天の記憶

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 とろりと潤んだ夜気に、仄かな花の薫が漂う。
 おさは香匙を手にしたまま、ふと目を上げた。半蔀にかかる桃の枝から、ひらりひらりと花びらが舞い降りてくる。そこにちょうど掛かっていた朧月に金の瞳を細め、はんなりと微笑を零した。
「ああ……良い風情ですねぇ」
 長は香を合わせていた手を止め、ゆったりと脇息に凭れた。
 この風雅で落ち着いた寝殿造りの館は、周囲を澄んだ遣り水に囲まれている。最玉楼さいぎょくろうと呼ばれている巨大な楼閣の敷地内にあるが、楼閣そのものからは少し離れており、賑々しい楽の音などが聞こえてくることもない。
 白地に金糸の刺繍を施された装束の上に、ふわりとした薄桜色の長衣ながぎを羽織った長の姿が、控えめで暖かみのある紙燭の灯りに照らされている。腰よりも長く流れ落ちる黒髪は美事なうねりと艶を持ち、天人のように繊細で美しい容貌に鮮やかさを添えていた。
 長は脇息に凭れたまま、芳しい夜の風情に眠気を催して、うつらうつらし始める。
 と、その静けさを、何の前触れも無く騒々しい物音と気配が打ち破った。
 閉ざされていた遣り戸の向こうに、突然強い妖気が生じる。と思う間もなく、重く厚い戸が外から押し開けられた。乱暴に開かれた遣り戸から、血臭を纏った白く強い光が転がり込んでくる。
 その無粋極まる騒々しさに、うっとりと目を閉じて脇息に凭れていた長は、一筋のあかい入れ墨をさした目許を引きつらせた。切れ長の瞳を開き、不機嫌に遣り戸の方を見やる。
「何ですか、騒々しい。少しは場をわきまえるということをご存知ないのですか」
 金色の瞳が巡らされた先で、だんッ! と板敷きが強く鳴った。そこに叩き付けるように突き立てられたのは、血塗れの白銀の太刀。それを身の支えに立っていたのは、背の中程まである乳白色の髪や真白い戦装束、額に見える白銀の角までもが生々しい血に穢れた、白い夜叉だった。
 突然の侵入者は若干よろめきながらも、太刀を支えに胸を張るように姿勢を立て直した。強い妖気が、白い焔のようにその姿を取り巻く。その不可視の眩しさに、長は僅かに目を細めた。
「おい、そこの化け物。傷が痛む。治せ」
 突然現れてそこに立った白い夜叉は、深い紫苑の色を宿した瞳を長に据え、張りのある伸びやかな声で言った。

 脇息に凭れたまま、長は軽く眉間にしわを寄せた。無礼かつ不遜極まりない侵入者に半ば呆れつつ、軽く嘆息する。
「人にものを頼むときは、それ相応の態度があるでしょうに。こちらにおいでなさい」
 ぼやきながらも促す長に、白い夜叉は悪びれることもなく、にやりと笑った。
 赤い血に濡れたそのかおは、手負いのせいかあまり血色は良くないが、肌が引き締まり美しく整っている。顔立ちそのものは凜々しい青年でありながら、浮かべる表情の不敵さゆえに、やけに悪童じみた印象があった。
「そう言いながら否とは言わぬおまえも、化け物のわりに随分と人が好い」
「そのような穢れた姿で、いつまでもそこに居られては迷惑だからです。埒もないことを言うのなら焼き払いますよ、えんじゅ
 長の金色の瞳に睨まれ、「槐」と呼ばれた白い夜叉は、広い肩を大袈裟に竦めた。
「恐い恐い。おまえに逆らおうなど、露ほども思わぬよ。命の珠が幾つあっても足りぬわ」
 槐は白銀の太刀を床板から引き抜き、若干おぼつかない足取りで、しかしあくまで堂々と長の傍らまで歩を運んできた。
 どさりと無遠慮に腰を下ろした槐に、長は憮然としつつも、手早く治癒の術式を施してやる。
「無害で罪無きものには、私だとて無体はしません。おまえはだいたい、口が悪ければ態度も悪い。礼節というものを、赤子のうちに何処かに置き忘れてきましたか」
「口が悪いのはお互い様だろう。それに俺は、おまえのように猫をかぶっておらんだけだ」
「かぶる猫など、私にはおりませんよ」
「ほほう。俺の思い違いだったか」
「まったくおまえは失礼ですね、槐」
 槐は長に背を向けて治癒を受けながら、くつくつと笑っている。
 その乳白色の髪や白い装束を染める赤い穢れは落ちないものの、長の治癒術によって、たちまち傷は癒えてゆく。じきに楽になったようで、槐は大きく息を吐いた。
「さ、だいたいは良いですよ。早く湯浴みをして、その穢れを落としておいでなさい」
 長が言うと、槐は白い袖で頬の赤い汚れを拭いながら振り返り、屈託なく笑った。
「おまえは本当に便利だな。礼を言う、そらの」


