誰そ彼の道往き (後)

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 眠り込んだままの少年の髪を、夜光はずっと撫でてやっていた。
 次第に陽は傾き、東の空が透明な青から藍にうつろう。かわりに、西の空は滲むような朱を増してゆく。
 鴉の数も増え、ぎゃあぎゃあと鳴き交わす声が煩かった。何羽か近くまで寄ってきたが、不吉な何かを察しているかのように近付いてはこなかった。
「陽が暮れてきたな」
「ええ」
 眠る少年を見下ろす夜光の白い顔は相変わらず無表情で、内心が読めなかった。
 やるせなく重い気持ちで、葵は少年の幼い顔を見つめていた。
 少年の血色は悪く、骸骨のように眼窩はくぼみ、頬もこけている。「死人の顔だ」と言われたら、その通りだと葵も思う。
 戦に巻き込まれただけでも不憫なのに。よりにもよって、何故こんな子供が。
 葵が思わず重い溜め息をついたとき。ずっと固く閉ざされていた少年の目が、何の前触れもなく、ふっと開いた。
 坊や、と呼びかけて、葵は呼吸ごと声を飲み込んだ。
 少年の目は、焦点を結ばないまま虚空に向けられていた。その黒眼は生気を失い、どんよりと白濁していた。
 夜光が少年の髪を撫でていた指を止め、普段と変わらぬ様子で口を開いた。
「坊や。どうしたの」
「…………」
 少年は、何も答えない。と、ぎこちなく身じろぎし、起き上がってあたりを見回した。
「……声。した。どこ……?」
 見開かれたままの少年の目は、瞬きをしていなかった。その様相は、眠り込む前の少年とは明らかに異なっていた。
 青黒く血色の悪い冷え切った肌、身体の到るところについた痛ましい傷。表情を無くした虚ろな顔。
 そのつぎはぎだらけの襤褸の襟が、だらりと緩んで大きく開いていた。そこからのぞいた少年の腹部を見て、葵は諦めとも納得ともつかぬ思いで、「ああ」と呻いた。
 少年の腹は、無惨に破れていた。腹腔まで見えるそこからは、ちぎれた臓物がはみ出していた。
 腹も足も、もう痛みを感じない、と少年は言っていた。──それは少年が「生者」ではなくなってしまったからだったのだ。
 どの傷が少年の致命傷になったのかは分からない。そもそも、生者ではなくなってしまったのに、なぜ少年が起きて話して、動いているのかも分からない。
 だが、葵がふれた少年の肌には、実際に体温がなかった。小さな手は、頬は、ひどく冷たかった。そしてその身体は、脈打つこともしていなかった。
「……とうちゃん。かあちゃん。呼んでる……」
 虚ろに虚空を見上げ、少年が呟いた。ふらりと立ち上がる。
 それと同時に、葵は頭の先から、全身がぞわりと総毛立った。考えるより早く振り返った先は、少年が虚ろな視線を向けた先と同じだった。
 鈍い色の夕陽が、焼け跡を染め上げている。黄昏の中、真っ黒い煙か影の塊のようなものが、彼らから幾分離れた焼け跡に佇んでいた。
 葵は幽世かくりよのものを視ることに、それほど長けているわけではない。それでもはっきりと視認できた。それ・・が何なのかは分からなかった。だが視た瞬間に、腹の中から背筋までをなぞるように悪寒が走った。
「なんだ、あれは……?」
 どろどろと蠢いているそれ・・は、人の形のようにもそうでないようにも見えた。人、というには随分大きい。真っ黒い煙のようでありながら、奇妙な立体感もあるように見える。黒い暗雲のように蠢いて形を変える中には、髑髏に似たものや、苦しげにもがく人影のようなものが見えた。
 ──「あれ」は、この世にあってはならないものだ。
 反射的に、腰の太刀に手がかかっていた。だが抜けない。「あれ」が人の世にあってはならないものであることは分かるが、同時に考える。
 ──「あれ」はきっと、死んだ少年の家族や、戦に巻き込まれて殺された村人たちがこごったものだ。ただそれだけのものではないが、そうであるなら、彼らには何の罪咎も無い。それどころか、あのような姿になって尚、苦しみもがいているように見える。
 どうする。
 葵が迷って動けずにいるうちに、ゆらりと少年が踏み出した。佇む影に向かって行こうとする少年に、葵は咄嗟に留めようと手を伸ばしかける。その前に、白いものがふわりと割って入った。
「おまえさまは、ここにいて下さい」
 葵の前に腕を伸ばして、夜光が動きを制していた。
「しかし」
 言いかけた葵に、夜光は目を向ける。幽かにその頬が微笑んだ。
「これの始末は、おまえさまには向きませぬ」


