八重山振りの君 (二)

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 その日は、いったんその場で野宿をすることにした。
 手当てをしたとはいっても、夜光の捻挫はかなりひどく、右脚にまともに体重をかけられなかった。
 二人の道中は、夜光の義父である「終の涯ついのはての長」から賜ったいくつかの宝物のおかげで、只人が旅をするよりも余程負担が軽い。移動や自衛は自分達の手足でやらなければいけないが、衣類の備えや身だしなみ、最低限の水や食糧といった生命維持の根幹に関わる部分では、贅沢をしなければ、そう困ることもない。
 そもそも、先を急ぐ旅なわけでもなかった。加えて、半分とはいえ妖の血の混ざる夜光は、普通の人間よりもずっと身体が丈夫で回復も早い。そう遠くない場所におそらく人里がある、とはいえ、まだその確証も無い以上は、今日はいったんこの場で休む方が賢明だった。
 幸い天候も悪くは無く、穏やかにその日の夜は過ぎていった。悪戯をしかけてくるようなものも特におらず、黒い影となった木立の間から垣間見える清月が明るかった。
 翌朝、明け初める東の空のまだ薄ら白い中、二人は草枕の宿を払って、その場を後にした。


 無理をせずに一晩休んだおかげで、夜光の足はだいぶ良くなっていた。とはいえ、さすがに一日で完全に治るまではいかない。
 まして歩くのは、かろうじで道と呼べるものではあっても、手入れもされぬ雑木林の悪路である。葵はしきりに夜光の状態を気にし、荷物の類いはすべて引き受け、ところどころで手や肩を貸した。何であれば夜光を背負うことも辞さない構えだったが、夜光は苦笑してそれを固辞していた。
 確かに痛むが、まったく歩けぬほどではない。夜光を背負い、さらに旅の荷も負って歩くのは、いくら葵でも骨が折れるだろう。それにおそらくこの雑木林を抜ければ、程近い場所に人里がある。
 やがてすっかり空も明るくなり、林を抜けて少し進んだところで、目視できる距離に人里からのものと思われる煙の筋が幾筋か立ちのぼるようになった。
「あそこまで歩けそうか、夜光?」
「はい。ゆっくりであれば」
 人里に近付くにつれ、道も多少は整ってきた。どうやら二人が通ってきた道は、所謂本道では無かったらしい。そのうち山吹の繁る辻に行き当たり、合流した幅のいくらか広い道は、踏み固められていくつもの轍の跡が走っていた。
 この頃には、開けた視界の先に、素朴な集落が眺められた。あたりには田畑が広がっているのが見える。水を張った水田に、山嶺と青空が映り込んでいた。
 夜光はこういった場所ではいつもそうするように、辻の片隅に建てられた古ぼけた道祖神に一礼し、挨拶をした。そこにはまだ新しい小さな団子と、摘まれたばかりと思しい野の花が、せめてもの心尽くしのように供えられていた。
 ものの境となるところには、そこを護る神が居る。人と、そうでないものたちの世界とを分かち、土地に生きる人々のささやかな営みを護る境界。なにも居ない場所もあるが、ささやかでも、神とは呼べぬほどの小さきものでも、たいていは何かしらが居る。
「お邪魔させていただきます」
 葵はまだしも「人間」だが、夜光ははっきりと、人というには異質だ。夜光自身には、人間達に対するむやみな害意は──今でこそ──無いが、夜光の持つ異質性に、そこを護る土地神が反応することはあった。
「律儀だな」
 そんな夜光を見て、葵が感心するように言った。
「よそ様の土地にお邪魔するのですから。それに私は、なにしろ性分が性分です。気の荒い神様には、そこに立ち入っただけで警戒されることもあるのですよ」
「ふうん。難儀なものだなあ」
「それに一言ごあいさつしておくと、気の良い神様であれば、その土地にいる間は護って下さったりもするんですよ」
「ほほう」
「葵も、ごあいさつしておいたらいかがです? 減るものでもありませんし」
 夜光に言われて、葵も素直に道祖神に向かって礼をし、手を合わせた。
 その後、二人は先に見えている里に足を向けた。
 それほど大きな集落ではない。近付くにつれ、元気そうな子供たちの声が、爽やかな薫風に乗って聞こえてきた。
 貧しく逼迫した村では、近付くだけで肌がぴりっとするような、殺気だったものを漂わせている。だがこの村からは、そういったものは感じなかった。豊かでは無いが、少なくとも今は、ひどく困窮もしていない。そんなごく普通の農村であるようだった。
 どうやら田植えも一段落し、今は村に束の間ゆったりとした時間が流れているようだ。二人が近付いてゆくと、あたりで作業や立ち話をしていた村人たちが気が付いて、視線を向けてきた。