 最玉楼の湯は、実際の汚ればかりではなく「穢れ」も落とす。穢れとは「気枯れ」であり、「気」とは「生氣」「精氣」を指す。生とは正であり、死とは負であり、生命を失ったむくろからは「氣」が離れて腐敗する。すなわちそれを「氣枯れる」と言う。
 長には取り立てて不得手なものなど存在しないが、性質としてはどちらかといえば「正」に属する存在ではある。根から不浄なものや穢れは好んでふれたいものではないし、腐敗してゆく血や肉の臭いも好きではない。
「怪我をするたびに私のもとに転がり込むくらいならば、もっとしっかり甲冑を身に着ければ良いものを」
 湯浴みをして穢れも綺麗に落とした槐と、長は月の見える広縁で盃を交わしていた。
 槐は艶を纏う長い乳白色の髪を肩に流し、銀の模様で彩られた白い狩衣を寛ぎ気味に纏っている。無造作な様子ながら、体躯の均衡が取れ眉目秀麗でもあるせいか、そんな姿でも見映えが良い。
 槐はのんびりと盃を口に運びながら、小馬鹿にしたように笑った。
「そんな大仰で鬱陶しいものを着けて動けるか。だいたい俺が傷を負わされるような相手なら、甲冑なんぞいくら着けていても無駄だ」
 そう言う槐の額には、美事な一対の白銀の角が輝いている。その角に根差し、存在の根底から立ち昇るのは、持ち前の性分をも顕わすような鮮やかで猛々しい妖気。「好戦的で強く美しい」と謳われる夜叉一族の特徴をそのまま持ったような槐を、長は咎める眼差しで見た。
「ならば、そういう相手に無鉄砲に挑むことをおやめなさい。そんな調子では、いつか取り返しの付かないことになりますよ」
 槐に限らず、夜叉一族は「闘うこと」そのものを愉しむ性分を持つ。彼らが傭兵としてほうぼうの戦に加わるのは、そういった種としての性質に基づいた「伝統かつ道楽」だった。
 夜叉一族がそういう種のものである以上、それ自体を否定することはできないが、しかしそこに顔見知りがいれば心配にもなる。並み居る夜叉達の中でも、槐は抜きん出た武の才能と妖力を持ってはいるが、世の中にはそれを上回る強力な妖もいる。あるいは、多勢に無勢ということもある。
 そもそも、こうして負傷して長のもとに治癒を求めて訪れること自体が、槐が無茶をしている証拠だった。
 胡座をかいた膝に頬杖をついた槐は、悪びれる様子もなく、深く美しい紫の瞳を笑ませた。
「そうであればこそ血が滾るのよ。やるかやられるかの快哉無くして、闘いに何の面白みがある?」
「楽しいのは勝手ですが、あまりここに穢れを持ち込まないでいただきたいですね。第一私は、無闇な殺生は好きませんよ」
「無闇な殺生とは心外。我らは助勢の依頼があらばこそ、戦場に馳せ参じているだけだぞ」
 もっともらしいことを返す槐に、長は柳眉を寄せてまた溜め息を吐いた。
「血に酔いやすい貴方達の享楽性は、よく知っています。それを悪いとは言いませんが、場をわきまえなさいと言うのです」
 長が盃を干そうとしたとき、槐が傍らに置いてあった白銀の太刀を無造作に手に取った。
 飾り太刀と見まごうほど豪奢な、かなりの重量があるだろうそれを、槐は座したまま軽々と抜く。鏡のように磨き抜かれた刃が宙をすべって、切っ先が長の喉元にぴたりと据えられた。
「おい、化け物よ。正直なところ、おまえが聖人君子面をして何を抜かしても説得力がなくてな。おまえが数千の同胞を一瞬にして灰燼に変えた光景は、まだこの目に焼き付いているぞ」
 長は細く白い首筋に突きつけられた太刀に動じる様子もなく、静かな金色の瞳で白い夜叉を見返した。
 互いに微動だにせぬまま、槐の深く鮮やかな紫の瞳が眇められ、敵に斬り込むような鋭さを閃かせた。太刀を握ったその腕が動き、すっと刃を横に返す。長の首筋から刃が離れると共に、そこに掛かっていた黒絹のような髪が、音もなく一房断たれてはらりと落ちた。
 槐は引き戻した太刀を鞘に戻すと、何事もなかったように再び盃を取り上げた。ぐいと干してから、槐は不敵に笑った。
「とはいえ、あれは互いに私怨あってのものではないことも分かっている。だからおまえを恨むことはせんよ、空の」
「……そうですね。私としても、あれは護るべきもののために為したこと。一片も悔いてはおりません」
 長は細く白い指で盃を持ち上げ、柔らかな唇に一口酒を含んだ。長い睫毛を伏せがちに瞬いたその瞳は、さながら鋭利な氷の刃のように、月明かりを宿して薄い燐光を放った。
 言葉を荒げるでも、表情を変えるでもない。ただその眼差しの変化だけで、対面に座した槐が息を飲んだ。槐は固唾を呑んで長を見返し、金縛りに遭ったようにしばし動かなかった。
 長はゆっくりと盃を膳に置き、瞳を上げる。そこにあったのは、いつもと変わらぬ春霞のように穏やかな微笑だった。
「悔いてはいませんが、憎しみあってのことではありませんでしたから。あのようなことを、二度とは繰り返したくはありませんねぇ」
 その長の様子に、身構えるように硬直していた槐が、ほっと広い肩から力を抜いた。盃を口に運びながら、槐もつくづくと呟いた。
「まったくもってその通りだ。お互いに、な」

