春宵

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 その小さな白い子に、長は「夜光」と名付けることにした。
「降り積もる雪か、仄輝く月光か……おまえの髪は、本当に綺麗ですねぇ」
 これはこの子用に、と用意してやった上物のつげの櫛で、長は丹念に乳白色の髪をくしけずってやる。あまり傷んでぼろぼろになっていたところは切ってしまい、その髪は痩せぎすで小さな肩につくかつかないか程度の長さになっていたが、長が日々手入れをしてやっているうちに、近頃は内側から輝くような艶を帯びるようになっていた。その乳白色の髪に半ば隠れるように、その子の丸い額には、白銀に輝く小さな一対の角があった。
 長の住まう、ゆったりとした寝殿造りの美しい小御殿の中。明るく広い部屋の中には、庭に咲いている芳しい花の馨が、風に乗ってふんわりと漂っている。
 長の前におとなしく座っているその子──夜光は、立ち上がっても長の胸元にも頭の先が届かない。
 個体差はあるが総じて長寿である妖は、ある程度の年齢までは割合に早く育ち、一定まで身体が出来上がると、そこで成長が止まる。
 それにしても夜光は、この世に生れ落ちて十二、三年は経っているはずだったが、そのくらいの年齢の平均に比べてひとまわりは身体が小さく、手足は華奢で折れそうに細かった。
 長が毎朝手ずから着せてやる衣は、できるだけ子供らしく華やかな色合いのものを選んでいる。今日の夜光が身につけているのは、白地に珊瑚色で花模様を染め抜かれた可愛らしいものだった。
 瞳が大きく鼻や口元の小作りな夜光の顔立ちは、幼いながらよく整っており、そうしておとなしく座っている様子は、愛らしい人形のようだった。
「さぁ、けましたよ」
 櫛を置き、光を受けた真珠のように煌く夜光の髪を、長はほっそりとした長い指で撫でてやる。
 長に髪を梳かれ、様々に語りかけられる間も、夜光はぺたりとその前に座ったまま、自ら動くことは一切なかった。くるりと弧を描く乳白色の睫毛に縁取られた、その紫水晶のような色合いと深みを持つ瞳も、虚ろに何処ぞへ向けられたまま動かない。淡い色の小さな唇も、結ばれたまま少しも開くことはない。それこそ、魂の宿らない人形のように。
 長はそんな、愛らしく、だが虚ろな夜光の顔を覗き込み、小さな白い手を取って優しく微笑んだ。
「今日はきちんと座っていることができましたねぇ。お利口です。ご褒美に、一緒に美味しいお菓子を食べましょうか、夜光」
 長の言葉が聞こえていないのか、聞こえていても意味が理解できないのか、あるいは反応しようという意識がないのか。
 夜光は顔を上げることもせず、大きな紫の瞳を、ただ漫然と瞬かせている。その瞳は極上の玻璃のように美しく澄み渡り、そのあまりに混じりけのない透明な様は、見ていると何か胸が痛むようだった。
 何も反応しない幼い夜光の髪を、長はもう一度、やんわりと撫でた。その美しく虚ろな紫色の瞳を、少しだけ哀しげに、優しく覗き込みながら。

