一章 終の涯(十)

栞をはさむ

 おそらく命を絶つための匕首と共に、葵が消えた。
 それを理解した夜光はすぐに部屋を飛び出し、名前を呼びながら探し回った。それを見た芸子の一人が、葵が長着姿で最玉楼を出て行くのを見かけた、と教えてくれた。
「いったいどこに……」
 葵が出て行った時刻から、もうかなり経っていた。この賑やかな終の涯で、どこに行ったのかも分からないたった一人の人間を、自分の足で見付け出すことなどまず不可能だった。
 夜光は部屋に急いで戻ると、葵の使っていた寝床を調べ、一筋のあかい髪を拾いあげた。呼び寄せた『羽蟲はむし』──山野の精氣が化身した虫に似た小さな妖──に、くるりとその髪を巻き付ける。
「その髪の主が、どこに行ったかを追っておくれ」
 今の夜光が持ついわゆる妖力と呼ばれるものは、とても弱い。夜光は異界に行くこともできないし、精氣を操り自身に取り込んだり弱ったものを癒やすことの他は、ほとんど何もできないと言って良い。
 羽蟲を呼び寄せ使役することも、得意とは言い難かった。どこまで葵の行方を追えるか分からない。朱い髪を巻き付けた羽蟲がふわりふわりと翔び始めたのを、夜光は取るものも取りあえず追い駆けた。
 夕刻の雑踏の中を、小さな羽蟲を見失わないように走るのは、なかなかの大儀だった。長いこと走り通しで徐々に息が切れ、そのうち喉が痛んでくる。だが羽蟲を見失うわけにはいかず、必死に人混みを縫って走った。
 そのうちとうとう、ふわりと朱い髪がほどけ、羽蟲は暮れなずむ空に溶けるように消えてしまった。
 羽蟲を追ううちに、夜光はすっかり息が切れてしまっていた。だいぶ最玉楼から遠くまで来てしまったが、葵の体調を考えれば、さすがにこれ以上遠くには行っていないはずだった。
 あたりを見回して目に付いた茶店の店員に訊ねてみたら、幸い「朱く長い髪の杖をついた若い男」を覚えていた。どうやら葵は、すぐそこにある石段を上がり、上にある展望台に行ったらしかった。
「どうしてそんなところに……」
 あの身体の状態でこんなところまで来た上に、あんな石段を上がっていくなんて。
 だが今は、それを考えるよりも葵を無事につかまえる方が先だ。着物の裾を押さえ、夜光はなだらかだが長い石段を上がっていった。
 そうしながら、夜光はほぞを噛んでいた。
 ──なぜ葵の話を、もっと聞こうとしなかったのだろう。
 いつか聞いてほしい、と葵は言っていた。話したくても話せないことなら、葵の心の整理がつくまであえて聞き出すまいと思っていた。状況からして訳ありなのだろうと薄々察しつつも、葵はいつも事も無げに笑っていたから、どこかで大丈夫なのだろうと思ってしまっていた。そんな自分の迂闊さが呪わしい。
「匕首だけでも隠しておけばよかった」
 なぜ、大丈夫だなどと思ってしまったのだろう。もっと葵に話を聞いてみればよかった。胸のうちに独りで溜めたままにしておくよりも、吐き出せば少しは楽になったかもしれないのに。
 そう悔やむ傍らで、ぎゅうと胸の奥が絞られるほどぞっとすることがひとつあった。
 ──もしかしたら、自分が鎌をかけたことが引き金になってしまったのかもしれない。
 そこにどんな葵の心の揺れ動きがあったのかは分からない。夜光は葵のことを何も知らないのだから。
 でも、今までは穏やかだった葵が突然何も言わずに消えた。帰れますよ、と告げた後の葵は、明らかに今までとは様子が違っていた。何か心当たりがあるとすれば、夜光にはそれしか思い当たらなかった。
 走り通しで、胸や喉が痛い。足も痛い。そうまでして必死で走り続けている自分に、夜光は少し混乱した。
 葵が自分の何だというのか。そもそも葵なぞ、普段あんなに忌まわしいと思っている「人間」ではないか。人間など嫌いだ。残らず死んでしまえば良いと思っているほど、人間なんておぞましくて大嫌いだ。
 それなのに、こうしている間にも葵が自らの命を絶ってしまうかもしれないと思うと、不安と心配で胸が張り裂けそうになる。
 息が苦しくて足が痛んで、次第に考えていることにも収拾がつかなくなってくる。
 膝が萎えそうになるのを自分で叱咤しながら、夜光はもう何も考えずに石段を登り続けた。脳裏に葵の真っ直ぐな瞳が浮かび、心の臓がきりりと締め上げられた。今はただ、早まった真似はしてくれるなと祈るばかりだった。
