──只白い世界にとけてゆきそうな中を、頼りない浮舟のように、朦朧と漂っていた。降りしきる白い花のような雪の中にいる筈なのに、けれどどうしてか、少しも寒くはない。
「……光。夜光……」
と、自分を呼ぶ声と、肩を揺する感覚。ふっと、夜光は意識を浮上させた。
それとともに、いっせいに物音と色彩が押し包む。ほうぼうから響く野鳥の囀りと、降りしきる蝉時雨。むせかえるほどに濃い夏草や土の匂い。梢の隙間を縫って瞼に落ちてくる、眩しい木漏れ日。
「夜光。大丈夫か」
視界の中に、ほっとしたように、だが心配そうに覗き込んでくる葵の顔があった。鮮やかな朱色の髪が、斑な木漏れ日を受けてちらちらと光っている。ああ、と、夜光は溜め息のような声を零した。
「葵……すみません。私としたことが」
葵と共に山道を進んでいたところ、ふいに胸の悪さと眩暈を生じて歩けなくなったことを思い出した。葵に支えられたことまでは覚えていたが、その先は曖昧だ。どうやら気を失ってしまっていたらしい。
何か、白い世界の印象が漂っていた。夢を見ていたのだろうか。白くて凍えるような……雪の中で、独りきりで「誰か」を待っていたような気がする。
胸の奥に、しくりと残る何かがあった。切ないような嬉しいような、泣き出したいような。遠く隔たっていながらも、それらは沁みいるように胸を衝いた。
夢の残滓は曖昧で、こうしているうちにも淡雪のように消えてゆく。指の間からすり抜けてゆくようなそれに、埒もないことと、夜光は胸に溜まった息を吐いた。
こんなに蝉が賑やかな時期に、雪の夢を見るだなんて。季節外れすぎて、妙に後を引くようだ。
夢の名残が蝉時雨に飲まれてゆくと、急にあたりの気温を感じた。とはいえ木陰にいるおかげで、暑さはさほど感じない。下生えの青草が、着物から出ている手首や素足にふれて、ひんやりとしていた。
「無理をするな。少し水を飲めるか?」
訊ねられて、夜光は頷いた。言われて気が付いたが、喉がすっかり渇いていた。
葵が丁寧に抱え起こして、竹筒から水を飲ませてくれた。水はぬるくはあったが、喉に甘く染み込んでいった。
「ありがとうございます。もう大丈夫だと思います」
そうするうちに、眩暈もおさまってきた。起き上がったまま、木の幹に背を預ける。
陽差しは強いが、そのぶん落ちかかる枝葉の影は濃い。被っていた被衣を肩に下ろすと、汗に濡れた頬や首筋を、乳白色の髪を持ち上げて山の風が爽やかに洗った。
「おおかた、暑気あたりでしょう。少し疲れていたのかもしれませんね」
「そうか。すまない。もっと気にかけておくべきだった」
夜光の言葉を聞き、面目なさそうに葵が言った。
共に蓬莱の地を旅するようになってからそれなりに経つが、夜光が道中で体調を崩すことなど一度も無かった。なにしろ人間よりもよほど丈夫な、半人半妖という身の上である。
夜光自身ですら体調が悪いとは思っていなかったのだから、葵が詫びる必要などないのだが、心底悔いている様子の葵を見ていると、夜光はほほえましくなった。
「おまえさまのせいではありません。半分は妖の身で暑気あたりなど。それこそ、だらしがなくて申し訳ないくらいです」
「だらしがないなどあるものか。半妖だろうと、生きているからには好不調くらいあるだろう」
生真面目に、葵が言い返した。
「何にせよ、今日はもう無理をせずにおこう。野営の支度は俺がするから、おまえはゆっくりしているといい」
「そうですね。お言葉に甘えさせていただきます」
葵は自身のことよりも、よほど夜光のことを心配するし気にかける。次第に体調は回復してきていたが、ここは素直に葵に任せておいたほうが良いだろうと、夜光は微笑んだ。
葵は近くの木立の下、芝草の柔らかな程良い場所を見繕い、手際よく荷を解き始めた。
それをぼんやり視界の端に入れながら、夜光は高く響く野鳥の声に誘われ、木漏れ日の下から空を見上げる。
とろりと青い夏の空に、何羽か飛び交う影がある。その中に、空以上に鮮やかな瑠璃色の小さな翼が、宝石のように光って見えた。あれはオオルリだろうか。それ以外にも、翼を持つものたちは様々な声で鳴き交わしながら、夏空を舞ったり、枝から枝へと跳ねたりしている。
そのうちの何匹かが、身動きしない夜光のもとへ降りてきた。恐れ気もなく、むしろ様子を伺うように、膝や肩に乗ってくるものもいる。カケスやヒガラ、ウグイスにミソサザイ。聡く可愛らしいものたちに、夜光の目許も自然にやわらいだ。