 音もなくしんしんと舞う真白い雪か、夜空に静謐に清浄に輝く月光か。
 その半妖の子に「妖」としての名前をつけてやろうと思ったとき、どちらにするか長は悩み、悩んだ末に後者にした。夜の光、と書いて、やこう、と読む。
「おまえの元々の名も良いのですが……おまえにとって、その名にまつわる記憶は、少し哀しすぎますからねぇ」
 蓬莱と呼ばれる「人間の世界」から引き取ってきたばかりの頃は、その子は「これで生きているのか」と思うほどひどいありさまだった。
 夜光はまだ言葉も喋れない幼子のうちから、人間達の手で、ろくに陽の差さない土蔵に閉じ込められて育った。まともな食べ物も与えられず、かろうじで大気中から精気を取り込み、泥水を啜って生き延びてきた半妖の子は、長が見付けたときにはまるで木乃伊のように骨と皮だけになって、がりがりに痩せ細っていた。
 それに加え、長いこと人間達から折檻され続けてきた幼い身体はぼろぼろで、全身が痣と生傷だらけだった。
 弱り果てたその子は、自力で立ち上がることもできず、寝返りすらまともに打てず。水を染み込ませた綿を、乾いて痛々しくひび割れた唇にそっと当ててやると、かろうじでその唇を動かし、喉を動かす程度のことしかできなかった。
 長が休むことなくつきっきりで癒やしの力をそそぎ続け、少しずつ水と薬湯を含ませてやるうち、ようやく僅かずつ、その幼い子の肌に明るい血色が通い始めた。
 ある程度の生気がその子に戻ってから、その弱り果てた小さな身体に負担をかけないよう、薬草を浮かべた湯にそっと浸けて沐浴させてやった。そして獣のように伸び放題になり絡まっていた髪を、ばっさりと切り落とした。

 やがて夜光は、横たえられた寝床の中で身じろぎくらいはするようになった。しかし自力で起き上がれるようになるまでは、そこからまだしばらくかかった。
 大きな紫色の瞳は、光を宿さず虚ろだったが、長が小さなその身体にふれることに、さほど抵抗は見せなかった。勿論、必ず優しく声をかけてから、慎重にそうっとふれることが大前提である。
 そのかわり、長以外の者が視界に入ると、夜光は獣じみた唸り声を上げてひどく怯え、不自由な身体で部屋の隅まで這いずって、がたがたと震えながらうずくまった。
 その様子に、長は「しばらく私の部屋に誰も近付かないように」と、まわりにふれを出した。
 少しずつ動けるようになってきた夜光は、眠りかけては引きつった悲鳴を上げて目を見開くことを繰り返すようになったが、長が傍について優しく髪を撫でていてやると、安心したように眠りに落ちた。
 そのうち夜光は、自分から小さな手で長の衣を握り締めるようになり、獣の子のようにぴったりと長に密着して眠るようになった。

 ずっとろくに食べ物を摂っていなかった夜光は、最初のうちは固形物をまるで受け付けなかった。
 長はゆっくりと、少しずつ、夜光が反応するものを選んで、その口元に運んでやった。甘い蜂蜜や水飴を夜光は好み、やがて蜜をたっぷり含んだ果物を、少しずつ咀嚼して飲み込むようになった。
 夜光が固形物を受け付けるようになると、滋養の高い温かな食べ物を、徐々に食べさせるようにした。粥に様々なものを入れ、柔らかく煮た肉や卵、野菜を出してみる。
 夜光は目の前に器を置かれても、自分から食べようとはしなかったが、長が匙や箸でその口元に運んでやると、雛のように小さな口を開けた。

 固形物を受け付けるようになると、そこからは劇的に夜光の身体は回復していった。
 棒のように痩せ細っていた手足に少しずつ肉が付き始め、肌が瑞々しく潤い、頬が子供らしくふっくらし始めた。
 それでもまだ年齢に不釣合いなほど身体は小さく細かったが、まるで木乃伊のようだった姿は、蛹を脱ぎ捨てた紋白蝶のように、見違えるほど白く美しく愛らしく変容していった。
 この頃になると、夜光は寝たきりで過ごすことはなくなっていた。長は毎朝、夜光のために小さな可愛らしい衣を見繕って着せてやり、髪を梳いて、小さな角がのぞいているあたりに花を飾ってやった。

