六花咲きて巡り来る (一)

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 ──只白い世界にとけてゆきそうな中を、頼りない浮舟のように、朦朧と漂っていた。降りしきる雪の中にいる筈なのに、けれどどうしてか、少しも寒くはない。
「──光。夜光……」
 と、自分を呼ぶ声と、肩を揺する感覚。ふっと、夜光は意識を浮上させた。
 五感が戻ると同時に、あたりに物音と色彩が甦る。降りしきる野鳥の囀りと蝉時雨。濃密な草木や土の匂い。薄く開いた瞼に落ちてくる、またたく木漏れ日。
「夜光。大丈夫か」
 視界の中に、ほっとしたように、だが心配そうに覗き込んでくる葵の顔があった。ああ、と、夜光は溜め息のような声を零した。
「葵……すみません。私としたことが」
 葵と共に山道を進んでいたところ、ふいに胸の悪さと眩暈を生じて歩けなくなったことを思い出した。葵に支えられたことまでは覚えていたが、その先は曖昧だ。どうやら気を失ってしまっていたらしい。
 何か、白い世界の印象が漂っていた。夢を見ていたのだろうか。白くて凍えるような……よく覚えていないが、あれは雪の中だった気がする。こんなに蝉が賑やかな時期に雪の夢を見るだなんて、季節外れすぎて妙に後を引いた。
 目を開くと眩暈がして、すぐにまた閉じた。濡らした手拭いが、額に載せられている。着物から出ている手首や素足に、あたりを覆うひんやりとした青草がふれていた。
「無理をするな。少し水を飲めるか?」
 訊ねられて、夜光は頷いた。言われて気が付いたが、喉がやたらに渇いていた。
 葵が丁寧に抱え起こして、竹筒から水を飲ませてくれた。ぬるくはあったが、喉に甘く染み込むようだった。
「ありがとうございます。もう大丈夫だと思います」
 そうするうちに、眩暈もおさまってきた。起き上がったまま木の幹に凭れて、一息つく。
 陽差しは強いが、木陰にいると空気の爽やかさがまさった。頭から被っていた被衣かつぎを肩に下ろす。汗で濡れた頬や首筋を、山の風がひんやりと洗った。
「おおかた、暑気あたりでしょう。少し疲れていたのかもしれませんね」
「すまない。俺がもっと気にかけておくべきだった」
 夜光よりも余程つらそうな顔をしながら、葵が言った。
 一緒に蓬莱の地を旅するようになってからそれなりに経つが、夜光が道中で体調を崩すことなど一度も無かった。人間よりもよほど丈夫な、半人半妖という身の上でもある。
 夜光自身ですら体調が悪いとは思っていなかったのだから、葵が詫びる必要などないのだが、心底悔やんでいる様子の葵を見ていると、夜光はほほえましくなった。
「おまえさまのせいではありません。半分は妖の身で暑気あたりなど。それこそ、私の方がだらしがなくて申し訳ないくらいです」
「だらしないも何もあるものか」
 生真面目に、葵が言い返した。
「半妖だろうと、生きているからには好不調くらいあろう。ともあれ、今日はもう無理をせずにおこう。野営の支度は俺がするから、おまえはゆっくりしているといい」
「そうですね。お言葉に甘えさせていただきます」
 葵は自身のことよりも、よほど夜光のことを心配するし気にかける。次第に体調は回復してきていたが、ここは素直に葵に任せておいたほうが良いだろうと、夜光は微笑んだ。
 葵は近くの木立の下に程良い場所を見繕い、手際よく荷を解き始めた。
 それをぼんやり眺めながら、夜光は高く響く鳥の声に誘われ、木漏れ日の下から空を見上げる。とろりと青い夏の空に、その空以上に鮮やかに深い瑠璃色の小さな翼が光って見えた。あれはオオルリだろうか。
「美しいな」
 同じ鳥を見ていたのだろう、葵も手を止めて空を仰いだ。
 空はまだ高く青いが、西の空は徐々に黄昏れ始めていた。物悲しげな蜩の声が、どこからともなく響いている。
 様々な囀りや山に生きるものたちの声が聞こえていたが、それらは特に二人に近付いてこようとはしなかった。今に限らず、露営していても、野山のものたちが危害を加えてくることはまず無い。きっと二人の持つ、現世うつしよだけではなく幽世かくりよにも属する気配を感じ取っているのだろう。
 夜光は木に凭れたまま、ふう、と息を吐いた。眩暈や胸の悪さはほぼおさまっていたが、手足がやけに重い。それに、おさまったとはいえ、まだどこか不快感は引きずっている。
 やはり自分で思っていたよりも、疲れが溜まっていたのだろうか。頭もあまり働かず、ぼんやりと空や葵を眺めていた。
 次第に太陽が西の空に傾いてゆく。どれくらいそうしていたのか、ふと夜光は、道の向こうから聞こえてくる足音に気が付いた。
 急ぐでもない、しっかりと一歩ずつを踏み締めて歩く足音だ。迷いの無さが、このあたりに慣れた者の気配を感じさせる。
 木樵か山立やまだちだろうか、と思っていると、じきに細い山道の向こうから、こちらに向かって歩いてくる、一人の男の姿が見えてきた。
 葵も気が付いて、作業する手を止めている。向こうから近付いてくる男も、すぐにこちらに気が付いたようだった。
「……おや?」
 粗末な編み笠を被った男は、足を止めてひどく驚いたように目を丸くした。そこでやっと、被衣を肩に降ろしているせいで、この男に素顔を晒してしまっていることに夜光は気が付いた。夜光の被衣は「月天の羽衣」といい、本来は頭から被っていれば見る者の目を眩ませることができる宝物ほうもつなのだ。
「おや……おやおや……? これはまた、実に面妖な」
 男は無遠慮に、編み笠の下から夜光と葵を眺めまわした。その身を覆うのは、相当な襤褸になりかけてはいるが、墨染めのおそらく僧衣。薪を背負い、曲がりかけた腰には毛皮を巻いた上に鉈や鎌を下げてはいるが、木樵の類いにはあまり見えない。どうやら編み笠の下は禿頭であるようだった。
 男は痩せぎすのせいかいっそうぎょろついて見える双眸を、ひたりと二人に据える。そして目付きの鋭さのわりに軽妙な調子で、言った。
「人か、はたまた妖か。お二方、こんなところでいったい何をしておいでかな?」

 

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