「おーい。おまえさんたち、旅の人かぁい」
 中の一人が、大きく手を振って呼びかけてきた。夜光と葵は、そのやや腰の曲がった気の良さそうな男のもとへ足を運んでゆく。自然、他の村人たちも、物珍しげに集まってきた。
「あんたたち、そこのお辻さまにキチンとあいさつしてただろう。ヨソ者にしちゃあ礼儀がなってるもんだ、と感心してたんだ」
 男は気さくに話しかけてきた。「お辻さま」というのは、二人が通りすがりに挨拶をしてきた、あの道祖神のことだろう。穏やかそうな村ではあるが、目ざとく侵入者を観察していたあたり、多くは自衛を求められる小規模な集落においては、さもありなんというところではある。
 土地神に対して礼節を通す意味もあるが、そもそも土着の神などに敬意を払われて悪い気のする人間も少ない。それで人間たちの警戒心が緩むなら、それも安いものだと夜光は思っていた。
 夜光は被った白い被衣──夜光の異彩を隠す目くらましのかかっている──を脱ぐことはしなかったが、男とその周囲に集まりつつある村人たちに、ものやわらかに頭を下げた。
「わたくしどもは、難を避けて京師みやこのほうから、あてもなく旅をして参りました。道中こちらのほうに竈の煙が見えましたゆえ、足を運ばせていただきました次第にございます」
 おお、と、集まった村人たちから、ねぎらうような、あるいは興味深げな声があがる。最近はこう言っておくと、明らかに一定整った身なりをした二人連れのあてもない道中でも、たいして人に疑われず、怪しまれることも少ないことを学んだ。
「そいつは随分な長旅だったなあ。あっちのほうは、ずいぶんひでぇありさまみてぇだからな。まあ、なんもねぇ村だが、よければ少し休んでいくといいよ」
 案の定、男をはじめとする村人たちは、割合にすんなりと二人の存在を受け入れてくれたようだ。
「ありがとうございます。助かります」
 葵も、村人たちに腰を折って一礼した。それを受けて、男はいささかあらたまったように、編笠の下にある葵の顔を見上げた。背筋のすっきりと伸びた姿勢のせいもあるが、葵の上背は平均的な男性の身長よりも、いくらか高かった。
「そっちのあんたは、あれかい。オサムライさんかい? こんなところに珍しいねえ」
 男はしげしげと、葵の姿を見回した。他の村人達も、遠慮なく葵を見つめている。
 葵は左の腰に、襤褸布を巻き付けてはいるものの、一目でそれとは分かる太刀を佩いている。ややくたびれてはいるものの、きっちりと袴を身につけてもいる。弓や矢筒も背負っており、少なくとも、ただの町民や農民という装いではなかった。
「これは失礼しました。そのようなたいそうな身分ではありませんが。わけあって、あまり多くは語れないのです。ただ、決して怪しい者ではありません」
 言いながら、葵は被っていた編笠を外した。中にたくし上げられ見えなくなっていた、ひとつに結い上げられた朱色あけいろの髪が、ぱさりと肩に落ち広がって陽光を反射した。
 その人間離れしたような鮮やかな色彩に、村人達は一様にぎょっとした。彼らを真っ直ぐに見て、にこりと葵は笑った。
「驚かせて申し訳ない。このような風体なりですが、生まれたときにはこうだったというだけです。あまり気にしないでいただけると嬉しい」
「お、おう……そうかい。なんというか、まあ、都の人にはいろいろな事情があるってぇこったなあ」
 男は驚いてはいたが、なんとかそう呟きながら自分を納得させたようだ。何より、葵の何一つ隠さず臆さない態度、真っ直ぐに向けられる翳のない眼差しに、少なくとも無体な乱暴を働くものではない、と得心するものがあったらしい。
 そのやりとりを見て、まわりにいた村人たちも同じように納得したのか、それ以上騒ぎ立てることはしなかった。そればかりか、夜光の足の怪我に気付いた人々は、空き家で良ければと、二人にかりそめの宿をあてがってくれた。
「誰も住まなくなったもんで、壁は崩れてるし屋根も抜けかけてるし。まあ荒れちまってるんだけどさ。竈も囲炉裏も、まだなんとか使える。薪くらいは分けてやるさね」
「それは有り難い。充分です」
 夜光の足が治るまで、何日か逗留出来るだけでもありがたい話だ。その上、火も起こせるし屋根もあるというなら、野宿をするよりもよほど上等な環境だった。
 素朴な人々の親切に感謝しながら、二人はその空き家を借りることにした。

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