 長が何を語りかけても夜光は一切反応せず、それが「言葉を知らないため」であることに、長はすぐに気がついた。
 それこそ物心付く前から、独りきりで土蔵に幽閉されていた夜光は、何の教育も与えられてこなかった。与えられたものは、ひどい苦痛と怒りと憎しみ、罵声と飢え渇きばかり。そのため夜光は言葉を理解せず、自分に名前があることも理解していなかった。
「こんなに可愛らしい声をしているのに。なんて勿体ないことでしょう」
 臥所ふしどから日常的に起き出せるようになってからも、夜光が時折上げる声は悲鳴か獣じみた嗚咽か唸り声ばかりだったが、そんな夜光に長はおっとりと話しかけ続けた。
 人形のように虚ろな表情のまま、ぴたりと長にくっついて離れようとしない夜光に、長は毎日優しい声で歌を歌ってやり、飽きることなく言葉をかけた。
 それと並行して、長以外のすべてのものに対して怯えている夜光の目に、ゆっくりと身近にある美しいものを見せてやった。
 白い袖に軽く小さな夜光を抱き上げて、その薄い背中をしきりに宥めるように撫でてやりながら、最初は半蔀の際まで寄って花や樹木を見せてやり、そこに遊びに来る小さな虫や小鳥達を見せてやった。
 夜光はひしっと長にしがみついてはいたが、夜光が少しでも怯えた様子を見せれば無理をさせなかったため、次第に緊張を緩めるようになった。
 やがて夜光は、長に抱き上げられていれば、庇の下まで出て外を眺めることに怯えなくなった。

 教育を与えられていないだけで、もともと知能が低いわけではなかった夜光は、言葉を発することこそなかったが、次第にその紫色の瞳に智を伺わせる光を宿し始めた。
 長は夜光と共に寝起きしながら、ゆっくりとひとつずつ、幼い夜光に様々なことを教えていった。
 朝に起きて夜は眠ること。手水をつかうこと。湯浴みをすること。自力で衣を着ること。
 長の手から食べていた食事も、夜光はやがて匙を使って一人で食べるようになり、そのうち不器用ながら箸を持てるようになった。
 その頃になると、夜光は庇の下までなら、一人で歩いて出てゆくようになっていた。
 ごくごく遠巻きにであれば、長以外の姿が見えても、びくりと怯えはするものの、逃げ出すことはなくなった。

 長が飽きずに語りかける言葉や、美しい声で歌う歌を聞くうちに、夜光の反応は明らかに「言葉を理解している」ものに変化していった。
 相変わらずほぼ無表情のまま、小さな愛らしい唇は閉ざされたまま、言葉を発することはしなかったが、頷くことや首を振ることで、自分の意思を長に伝えるようになった。

 この子のしてきた体験を思えば、まっとうな衣食住のある生活に馴染むだけでも大変なこと。
 それをよくよく理解していた長は、自分の生活のすべてを幼い夜光に合わせ、様々なことを少しずつ教え、それをのんびりと楽しみながら、ときに辛抱強く、日々を過ごしていった。
 あるとき長が箏を奏でていると、それを夜光がじっと傍で見つめ始めた。夜光は長の傍から離れようとしなかったので、それ自体は珍しくもなかったが、夜光の大きな瞳はいつになく興味を宿し、長の形の良い指の動きを追っていた。
「おや。おまえも弾いてみますか、夜光?」
 それに気付いて長が問いかけると、夜光は瞳を瞬き、うっすらと頬を紅潮させて、こくりと頷いた。夜光、というのが「自分の名」であることも、その頃の夜光はきちんと理解していた。
 相変わらずその表情に大きな変化はなかったが、長の膝の前に座り、優しく抱かれるように長の手を腕に添わされて、たどたどしく箏にふれた紫の瞳は、今までにないほど積極的な光を宿して輝いていた。
 いつかこの子が興味を示したときのために、と、あらかじめ長は、その小さく細い指に合わせた子供用の爪を用意しておいた。指にはめられた爪を夜光は不思議そうに見ていたが、長とお揃いであることを確認すると、長の優しく綺麗な顔を見上げてから、大事そうに小さな指先で小さな爪にふれた。
 力の加減も分からず、不器用な音色を初めてその小さな爪が鳴らしたとき、夜光は驚いたように、びく、と長の膝の前で飛び上がった。こんなはずじゃない、と言いたげにむぅと乳白色の眉をしかめた夜光に、長は思わず、声を立てて笑ってしまった。
 長は小さな手に白く美しい手を添え、力の加減や爪の角度を優しく伝えながら、弦の弾き方を教えてやった。
 長の奏でる音色とそっくり同じ音を、苦心しながら一音だけとはいえ初めて小さな爪が弾いたとき。夜光の紅潮した頬が、初々しい小さな花が綻びるように、仄かながらはっきりとした微笑を含んだ。
 右手で弦を弾き、左手で弦を押さえ、夜光は初めてふれるそれにひどく熱中して、その日は空が茜色に染まるまでずっと箏の前にいた。

