三章 宵闇に夢を見つ (十二)

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 夜光は虚ノ浜にいる。
 そう告げて長が去った後、葵は衣装箱に用意されていた長着を身につけ、流れるままになっていた長い髪を手早く括った。長から手渡された八咫烏の羽を、大事に懐にしまい込む。
「虚ノ浜か……」
 この最玉楼は、終の涯の街のほぼ中心に建っている。虚ノ浜は、街を西に出て少し歩いた先にある入江の浜だ。
 太陽はもう西の空に傾きかけている。今から悠長に歩いて向かっていたら、日が暮れるどころか真夜中になってしまうだろう。まだ不慣れで不安はあるが、まずは街に出て屋形車をつかまえるしかないかもしれない。
 最玉楼の本殿に戻るべく部屋を出ると、寝殿造りの御殿は長い渡殿で本殿と繋がっていた。最玉楼自体が何棟も連なる御殿や楼閣から成っており、あらためて眺めると、その様はまさしく壮麗な城のようだった。
 夕刻からの本格的な営業に備え、最玉楼は慌ただしかった。その合間を縫って真っ直ぐに正面玄関に向かい、外に出ようとしたところを、葵は受付の従業員に呼び止められた。
「ああ、若さん。出かけるんだろ? なら、うちの車を使うといいよ」
 長から言いつかっている、と言われて葵は驚いた。呼ばれてきた仲居に、最玉楼の送迎用の車や船が停まる停留所へと案内される。
 屋形車には御者もおらず、車を曳くものの姿もない。どうやら車輪に灯る鬼火の力で、ひとりでに動く仕組みになっているようだった。用意されていた小型の屋形車に乗り込むと、すぐに御簾が下ろされて夕暮れの空に舞い上がった。
「感謝します、長殿……」
 長自身は決して歓迎はしていないはずの事態であることを思うと、遠ざかってゆく最玉楼に、自然とそんな言葉が出た。
 以前屋形船に乗ったときと同様に、車はほとんど揺れなかった。小さな窓から覗ける黄昏色を帯び始めた街並みは、あっという間に高く遠くなる。
 暮色に染まる碁盤目状の街は、そこかしこに明かりが灯り始めていた。地上が次第に星の海に変わってゆくような光景に、葵は思わず見入っていた。
 この桃源郷さながらの街は、誰のことも拒まず、追わない。流れ着いた葵を客人として迎え入れてくれたように、人でも妖でもない夜光にとっても、ここは誰からも迫害されずにすむ安住の地なのだろう。
 夜光のことを思うだけで、胸が切なく苦しくなった。
 長の話を聞き、夜光の過去を垣間見てしまった今では、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなっていた。
 夜光は確かに、自らの願いのために他の命を奪ってきたのだろう。だがそれは、元を辿れば人間達が幼い夜光を虐げたことに端を発している。それさえなければ、夜光も冥魂珠の力を借りようとするまで思い詰めなかったはずだ。
 夜光を責めるのなら、夜光を虐げた者達も責められなければならない。だが村人達も、仮にもし暮らしが平穏で豊かであれば、夜光を虐げようとはしなかったのではないだろうかと思う。
 考えるほど分からなくなるのは、貴彬のことについてもそうだった。
 冥魂珠は、間違いなく惨く恐ろしいものだ。そして贄となる者の真心の是非を考えれば、その仕組みは残酷以外の何ものでもない。
 だが、贄となった貴彬は本当に不幸だったのだろうか。葵がそうであるように、一切を失ってこの異界の地に流されてきた貴彬もまた孤独だったのなら。拠るべき場所を喪失した孤独を、夜光の存在が埋めることが出来たのなら……夜光を愛しく思うまま逝ったのであれば、それは……どうなのだろう。
 思わず、深く溜め息をついた。貴彬のことを思うと、同じく故郷を喪失したマレビトゆえの底無しの混沌に、葵も引きずり込まれそうになる。
