二章 氷滴 (2)

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「そこに座れ」
 フィロネルの側までいやいや足を運ぶと、ユアンはそこに置かれていた一人掛けのソファを示された。ソファは深く腰掛けられるゆったりしたもので、張られた緋色の布地は生き血のように目に鮮やかだった。
 何をされるのか、フィロネルが何をしようというのかがまるで見当もつかず、しかしもはやどうにでもなれという気持ちで、ユアンはソファに腰を下ろした。座ってから気が付いたが、丁度視界の正面に当たる壁に、全身がおさまるほどの大きな姿見があった。
 尋問でもするつもりなのかと思っていると、フィロネルが寝台に作りつけられていた棚を小さな鍵で開き、そこからまた妙なものを取り出してきた。ユアンの目には何か分からないものもあったが、明らかに手枷と分かるものや縄を見て、顔を歪めた。召使い達も傷ついたユアンの手当てに馴れた様子だったし、こいつはよほど相手を虐げる形でしか楽しめない性分らしい。
 不安と不快をないまぜにしたまま眺めていると、戻ってきたフィロネルがユアンの腕を取り、手首に枷を嵌めた。
「……貴様はこんなやり方でしか興奮しないのか。下衆が」
 せめて態度だけでも従順になどしてやるものかと、ユアンは視線を逸らしたまま低く毒づいた。
 その顎を、いきなり掴まれて持ち上げられた。至近距離にあるフィロネルの美しく整った貌は、毒々しいほど艶やかな笑みを含んでいた。
「そう扱われることに、じきにおまえも取り憑かれる」
「そんなわけが……!」
 確信をもって囁かれた言葉に、ユアンは思わず反論しようとしたが、枷を嵌められた手首をぐいと椅子の背面に引っ張られて悲鳴を上げそうになった。まだ癒えていない右手首が、鋭く痛む。
 ユアンが顔をしかめて堪えている様子を、フィロネルは楽しげに眺めつつ、背凭れを後ろ手に抱く形で回させた腕をさらに強く引き合わせ、手首の枷を固定した。
 上半身の自由を完全に奪われ、右手首は勿論、後ろに強く引っ張られた肩から腕も痛んだ。できるだけ深くソファの背に凭れていれば、まだしも少しは楽だ。しかし、次に信じられないことをフィロネルは始めた。ユアンの脚を持ち上げてソファの肘掛けに乗せ、そこに縄をかけて肘掛けごと括ってゆく。
「なっ……」
 こんな形で拘束されることなど考えたこともなかったユアンの頬に、かっと朱が昇った。今は寝間着に身体を覆われているとはいえ、両脚とも拘束されてしまったら、またとんでもなく無防備な体勢を強いられることになる。
「拒むのか。では衛兵を呼ぶか?」
 ユアンの動揺を殊更愉しむように、フィロネルが訊ねた。耳や首まわりまで真っ赤になるのを自覚しながら、ユアンは歯軋りした。
「……好きに、しろ」
 心は堕ちなければいい。誇りは手放さなければいい。
 ユアンが顔を逸らして唇を引き結ぶのを見て、フィロネルはまた可笑しそうに喉の奥で笑うと、残った片脚も同じようにソファの肘掛けの上に掛けさせた。
 手馴れた様子で縄をかけられてしまうと、ユアンは優雅なソファの上で、大きく開脚し固定された格好になってしまった。貫頭衣の寝間着の下には何も着ておらず、自分の急所がひどく頼りなくあけすけなことになってしまったのを嫌でも感じた。
 ユアンの前に立ったフィロネルが短剣を取り出し、無造作に寝間着を上から下まで裂いた。窓に近い場所故に、薄曇りとはいえまだ明るい光が、晒されたユアンの若々しい身体の上に落ちてくる。いささかやつれ骨格の浮いた青白い素肌に、緊張感のある筋肉の流れやくぼみ、締まっていながら同時になめらかな陰影が照らし出された。