 一度こつを覚えてしまえば、夜光の爪はすぐに美しい音色を奏でるようになった。
 長の奏でる深みのある鮮やかな音色には及ばなかったが、柔らかな風にまぎれて流れてゆく箏の音色に、それを聞いた者達がふと耳を澄ませるようになった。
 元々賢い子だとは思っていたが、夜光は一度か二度聞けばすっかり音程を覚えてしまうようで、見よう見真似で長の爪弾く曲を次々に覚えていった。
 夜光は毎日一人で箏の前に座り、長と同じ音色をどうやったら出せるのかというように、生真面目な様子で何度も弦を爪弾いては試していた。

 夜光はとくに箏の音色を好んだが、長の部屋には多くの楽器があり、長が気ままにそれらを奏でるうちに、小鼓を打ってみたり、和琴や横笛なども嗜むようになった。胡弓や琵琶にも興味はあるようだったが、幼い夜光の手にはまだいささか余った。
「おまえがもっと大きくなったら教えてあげますね」という長の言葉に、夜光は素直に、こくりと頷いていた。

 ある月の夜、長が琵琶を奏でながら艶やかな声で歌っていると、気が付けばすぐ傍に座った夜光が、長が歌うのに合わせて、小さく唇を動かしていた。
 耳をそばだてなければ聞こえないほど、細く弱く幼い歌声。夜光は時々言葉を追えなくなったように黙り込んだが、構わず長が歌と演奏を続けていると、それにまぎれてしまうほど小さな声で、また歌い始めた。
 一通り演奏を終えて琵琶を置くと、長は夜光をふんわりとした袖に抱き締め、手放しでその歌声を褒めた。夜光は相変わらずそれほど大きく表情を変えることはしなかったが、大人しく長に抱き締められるまま、白い頬をほんのりと桜色に染めていた。

 歌を通じて、夜光は徐々に「言葉」を発するようになった。
 これも元々、「発声する、発音する」ということがうまくできないだけで、長と共に過ごすうち、幼い夜光の中には様々な言葉が根付くようになっていたのだろう。
 歌うことを覚えると共に、夜光は一人で文字を読むようにもなった。
 以前から長が様々な書物を読み聞かせてはいたが、それまでは夜光の中では、「長の発している音」と「目の前にある奇妙な記号」が結びついていなかったようだ。それが「自身で発声して歌を歌う」ことを覚えてから、突然閃くように結びついた様子だった。
「文字」と「言葉」の結びつきを理解してから、夜光は長も舌を巻くほどの早さで、乾いた砂が水を吸うように、それらを吸収していった。
 閉じ込められていた土蔵と、この長の部屋しか知らない夜光のために、長は様々な絵画や、挿絵のふんだんに入った書物を山ほど用意してやった。
 夜光は相変わらず「歌う」以外で言葉を発することはなかったが、楽器を奏でていないときは、かじりつくように書物を開いているようになった。

