一章 終の涯(二)

 けむるようにあおい海辺に広がるその街では、ひとつの季節が緩やかに長い。
 現世うつしよであれば、たとえば夏が長ければ冬は短いのが常だが、その街においては春も夏も秋も冬も、長さは均等だ。
 太陽と月の巡りが現世とは異なり、一年の区切りも違う。編まれる暦も違う。街は四季折々に美しく彩られるが、天によみされているように、大きな天災が起こる事もない。
 空にある太陽と月は、常に虹色の光輪を纏っていた。空は透明感のある薄い青色ではあるが、これもうっすらとした虹色を帯びている。
 それらの虹色の正体は、空を漂いあらゆるものに精氣を与える霊箔子れいはくしと呼ばれるもの。それは一つ一つはふれることもできない細かな霊的微粒子で、きらきらと輝きながら、この世界を守るように、空の高いところを舞っている。
 ──今この街を彩る季節は、春。
 碧い海辺に広がる街は桜と桃と雪柳に埋め尽くされ、新緑が芽吹き、ほうぼうで春の花が咲き乱れていた。空気は潤んで眠気を誘うように暖かく、水は清澄に小川や水路を走り、風はゆるやかに花々や樹木を洗う。
 春陽のもとに祝福されたかのようなその街は、今日も「人ならぬもの達」によって、賑やかに活気付いていた。


 様々な店が軒を連ね、行きずりの旅客から街の住人まで幅広く利用する大通りには、いつもと同じように様々な姿形の者達が行き交っている。
 道行く者達の背格好は、文字通り様々だ。「人間」そのものの姿の者もいれば、毛皮を持つ獣が衣服を着込んでいるような姿の者、立ち上がった爬虫類のように見える者もいる。角のある者、背に翼を持つ者、鱗を持つ者……人間達からは「物の怪」や「妖怪」、「妖」あるいは「神」などと呼ばれる者達が、この街の主だった住人達である。
 多くの妖達は、この街にいる間は出来る限り「人の形」を取る。元々人型の妖も多いことに合わせ、街の建物や設備が、人型である方が利用しやすいよう造られている為だ。
 また妖達は、「人の姿」を取ることで本来の妖力をある程度抑えられるという傾向がある。
 この街の主たる存在が、この街においては一切の争いごと、乱暴狼藉を禁止しており、人型を原則とすることは力ある妖達への牽制でもあった。

「──あら。夜光?」
 賑わう大通りに面した、甘味処の店先。緋色の布を張った長椅子に腰を下ろし、細い足をぷらぷらさせていた黒髪の娘が、琥珀色の瞳を瞬いた。
 艶やかな黒髪をゆるく結い上げ、金の簪を挿したその頭部には、三角型の獣耳が生えている。身につけているのは、撫子の刺繍をあしらった薄紅の着物。ぷるりと艶のある薄桃色の唇が華やかで、瞳の大きな可憐な娘だった。
 その愛らしい唇で、手にしていた林檎飴を一口かじってから、ひょいと立ち上がる。賑やかに行き交う人々の間を、すいすいと縫ってゆく。
「やっぱり夜光だ。お久し振りね」
 その呼びかけに、行き交う者達の中にいた一人が足を止めた。落ち着いた牡丹鼠ぼたんねず色の長着をきっちりと着こなした、身体つきの薄い若者が振り返る。肩口で切り揃えられた乳白色の髪が、ふわりと春風をはらんだ。
鏡花きょうかさん。こんにちは」
 若者──夜光が、透き通る紫の瞳を娘の上に留め、線の細い白い面輪を品良く微笑ませた。
 鏡花、と呼ばれた娘はいそいそと高下駄を鳴らして、夜光に近付いていく。
「こんにちはぁ、夜光。元気にしてた?」
「私は相変わらずです。鏡花さんもお変わりなく」
 夜光のいらえに、鏡花は小さな肩を竦めるようにして、その顔を意味深に覗き込んだ。
「なんだか、また一段と綺麗になったんじゃない? よく名前を聞くわよ、最玉楼さいぎょくろうのとっておきの人気の『花』といえば夜光、って。近頃じゃ、会いたくてもなかなか会えないそうじゃないの」
 冗談めかしたようにも本気のようにも見える眼差しを受け、夜光はふわりと微笑んだまま首を傾げる。穏やかな春陽を受けた髪が真珠色の艶を帯び、ほっそりした首筋の横をさらりと流れた。
「そんなことはありませんよ。でも、貴女に褒めていただけるのは嬉しいです」
「あらぁ? 珍しいじゃない、夜光がお世辞を言うなんて」
 鏡花が瞳をきらめかせ、しなだれかかるように夜光の腕に抱きついた。急にかけられた体重をやんわりと受け止め、夜光は口調を変えずに答えた。
「お世辞ではありませんよ。同業である貴女の目は厳しいでしょうから。その貴女に認めていただけたのなら、私もまずまずだなと思えますので」
「ふぅん。ま、あんたのそういう真面目なところ、嫌いじゃないけどね。ねえ、今は時間あるの? 一緒にお昼ごはん食べない?」
「あいにく、用事が済んだらすぐに戻らないといけないんです。今日は仕立屋さんが見える日なので」
「あら、それは残念。あ、そうそう。あのね、今度うちの麗芳楼れいほうろうでお花見があるの。夜光も来てよ」
「ありがたいお誘いですが、難しいかと存じます。この時期は、どうしても何かと立て込むので」
 穏やかに答える夜光に、んー、と鏡花は眉間にしわを寄せた。
「分かるけどさぁ。少しくらい羽根を伸ばしても、罰は当たらないと思うわよ?」
「申し訳ありません。なかなかまとまった時間は取りにくいんです」
「んー……もう。仕方ないわねぇ。ほんっと真面目なんだから」
 鏡花は薄桃色の唇を可愛らしく尖らせ、夜光の腕を解放した。琥珀色に煌めく大きな瞳で、鏡花は小首を傾げるように夜光を見上げた。
「それじゃあ、そのうち私が夜光のお座敷に遊びに行くわ。出来るだけ桜が散る前にね」
「ありがとうございます。それではそのときに、一緒に夜桜を眺めましょうか」
「そうするわ。美味しいお菓子とお酒を用意しておいてちょうだい」
 鏡花は可愛らしく笑い、紅い林檎飴をしゃくりと囓りながら夜光に手を振って、道行く人々の流れの中に消えていった。

