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「……うん?」
 ガタつく粗末な木製テーブルの上で煌めいた銀色に、サクは黒い瞳をとめた。
 脚の長さの揃っていないテーブルは、この部屋の主であるレンが、拾ったのか買ったのか知らないが適当に入手してきたものらしい。
 街全体が巨大な廃墟であるここでは、慢性的に日々の生活に必要なあらゆるモノが不足している。テーブルひとつ、椅子ひとつでも、あればマシであって、使い勝手だのデザインだのに贅沢は言えない。勿論、「外」の世界から比べれば法外としか言いようのない対価を支払えるだけの人間ならば、いくらでも良い品を手に入れられるが。
 ともあれ、表面が傷だらけの古びたテーブルの上に無造作に転がっていた銀色の小さなものは、サクの目をひいた。白い指がその銀色に伸び、人差し指と親指の腹に挟んで、目の高さに持ち上げる。
 風通しの良い大きな窓からの陽光を受けて、銀色のそれ​​​──レンがいつも嵌めているシルバーリングが、サクの指の間で煌めいた。黒い瞳がゆっくり瞬き、硝子のように透明な虹彩が、窓にかざした銀の指輪を映し出した。
 ころん、と掌の上で指輪を転がしてみる。
 サクよりもかなり上背の高いレンは、比例して手足も大きく、掌の上で転がった銀色の指輪は、レンの指から外れるとあらためて大きなサイズに見えた。黒ずんだ十字がひとつだけ刻まれた指輪は肉厚で、シンプルだ。かなりの年期が入っているのか、シルバーの煌めきとくすみと細かな疵が、良い具合に味を出している。
 サクは指輪を掌に乗せたまま、奥のシャワールームを見た。
 このコンクリート剥き出しの殺風景な部屋は、玄関からシンクから奥の窓辺にあるベッドまで一望でき、間仕切りも何もない。そこらのビル同様に廃墟と大差ない外観の建物ではあるが、蛍光灯は切れているものの電気はきており、水道も通っているから、環境はそう悪くはない。「廃都」のわりには。
 この指輪の持ち主であるレンは、さっき仕事から帰ってきて、奥にある水しか出ないシャワーを浴びていた。ドアに遮られてよく聞き取れないが、機嫌良さそうに何か英語で歌っているのが聞こえてくる。普段のレンが機嫌が悪そうなところなどまず見ないので、その明るくどこか甘い歌声も、いつも通りのことではあった。
 レンは「配達屋」という仕事柄、埃っぽい廃墟の街の中をひたすら単車で移動しているので、陽射しが強さを増してきた最近は、帰ってきたらまずシャワーを使う。初夏になりつつあるとはいえ、水のシャワーはサクにはまだかなり冷たい。しかしやたらと活発で代謝も良いらしいレンは、頭から水を浴びても、いつも元気な大型犬のように平気な顔をしていた。
 そのうち狭苦しいシャワールームから、レンがぱたぱたと水滴を落としながら出てきた。サクより大柄で逞しい身体は、抜けるように白い肌色のサクとは対照的に、まるで真夏の申し子のように健康的に日焼けしている。陽の光をとかし込んだような金髪と、抜けるような青空の色をした瞳が、余計にそんな連想をさせる。
「およ。どした、サク?」
 水滴の伝う真っ裸にタオルを引っかけただけの格好で、大股にシャワールームから裸足で歩いてきたレンが、テーブルの前に佇んだままのサクに声をかけた。呼ばれて見返ったサクの艶やかな長めの黒髪が、空気を孕んで揺れた。
 サクを見るレンの屈託のない青い瞳は、いつも何がそんなに楽しいのかと思ってしまうほど、真っ直ぐに生き生きとしている。そんなレンを、サクはふわりと降りた霜のように静かに淡白に見返した。
「これ……」
「ん。指輪?」
 と、サクの掌に乗った指輪にレンが気付く。その締まった背の中程まである長い金髪が、焼けた肌に水を吸って張り付いており、サクは黒い眉を軽く寄せた。
「早くちゃんと拭けよ。風邪ひくぞ」
「あいあい」
「これ、おまえの指輪だよな?」
 わしわしと頭を拭き始めたレンに、サクは問いかけた。
「そーよ。カッコイイっしょ?」
「まあ……悪くはないかな」
 サクはなんとなく、自分の左の中指に銀色の指輪を通してみた。骨格から体型が違うとはいえ、サクの関節さえ脆そうな細い指には、レンの指輪はぶかぶかだった。
「あれ」
 これじゃすぐ外れるな、と指から抜いたところで、サクはふと、指輪の内側に刻まれた文字を見つけた。
 いくつか並んだ文字はイニシャルのようだが、レンの名前を示すアルファベットは含まれていない。
 指輪の内側を覗き込むようにしているサクに気付いたのか、レンが濡れた頭を拭いていた手を止めた。異国の血を物語る明るく青い瞳が、小さく笑った。
「それ、もらいもんなのよ。だいぶ昔にさ」
「もらいもの?」
「ステイツの基地にいた頃な。もらったときは、けっこゆるゆるでさ。いつの間にかぴったりになってたなぁ」
 レンは濡れた髪を広い肩の片側にまとめて束ね、まだ水滴のついていた長くバランスの良い手脚を拭きながら続けた。
「基地にいた頃さ、早くこっから逃げろよ、って俺に言ってくれた人がいたのよ。それがまた、カッコイイ人でさあ。その人がその指輪してて、それかっこいいなーて言ったらくれたんだ。それから、なんとなく嵌めてるの。あやかりたいっつーか、なんとなく縁起モノみたいな?」
「基地ってことは、その人も軍人?」
「そそ。今頃どうしてっかなぁ、あの人。元気でやってるといいんだけど」
 言いながら身体を拭いているレンを眺め、サクは掌の上の指輪に目を戻した。
 遠い海の向こうの国で、サクの知らない誰かの指からサクの知らない頃のレンの指に渡り、それからずっとレンと共にあった指輪。そして、レンと共に海を渡ってここまで来た指輪。
 この指輪の元々の持ち主も、軍人だという。だとすれば、基地にいた頃のレンに「ここから逃げろ」と言ったその誰かは、元気でいるかもしれないが、もしかしたら今はもう生きていない可能性もあった。
「……いいんじゃない。お守りみたいで」
 掌で転がったシルバーリングは、変わらずに優しい光を反射している。
 ちり、と、サクの右の耳朶が一瞬熱くなった気がした。そこに嵌まったものを、銀色の指輪を眺めながら思い出した。
 サク自身が殺した者達の生き血にまみれ、サク自身の流した血と混ざり合って凝固したような、右の耳朶にひとつだけ嵌まった深紅のガーネットのピアス。
 自分の纏う色と、レンを守り慈しみ包む光は、いつも正反対に違う。それは、レンの持つ明るい光でもあった。サクが憧れ、惹かれてやまない、サク自身とはあまりにかけ離れたもの。
 指先で摘まんだ指輪を、サクは口元に持っていった。唇を開き、かつ、と固い金属に白い歯を立てた。
「あ。こらこら何してんだ。食べちゃダメでしょ、そんなん」
 それを見たレンが、傍に寄ってきた。それほど強く噛んだわけでもない。指輪には、これといって疵もついていなかった。
 黙って指先で摘まんだ指輪を見つめているサクに、レンが首を傾げた。レンはしばらく不思議そうにしていたが、やがてにっこりと笑うと、前触れなくサクを抱き締めた。
「ん」
「なーサク。しよ?」
 いきなり耳朶を悪戯するように甘噛みされ、サクは思わず首をすくめた。先程水を浴びたばかりだというのに、両腕で抱き締めてくるレンの体温は、やはり子供のように高かった。
「……おまえは、本ッ当に寄ると触るとそれだな」
「えー。いいじゃん、せっかくシゴト早く終わったんだしさー。めいっぱいしたい」
 サクがやや呆れながらも拒否はしないでいると、レンは悪びれもせずに、敏感な耳元や頬や首筋に唇を押し当ててきた。
 レンの無邪気なほど天真爛漫な笑顔と、それと不釣り合いに官能的な仕種に、サクはたちまちその胸に凭れて吐息を潤ませた。直にふれる肌同士の感触や、薄いシャツを通して伝わってくるレンの体温に、サクの体温も甘く上昇して眩暈がする。
「……まぁ、いいけど」
 言いながら、サクからも首を曲げて、レンの心地良い唇を求めた。