 夜光がひとつひとつ「目の前にあるもの」を吸収してゆくごとに、長もひとつひとつ、然り気なく夜光の方から興味を持つように誘導しながら、部屋の中でも親しめる様々な美しいものを教えていった。
 流麗な文字を書くこと、生き生きとした絵を描くこと、刺繍や縫い物をすること、芳しい香を合わせること、美しい花を生けること、等々。
 夜光は絵を描くことはあまり得意ではないようだったが、じきになかなか良い手で文字を書きつけるようになった。長の部屋の中には、常に夜光が小さな手で生けた花が飾られるようになった。
 夜光と絵合わせや歌留多遊びをしながら、長はいつも気取りのない明るく軽やかな笑い声を立てる。夜光もまた、言葉を喋りこそしなかったが、鈴を振るような声を立てて無邪気に笑い、勝負ごとに負けたときは、子供らしい柔らかな頬を膨らませてむくれた顔を見せた。

 長は夜光を連れて、少しずつ部屋の外に、渡殿の向こうにと、出歩く範囲を広げていった。
 夜光は常に長の袖の端を握り締め、小さな身をさらに小さくしてその陰に隠れていたが、紫の瞳はびくつきながらも、興味深そうにきょろきょろとあたりを見回していた。ここに来た当初に比べれば、そこからは明らかに怯えた色は薄れていた。
 明るく風通しの良い建物の中や、美しい庭園を、夜光は長に連れられて少しずつ歩いた。長の袖に隠れながら歩く小さな白い姿に、その姿を見かけた者達は、急に近付いたり大きな声を出さないように注意しながら、遠くから笑いかけて手を振ってやった。
 夜光は迷子の小栗鼠のように小さくなったまま長の袖に隠れてはいたが、遠くから笑いかけてくれる者達に向けた大きな瞳にそれほどの怯えはなく、不思議そうに瞬いていた。

 夜光が一人で怯えることなく外を歩けるようになるには、まだまだ時間が必要だった。
 此処に来たばかりの頃の、まるで死にかけの獣の子のようだった有り様に比べれば、はるかに今の夜光は元気になり落ち着いている。だが、言葉すら知らない頃から心身に深く刻み付けられ続けた痛みや恐怖は、ようとして幼い夜光を解放しようとしなかった。
 夜光は一人にされることをひどく恐れた。長の姿が見えないと、几帳の薄絹を毟り取って部屋の隅でそれにくるまったり、狭い物陰に入り込んで、ぶるぶると震えていた。
 なまじ言葉や知識を得、「今」が穏やかに優しくあることで、長のもとに来る以前の記憶が化け物じみた恐ろしさで膨れ上がり、幼い夜光の心を蝕んでいるようだった。
 夜光は周りが暗くなることを恐れ、夜を恐れ、おそらく恐ろしい夢を見るのだろう、眠ることをひどく恐れた。
 それでも生きている以上は眠らないわけにはいかず、眠気と闘いながら、夜ごと夜光は咽びながら苦しんだ。状態がひどいときは、目の前にいるのが長であることも分からなくなり、爪を立て犬歯を剥いて、その腕から逃れようと死に物狂いで暴れた。
 そんなときは、長はやむなく夜光に深い眠りに誘う術式を施し、眠りながらも怯えて震えている小さな身体を、朝まで抱き締めてやっていた。

 言葉も分からないうちから刷り込まれた激しい苦痛や慄きは、それこそ下手をすれば、夜光という半妖の子を一生苛むだろう。
 それがよく分かっていた長は、決して焦らず、ただひたすら明るく優しく美しいもので癒やすように、幼い夜光をくるんだ。
 周りの者達もそれをよく理解し、憐れな半妖の子のことを、愛情を持って遠巻きに見守った。