 よたよたと、少年があの黒い影に向かってゆく。その痩せた小さな身体を、追っていった夜光が、背後からふわりと白い被衣に包んだ。
「坊や、いけません。おまえまで取り込まれてしまいます」
「なんだよ。じゃますんなよ」
 少年は、枯れ枝のような身体をもがかせた。その力は、既に小さな子供のものではなかった。
「はなせよっ。あそこにいるんだよ、みんな!」
 細く枯れて弱った骨が折れるのではないかと思うほどの力で抵抗する少年を、夜光はいっそう抱き締めた。
「いけません。あれ・・は、もう優しいおまえの家族では無い。おまえを同じところへ引き込もうとしている、怨霊の塊です」
 戦に巻き込まれ、恨み哀しみを呑んで死んだものたちの死霊怨念が、垂れ込める陰の氣にあてられて凝り、波旬と化したもの。「あれ」はそのようなものだろうと、夜光は見当をつけていた。
 黒い影は苦しげにもがくように渦を巻き、揺らめきながら、しかし夜光と少年に近付いてこようとはしない。黒い靄を手足のように伸ばしかけてはくるが、何かに怯えたように引っ込めては、恨めしげに揺らめかせている。
 夜光の腕の中で手足をばたつかせながら、少年は叫んだ。
「うるせぇっ。かあちゃんもとうちゃんも、とせも、みんなあそこにいるんだよ。おれを呼んでるんだ。はなせよぉっ!」
 少年は夜光の腕に爪を立て、噛みついて、振りほどこうと懸命に暴れる。夜光は少年をしっかりと抱き締めたまま、佇む黒い影を見た。
 あれがこの先もっと肥大化し、もっと性質の悪いものと同化すれば、妖怪化することもあるかもしれない。だが今の時点では、ただ死んだときの苦痛や嘆き、生前の執着や恨みつらみを引きずりながら彷徨うだけのものだ。とても「良いもの」とは言えないが、少なくとも夜光や葵に害をなせるほどの力はない。それを裏付けるように、袂の中にあるタマフリの鈴も、微弱な反応は示していたが玉音たまねを鳴らすまでのことはしていなかった。
「いけません。取り込まれれば、おまえも苦しみながら彷徨うことになりますよ」
 憐れではある。だが、あんなものは今の世では珍しくもない。そのいちいちに関わって祓うような真似をしていては、こちらの身ももたない。
 だが、すでに氣枯れて「死者」と成っている少年が「あれ」に取り込まれれば、ただでは済まないのも目に見えていた。
 この少年は、まだ「人」として解放してやることができる。家族と引き離されることも、この少年にとっては哀しくつらいだろうが、「あれ」と同化しても救われることはない。ならばまだ、苦しみが少しでも軽いほうがましだろう。
 どんなにもがいても夜光の腕が緩まないことに、少年は何かを察したように、ふいに暴れるのをやめた。その白濁して見開かれたままの目から、乾いた頬に、ぼろりと大きな涙の粒が落ちた。
「いやだよ。おれ、みんなと一緒がいい」
「来世で一緒になりなさい。おまえは、あちらにゆくべきではありません」
「いやだよ。ひとりになるの、おれ、いやだ……」
 黒い影を凝視したまま、少年は途方に暮れたように、ぼろぼろと涙を零す。その細く頼りない頸元に、夜光は白い手を持ち上げた。その指の間には、うっすらと輝く細い細い針金のようなものがあった。
「……ごめんね」
 少年の折れそうに細い頸に、すっと、真横から針金を刺し込んだ。細い細いそれは抵抗もなく少年の頸椎を貫き、頸を貫いた。
 呻くでも叫ぶでもなく、少年がぽかんとしたように目を丸くする。と思うと、繰り糸が切れた人形のように、痩せた小さな身体がぐにゃりと折れて崩れた。
 夜光の用いた薄く輝く針金は、陰陽の均衡を正し、穢れを祓うまじないのこめられたもの。均衡の崩れたものを貫けば、たちどころに正しい姿に還す力を持つ。
 それに刺し貫かれた少年の身体は、本来のあるべき姿──つまりただのかばねへと、既に還っていた。
 そのむくろからふわりと抜け出した魂魄を、夜光は手繰り寄せる。広げた左の袂に招き入れると、弱く小さな感触のそれを、そっと、だが決して外には出さないようにしまいこんだ。
 そうしてから、離れた場所に佇んでじっとこちらを見つめている黒い影を振り返った。
「おまえたちに用はない。去れ。去らないのなら、討ち祓う」
 冷然と言い放ってから、夜光は僅かに表情をやわらげた。
「──この子は、私が必ず良いようにします。心残りもありましょうが、おまえたちではこの子を蝕み、苦しめるだけです。愛しいと思う心がまだあるのなら、捨て置きなさい」
 その言葉が届いたのかどうか。
 その場にしばらく黒い影は留まっていたが、やがてゆらゆらと寄る辺のない煙のように揺らめき、遠ざかり始めた。
 見守るうちに、黒い影はゆっくりと薄れ始める。その姿に、夜光は何故ともなく、「泣いているようだ」と思った。
 黒い影は揺らめきながら、昼とも夜ともつかない夕暮れの中に、やがて溶けるように消え去っていった。