 帰るべき場所を失ってしまった喪失感や哀しみなら、葵も痛いほど知っている。拠るべき世界、地に足をつけて生きてゆける場所を失い、一切が異質である異界で生きてゆくことは、たやすいことではない。帰れるものなら帰りたいと、願わないわけがない。
「蓬莱に、帰る……」
 長の告げた言葉を、ぽつりと繰り返した。
 叶うのならばそうしたいと、確かに思い続けてきた。故郷に対する愛着は変わらず、郷愁は限り無く深い。たとえ生まれ育った地の土を踏むことは出来なくても、蓬莱で生きてゆけるのであれば、それは葵にとって本来あるべき姿であるはずだ。
 ──だが、今の自分はそれを本当に望んでいるのだろうか。
 帰りたいと思い出すのは、父がいて兄がまだ優しかった、親しい者達もまだ生きていた、もう戻れるわけもない過去の風景ばかりだ。真実「帰りたい」と願う場所は、今はもうどこにも存在していない。
 長に送られて蓬莱に帰り、過去の一切を捨てて生きるとして、そんな生き方を自分は本当に望んでいるのだろうか。過去の喜びも哀しみも、苦しみですら葵の一部なのに、それを捨ててしまったら、その先にいる自分は何者なのだろう。
 その未来を想像したとき広がったのは、何も無い灰色の虚無だった。
 途方も無い喪失感と、どれほど足掻いても何一つ指先にもかからぬ無明の孤独には、覚えがあった。かつてそれを眼前にしたのは、この終の涯に流され、自分が死ねなかったことを理解したときだった。
 葵はしばし呼吸することも忘れた。指先が冷えて震え、喉の奥から引きつった呼吸が洩れた。
「っ……」
 思わず胸元を押さえ込んだ。眩暈と吐き気がする。正気を失ってしまいそうな虚無感に、悲鳴が洩れそうになる。
 震えながら自分を抱き込み、強く目を瞑った瞼の裏に、ふわりと暖かな光が広がった。
 ──淡く舞う桜の下で、紫苑の色を宿した瞳が葵を見つめている。微風に柔らかくなびく、月光を集めたような乳白色の髪。葵を見たその瞳が優しく微笑み、世界が灰色の虚無から、春陽の明るさに塗り替えられてゆく。
「夜光……」
 うずくまって名を呼んだとき、知らぬ間に目頭が熱くなっていた。車に敷かれた畳の上に、ぱたりと涙が落ちた。
「俺は……本当に愚かだ」
 あれほど夜光に救われておきながら。なぜ、己の見た夜光を信じることが出来なかったのだろう。
 昨夜葵は、夜光に殺されてもおかしくなかった。それほどのことを、葵はした。だが。
「おまえは、二度までも俺を生かしてくれたんだな……」
 涙が頬を伝うまま、ひっそりと微笑した。
 出逢ったときも、夜光は憎いはずの「人間」である葵のことを助けてくれた。そして昨夜も、葵を殺さなかった。
 たとえどれほど恐ろしい魔性のかおを持っていたとしても、それが夜光の心根だと、今なら言い切れる。
 貴彬を贄とした翌朝、夜光は一人きりで雨に濡れながら、青い紫陽花の群れの中に佇んでいた。自分が何をしているのか、夜光は理解していた。それでも贄を狩ることをやめようとしなかった。
 ──夜光にとっては、生きるために必要なことなのですから。
 耳の奥に、長の言葉が甦る。
 幼子のうちに生き地獄に突き落とされた夜光の世界は、どれほど孤独で残酷で恐ろしかったことだろう。
 それなのに夜光は、人間すべてを恨み憎むことが出来ず、負の情念に飲まれることも出来ず、妖と化すことも出来なかった。それ自体が、夜光の心根に横たわる優しさの、あるいは甘さの証ではないか。それゆえに冥魂珠に囚われる結果を招いたのなら、なんという皮肉であり哀れだろう。
 望んで贄にしたわけではない、とは、夜光自身は口が裂けても言わないだろう。葵も道理の上では、夜光のやったことはあまりに惨く許し難いと、変わらず思う。
 だが葵にはもう、夜光を責めることが、どうしても出来なかった。
