夕凪の庭

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 夕暮れ刻になって、風がぴたりと止んだ。
 淡い虹色を帯びる終の涯の空は、黄昏刻になると西の空一面が、えも言われぬ色彩に染まる。透き通る赤や紫、朱色や黄金が雲に反射する中、虹の極光が淡く強く西の空全体を覆う。
 自室で荷物の整理をしていた夜光は、縁側から差し込み始めた黄昏の光に目を射られ、瞬いて手を止めた。
 南に向いた部屋からは、終の涯独特の見事な夕映えがよく見える。夜光はしばし手を止めたまま、ぼんやりと空を眺めた。
 準備が整い次第、夜光は葵と共にこの終の涯を離れることになっていた。
 誰に急かされているわけでもないが、この先あまり長く終の涯に留まるつもりはなかった。出立を先延ばしにすればするほど、未練や不安や心細さが募り、ここから離れ難くなってしまう。
 ──あと何回、この美しい日没を見ることが出来るだろう。
 夕暮れだけでなく、夜明けの空も昼の空も、街も海も。野も山も。見慣れた最玉楼の門、数々の美しい庭。いくつもの部屋に、通路や曲がり角。柱の一本でさえ。
 近々ここを離れなければならないと思うと、目に映る何もかもが、ひどく愛おしく感じられる。
 いつになく感傷的な気分で夕焼けを眺めていた夜光だったが、そこに突然、良く言えば賑やかな、悪く言えば騒々しい小さな二人連れが、夕凪を破るように飛び込んできた。
「あーっ、夜光いたー!」
「やーこうー!」
 縁側の屋根の上から、髪や瞳に茜色と氷雨色の色彩をそれぞれ纏う小鬼達が、逆さまに顔を覗かせる。いとけない幼子の姿をした、色違いの髪と瞳を持つ鬼火の双子達は、身軽に宙返りしながらふわふわと兵児帯をなびかせ、部屋に舞い込んできた。
火月かげつ水月みつき
 古なじみの妖の双子達に、夜光はそれぞれの名を呼ぶ。
 いつもと変わらぬ様子の夜光と対象的に、双子達は柔らかな頬をぷうっと膨らませ、小さな両手を握り拳にして、勢い込んで口を開いた。
「もぉ、夜光! ぜんっぜん僕らが知らないうちに、出て行くって決めちゃったんだって?」
「夜光のばかちん! そんなこと、なんで僕らに黙って勝手に決めちゃうのさ!」
 夜光の顔と大きな瞳の高さが合う位置で、二人はぷくぷくと可愛らしい素足を宙に浮かせたまま捲し立てる。
 ぷりぷり怒っている幼子達に、夜光はしばしぽかんとした。ややあってから、その白い頬が和らぐ。
「そんなことを言っても。こちらも急な話だったんだよ。おまえ達がそのとき居なかったんだから、仕方ないだろう」
 鬼火の双子たちは、昔から雑用係と称して最玉楼に棲み着いている。しかし実際にはあまり最玉楼の手伝いをすることもなく、気ままにのんびり過ごしており、しばしば連れ立って蓬莱に遊びに出かけたりもすることもあった。
 一度蓬莱に行ってしまうと、二人はしばらくは戻らない。最玉楼に天女みささぎが訪れ、葵が甦ったときも、二人の姿は最玉楼に無かった。それは珍しいことでもなかったので、夜光もとりたてて気に留めることはしなかった。
「そーだけどさー。仮にも幼ナジミの僕らをさしおいて、ちょっとヒドイんじゃなぁい?」
「そうそうー。そうゆうの、みずくさいってゆーんだぞ」
 愛らしい口許をとがらせて口々に言う二人に、夜光はくすくすと笑い出す。
「ごめんね。でもおまえたちなら、どうせ蓬莱にも来るだろう?」
 妖である双子達は、夜光が最玉楼に来てからの腐れ縁だ。双子達はもともと蓬莱好きで、何より自由だから、夜光が蓬莱に行けばそちらまで遊びに来るだろうことは想像に難くなかった。ゆえに、さして気にしてもいなかった、とも言う。