 西の空が紫と紅の入り交じった深い色彩に染まり、宵闇がいよいよ這い上がってきた頃。ようやく石段の頂が見え、そこにぽつりと座っている人影が見えた。
 一瞬、呼吸が止まった。西の空は燃え立つようにあかい。夕映えの中に座る葵は、全身が鮮血に染まっているようにも見えた。
 よろめきながら最後の石段を上がってゆくと、俯いていた葵が顔を上げ、青みがかった瞳が夜光を見返してきた。
「……夜光」

 かすれ気味の葵の声は、今まで夜光が聞いてきたものとは別人のようだった。夜光は葵の傍まで近付き、その身体のどこからも血は流れていないのを確認すると、へなへなとその場にへたりこんだ。
「よかっ……た……」
 良かった。葵は、匕首を抜いていない。綾錦で出来た袋の口は解かれていたが、その刃を己に突き立ててはいない。
「おまえ、なんでこんなところに」
 息が切れてすぐに言葉を出せずにいると、葵が唖然とした様子で訊ねてきた。
「それは……こちらの、せりふです……」
 間に合ってよかった。生きていてくれて良かった。安堵感と同時に熱い何かが込み上げてきて、喉をふさぐ。額から流れ落ちる汗が染みて、夜光は強く目を瞑った。
 葵の無事を確認したまま、その腕をつかんだ掌に着物ごしに返る体温に、涙が出そうになった。
「生きていてくださって……本当によかった……」
 こみあげるまま零した言葉に、葵が息を飲む気配がした。
 深まっていく夕闇に、ゆるい風が涼みを増してゆく。どこかで群れをなして鳴いている鳥の声がした。ひどく静かな間のあと、ぽつりと葵が呟くように言った。
「それは……すまなかった」
 夜光はやっと、顔を上げた。だいぶ乱れてしまっている仄白く輝く真珠色の髪を、涼しい風が柔らかく揺らした。
 葵は、夜光が見たこともない顔をしていた。重く思い詰め、すっと通った眉根を寄せ、頬にはうっすらと涙のあとがある。だがどこか、気が抜けたようにも見える顔だった。
「あらぬ心配をかけた。すまない。まさか、おまえがここまで来るとは思わなかった」
 本当にあらぬ心配だったのだろうか。そうであるなら、なぜ葵は匕首だけを持って出て行ったのだろう。
「むやみに動いては駄目だと、言ったでしょう。ひとりで、こんなところまで……」
 ようやく呼吸の落ち着いてきた夜光は、それでもまだ少し途切れがちに言った。葵に半ばつかまるようにしていた身体を起こし、走るうちにすっかり乱れてしまっていた着物の裾を直す。
 葵がちいさく笑った。疲れたように目を閉じ、深い息を吐く。
「俺も、どこに行こうというあてがあったわけじゃないんだ。ただ、じっとしていられなかった。俺は今確かに生きていて……俺がいるのは確かにあの時間の続きなんだと、そう思ったら」
 葵が深くうなだれ、両掌で額を押さえ込む。夕紅に煌めく朱色の髪が、長く風になびく。いくばくかの沈黙の後。
「俺は……死ななければならなかったんだ」
 葵は呟いた。夜光は軽く紫の瞳をみはり、いわおのようにうなだれたまま動かない葵を見つめた。
「俺は、生きていてはならない人間だった。今もそれは変わらない。だから俺は、あちらに帰ることはできない。俺が戻れば、また誰かが死ぬ……」
「それは……どういうことなのかと、お訊ねしてもよろしいですか?」
 夜光はゆっくりと、慎重に言葉をかけた。葵は今、ひどく危うい心の均衡の上にいる。夜光が見付けたことで少しは引き戻されたようだが、それでもまだ、少し加減を誤れば転げ落ちてしまうような、くらく苦しい中でもがいている。
 夜光はそっと、葵の膝の上に掌を乗せた。決して急かすことはせず、ただじっと、その言葉が続くのを待った。
 そうしてどれくらいの時間が経ったのか、ますます深まってゆく宵闇の中で、やがてぽつりぽつりと葵は語り出した。自分が生まれた国のこと。父と兄のこと。朱の髪のために鬼子と呼ばれ、だがそれを庇ってくれたのは兄であったこと。その兄が、父親の死後跡目を継いだこと。そして自らの地位をおびやかす存在となった葵を、討つべしと断じたこと。
「……俺は本当に、兄上を脅かすつもりなんか欠片ほどもなかった。ただ、兄上の助けになりたいと……それだけだった」
 葵が強く、掌で目の上を押さえる。うなだれたままだから、その表情をうかがい知ることはできない。だが夜光は、まるで胸に刃物を突き込まれたような気さえした。血を吐くような声とはこういうものをいうのか、と思った。