 去ってゆく鏡花を見届けて、夜光はふうと、小さく一つ息を吐いた。
 止めていた足を再び運び、通りの一角にある小間物店に入ると、要り用だったあれこれの買い物を済ませる。
 他にも何カ所か立ち寄り、用件を済ませると、夜光は元来た方向に戻り始めた。
 歓楽街へと続く朱塗りの楼門が遠くに見え始めたあたりで、夜光はふと、空を見上げた。
 青さと虹色が極光のように混ざりあった、茫洋と美しい空。見上げた空には、様々なものが舞っている。鳥達は勿論、それよりもはるかに大きな翼と身体を持つもの。大きな蛇のような影。ひとりでに、あるいは何かに引かれて走る屋形車や屋形船。それらの行き交う遠くに、小さな鞠のような何かが空中を跳ねていた。
 街の西門の方角から、ぽん、ぽん、と鞠のように宙を渡り、近付いてくる小さな影は二つ。それは軽々と跳ねながら、見る間に夜光のすぐ上空までやってきた。
「やこうー。やーこうーっ」
「夜光ー!」
 ふたつの幼い声が呼びかけてくるのと同時に、ふたつの小さな姿が、夜光めがけてぽんぽんと地上に降りてきた。地に足をつけることなく、夜光の腰の高さあたりに、ふわりと浮いて止まる。
「夜光、大変だよっ」
 どちらも可愛らしい幼子の姿をしていた。ふわふわの兵児帯で留めた、丈の短い色違いの子供用の着物。その頭髪と瞳は、それぞれに燃えるような茜色と、氷雨のような青色をしている。そしてその髪の中にちょこんと覗く、小さな一対の角。
火月かげつ水月みつき。どうしたんです、往来で騒々しい。皆様の迷惑になりますよ」
 柔和な声音と表情ながらも、夜光が赤と青の小鬼達を見下ろしてたしなめた。
「あぅ……ごめんなさい」
 どちらの小鬼も思わずのように身を竦め、しかしこうしてはいられないように、つぶらな瞳を持ち上げた。
「で、でも、急いだ方がいいかもしれないんだ。うろノ浜にね、マレビトが流れ着いてるの」
「え?」
 紫色の瞳を、夜光が瞬く。赤と青の小鬼達は、自分達の言葉に互いに頷き合いながら続けた。
「とりあえず水からは上げたけど、ぼろぼろの甲冑着てて、あちこち傷だらけでね。息をしてないんだ」
「僕らに治癒のチカラはないからダメだけど、夜光なら看てあげられるでしょ。助かるものなら助けてあげてほしいの」
 矢継ぎ早な小鬼たちの言葉に、穏やかだがあまり感情を宿らせない夜光の瞳が、小さくみはられる。胡乱げに、その唇が呟いた。
「人間……ですか?」

