月を想う

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 暗い夜空から、やわらかな雨が降っている。
 普段は虹色の光彩がふわりとかかって見える終の涯の空も、さすがに星も見えないこんな夜は、ただ一面に墨を塗り込めたようだ。
「まだやまないねェ。だいぶ弱くはなってるんだけど」
「今夜中には上がるって、さとちゃんが言ってましたよ」
 大小様々な飲食店が軒を連ねるあたり、大通りを一本裏に入った路地。暖簾のれんのかかった引き戸の向こうから、暖色の明かりとともにそんな声がこぼれてくる。
「ああ、水妖のさとちゃんか。それなら安心だ」
 その引き戸がからりと開いて、男女の二人連れが店内から現われた。
 ひとりは、夜の暗さの中でも眩しいほどの黄金の髪に瞳、燦めくような褐色の肌を持った女性の妖。女性にしては高めの上背に、身体つきそのものはほっそりしているのだが、胸元や腰回りは丸く豊かであるのが、着物の上からでもよく分かる。
 その女性の後ろから、直垂をきっちりと着こなした細身の若い男が現われた。あまり健康的とは言えない肌色に、乱れなく纏めた長い黒髪、一重で切れ長の黒い瞳。容貌の特徴や気配からして、こちらは人間──この終の涯では「客人マレビト」と称される種の者だ。
「それじゃあ、また来るわねェ。ごちそうさまー」
「はぁい、ご贔屓にどうも、絢乃あやのさん、貴彬たかあきらさん。また来てくださいねぇ」
 黄金の女妖──絢乃の伸びやかな声に、店員の明るい声が返る。彼女に続いて暖簾をくぐりながら、無言でマレビト──貴彬が、店内に向かってお辞儀をした。

「ああ、美味しかった。やっぱりここの『絶対満足・はらへり御膳』は最高だねェ」
 絢乃が機嫌良く言いながら、店先の軒下で番傘を広げる。ここに来るまでに既に濡れていた番傘から、ぱらぱらと透明な滴が散る。
 軒下から暗い夜空を見上げながら、貴彬が淡白な声で答えた。
「その名前はどうかと思うが、美味いのは確かだな」
「分かりやすくて良いじゃないさ。名前ばっかりやたら豪華で中身がお粗末などこかの『ふじの屋』のお膳より、ずーっと気がきいてるってもんだよ」
「名前が出てるぞ」
「あらやだ。まァでも、ほんとのことだしねェ?」
 ころころと悪びれずに笑いながら歩き出した絢乃の手から、貴彬は黙って番傘を取る。傘は一本。中午ひる過ぎから雨が降り出したため、彼らの勤め先である銭舗せんぽから、仕事終わりに借りてきたのだ。
「あら、貴彬さんたら優しい」
「俺の方が背が高い。それだけだ」
 にこやかな絢乃と対象的に、貴彬はつまらなそうな仏頂面だ。しかし基本的に彼はいつもこうであると知っている絢乃は、まったく気にしない。
 大通りから一本入った道幅はさして広くないが、石畳できれいに舗装されている。そこにからんころんと、絢乃は上機嫌に下駄の音を響かせる。雨に濡れた石畳に響く音は、晴れの日に響く音より、幾分まろやかだ。
 雨降りとはいえ、多くの飲食店が軒を連ねるこの界隈は賑やかだった。夕食ついでに軽く飲んでいこうという妖達で、路も店も賑わっている。
 様々な姿形を持った妖達が行き交う中を、一本の番傘の下、絢乃と貴彬は歩いてゆく。
「ねェ、貴彬さん。最近はどう? 何か思い出せた?」
「いいや。相変わらずだ」
「ふぅん。ま、身体に障りが無いなら良いけどねェ」
 と絢乃が言うのも、今から一ヶ月ほど前まで、ここにいる貴彬は「神隠し」に遭っていたからだ。
 今から一年程前。貴彬は突然、それまで勤めていた銭舗を理由も言わずに辞め、姿を消した。
 貴彬は人間ではあるが、蓬莱の様々な知識に富んでおり、仕事振りも如才なく、銭舗では重宝されていたから、皆残念がった。しかし何かよほどの理由があるのだろうと、とりたてて追及はしなかった。
 そんな彼が、今から一ヶ月前に、これも突然ふらりと戻ってきた。
 戻ってきたというよりも、彼曰く、
「気が付いたら見知らぬ古い社の裏に倒れていた」
 との話で、自分が何故そんなところに居たのか皆目分からない。そもそも貴彬には、ここ一年の記憶が無かった。銭舗を辞めたことすらうろ覚えで、しかも不思議なことに、一年も経っていながら彼の衣服には傷んだ様子も無く、汚れてもいなかった。
「これは貴さん、神隠しに遭ったな」
 ということになった。
「妖の世界にも神隠しがあるのか」と貴彬は困惑したが、確かにそれ以外に説明がつかない。
「神さんいうより、どっかの妖にたぶらかされたのかもしれんけどねえ。まあ、見たところ身体に障りは無いし、大事無いでしょう」
 特に支障がないようなら戻ってこないか、ということで、貴彬は再び銭舗で働くことになった。
「──正直アタシはさ。貴彬さん、こりゃ蓬莱に帰っちまったなァって思ってたからさ」
 夜道にからころと下駄の音を小気味良く響かせながら、絢乃は大きな口を開けて快活によく笑い、よく喋る。ちなみに彼女は、銭舗で働く同僚だ。面倒見の良い姐御肌で、マレビトである貴彬が昔から気にかかるらしく、何くれと世話を焼いてくる。
「神隠しでも何でも、戻ってきてくれて良かったよ。蓬莱の男っていうのは、不思議と色男が多いからねェ」
「それはどうも」
「それとも、さ。ここだけの話、実は本当に蓬莱に帰ってた、とかいう話だったりはしないのかい?」
「それだけは無い。今さら向こうに帰ったところで、何も残っていない」
 前を向いたまま淡々と答えた貴彬の横顔に、それまで笑っていた絢乃が、気まずそうにしゅんと下を向いた。
「そうかい……それは、ごめんよ。悪いことを聞いたね」
「いや」
 あからさまにしょげている絢乃を見て、貴彬がやや慌てたように気遣う素振りを見せた。
「あちらはもう随分長いこと、いくさが続いて荒れている。こちらで言われているほど、向こうは良い場所でも無い、という話だ」
「そっか」
 貴彬の顔を見上げ、絢乃はくすりと笑った。
「貴彬さん。あんた、見かけによらず難儀な目に遭いなすったんだねェ」
「そうでもない。生きているだけ、俺はまだ運が良かった」
 からんころん、と歩いてゆくにつれ、店の建ち並ぶ賑やかな区画が遠ざかってゆく。
 そのうち分かれ道のひとつで、二人は足を止めた。
「どうせそう離れてもいないだろう」と、傘を差したまま貴彬は絢乃の家の方へ歩き出す。絢乃は嬉しそうにそのあとを追い、同じ傘の下に並んだ。