「俺に死ねというのなら、いくらでも首を差し出した。だが兄上は、それだけで満足しなかった。……なぜなんだろう。なぜ兄上は、それほど俺のことが憎かったんだろう……皆を死なせて、俺ひとりがおめおめと生き延びて……俺はもう、どう生きればいいのか分からなくなった」
 そう呻き、葵は言葉を途切れさせた。夜光はしばらく言葉も無く、それを見つめていた。
 葵の兄が、なぜそこまで実の弟を憎んだのか。それは夜光にも分からない。考えたとて想像でしかない。
 だが、と思う。清雅はもしかしたら、弟である葵のことが恐ろしかったのかもしれない。葵は暗愚ではない。鬼子と誹る者すらいる中で、気取らず飾らず寛仁な葵は、きっと周囲に愛されていたのだろう。だからこそ皆進んで楯となり、兄の差し向けた軍勢から葵を守り抜いたのだろう。
 慕う兄に憎まれ疎まれ、自分の為に大切な者達を死なせてしまった、その悶えるほどの苦しみの底にいる葵に、夜光はかける言葉が見つからない。だが、葵をこのままにはしておけないと思った。溺れ沈んでいってしまいそうな深く暗い苦しみの海の中から、せめてもう少し楽に息をつける場所まで、その腕をつかんで引き上げてやりたい。そう思うのは、夜光の身勝手であり傲慢であるのかもしれなかったが、それでも──葵を死なせたくない、と強く思った。
 夜光は葵の膝に重ねて置いた、自分の白い手を見た。その細い指に、ほんの僅か、力がこもった。
「……葵殿。私の話も、少し聞いて下さいますか」
 ──自分が長の差し伸べてくれた手で救われたように、夜光の手が、葵を此岸に繋ぎとめる助けになれないだろうか。
「私もかつては、蓬莱におりました。両親のことは覚えておりません。ただ、母親が人間で、父親は夜叉の王族の末端……妖であった、と聞いております」
 ゆっくりと語り出した夜光に、葵が鈍い動きで目を上げる。徐々に夜光の言葉の意味が浸透していったのか、その瞳がじわじわと見開かれた。
「おまえは……片親が人間なのか?」
「はい」
 かすれた声で確認した葵に、夜光は頷いた。
「私の額にも、本当は夜叉の角があるのです。伝え聞いた限りでは、母は私が乳飲み子のうちに病に斃れ、父である夜叉は一族の騒乱に巻き込まれて行方知れずになったとか。私はまだ言葉も理解できず、一人で立つこともできないうちから、蓬莱にある人間達の村で独りになりました」
「…………」
 黙って聞き入っているように見える葵に、夜光は静かに続けた。
「村の人間達は、取り残された角を持つ妖の子をひどく恐れました。それで、土蔵に閉じ込めて……殺せば祟るかもしれないと怯えながら、何も見せず何も教えず、光にも当てず、ただ生かしておくことにしたのです」
 淡々と語るよう心がけていても、知らず声が低く尖る。淡い桜色の唇を無意識に噛んだ。葵の膝に置いた指を、いつの間にかぎゅっと握り込んでいた。
「……私は、人間が嫌いです。姿形が自分達と違うというだけで忌み嫌い、虐げる。相手が無力であれば、尚のこと度を失う。私を閉じ込めた人間達が、やがて飢饉によって死に絶えて……私も誰にも知られることなく、繋がれたまま死ぬところでした。それを、長様が助けて下さいました」
 長によって救い出された夜光は、長自らの手によって癒やされ、慈しまれ、初めて自分が何者であるか理解した。そして自分がなぜあの村で人間達に虐げられなければならなかったのかを理解した結果、幼かった夜光は、自ら額の角を折ろうとした。
「こんなものはいらない、と泣いたら、長様が私の角を隠して下さったのですよ。それで……そのかわり、私は妖力の大半も封じられることになりましたが」
 ──もとより半妖という半端な身。この終の涯にいる限りは、こんな夜光でも生きるのに困ることはない。だから今は、これで構わない。
 その思いは飲み込み、夜光は葵を見た。葵の瞳もまた、複雑な思いを映すように揺れながら、夜光に向けられていた。
「夜光……」
「葵殿」
 夜光は白い手を動かし、いつの間にか膝まで下がっていた葵の手にふれた。夜光よりも随分大きく骨張った手を、両の掌でしっかりと押し包んだ。
「私は人間が嫌いです。でもどうしてだか、葵殿のことは放っておけない。──私は、葵殿に死んでほしくありません」
 人間である葵は、夜光を見ても怯えなかった。奇異なものを見る眼差しも向けなかった。それがどんなにか、夜光にとって驚くべきことであったことか。