「まあ、そりゃそーだけどさー」
 でもさーだってさーと、ひとしきりぶつぶつ言った後、火月と水月は大袈裟に溜め息をついた。
「しかも葵も、なんかしれっと生き返ってるしさー。すんごいびっくりしたよ、もう」
「葵にもう会ったの?」
「うん。びっくりしすぎて、変化へんげが解けちゃった」
 葵がいるとも知らずに最玉楼に戻ってきた二人は、先程彼にばったり出くわしたのだという。
 葵は今、最玉楼で世話になった者達に挨拶にいっているところだ。あまりに驚いて変化が解けてしまった双子達が、本性である鬼火の姿のままくるくるとまとわりついたものだから、葵は目を白黒させて慌てふためき、まわりにいた仲居達まで慌てて、ちょっとした騒動になったらしい。
 その光景を想像すると、夜光は思わず笑ってしまった。
「それはまあ、葵も驚くだろうね」
「だってー。僕らだって驚いたんだもん」
「ねー」
 火月と水月は、顔を見合わせて、うんうんと頷き合う。
 双子達は、マレビトである葵に以前からよく懐いていた。夜光と違い、「人間」というものにとりたてて嫌悪感を持っていないせいもある。
 火月と水月は、見かけこそ愛らしい幼子だが、実際には夜光よりもいくらか年嵩としかさだ。幼い二人が蓬莱で仲間達からはぐれて迷っていたところを、長がたまたま見付けて保護してきたのだという。
 夜光が長に連れられて最玉楼に来た頃には、双子達はもうここに居ついていた。最玉楼にはそうやって、長が何らかの理由で保護してきた妖達が、けっこうそのまま何らかの仕事を持って暮らしている。
 そんな双子達だが、かつて葵を「もう終の涯にいてはいけない」と突き放したことがあった。
 あとからそれを知った夜光は、二人を咎めなかった。
 あの頃葵は、夜光に対し「何か隠しているのでは」と疑惑を抱いていた。夜光よりも先にそれを知った二人は、取り返しが付かないことになる前に、夜光から葵を遠ざけようとしたのだ。葵のためにも、夜光のためにも。
 その頃のことを思い出して少しぼんやりしていた夜光は、ふと、間近ににじり寄って来ていた双子達に気付いた。赤と青の大きな瞳が、じいっと夜光を見上げている。
「何?」
 夜光と目が合うと、火月と水月はにぱあっと笑った。
「でもさ。良かったねぇ。夜光」
「良かったね。葵にまた会えて」
 嬉しそうに言った二人に、夜光は目を瞬いた。
 年齢が近かったことから、火月と水月、夜光の三人は、昔から何かと一緒に過ごすことが多かった。夜光が唯一、一切の肩肘を張らずにいられる相手でもあり、良くも悪くも遠慮無くものを言える唯一の相手でもある。そういった意味では、葵や長よりも気易い。
 そんな双子達だから、夜光の嘆きも苦しみも、ずっと傍で見てきた。そして、いつもと変わらずに接してくれていた。
「……うん。良かった」
 その二人からの祝福に、夜光は素直に頷いた。少し気恥ずかしくはあるが、それ以上に二人の言葉と笑顔が嬉しかった。
「えへへー。やっと夜光、ちゃんと笑ったねぇ」
「ずうっとしょんぼりしてたもんねえ。萎れたお花みたいに」
 夜光が遠慮をしないぶん、双子達も夜光に遠慮はしない。
 ひとしきり笑ったあと、ふと思い出したように、水月が「あ」と声を上げた。
「あのね、夜光。それでね。お話聞いて、僕らちょっと、ここに来る前にのぞいてきたの。夜光はたぶん、自分じゃいけないだろうから」
「覗いてきた?」
「うん。貴彬たかあきらさまのところ」
 その名前に、夜光の呼吸が一瞬止まった。
 火月と水月は畳の上にぺたりと座り、色違いのつぶらな瞳で夜光を見上げる。
「貴彬さまね。もといたおたなで、前みたいにお仕事してたよ。あんまり前と変わらない感じした」