 さらけ出された自分の身体に、ユアンは屈辱感のあまり涙が出そうになった。この間の夜は寝台の上に仰向けにされていたから、自分の姿をまだ見ずに済んだが、この格好では嫌でも目に入ってくる。小刻みに震える青白い肌に鳥肌が立って、大きく開かれた股間では己のものが縮みあがり、だらりと萎えているのが見えた。
 正面に立っていたフィロネルが横に動くと、ユアンは息を飲んだ。
「あ……」
 ソファの真正面にある大きな姿見に、あろうことか、自分の目線からは見えない箇所までがすべて映し出されていた。あの夜フィロネルに容赦なく犯された箇所を、ユアンは生まれて初めて自分の目で見ることになった。
 激しい羞恥心に眩暈がして、一瞬呼吸が引きつった。
 ​​​──どうしてここまでされる。何故この男は、自分にここまでのことを強いる。殺すなら殺せと思うものを、それもせずに自分をこんなふうに弄ぶことが理解できない。何がこの男にそこまでさせるのだ。
 どれほど心は挫けなければいいと言い聞かせていても、あまりに惨めで口惜しくて嗚咽が洩れそうになる。ユアンは強く奥歯を噛み締めてそれをこらえ、俯いた。
 その顎に、再びフィロネルの長く冷たい指が掛かってきた。今度は妙に優しい仕種で持ち上げられた視界に、絶対的な支配者の眼差しを持つ紫色の色彩が映り込んだ。
「自分の姿から目を逸らすことは許さん」
 あの夜のように謳うような声で、フィロネルはユアンに命じた。甘く残酷な、絶望を強いる声音。
「自分が何をされるのか、自分の身体がどうあさましく反応するのかを見て、よく記憶に刻みつけておけ」
「な……」
 絶句したユアンの頬骨を、フィロネルが大きく頑強な手で掴んで強引に口を開かせた。開いたユアンの唇に、何か小さな容器があてがわれ、口の中に妙に甘苦いような液体がそそぎ込まれる。
「うっ……」
「飲め。毒ではない」
 毒でなかろうと、得体の知れないものを飲まされるのは気味が悪かった。しかし強引に顎を上向けられ命じられれば飲み込まないわけにいかず、それほどたいした量でもなかったそれは、何度か喉を動かしただけですぐに嚥下されていった。妙に甘く薬じみた風味のそれは、伝っていった喉の奥にまでしつこく後味を残した。
 ユアンが完全にそれを飲み込んだのを見届けると、フィロネルはアメジスト色の瞳を細めるようにして笑んだ。爪の下に捕らえた獲物をいたぶる肉食獣さながらに、その虹彩は耀いていた。
「今後の為にも、今日はおまえにたっぷりと下での快楽を教え込んでやろう。おまえがよがり狂って許しを乞う姿はどんなものかな」
 わざと露骨なことを言われているのだと分かっていながら、ユアンはかっとまた頬が熱くなり、反射的にフィロネルを睨み上げた。どこに何をされるのかを考えるだけでも屈辱的で憂鬱だったし、憤りにはらわたが煮え返る。この男に屈するようなことは耐えられなかった。
「……誰が、そんな真似をするか……」
 唸るように言ったユアンの頬に、大きい手ではあるが意外なほど繊細なフィロネルの指がふれる。いっそいたわるような仕種でフィロネルはユアンの頬をなぞり、そこに落ちかかった濃紺の髪を梳いた。
「人間は苦痛には堪えられても、快楽には堪えられないように出来ている。それをおまえは、これから嫌というほど思い知るだろうよ。まあ、気が済むまで存分に抗え。その方が俺には愉しみが長引く」

 フィロネルはユアンの無様に開かれ自由を奪われた身体を、上から下まで無遠慮に眺めながら、手にした容器を傾けた。美しい装飾の施された容器から、とろみのある妙に甘い匂いを振り撒く香油がユアンの剥き出しの肌の上に落ちてくる。胸元から腹の上に、その下にまでぼたぼたと落ちて伝ってゆく気味の悪い感触に、ユアンは顔を歪めた。
 ユアンの性感を昂めることが先決とばかりに、すぐにフィロネルの手は、大きく開かれて閉じることもできないその脚の間に伸ばされた。