 葵がそうであったのは、葵自身も鬼子と誹謗され、異端だと貶められてきたせいだったのかもしれない。自分と葵は少し似ているのだろうか。この切ないような気持ちが親近感なのか、それとも他の親しみなのかは、夜光自身にもよく分からなかった。ただ、葵に独りきりなのだとは思ってほしくない。葵を案じる者はまだここにいるのだと、それを知ってほしかった。
「私と葵殿では事情が違うことは、よく分かっております。でも、どうか早まらずに……生きていればこそ、また思うことや状況も変わりましょう」
 祈るような気持ちで言い、そっと手を放した。葵は夜光の掌が押し包んでいた己の手を、ぼんやりしたように見下ろしていた。
「……そうか。おまえにも、そんなことがあったのか……」
 ぽつりと葵は言い、あとは黙って水平線を朱金に輝かせて沈んでゆく夕陽に目を泳がせた。その目許の強張りは、夜光がここに来たときよりもだいぶやわらいでいるようには見えた。
 夜光も何も言わず、葵の傍らに腰を下ろしたままその場から動かなかった。葵の手にある匕首を渡してほしい気はしたが、それを口にするのは今の自分には出過ぎたことであると分かっていた。
「……あのとき」
 太陽がほんの僅かな頂を海の上に残すばかりになった頃、葵がふいに口を開いた。
「はい?」
「俺があの浜に打ち上げられて、おまえを初めて見たとき。実はひとつ、不思議に思った」
 何を不思議に思ったというのだろう。首を傾げると、夜光を見た葵が僅かに頬を崩した。
「ここは極楽なのに、なぜこの天女はこんなに哀しげな瞳をしているんだろう、とな」
「……そんな目を、私はしていましたか?」
「底知れない憂いを含んで見えた。それ以上に、見たことも無い美女だと驚いたがな」
「私は、本当に女性だと思われていたのですね」
 葵の声音が、普段の調子に戻っている。多少の無理はしているのかもしれないが、夜光もいくらかほっとして、軽く笑って返した。
「何しろすっかり死んだ気でいたからなあ。それで目が覚めて、この世のものとも思えないような美人がいたら、そうも思うだろう」
 葵は冗談めかして言い、夕闇に飲まれてゆく西の空──海の彼方に目を眇めた。末期のような夕映えが、青みがかった瞳に映り込んだ。
「……遠いな」
「はい」
「あの海の果てに、本当にあるんだな……あの国が」
「境を越えることさえ出来れば」
「近いようで遠い。……いや。俺にはもう、あちらこそが御伽噺おとぎばなしの世界だ」
 葵は首を一振りし、額から頬に乱れかかっていた朱の髪を後ろに掻きやった。黒塗りの匕首を袋にしまうと、ぎゅっと紐で括り、大事そうに懐に挿し込んだ。
「もうすっかり暗くなってしまったな。そろそろ戻ろうか」
「そういたしましょう。夕餉も冷めてしまいます」
 そう頷けることに心の底からほっとして、夜光は微笑した。
 立ち上がろうとした葵だが、身体を押さえ込むなり呻いた。夜光は慌てて、その肩を支えた。
「お気を付けを。最玉楼からこんなところまで、一人で歩き回ったのです。最悪、傷がひらいているかもしれません」
「……すまん。正直、かなり無理をした」
「そうでしょうね」
 きっとここまで来たときは、相当に思い詰め気も張っていたに違いない。夜光は今さらながら少々呆れた気分で、葵に肩を貸して一緒に立ち上がった。
 陽が落ちたあとは、残照はあっというまに薄れてゆく。またたき始めた星空の下、ぼんやりとした石燈籠の明かりに照らされた石段を、二人でゆっくりと降り始めた。
「不思議な明かりだな」
 石燈籠の横を通り過ぎるとき、ふと葵が言った。燈籠に灯る明かりは、青碧に近い色をしている。焔でもなく熱もなく、ゆらゆらと蛍火のように淡い。
「蛍光を発する石を精錬したものが入っているのですよ。暗くなると勝手に灯り、明るくなれば勝手に消えます」
「ほう……便利なものだな」
「蓬莱にはないものが、こちらには多くあるようですね」
「そうだな。今日は、思うほど周りを見る余裕がなかった。きっとゆっくり見て回ったら、さぞ物珍しいものがたくさんあるんだろう」
 葵は受け答えしつつ、しかし一段を降りるだけでも顔をしかめている。額には汗が浮き、呼吸もいささか苦しげだった。
 やれやれと、夜光は苦笑した。そうしながら、またこうやって葵と何気ないような会話ができることが嬉しかった。
「またしばらくは、外出はなりませんよ」
「当分はおとなしくしている。懲りた」
 決まり悪そうに言い、それから自分でおかしくなったように、葵も苦笑した。


【一章 終の涯 了】

栞をはさむ