「うん。たぶん、あのひと、夜光のこと忘れてる」
「おぼえてるなら、あのひとの性格からして、あんな平然としてられっこないもの」
「……そうか」
 瞬間のうちに様々な物思いが胸中を去来し、口にできたのはその呟きだけだった。
 貴彬。冥魂珠の贄とするために、夜光が意識的に取り入ってたぶらかした相手。
 客観的に見れば、貴彬は決して悪い青年ではなかったのだと思う。人間でありながら終の涯の銭舗で職を得て、マレビトならではの見識や経験を役立てていた。器量も悪くなく、人間の男性は意外と終の涯では人気があるから、ひそかに慕う者達もいたらしいことも知っていた。何やら葵とは、夜光のあずかり知らぬところで、普通に親しくなってすらいたようだ。
 生真面目すぎるほど一本気で、意外に根は甘く、少々思い込みが強くて。騙すには易い、そしてマレビトゆえに後腐れもない、都合の良い相手だった。──夜光にとっては、本当にただそれだけの相手だった。
 今こうして思い返してみても、貴彬個人に対しては、それ以上の認識が出て来ない。愛する、という感情を知った今では、あまりに惨いことをしたと詫びたい気持ちはあるが、それ以上の感情を抱くことは出来なかった。
 ふう、と、虚しい溜め息が落ちた。
 やはり自分は、どこかが欠けたままなのだろう。葵に出会い、愛し愛されることを知って、確かに変化した部分もある。だが決定的なところ、心の一番奥深い根や、魂の本質のようなところは、歪んで冷え切ったままどうにもならない。善意や豊かな愛情とは無縁の、氷雪のように冷ややかな魔性が、自分の中には今尚棲んでいる。
「夜光。どーする?」
 火月と水月が、ちいさな手を夜光の正座をした膝頭に乗せて見上げてきた。
「どうする、って?」
「貴彬さま。お顔、見にいく?」
「……いや。やめておこう」
 葵とともに甦っているはずの貴彬が、しかし一向に夜光の前に姿を現さない時点で、記憶を失っているのかもしれないと、ある程度予測はしていた。
 貴彬に会い、面罵され、悪くすれば報復されるとしても、それ自体は構わない。それだけのことを、自分はした。
 だが、貴彬が夜光のことを忘れているなら。まして、以前と変わらずに過ごせているのなら。そこに今さら夜光が姿を現すことは、貴彬にとって幸いと言えるのだろうか。
 様々な物思いが、胸の裡が軋んでこそげるほど、重く苦しく渦を巻く。けれど夜光が何を思い、どう言っても、それは結局言い訳にしかならない。
 だからただ、夜光は黙して語らずにいる他になかった。
「そっかぁ。……うん。わかった」
 双子達もそれを察したのか、とくにそれ以上言おうとはしなかった。
 貴彬が夜光に関する記憶を失っているようであるのは、陵の言っていた「後始末への介入」によるものなのだろうか。
 貴彬が無事に甦っているのなら、貴彬よりも前に贄とした者達も甦っているはずだ。そして同じように、おそらく記憶を失っている。
「……おまえたち。頼みがある」
「たのみ? なぁに?」
「後で、貴彬様より前の者達の様子も、少し覗いてきておくれ。もし何かで困っているようなら、手助けしてやってほしい」
 火月と水月にそう頼むこと。それが、夜光にできることの限界だった。
 鬼火の双子は、長を除いては夜光の秘密を──「冥魂珠」の存在と用途を昔から知っていた、唯一の存在だった。そして気が付けば、夜光の協力者になっていた。
 長に角を封じられているせいもあり、夜光自身にはそれほどの妖力は無い。双子達とてさほど大きな妖力を持っているわけではないが、夜光よりもよほど融通が利いたから、たとえば「獲物」の身辺を探ったり、夜光が「獲物」を誘い出した後にその痕跡を消したり、という手助けをする分には問題無かった。