 フィロネルの手が己のものを無造作に握ったとき、ユアンはきつく唇を結んだまま咄嗟に首を横に曲げた。そこに間髪入れずに冷ややかな声がした。
「目を逸らすなと言った」
 耐え難い屈辱に、ユアンは早くも胸元のあたりまでがうっすらと朱色に染まりつつあった。尚も首を曲げたままでいると、
「うあっ!」
 ペニスの下にある袋をぎりと握られ、ユアンは悲鳴を上げた。内臓を直接締め上げられるに等しい重く鈍い痛みに四肢が突っ張り、それ以上にこのまま握り潰されるのではないかという恐怖が襲う。
「ぐっ……は、はな、せっ……」
「俺の言葉に背くなら、このまま握り潰す」
 かろうじで見たフィロネルの眼差しは、この上なく酷薄にユアンを射抜いていた。その間もぎりぎりと陰嚢を締め付ける力は緩まず、ユアンの全身に脂汗が浮いてくる。
「わ、かった、から……放せっ……」
 このままでは本当に握り潰される。男性にとってその恐怖は、本能に訴える抗えないものだった。やっと陰嚢を解放されると、ユアンは全身で息を吐きながら脱力した。
 従者になれだのと言ったところで、所詮それは建て前にすぎず、この男にとって自分はどこまでも嬲り甲斐のある玩具でしかないのだ。あらためてそれを自覚し、恥辱と口惜しさと入り乱れる憎悪とにうっすらと涙が滲んだ。覚悟の上で臨んだことだとしても、まっとうな感情がある以上、無感動にすべてを受け流すことなど不可能だった。
「う……」
 ユアンがまだ息を整えられずにいるうちに、フィロネルの指が再びペニスに伸びてきた。てらてらと伝う香油を馴染ませるように、長い指がまだ萎えているそこを揉み、上下に扱く。かなうものなら泣き出したいほど惨めな気持ちで奥歯を噛みながら、ユアンはなんとかそれを視界におさめた。
 反応しなければいいと思うのに、たちまちそこは性の熱を持ち始めた。そのことがいっそう、惨めさと嫌悪感を掻き立てる。無様に囚われ拘束され、剥き出しになったあらぬ箇所を憎い仇の手でいいように嬲られ、それを見ていることを強いられ。こんなことが自分の身の上に起こるなど、想像だにしなかった。
「う、う……っぁ」
 フィロネルの指と掌にいいように揉まれ、ぐちゅぐちゅと濡れた音を立てながら確実に勃ってゆく自分のそれに、屈辱感と嫌悪と惨めさで頭がおかしくなりそうだった。股間も熱いが、香油のふれた地肌が全体にじわりと妙に熱い。腰の付け根からぞくぞくとした性の戦慄が背筋を何度も駆け上がり、身体の中心から思わず引きつりそうなほどの疼きを生じる。
 熱い。
「ふ、くっ……う、ぅあ、あ」
 気がつけば、早くも全身がしっとりと滲み出した熱い汗に濡れていた。どくどくと胸の中で鼓動が速く強く脈打っている。呼吸が早まり、拘束された中で動ける範囲で、無意識のうちに腰が揺れ背がしなる。
 もはや先走りと香油とが混ざっているのだろう、淫靡な水音を立てながら怒張したものを扱くフィロネルの指に、ぞくぞくと堪え難く甘い慄きが何度も腰の中心から脊髄を駆け上がった。己の中心で硬くなったものに絡みつくフィロネルの指の一本一本が、ぎゅっと握られ上下に扱かれる感触のすべてが、鳥肌が立つほど悦い。フィロネルの手の動きのひとつひとつが身体の芯にずくずくとした疼きを生じさせ、とても声や反応を抑えておけない。
 これほど嫌だと思っているのに、なぜこんなにたやすく反応する。そう疑問に思ったとき、唐突に気が付いた。
「あ、あれ、は……なにを、飲ませたっ……」
 あの妙な液体。あれのせいなのか。脳髄までとろけてしまいそうな、否定しようもない快楽にどっぷりと浸されてゆきながら、ユアンは呻いた。
「効くだろう?」
 びくびくと四肢を痙攣すらさせ始めたユアンに、フィロネルはあっさりと、いかにも楽しそうに言った。