 魔性の貌を持つ夜光が真実なら、春陽の中で柔らかく微笑む夜光もまた真実だ。恐ろしくも優しく哀しい、人でも妖でもない、あるいはそのどちらでもある存在。そんな夜光が、月から降りてきた天女のようだと思っていた頃よりも、いっそう美しく、切なく、魔性の姿すら愛おしく思える。
「夜光。すまなかった」
 畳の上にうずくまり、こみあげる涙をどうにかこらえた。
 殺さなかったからといって、夜光は葵を許したわけではあるまい。殺すにも値しないと思ったのか、ひとかけらの慈悲だったのか、それは分からないが。
 会いに行っても、まともに取り合ってもらえるかも分からない。許してもらえるとも思っていない。だとしても、葵でも夜光のために何か出来ることがあるのなら、最大限を尽くしたかった。
 覚悟にも似た心構えができてゆくにつれ、次第に心が落ち着いてきた。
 屋形車についた小さな物見窓から、外を覗いてみる。朱金の光線が、鋭く網膜を射た。
 目を細めて進行方向に目を凝らすと、黄昏を反射して輝く海が見えた。
 虚ノ浜と呼ばれる、西に向かって開けた海岸線に広がる砂浜。そこはかつて葵がこの終の涯に流されてきた漂着点であり、夜光に初めて出逢った場所でもあった。
 浜はかなり広く、黄昏に視界もかなり翳っている。無事に夜光を見付けられるだろうか、と浜を見下ろしたとき、ふと思い出して、長から授かった八咫烏の羽を取り出した。すると小さな風切り羽は仄かに輝き、葵の手からひとりでに浮き上がった。
 不思議な光景に驚いているうちに、羽は物見窓からひらりと舞い出てゆく。風の影響も受けず、黄金の羽はひとつの方角に向かって宙を舞い、それに引かれるように屋形車も進み始めた。
 長の言葉通り、あの小さな黄金の羽が、屋形車を夜光のもとまで導いてくれるようだ。物見窓から眺めているうちに、白い弧を描く浜辺が次第に近付いてくる。やがて屋形車の高度が、音も無く下がり始めた。
 ──この車から降りた先に、夜光がいる。
 そう思ったら、緊張にぎゅっと心臓を締め上げられた。かすかな恐れが首をもたげる。
 自分は夜光と、しかと真向かえるだろうか。逃げ出すことなく、夜光の眼差しを受け止められるだろうか。
 だがそれを押しのけ、振り切ったのは、より大きな覚悟だった。
 夜光に許されなくても良い。どんな目で見られても、責め詰られても良い。先に夜光にそれをしたのは、葵なのだから。
 夕陽を受けて輝く浜辺が、打ち寄せる波の形が見分けられるほどに近付いてきた。
 葵は目を伏せ、己の心を最後にもう一度確かめた。
 ここから先は、もうあえて何も考えるまい。ただありのままに夜光と向き合うことの他は。
 瞼を開くと、青みがかった瞳に真っ直ぐに夕暮れの光が反射した。


 そして。
 今にも朱色の太陽が水平線の彼方に沈もうとしている頃。
 屋形車を降り、人気ひとけのない浜辺に歩み出た葵は、まだ幾分距離のある砂浜にぽつりと座り込んでいる人影を見つけた。肩口にふれる程度の乳白色の髪がゆるい風に舞い、夕陽を受けて眩しいほどの朱金に輝いて見えた。
 見つけた瞬間、どくり、と心臓が揺れた。
 会うことが恐いような気もしていた。だが会いたくて、目の前で見たくてたまらない姿だった。
 砂を踏んで歩み寄ってゆくうち、相手もその足音に気付いたようだった。
 砂の上に座ったまま振り向いた夜光が、ひどく驚いたように紫の瞳を見開いた。そのほっそりとした全身が硬直するのが、はっきりと見て取れた。
 葵は近付きすぎない程度の場所で足を止め、しみじみとそこに座っている姿を見つめて、笑った。
「また会えたな。夜光」
「……なぜ、おまえさまが……ここに」
 身も表情も強張らせたままの夜光の声に、ざぁん、と打ち寄せる波の音が重なった。

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