 周囲から人通りが少なくなるにつれ、番傘を優しく叩く雨の音が耳に響くようになる。
「……でも、何も覚えちゃいないっていうのは、実際不安だろう?」
 隣を歩く絢乃の言葉に、貴彬は少しの間黙り込んだ。
「どうなんだろうな。不安……では無い、気がする」
 自分が一年もの間雲隠れしていた。という自覚を、貴彬はなかなか持つことができない。
 それほど昔の話だとは思えないが、銭舗を辞めた記憶は、ぼんやりと残っている。不可解なのは「何故辞めようとしたのか」が、どうしても思い出せないことだ。
 あの古びた社の裏手にある草叢で目を覚ましたときから、何か胸苦しいような、やけにいたたまれないような感覚が、常に貴彬の中にあった。
 自分の中に、ぽっかりとうろが生じている。あるべきものがそこから抜け落ちてしまったような。忘れてはならない、それが無くなったことで自分が自分でなくなってしまったような空虚さ。
 ──自分は、大事な何かを忘れてしまっている気がしてならない。
 そうだ、これは不安とは違う。──あるのは焦燥感だ。
「それ」が何かは思い出せないのに、「それ」について思い巡らせると、息が詰まるほどの切なさに襲われる。あまりのもどかしさに、苦しいほど胸が締め付けられる。
 一年前の自分に、いったい何があったのだろう。この一年、自分はどこで何をしていたのだろう。自分は、いったい何を忘れてしまったのだろう……?
 無意識のうちに、歩む足が止まっていた。
「貴彬さん?」
 呼ばれて、はっと我に返る。すぐ傍から、夜の中でもそれと分かるほどに鮮やかな黄金の瞳が、心配そうにこちらを見つめていた。
 その煌びやかとさえ言ってしまえそうな黄金色に、思わず貴彬は目が醒めたように瞬き、ふ、と苦笑してしまう。
 この、暗澹たる視界に強引に割って入ってくるような黄金を見ると、不思議と肩から力が抜ける。
 絢乃の持つゆるく波打つ黄金の長い髪も、燦めくような褐色の肌も、過去に貴彬が生きていた世界ではまったく見なかったものだ。
 それは「金霊」と呼ばれる妖特有の外見だったが、絢乃の持つ黄金色はひときわ鮮やかで明るい。彼女自身がいつもおおらかで明るく、貴彬とは違い活力に溢れていることも手伝って、彼女がやけに眩しく見えることがあった。
 いや。実際に「金霊」たる絢乃は、「物理的」にやたらと眩しくはあるのだが。
「まったく。情緒も何もあったものではないな」
 苦笑しつつ思わずぼやくと、「まァ」と絢乃が幼子のように頬を膨らませた。
「よく分からないけど、何か今すッごく馬鹿にされた気がしたよ、貴彬さん?」
「気のせいだ」
「あ、ちょっとこら。もう!」
 先に歩き出してしまった貴彬に、絢乃がふくれっ面で後を追う。と、「あら?」と頭上──空を見上げた。
「貴彬さん。雨が上がったよ」
 夜空を見上げて言った絢乃に、貴彬も番傘を下ろし、空を見る。
「止んだな」
 やわらかな雨はいつの間にか上がり、暗い夜空をゆっくりと厚い雲が流れているのが見えた。
 夜気はほどよく涼みを含んで心地良い。絢乃と二人、何とはなしに空を見上げていると、雲間から満月にほど近い銀の月が、ゆっくりと姿を現した。
「ああ、いい宵だねェ」
 絢乃が大きく伸びをしながら言う。その横で夜空を見上げていた貴彬は、そこに現われた月を見た瞬間、なぜか動けなくなった。