        ◇

終の涯ついのはての守護者」たるものの本性の姿を目にしたことは、槐は過去に唯の一度だけ。
 かつて終の涯を蹂躙せんと攻め入った妖達の手勢に、数千の夜叉が援軍として招かれ、その中に槐も居た。
 争いを厭い、平穏を愛する者達ばかりが棲まうかの地は、一騎当千と謳われる夜叉の軍勢を前に為す術も無かった。襲撃者の誰もが勝利を確信したそのとき、抜けるように晴れた天を割って、恐ろしいものが降臨した。
 槐が見たのは、見上げた空を埋め尽くすのではと思うほどに巨大な、一つの眼。
 禍々しくも眩い黄金に耀く単眼は、渦巻く暗雲と無数の雷に取り巻かれ、天から地上を睥睨した。そして天から凄まじい焔が降り、かの地を侵略しようとしていた者達を一瞬にして焼き払った。
 その瞬間に、なんとか槐はその場から空間を翔んで逃れることができた。だが夜叉一族の中でも飛び抜けて強い妖力を持つ槐でさえ、しばらくは身動きもままならないほどの重傷を負った。
 あの日あの天焔から逃れることができた同胞は、数えるほどもいない。そしてあの恐ろしい出来事は妖の世で語り草になり、以降かの地に手を出そうと目論む者は、ぱたりと居なくなった。

        ◇

「あのようなものを見た後では、もう何に出くわそうと恐ろしくもないわ。なあ、空の」
 すっかり酔ってごろりと広縁に寝転がっている槐に、こちらも快くほろ酔い加減の長は、盃を傾けながら答えた。
「自分の無鉄砲を私のせいのように言うのは、如何なものかと思いますよ。それに、そのおかしな呼び方をいつになったらあらためるのです」
 己の腕を枕にしながら、槐はからからと笑った。
「空そのものの図体だったから、空だ。盤古ばんこなんぞと仰々しく呼ばれるよりは良かろう」
 天地開闢の創世力を持つ、妖怪というよりも既に神と呼ばれるものに近い存在。「盤古」と呼ばれるそれこそが長の素性であり、その本性は唯一無二であるがゆえに「名」という概念すら持たない。
 それを知りながら「空」などと気軽に呼び捨てる槐に、長は呆れるやら感心するやらだった。
 槐はしげしげと無遠慮に長を眺めながら言った。
「実際、おまえ以上の化け物など居るものなのか? あんなものに戦場に出て来られたら、卑怯どころの話ではないぞ」
「さあ。居るとも居ないとも」
「だがまあ、おまえが居ればこの終の涯も安泰なのだろうな。たまに寛ぎにくる分には、ここもそう悪くはない」
 槐は庇の向こうの朧月と桃の花を見やり、気持ち良さそうに紫の瞳を細めた。その白い瞼が眠たげに落ち、ものの数秒もしないうちに健やかな寝息が聞こえ始めた。
「物怖じしないというのか……どこまでも気ままですねぇ、おまえは」
 その様子を眺めながら、長は苦笑気味に呟いた。
 この白い夜叉が、何を考えてしばしば長の元を訪れるのかは分からない。隙を見て同胞の仇を討つ為なのかもしれないし、ただ興味が向いてふらふら足を運んでくるだけなのかもしれないし、単に便利な医者がわりに使っているのかもしれない。
 何にしても、よく負傷して転がり込んでくるこの夜叉を、長はその度に文句を言いながらも癒やして送り出してやる。
 それは口にはしないが、同胞を焼き払ったことへのせめてもの罪滅ぼしでもあり、この何にもとらわれない闊達とした夜叉を、案外嫌いではないせいでもあった。
 桃の花弁がはらりはらりと枝から舞い、庇の下に横たわった白い夜叉の上に落ちる。無防備で心地良さげなその様子に、長は邪気のない子供を見るように微笑した。
「私のことを、そうも遠慮無く化け物呼ばわりするなど、おまえくらいのものですよ。まったく」
 眠っている槐に、完全に疲労が癒えるよう軽くまじないを施し、長はさらりと立ち上がった。
 広縁から屋内に戻ってゆく肩の上に、白銀の太刀に断ち切られ一房だけ短い黒髪が、花の薫を運ぶ夜風に柔らかく靡いた。


(了)

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