「おまえは、強いな」
 黒い影が完全に消えたのを見届けた後。深く重い溜め息とともに、思わず葵の口からそんな言葉がこぼれ出ていた。
 深まる残照の中で、夜光が振り返る。そして何事もなかったかのように、小さく笑った。
「おまえさまとは、芯の据わる場所が違うだけです」
「そんなことはない。俺は、動くこともできなかった」
 自分では、あの少年にとって良いようにはしてやれなかった。少年は既に、現世うつしよの理から逸脱してしまっていた。腰の太刀で斬り、あの状態から解放してやること。おそらく、それが正解だった。
 あの黒い影をみたときも、戦に巻き込まれて死んだ憐れな者達なのだと思うと、不憫に思う気持ちや憐れみに胸を衝かれてしまった。情に囚われて動けなくなってしまった自分が情けなかった。
「言ったでしょう。これはおまえさまには向かないと」
 夜光がゆっくりと、葵の前に歩を運んでくる。白くたおやかな手が、うつむいている葵の手を取った。
「私も、おまえさまのようには出来ないことばかりです。そのかわり、おまえさまには出来なくても、私なら出来ることもある。それで良いではありませんか」
 その夜光の白い手は、深まる夕闇の中でもはっきりと分かるほど生傷だらけだった。夜光に抱き締められた少年が、「放せ」と引っ掻いたり噛みついたりして暴れたときに負った傷だった。
 今にして思えば、既に半ば幽世のものになっていた少年には羽衣の目くらましが効かず、最初から夜光の姿が正しく見えていたのだろう。
 おそらくあの時点で、夜光にはあの少年が、まっとうな生者ではないと分かっていた。死者に手当てなどしても無意味なはずなのに、夜光はきちんと手当てを施してやり、ずっと膝枕をして頭を撫でてやっていた。少年がどんなに暴れて泣き叫んでも、爪や歯を立てられても、抱き締めた腕を緩めなかった。
 夜光の見せるいたわりは、一見分かりにくいことがある。あの少年を躊躇なく骸に還したことも、それでいつもと変わらない顔をしていることも。ともすると、残酷にすら見えかねないくらいだ。
「……おまえは優しいな。それに、間違わない」
 知らず、そんなふうに口をついていた。自分は夜光ではないから、夜光の考えていることのすべては分からない。だが、きっとそういうことなのだと思う。夜光はむやみに優しいわけではないが、本当にそれを必要としているものを見誤ることはしない。
「な……何を急に言い出すんです。私は、優しくなぞありませんよ」
 きょとんとしたあと、言われたことを理解したのか、夜光の頬に夕暮れの光線の中でも分かるほど朱がのぼった。やや目許の尖った夜光に、葵は無理をするでもなく笑うことができた。
「思ったことを言っただけだ。とりあえず、完全に暗くなる前に、今夜休む場所を探そう。それから、おまえの傷の手当てもしないとな」
 夜光は何か言いたげにしていたが、それもそうだと思ったのか、「そうですね」とすんなり頷いた。
 葵は、あの少年の骸を振り返った。
 あの少年を思い、戦火に巻き込まれてしまった人々を思うと、胸が詰まって泣きたいような思いがした。
 情に囚われて動けなくなってしまうのはいけないが、情を持つこと自体を悪いとは思わない。ただ、情を持つなら、それに折られない強さも持たなければいけない。そういうことなのだろう。
 少年の骸をあのまま放置しておくのも憐れで、そちらに葵は足を向けた。
「あ」
 そこに、夜光がふとしたように声をかけた。
「葵。その骸は、そのままで良いそうです」
「え?」
「その子が。……せめて、このまま骸だけでも、村の中に置いておいてほしいと」
 夜光が自身の左の袂を、そっと押さえるようにしながら言った。
 葵にはよく分からないが、夜光は袂の中に、幽世に属するさまざまなものをしまっているらしい。夜光はそれらを、管狐や式、眷属などと呼んだりしていた。
 葵には何も見えないし聴こえないから、夜光が何を見聞きしてそう言っているのかは分からない。だが、夜光がそんな出まかせを言うとは思えなかった。
「そうか。……大丈夫か?」
 そういえば、自分も夜光も、あの少年の名前も知らない。
 漠然とそう訊ねると、夜光は微笑んだ。少しだけ切なげに。
「はい。ずっと泣いていますが、大丈夫です。頭の良い子なのでしょうね。この場所に引き込まれないところまで連れて行ってから、そうですね……どうしたいか聞いて、良いようにしてやります」
「うん。それでいいと思う」
 葵も頷き、立ち去る前にもう一度だけ、少年の骸を振り返った。
 ただ通りかかっただけの自分たちには、何をどうしてやることも出来はしない。だが、ただせめて祈りたかった。
 少年の骸だけにでなく、この場所で死んでいっただろうものたちに対して、葵は目を伏せて頭を下げた。せめていつかは、魂が安らいでくれるように、と。
 惨憺たる地上の有り様とは相反して、頭上に広がり始めた星空は、鮮やかに澄み渡っている。
 昇り始めた白い半月が、歩き始めた二人の道往きを、仄かに照らし出していた。


(了)

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