 いつの頃からか、夜光はじっと、鏡の前に座っていることが増えた。相変わらず喋らず、表情も豊かとは到底言えない。けれど此処に来た頃に比べれば別人のように身綺麗になり、その乳白色の髪も真珠のような光沢を帯びて、ふんわりと肩の上で切り揃えられていた。躰つきは薄く小柄ではあったが、頬も手足もすべらかに疵ひとつなく、紫色の瞳は深く澄んで煌く宝玉のようだった。
「どうしたのですか、夜光?」
 鏡の前に座ったまま動かない夜光に、長は不思議に思って声をかけた。夜光はそれに反応を返すこともなく、振り向くこともなく、ただ視線を俯けた。

 それからしばらく後のことだった。
 その日は珍しく、夜光は一人で庭園に出ていた。長が傍にいないと不安がるのは変わっていなかったが、近頃は明るいうちであれば、そして長の部屋の庇が見えてそこに長の姿があれば、夜光は一人でも庭に降りるようになっていた。
 誰かの姿が、たとえどれほど離れていても、爪先だけでも、影だけでもちらりと視界に入れば、脱兎の如く夜光は長の部屋に駆け戻る。その日も夜光は、あたりの様子を窺いながら、一歩一歩そろりそろりと庭園を歩いていた。その様子を、庇の下から長は見守っていた。
 うららかな日差しに、そのうち長は眠気を誘われ、巡らされている高欄に凭れてうつらうつらし始めた。
 そのまま多少の時間が経ったのだろうか。ふいにずきりと額に鋭い痛みが走り、長は軽く呻いて目を覚ました。
「……夜光?」
 顔を上げてすぐに頭をよぎったのは、夜光のことだった。一瞬だけ走った痛みは既に消えていたが、それが己の感じた痛みではないことを、長は理解していた。
 長はいつになく気が急くままに立ち上がり、薄手の長衣ながぎをふわりと翻して庭に降りると駆け出した。
 寝殿造りの小御殿のまわりには、美しい遣り水が巡らされている。そこからさして離れていない澄んだ水面の縁に、小さな白い姿が座り込んでいた。
「夜光」
 駆け寄ると、衣が汚れるのも構わず地べたに座り込んでいた夜光が顔を上げた。
 無表情に近い白い顔は、額から流れる鮮血で汚れていた。流れ出したばかりのそれは、頬から顎先、その先の細い首筋や着物の襟まわりにまで滴っていた。
 夜光の白い小さな手は、握りこぶしほどの大きさの石を掴んだままだった。その石もまた、流れたばかりの血に濡れていた。
「夜光……」
 長は軽く息を呑み、呆然としたように座り込んでいる夜光を、衣が汚れるのも構わず地に膝をついて抱き寄せた。その夜光の姿と長の姿が、すぐ傍らにある水面に、鏡のように映り込んだ。
「怪我をしたのですか。見せてみなさい」
 長は夜光を抱いたまま、血塗れの額の様子を窺った。
 傷つき割れた額から流れ出した血は、夜光の乳白色にきらめく髪にも吸い込まれ、目に痛いほどの鮮やかな紅に染めている。その紅の中に、やはり血塗れの小さな角があった。夜光の額に生えた、二本の角。
 ──夜光は角を折ろうとしたのだ。と、察した。その小さな手に石を握り、自ら力任せに打ち付けて。
 夜光がここのところ、鏡ばかりを覗いていたのを長は思い出す。しかし半妖とはいえ、夜叉の血を引く夜光にとって、その一対の角は妖力の根源を為すもの。こんな石でいくら打ったところで、傷ひとつ付くわけもない。そればかりか、力任せに打ち付けるうち、そのまわりの柔らかな肌ばかりが傷ついて、こんな有り様になってしまったのだろう。
「なんということを……」
 思わず呟いた声に反応したのか、ほとんど無表情だった夜光が血で汚れた白い瞼を瞬かせ、小さな唇をかすかに動かした。
「…………の……」
「え?」
「つの……いらない……」
 それは、夜光が初めて「自らの言葉」として発した声だった。大きな紫色の瞳に大粒の涙が浮かび、血で汚れた頬に、ぼろりと零れ落ちた。
「や……これ、いらない……やだ……いや……」
「夜光」
 しゃくり上げながら訴える夜光を、長は咄嗟に抱きしめた。あまりの痛ましさと、これほど夜光が思い詰めていたことを察してやれなかった自分を責めながら。
 長は血塗れの夜光を白い袖に抱き締め、その薄い背を何度も撫でてやった。
「すみません、夜光……さぞや痛かったでしょう。お部屋に帰りましょうね。帰って、傷を癒やして綺麗にして、おやつを食べましょう」
 長は泣きじゃくるばかりの夜光を抱き上げ、部屋に連れ帰った。長にしがみ付くようにしながら、夜光はその間もずっと、角がいやだ、いらない、と火がついたように泣き続けていた。