 何故、とは特に聞いたこともないが、火月と水月にとってそれは単純に「夜光が必要としているなら助ける」というだけのことなのだろう。幼い頃から一緒に育ってきた自分達は、ある意味で最も親密な関係なのかもしれない。
 夜光の頼みに、火月と水月は二つ返事で「うん、わかったよー」と頷いた。そしてこの話はもう終わったとばかりに、くるりと表情を変えて、無邪気に喋り出した。
「ねーねー夜光。蓬莱にいっちゃう前にさ、みんなでお出かけしよーよ」
「お出かけ?」
「うん。あのね、みんなで華陽山かようざんにいこう!」
「華陽山……」
 そこは終の涯の街からほど近い、春には一面が桜に染まる美しい山の名前だった。「花」をやっていた頃は、息抜きのためにお忍びで時折足を運んでいた、夜光のお気に入りの場所。
 最後にそこを訪ねたのは、葵が蓬莱から流れ着いた春。葵と一緒に満開の桜の下を歩き、けれど葵を喪ってしまってからは、夜光はその場所の名前を口にすることすら避けていた。
 夜光の物思いを知ってか知らずか、火月と水月は顔を見合わせ、きゃっきゃと盛り上がり始めた。
「葵もさそってさー。あっ、あと、槐さまもおさそいしよーよ」
「いいねーそれ。そうしよっ」
「長さまは?」
「うーん……ご一緒してくれたら嬉しいけど、さすがに無理じゃないかなぁ。それに長さまがいたら、葵たぶん緊張するし」
「それもそっか。長さま、いうなればおヨメさんのおかーさんみたいなものだもんねぇ」
「うん。しょーがない」
 そんなことを好き勝手に言っている二人に、夜光は小さく吹き出してしまった。
 二人からの申し出も、気遣い──してくれているのだろう、多分──も、素直に嬉しいと思える。そう思えることの幸せを噛み締めながら、夜光は火月と水月をそれぞれに見て、穏やかに言った。
「そうだね。今はあそこも、葉桜が美事だろう。それに、牡丹と芍薬の苑も見頃だと思う」
「あと、舟に乗れる池もなかった? あそこ」
「うん。今頃は、蓮が綺麗なはずだよ」
「わぁ。よーし、きまりっ」
 火月と水月はぴょんと空中に浮き、声を揃えてはしゃぎ出した。
「僕らと、夜光と、葵と」
「あと、槐さまー」
「みーんなで華陽山に遊びにいこっ。またみんなでごはん食べて、おさんぽして、舟に乗るの。きーまり!」
 双子達が兵児帯をふわふわなびかせながら、ぴょんぴょん空中を踊るように跳ねていると、そこに葵が帰ってきた。深さを増してゆく夕暮れの空を背に、縁側から姿を覗かせる。その結い上げられた髪が、いっそう美しい朱金に縁取られて見えた。
「賑やかだな。ただいま、夜光。火月と水月も」
「おかえりなさいませ、葵」
「あっ、葵だ!」
「あおいー、おかえりなさいっ」
 たちまち火月と水月が、ふわふわと飛んでいって葵にまとわりつく。葵は「うわ」とやや慌てながらも、二人を邪険にすることもなく、ぽんぽんとその頭を撫でてやっている。
「あのね葵、きいてきいて。みんなでお出かけするの」
「お出かけ?」
 それぞれを肩と腕に抱きつかせたまま、葵が夜光の傍に腰を下ろす。ちなみに鬼火の双子達は体重が極めて軽く、肩に乗せていても小鳥のように苦にはならない──とはいえ、夜光は自分であれば鬱陶しくて押しのけているだろう光景に、思わず苦笑した。
「ええ。私達が蓬莱に行く前に、最後に一度、皆で出かけることになりました」
「それは良いな。それで、どこに行く?」
「華陽山に。──覚えておられますか、葵」
 訊ねた葵に、夜光は穏やかに凪いだ微笑みを返した。


(了)

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