野山に生きるものたちは、夜光が「人間ではない」ことを敏感に察する。人間離れしたもの、むしろ野山や自然のほうに寄り添う性質を見抜いてか、岩や木を恐れないのと同じように、こうして近くに寄ってきたりする。夜光が無防備でいるときほど、それは顕著になるようだ。
気が付けば鳥達以外にも、栗鼠や狸や穴兎といったものたちが、なんだろうというように夜光の近くに姿を現していた。とはいえ近くにいる葵を警戒してか、鳥達ほど側には寄ってこない。
それらに囲まれているうちに、まだ残る倦怠感や疲労感から、夜光はいつの間にかうとうとしていた。
その光景に、葵は途中で気が付き、少し驚いた後に微笑した。
夜光の周囲に自然のものたちがよく現われるのは、これまでにも何度も見かけている。普段から夜光には、人間じみたところの薄い、どちらかといえば人ではないもの、精霊とかそういったものに近い気配があったから、とくに不思議だとは思わなかった。
半妖、とはいうが、それは悪しきもの、あやしきもの、ということでは断じてない。葵はそう思っている。ただ「純粋な人間とは少し違う」というだけだ。むしろ生ぬるい血肉を持つ、地べたを這って生きる泥臭い人間というものよりも、精霊や神霊といった、普段は目に見えぬ尊いものたちに近い性質を持つもの。そうでありながら、確かに「人」でもあろうとするもの。
どちらでもありどちらでもないあわいの上に立つ、そんな夜光のことが、人間にすぎない葵には、正直いまだによく分からないこともある。けれどそんなことは、夜光と共に在るために、さして重要であるとも思わなかった。
人間同士であろうと、分かり合えないこと、分からないことはいくらでもある。夜光が夜光であること。夜光をこの上なく尊く愛しく思うこと。そして、理解は難しくとも、知ってゆこうとすること。そちらのほうが、葵にとってはよほど大事なことだった。
野山のものたちが夜光を見守ってくれていることに感謝しながら、葵は黙々と、野営の準備を進めた。
しかしさほどもせず、夜光は目を覚ますことになった。
膝や肩や頭に留まっていた鳥達が、前触れなく羽ばたいて飛び立つ。周囲にいた獣たちがぴくりと動き、さあっと潮がひくように草木の間に姿を消す。
まだ空は充分に青く明るいが、西の端は僅かに翳りはじめていた。そんな中で、夜光は山道の向こうから聞こえてくる足音を聞いた。
急ぐでもない、しっかりと一歩ずつを踏み締めて歩く足音だ。迷いの無さが、このあたりに慣れた者の気配を感じさせる。
木樵か山立だろうか、と思っていると、じきに細い山道の向こうに、一人の男の姿が見えてきた。
葵も気が付いて、作業する手を止めている。向こうから近付いてくる男も、すぐに二人に気が付いたようだった。
「……おや?」
粗末な編み笠を被った男は、足を止めてひどく驚いたように目を丸くした。そこで夜光はやっと、被衣を肩に降ろしているせいで、この男に素顔を晒してしまっていることに思い至った。夜光の被衣は「月天の羽衣」といい、本来は頭から被っていれば見る者の目を眩ませることができる宝物なのだ。
やはり本調子ではないせいか、だいぶ迂闊になっている。表面上は顔色も変えぬまま、夜光は警戒心を張り巡らせた。
「おや……おやおや……? これはまた、実に面妖な」
だがそれは、突然山の中で正体の分からないものに遭遇した男の方も同じだろう。男は無遠慮に、編み笠の下から夜光と葵を眺めまわした。
黒髪黒眼が当たり前の人間たちの中にあって、白い髪に紫の瞳を持つ夜光の容貌は相当に異質だが、燃える夕紅を思わせる葵の朱色の髪もまた、ぎょっと目をひく程度には異質だ。夜光も葵も「異質なものを見る目」には慣れていたから、男がどんな行動に出てもいいように、平静に相対する下でひそかに身構えた。
男の痩せぎすの身を覆うのは、相当な襤褸になりかけてはいるが、墨染めのおそらくは僧衣。どうやら編み笠の下は禿頭であるようだ。
しかし僧侶というには、いささか雰囲気が荒い。修験者といったものにも見えなかった。薪を背負い、曲がりかけた腰には何かの獣の毛皮を巻いた上に、鉈や鎌を下げている。どちらかというと木樵や山男といった雰囲気に近いのは、どうやら山暮らしに馴染んでいるせいだろうか。
男は骨が浮いてぎょろついて見える双眸を、ひたりと二人に据えた。そして目付きの鋭さに反して、やけに軽妙な調子で言った。
「人か、はたまた妖か。ここは夜刀神様のおわす禁足の地ぞ。お二方、こんなところでいったい何をしておいでかな?」