 夜光は聡い子だった。
 長に救われる前は、自分が何者で、何のために虐げられているのかも分かっていなかっただろう。だが長のもとで安らぎを得、言葉を得、知恵と知識を得るうちに、自分がかつて虐げられていたことを自覚し、その原因が「自分があそこにいた他の者達と違っていたこと」──すなわち「妖の子だったせいであること」を理解したのだろう。
 長は夜光の傷を癒やし、綺麗に血を洗い流してやって、泣き続ける小さな身体をずっと抱いていてやった。
 そして泣き止まないその子の額から、白銀に輝く小さな角を、目に見えぬようにまじないをかけ、隠してやった。

 角が見えなくなってしまうと、夜光の様子は少しは落ち着いた。
 夜光が己の容姿を忌み嫌ってしまうことがないよう、長はそれからはとくに、その姿がとても綺麗で愛らしいこと、自分はとても夜光の髪や瞳が好きであるということを、何度でも褒めて言い聞かせた。実際にそれは、嘘偽りの無い本心である。
 そのおかげもあるのか、幸い夜光は、自分の外見そのものを嫌うことはなかった。

 初めて「自分の言葉」を口にしたときから、夜光は少しずつ喋るようになった。
 表情が豊かではないことは変わらず、喋るといっても片言程度ではあったが、それでもその変化は尊く大きかった。
「おささま」
 あるとき夜光が傍に立ち、細く幼い声で、長に初めてそう呼びかけた。
 長が周囲の皆に「長様」と呼びかけられるのを見聞きするうち、夜光の中にも自然とその呼び方が浸透していたのだろう。初めて夜光の口がその音を発したことに、長は少なからず驚き、そして心の底から暖かく湧き上がる嬉しさを感じた。
「何ですか、夜光?」
 思わず小さなその白い子を抱き締めてしまいたくなったのをこらえて、長はにこりと笑い、何かを言いたそうにしている夜光に向き直った。長は座っており、夜光は立っていたが、身体の小さな夜光の顔は、長が少し上向く程度の高さにあった。
 夜光は白い頬を仄かに紅潮させており、後ろ手の姿勢のままで、何かもじもじしていた。そのうち、夜光は後ろにまわしていた小さな手を、おずおずと長に向かって差し出した。
 小さな手の中から、長の掌の上に、白い糸と紅梅色の糸で編まれた組紐が、ぱたりと落ちた。それはつい先日、長が編み方を教えてやったばかりの、それ以来夜光が熱心に編み続けていたものだった。
「……私に下さるのですか?」
 幼い手で夜光が初めて編んだそれは、ところどころ編み目がいびつで柄が不揃いではあった。だがそれがかえって、夜光が懸命に、長に促されるまで寝食も忘れるほど熱中して編み続けていた姿を思い出させた。
 夜光はますます赤い顔になったが、こく、と小さく、だがはっきりと頷いた。
「おささまに、あげます」
 小さく舌足らずな声が、桜色の唇から長の耳に届いた。長はこみ上げる嬉しさと愛しさのまま、両腕を伸ばして、袖の中に夜光の小さな姿を抱き締めていた。まだまだ幼く細く頼りない、あたたかな身体を。
「ありがとうございます。なんて可愛らしくて素敵な組紐でしょう……頑張りましたねぇ、夜光。とっても嬉しいです」
「おささま」
 長の袖の中にふんわりと抱き込まれたまま、夜光が身動きした。紫色の大きな瞳が煌きを帯びながら長を見上げ、恥ずかしそうにまた俯いた。
「いつも、ありがとうございます」
 小さなかぼそい声で、少したどたどしく、桜色の幼い唇が言った。
 長は零れんばかりに華やかに微笑すると、夜光の乳白色の髪を撫でてやり、またその身体を抱き締めた。
「私の方こそ、ありがとうございます、夜光。本当に素敵ですねぇ。とても気に入りましたよ。お礼に、今度は私がおまえに編んであげましょうね」
 長に抱き締められ、何度も髪を撫でられながら、夜光がくすぐったそうに身じろぎした。その小さな唇は何も言わなかったが、そのかわりのように、花のように愛らしい微笑を零れさせた。