「おまえのために、特に強力なものを用意してやったんだ。一嘗めでも数時間は昂ぶって堪らなくなる。あれだけ含めば、明日の朝まで悶えるかもしれんな」
 それを聞き、ユアンは絶望と共に目を見開いた。やはり何かおかしなものを飲まされたのかということと、朝まで、という言葉に戦慄した。まだ夕暮れにもなっていないのに、こんな状態が朝まで続いたら、自分はどうなるのだろう。
「う、ああぁあっ」
 ぐちゅり、とひときわ強く陰茎を扱かれ、ユアンは腰を跳ねさせた。股間が灼熱する。どうしようもなく喉がのけぞって喘ぎ、かつて味わったことの無い昂ぶりに翻弄される。
 すっかり乱れた呼吸を整える余裕もなく、ふらりと彷徨った視線が、正面に据えられていた姿見を捉えた。そこに映し出されているのが自分の姿だと、一瞬ユアンには分からなかった。
 豪奢なソファに四肢を拘束され囚われた姿は、本来青白い素肌を全体に紅潮させていた。露わになった身体の中心で完全に勃起した陰茎を、無造作に他人の手に握られ、一方的に弄ばれている。そのたびにびくびくと腰が動き、生け贄のように囚われた身体が淫らにくねる。目許は完全に快楽にとろけ、唇はしまりもなく喘いで、淫らな女のようにあからさまな悦びの声を上げていた。
 ​​​──自分だ。
 それを認め、ぞっとした。とろけかけていた思考が、一気に正気づいた。
「あぁあっ」
 だがユアンの藍色の瞳に戻った正気の光に目ざとく気付いたように、フィロネルの指がその胸元の粒をいきなり捻り上げた。そこもいつの間にか、熟れ切った果実さながらに赤く充血して膨らんでいた。本来であれば痛みでしかないその扱いが、今は信じられないような強い快感を生み出す。硬く尖った乳首に香油をぬるぬると擦り付けるように転がされ、引っ張られ、弄ばれるたびに、ユアンの喉から潤み切った喘ぎが洩れた。乳首と同時にペニスを嬲られると、二つの箇所から生じる快感が身体の奥で繋がり、理性を押し退けて腰が震えた。
「口ほどにもない。そんな格好で弄られることが、それほど悦いのか」
 フィロネルがそこでユアンの身体から手を引き、せせら笑うように言いながら、勃起しきったペニスを指先で弾いた。びく、とまた腰が跳ね、ユアンは唇を噛んだ。残酷な愛撫が止まり、フィロネルの言葉が耳朶に染み込み、遠のきかけていた理性が戻ってくる。
「う、う……う」
 いかに妙なものを使われたせいだとはいえ、あまりの惨めさと恥ずかしさで目頭が熱を持つ。同時に、こんなふうに縛りつけて妙なものを飲ませて好きに嬲りものにしているのは貴様ではないか、こんなことは全部貴様のせいではないかと、激しい憤怒が突き上げてフィロネルを睨み付けた。
 誰がこんなことを望むという。自分が欲しているのは、ただ貴様の命だけだ。
 その眼差しを受け止めて、フィロネルが嫣然と嗤う。あの夜に見たような、酔ったように愉しげな瞳の色だった。
 ​​​──屈するものか。絶対に、こんな男に。
 その紫色の傲慢で美しい瞳に、ユアンはあらためて強く思い定めた。しかし同時に、これから自分はどうなるのだろうという恐ろしさに震えた。
 こんな常軌を逸した状況に置かれたことなどあるわけもなく、こんな強い感覚を味わったことも今までに無かった。薬物に煽られての初めての感覚は、身構えようにもユアンをひどく戸惑わせ、混乱させた。
 人間は苦痛には堪えられても、快楽には堪えられない。フィロネルの言葉を思い出し、ユアンは頭に不安と絶望がじわりと染み出してゆくのを感じた。
 今は嫌だと強く思う感情も、強く己を押しとどめる理性も、やがてフィロネルのもたらす毒に喰い潰されて、抗えない快楽に変わってしまうことが恐ろしかった。

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