 自分の下腹に入り込み脈打つものを締め付けながら、サクは幾度も細い喉を震わせてのけぞる。ベッドのすぐ脇にある大きな窓からは高い青空が見え、落ちてくる陽光が、サクのしなやかな裸身を白く眩しいほど照らし出していた。
 レンと肌を重ねることは、とろけそうなほど気持ちが良くて、指先まで溺れ込んで止まらない。呼吸さえ忘れてしまいそうなほど、たまらなく甘く熱い。いくら求めても足りず、サクはレンの熱い腰に、自分からも何度も腰を押しつけて揺すった。
 やがて駆け上がるままに短い悲鳴を上げながら達し、強い快楽の余韻に痺れてぐったりと喘ぐ。透き通るような、けれど刻まれた無数の傷痕が薄く散るサクの肌は、しっとりと汗に濡れて光っていた。
 真昼から戯れたベッドはすっかり乱れ、幾度も達してさすがにどちらもぐったりした後も、まだ空は明るかった。
 サクは眠気に引きずられ、くしゃくしゃになったシーツに頬を預けていたが、ふと、目の前に投げ出されていたレンの手に白い瞼を揺らめかせた。サクの身体をさんざん愛撫したその指には、あのシルバーリングが元通り嵌まっていた。
 サクは無意識に手を伸ばし、レンの手を抱き込むように引き寄せた。半ば夢うつつに、レンの指に口付ける。レンの指と、そこに嵌まった指輪に。
「サク?」
 ぐったりしつつも、サクよりは多少余裕のあったレンが、そんなサクの仕種に首を傾げた。
 サクは眠くて、レンに言葉を返す余力がなかった。ただ繰り返し、抱き込むようにしたレンの手に、指輪ごとキスを繰り返した。
 ​​​──レンを守ってくれますように。この先もずっと。
 自分の痕は、一緒に刻むことはできなかったけれど。それが少し寂しく悔しいけれど、きっとそれで良いのだ。
 刻めなかった分、誰よりも強く祈ろう。どうかレンを守れますように。レンが幸せでありますように。この先もずっと、レンが笑っていてくれますように。そんなレンの傍に、一秒でも長く一緒にいられますように。
 夢うつつのうちに、サクは優しく髪を撫でられた。
 それがあまりに心地良く、サクはそのままあっさりと、気だるく穏やかな眠りの誘いに意識を明け渡した。引き寄せたあたたかな指に、柔らかな唇をふれさせたままで。


(了)

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