        ◇

 紙燭の暖かで控えめな灯かりの中。朱色の脇息にゆるりと凭れた長の傍ら、小さな書卓の上に、子供用の箏の爪と、白と紅梅色の糸で編まれた、いささかいびつな組紐がある。
 時と共に傷んで形を失ってしまわぬよう、まじないをかけてはいるものの、なにしろ昔のものなので、どちらも多少は古びて色褪せている。その古びた様すら愛しむように、長は沁み入るような眼差しで、その二つのものを眺め下ろしていた。
「懐かしいですねぇ……私の目からは、おまえは今も、あの頃とたいして変わってはいないのですけれどねぇ」
 かつてその小さな爪で箏を奏で、初めて編んだ組紐を長にくれた白い半妖の子は、今日の中午ひる過ぎ、蓬莱に旅立っていった。生涯に唯一人、とさだめた伴侶と共に。
 その子が去った後でも、長の住まう部屋は何も変わらず穏やかで、しっとりとした宵の中、どこからともなく花の馨が漂い込んでいる。
 それは、夜光と名付けた幼い子をこの部屋に連れてきたときから、何も変わらぬ光景だった。
 夜光が自ら角を折ろうとした出来事から後も、様々なことがあった。
 ずっと独りきりで、言葉すら与えられず、自分を閉ざして生きてきた夜光は、決して故意ではなく、悪気あってでもなく、己の内に一切を溜め込んでしまう癖が抜けなかった。長にだけは懐いてはいたが、それでも夜光は自分の感情を吐露して預けることはしなかった。
 そんな夜光を、長は決して、一度たりとも責めることはしなかった。長の深い愛情に見守られ、多くの失敗を繰り返しながらも懸命に生きてきた夜光は、そしてとうとう長の手元を離れて、新たな世界に向かって踏み出していった。
 長の白い指が、傍らにあった煙草盆から細い煙管を取り上げる。煙管を咥え、ゆっくりとくゆらせて、深く長い吐息と共に、紫煙を吐き出した。
 漂う煙は、開け放したままの半蔀から差し込んでくる朧月の光を受けて、夢幻のように白く光る。ゆらゆらと漂い、やがて形を失ってゆく煙を眺めながら、長は金色の瞳を少しばかり細めた。
 ──寂しいと感じるのは気のせいではない。けれどそれ以上に、おまえにあたう限りの祝福と歓びを。何処へ行き何に成ろうとも、その倖せと健やかなることを祈ろう。愛しい子よ。
 さらに深く脇息に身を預け、美しい唇が、小さく笑った。
「おまえは、私の自慢の子ですよ、夜光。……また逢えるときまで、かわりなく元気でいなさいね……」
 ふんわりとした夜風が半蔀から流れ込み、書卓の上に置かれた小さな箏の爪を、ころり、と転がした。


(了)

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