレンの唇に唇を寄せた。レンもそれに応えて、彼女の身体を抱き寄せる。
 戯れあうように笑いながら、二人はまた互いだけの世界に戻った。束の間の、けれど嘘偽りのない愛情と、いくらかの感傷をスパイスに。

       ◇

「うっわ。すげーな」
 突き抜けるように青く高い晴天の下。逆に暗く深くどこまでも陰鬱に沈んでゆくような灰色の巨大な街を遠くに見て、レンは思わず声を上げた。
 かつてはこの国の首都だったという、今では廃都と呼ばれる場所。レンが生まれるよりも前に一度滅び、混沌を内包し歪な形で再び甦った都市は、まるで巨大な街そのものの墓標のように、沈黙と共に何本もの廃墟と化したビルを聳えさせている。
 俊、という名の男のたっての頼みで、レンはこの場所を訪れていた。まだだいぶ視界の先にある灰色のそこは、しかし遠目にも圧倒されてしまうような、底知れない迫力がある。
 海を越えてこの国を訪れたとき、レンは正真正銘の密入国者だった。WW3を経て、昔に比べるとだいぶこの国も荒れて治安が悪くなったらしいが、それでもパスポートも在留証明書もないレンには、大手を振って歩けるような状態ではなかった。
 俊とは、そんな迷子のようなレンの世話を何かと焼いてくれた男だ。レンをこの国に連れて来てくれたオンボロの貨物船から、いかにも人目を忍んでロープを伝って降りたところを、やはりいかにも人目を忍んでいる様子の俊とバッタリ遭遇した。
 俊はいわゆるジャパニーズマフィア、この国で言うところのヤクザという存在のようなものなのだと、レンは認識している。
 人目を忍んでいた者同士の遭遇は、物怖じせず人なつっこいレンの性分ゆえに、歳の離れた友人関係へと繋がった。黒尽くめにサングラスにいかにもな強面の俊だったが、兄貴体質なようで面倒見が良く、まさしく身ひとつでこの国に飛び込んできた無鉄砲で無茶な金髪の少年を、彼の方でも放っておけなかったようだった。
 俊はどこからどうやって工面してきたのか、レンにある程度の資金とパスポートと在留証明書を渡して、少なくとも当面おとなしく生活していく分には充分すぎる環境を用意してくれた。
 無論違法に発行されたもの、あるいは偽造されたものであるのは間違いなく、レンは最初、下手をすれば俊まで犯罪者として巻き込むことになるそのすべてを頑なに拒んだ。が、俊の方も頑として聞き入れなかった。「足がつくような真似をするほど私が無能だとでも」と低い声で言われて、レンはほとんど脅迫されるように、けれど心からありがたく、それらを受け取った。
 そのうちこの国にも慣れてきて、各地を気ままに渡り歩くようになったレンだが、そういった経緯から、未だに俊との交流は続いていた。俊は恩を売るような気配すら見せることはなかったが、この国に来て最も困窮していた時期を助けてくれた彼に、何かあればレンはいくらでも力を貸すつもりでいた。
 その俊からのたっての頼みとあれば、断る理由はない。それがたとえ、この廃都という暗く固く閉ざされた場所から、たった一人の人間を、しかも生死さえ定かではない人間を見つけ出してくれ​​​、というものであっても。
 久し振りに俊から電話を受けたとき、その声があまりに憔悴していたので、レンは驚いた。相談したいことがある、と俊に呼び出され、数ヶ月振りに顔を見て、さらに驚いた。動揺するところなど想像もできないと思っていた俊は、明らかにやつれていた。身だしなみに隙はひとつもなく、サングラスの下の表情も変わらずいかめしいままだったが、それがいっそうレンには痛々しく見えた。
 俊はレンに、自分の長く仕えているボスの息子を探し出してほしいのだと依頼した。彼はまるで自分の罪を懺悔するように、レンにそれを告げた。
 二ヶ月ほど前にその少年を、ボスの命令で廃都に連れて行ったこと。しかし何不自由ない暮らしをしていたごく普通の少年が、いきなり廃都などに一人で放り込まれて生きていけるとは思えず、下手に苦しませるくらいならばと思い余ってその命を絶とうとしたこと。しかし結局、それはできなかったということ。
 当時は俊自身にも監視がつけられ、まさに命じられたその足で少年を迎えに行き、廃都に連れ去るしかなかった。そして俊にとって、身寄りのない少年の頃から世話になっていたボスはまさに親以上の存在であり、その存在と命令は絶対だった。
 なぜその時助けてやらなかったのか、と責めることは、俊の告白と憔悴を前に、レンにはできなかった。俊もまた、因果で特殊な世界に生きているのだとレンは悟った。
 だがその因果な世界の中で苦しみながら、それこそ一縷の希望にすがるようにレンに助けを求めてきた。それは他ならぬボスに絶対に気取られないための人選でもあったろうが、この国に来る以前の経験を、そしてたった一人で海を越えてこの国に飛び込んできたレンの行動力を買ってのことでもあるだろう。
 もともと断るつもりなど微塵もなかった。だが理由と俊の心を聞いて、レンは決意した。生死についてはなんとも言えないが、必ずその少年の消息を突き止める、と。
 かつての首都だっただけに、廃都と呼ばれるその場所の規模は広大だった。そのすべてに人間が居住しているわけではないが、「こちら側」に比べて廃都の中は人の心も生活環境も大きく荒れ果てており、情報収集にしろ一筋縄ではいかない。それこそあの広大極まる滅びた都市の中で、自分の足で集める他にないだろう。移動するだけでも一苦労に違いない。まして安否すら分からない相手では、正直なところ気の遠くなるような話だった。
 どれほどの時間がかかるのかも分からず、話を聞いた時点で、レンは廃都に居住し、腰を据えてかかる覚悟を固めていた。


 その灰色の都市の姿を、今レンは青空の下に眺めている。
 かつてひそかに憧れたこの場所に、こんな形で訪れることになるとは思わなかった。それなりに様々な経験はしてきたつもりだが、そこは今までレンの見たことのない、遭遇したこともない物事で埋め尽くされているはずだ。無法地帯であるというそこでそれらを捌いて、まず自分が生きていけなければ話にならない。
 だがレンは、まったく楽観的に構えていた。そこがどんな場所であれ、人がいて生きている以上、なんとかやっていけるだろう。
 レンは携帯電話を取り出して、俊を呼び出した。ワンコールでそれはすぐにつながった。
「あ、俊さん?……うん、俺。これから入るから。ちゃんと兵隊さん達に話ついてんでしょうねー? いきなり撃ち殺されるとかヤだよ俺。……うん、わかってるって。大丈夫、まかせときな。ぜってー俺がなんとかしてやっからさ」
 軽く笑いながら、通話を切った。携帯電話をポケットにしまい込み、歩き出す。
 あのいかにも危険極まる灰色の街の中で、何があるのか分からない。だがきっと、そこには魂を揺さぶられるような何かがあるに違いない。
 状況も忘れて、レンは自分の気持ちがかつてないほどうきうきと高揚しているのを感じた。
 あそこで何を知り、見ることになるにせよ、きっと自分はこの街を訪れたことを後悔しない。
 高く澄んだ青空の下、その都市はどこまでも灰色に視界を埋め尽くしていた。


(了)

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