 虚ノ浜。
 誰がそう名付けたのか、いつからそう呼ばれているのかも分からないそこは、街の門を出て少しばかり西に歩いた先にある入り江の浜だ。弓状に湾曲した浜辺に、真っ白く細やかな砂が美しい。
 柔らかな春色をした海から、絶えず細波が打ち寄せてくる。その明るい波打ち際に、死体かと思うような姿が倒れていた。
 赤と青の小鬼達に案内され、夜光は足早にそちらに向かう。
 波打ち際にうつ伏せ、死体のように見える姿の傍に、小鬼達が心配そうに降りてゆく。少し遅れて、夜光もその傍らに辿り着いた。
 浜近くまで行く辻車をつかまえ、降りてからはずっと小走りにきたせいで、少し息が切れていた。呼吸を整えながら下げた視線の先に、死んだように青ざめて堅く瞼を閉ざし、長い黒髪をざんばらに散らしてぼろぼろの甲冑を身につけた、力無い姿があった。
 足先まで波が打ち寄せており、夜光は甲冑姿の男を、完全に波の届かない場所まで引っ張り上げた。
「……死んではいない」
 背中に大きな傷はないようであるのを確認してから、慎重に仰向けに返した。その傍らから、赤と青の小鬼が、大きな瞳でそれぞれ心配そうに男の血色を覗き込んだ。
「そのひと、だいじょうぶ?」
「仮死状態のようだね。おかげで水を飲まずにすんだのだろう」
 返す夜光の言葉遣いは、もの柔らかではあるが、人目があるときよりもくだけている。
 夜光のほっそりと白い手が、息を吹き返さない男の頬に伸ばされた。男の血の気の失せた頬は、完全に冷え切っている。甲冑は元々は立派なものであったようだが、細かなところは外れたりちぎれたりしている上に、大きく断ち割られている箇所もあった。
 甲冑に守られてはいるが、身体中についた矢傷や刀傷と思われるものも、浅手には見えない。このまま放っておけば、遠からず死ぬだろう。
 ──いくさか。
 この、とろりと平穏な街には無縁の言葉だ。ここは来るものは拒まずな街だから、厄介事の種はそれなりに燻ってはいるが、守護者の力が強大であるがゆえに、いずれも大事には到らない。何よりここは、他所から侵略を受けるようなこともない。
「最近、マレビトが増えているな……」
 数日前も、海から現れた人間がいたと聞く。それ自体はさして珍しいことでもないが、以前はここまで頻繁にあることでもなかった。
 夜光の呟きを聞いた火月が、「んー」と赤い瞳を空に巡らせた。
「それ、あれだよ。『あっち』の方で不穏なことがいっぱいで、天の氣が乱れてるせいだと思う。って、おさ様が仰ってたよ」
「そういうときは『境』が揺らぐからなあ」
 火月の横から、水月も青い瞳を同じように空に向けた。
 夜光はそれらにどう答えるわけでもなく、目を覚まさない男をじっと見つめた。
「夜光」
 その白磁のように静かな面差しを、ひょい、と水月が伺うように覗き込んだ。
「もしかして、こいつ食べちゃおう、とか考えてる?」
 問いかけられた紫色の瞳が、つ、と水月の上に動いた。ほとんど表情を変えないまま、白い貌がほんのりと微笑を含んだ。
「さあ。それを決めるのは、私ではないからね」
 夜光は横たわる男の上に少々身を乗り出し、頬や唇に張り付いている長い黒髪や砂を軽く払った。何はともあれ、まだ命があるものを、このままにしておくのも寝覚めが悪かった。
「ひとまず息を戻してやろう。せっかくここに流れ着いたのだから。これも、この男の生まれ持った天運だ」
 身を乗り出した夜光が、男のひび割れて冷えた唇に、色の淡い綺麗な唇をふれるかふれないか程度にまで近づけた。
 身の内で練りかためた精氣を、ふぅ、と、やわらかな吐息に乗せて男に吹き込んでやる。
 夜光は医者ではないし、まじないをするわけでもないが、「氣」と呼ばれるものを練って操ることには長けていた。相性によっては功を奏さないこともあるが、それを巧く使えば、他者を癒すことも、その逆を引き起こすこともできる。
 蒼白だった男の顔色が、じきに少しずつ血色を戻し始めた。とはいえ、まだまだ肌色が良いとは言いがたい
 もう一度精氣を練って吐息を吹き込んでやると、じきに男が喉が潰れたような呻きを上げた。かと思うと、急に呼吸が通ったせいだろう、弱々しく咳き込んだ。
「ゆっくり息をして下さい。もう大丈夫ですよ」
 状況を把握できていないだろう男を少しでも落ち着かせてやろうと、夜光は静かに語りかけ、ぐしゃぐしゃに乱れている髪を撫でつけてやる。
 男はしばらく咳き込んでいたが、ようやく薄く瞼を持ち上げた。まだ焦点のはっきり結ばれていない瞳が、難儀そうに宙を彷徨った。
 男の瞳が、間近から覗き込む夜光の顔を見出し、ぴたりとそこで止まった。暗い色の青みがかった瞳に、水鏡のように夜光の姿が映り込んだ。
 男は、やけに驚いたように瞬いた。妙に惚けたような表情をたたえて。
「……ここは……極楽か……?」
 ぽかんとした顔つきのままで、男がしわがれた声を出した。

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