 終の涯の空に架かるもの特有の、淡い光の輪を纏う月。
 硬直したまま、ぽたり、と頬から伝い落ちたものに気付き、貴彬は自分で驚いた。持ち上げた掌に、続けてぱたりぱたりと、頬から伝った滴が落ちる。
「貴彬さん?」
 その様子に気付いた絢乃が振り返り、驚いて息を飲んだ。
 ──何故、俺は泣いている。
 自分の目から零れ落ちる涙の理由が分からず、貴彬は立ち尽くす。
 不意に声を上げて叫びたいような切なさが突き上げてきて、貴彬は目の上を強く覆った。何故かよじれるように、ひどく胸が苦しい。その手から離れた番傘が、ばさり、と濡れた石畳に倒れた。
 ──何故かは分からない。だけれど、突然たったひとつ理解できた気がする。
 自分は何処かで、ひどく美しく切ない夢を見ていた。あの月のように冴え冴えと美しく、妖しく、冷たい、それでも恋い焦がれずにはおれぬ、何かの夢を。
「貴彬さん……?」
 突然顔を覆ってしまった、ただごとならぬ貴彬の様子に、絢乃が心配そうに歩み寄って来る。
 その気配を感じながら、貴彬は幽かに笑った。まだ止まらぬ涙に目許を覆ったまま、狂おしいまでの切なさはそのままに、どこか奇妙に諦めがついたような心地で。
「……俺は、月に恋でもしていたのかな」
 どれほど恋い焦がれても、月は天から降りてきてはくれない。
 具体的な何かを思い出すことは、やはり出来なかった。それでも、どうしてか貴彬は飲み込んでいた。
 自分の中から抜け落ちてしまった虚の正体。──自分は、確かに誰かに焦がれていた。自分のすべてをなげうっても構わないと思うほどに。
 つ、と、肩口にやわらかな指の感触がふれてきた。気が付けば、傍らに立っていた絢乃が、少し困ったような顔で、優しく、どことなく悪戯っぽく笑った。
「月に恋するのもいいけどさ。目の前にいる、こんなに魅力的なアタシのことも、いい加減ちょっとは気にならないかい?」
 冗談めかしているが、その黄金の瞳の奥は、強く真っ直ぐに貴彬を見つめている。
 貴彬は不意をつかれた形で若干驚き、だがそのおかげで、かえって心がほどけて余裕が生まれた。
「……今はとても、そんな気にはなれないな」
 涙を払い、ぐっと背筋を伸ばす。胸苦しい切なさも何もかもそのままだったが、飲み下すように大きく息を吸うと、やっとなんとか皮肉っぽく笑う余裕が出来た。柔らかな夜風が涼しく、頬に心地良かった。
「今は……ふゥん。今は、ねェ?」
「なんだ。さっさと帰るぞ」
 石畳の上に倒れたままだった番傘を拾い上げ、歩き出した貴彬に、絢乃がからころと下駄を響かせながら、慌てて後に続いた。
「ちょっ……もうッ。せっかくこんなに綺麗な月夜なンだから、もうちょっとゆっくり帰ればいいじゃないさァ」
「眠い。帰って寝る。明日に響く」
「もう。風情ってもんが無いわねェ」
「おまえに言われたくはない」
「まァひどい。アタシのどこに風情がないって言うのさ」
 言い合いながら、濡れた石畳に二人の足音が遠ざかる。
 次第に夜空の雲は切れ、降りそそぎ始めた月光が、雨上がりの街をしっとりと照らし始めていた。


(了)

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