八重山振りの君 (三)

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 きゃっきゃ、と賑やかにはしゃぐ子供たちの声が、日毎に夏色の深みを増してゆく青空に響き渡る。
 村の中程にある広場のような場所で、元気な盛りの子供たちの相手をしている葵の様子を、夜光はいくらか離れた木陰に座って眺めていた。
 月天の羽衣──夜光の異彩に目くらましをかける白い被衣は、人目のある場所ではずっと、頭から被ったままでいる。病がちで日の光が身体に障るのだと、村人たちには適当なことを言っておいた。皆は二人を「荒れた都から逃げて来た、どこぞの身分ある人」くらいに思っているようだし、浮世離れした夜光の雰囲気も手伝い、その説明にとくに疑問も抱かなかったようだ。
 小さく穏やかなこの村を二人が訪れたのは昨日のこと。まだ右足が痛む夜光は、立ち歩いて何をすることも出来ず、ただ安静にしながら過ごしていた。
 葵はといえば、
「すっげえあたまの変なオサムライが来た!」
 と、一躍村の子供たちの間で持ちきりになり、昨日から早々に引っ張りまわされていた。
 日々に大きな変化も無いこんな鄙びた村では、客人というだけでも稀な出来事だろう。まして葵のような、見たこともないだろう朱い髪を持つ、しかも見目の良いひとかどの若者となれば、既にちょっとした事件に違いない。
 葵もまた、子供には弱い。そして子供だからといって適当にあしらったりせず、正面からきちんと向き合う。そんな葵に、順応力の高い子供たちは、すぐに特異な髪色のことなど気にもせず懐いてしまう。こういったことは、この村だけではなく、過去にも何度か見かけた光景だった。
 夜光は子供たちを邪険にするわけではないが、葵と一緒に遊んでいる子供たちが本当に楽しそうなので、そこに割り込むのも無粋かと、あえて近付くことはしなかった。今は足が痛む、という言い訳もある。正直、あそこまで元気いっぱいな子供たちに絡まれたらくたびれる、というのもある。
 元気だなあ、と呆れ含みに感心はするものの、ああして子供たちに囲まれている葵を眺めていることは、少し寂しい気はするが嫌いではなかった。仮にもしも自分が小さな子供で、葵のような優しく健やかな若者が目の前にいれば、時間はかかっても、やはり懐いてしまうだろうな、と思う。
 葵と子供たちが居る広場が、他の場所よりも明るく見えるような気がするのも、そんな心持ちからくる錯覚だろう。初夏の陽光は明るく、じゃれるように跳ねるように動きまわっている子供たちの姿を照らして、きらりと反射する。きらり、きらりと、またたくように初夏の陽差しが躍る。
「……うん?」
 夜光は瞬きをした。きらり。きらり。陽光を受け、広場で鮮やかな金色が煌めいた。波紋のように揺らめきながら。
 なんだろう。
 思わず目を凝らした先で、ひときわ鮮やかなその色彩がひるがえる。それは陽差しを浴びて金色に輝くような、山吹色の小さな袖だった。
 ──童だ。
 山吹色の衣を着た、幼い童。丈の短い裾から伸びた、かわいらしい白い素足。ふわりと流れたのは、耳朶を隠す程度の長さで切り揃えられた黒髪。山吹色の衣を着た童が、きらきらとした光の中に、いる。
 いつから?
 いや。あんな童は、さっきまで居なかった。まるで空気の中から、光の中から溶け出してきたようだ。それに他の村の子供たちは皆、染められてなどいない、ざっくりとした粗織りの粗末な衣を纏っている。あんな鮮やかな山吹色の衣を着た童が居れば、ひどく目立つし、目にしたならば忘れない。
 だが凝視している夜光の視線の先で、山吹色の童は、まるでずっと前からそうしていたように、子供たちの輪にとけこんでいた。他の子供たちと同じように笑い、はしゃぎ、葵の足元にまとわりついて、肩車をしてもらって歓声を上げたりしている。
 それは不思議な光景ではあったが、見ているうちに、何がどうおかしいと感じたのか、夜光にはだんだん分からなくなってきた。もうずっと前から、当たり前のようにその童はそこにいる。そうであったはずだ。やがて感じていたはずの違和感それ自体も、凍靄いてもやが急速に晴れてゆくように薄れてゆく。
「……なんだろう。疲れてるのかな」
 まるで何かに化かされたような奇妙な違和感だけは、まだ尾を引いていた。しかし自分で自分が何に反応したのかが既に分からず、夜光は軽く頭を振った。
 村の光景は、とても平穏だ。そこの広場で葵を中心に遊んでいる子供たちも、のびのびと無邪気で楽しそうだ。
 そんな子供たちの様子を、あたりを通りかかったり作業をしている大人たちも、微笑ましげに見守っている。中には年頃の娘が、明らかに夢見るような眼差しで、物陰から熱心に葵をみつめていたりもする。そこまで熱を帯びてはいなくても、おや、というように、好意的な眼差しを投げていく娘やご婦人方も少なくなかった。
 奇妙な違和感の残滓も、白昼夢でも見ていたように、時が経つにつれていつしか消え去っていた。
「やっぱり疲れてるのかな。……戻ろうか」
 できれば葵の近くにいたかったが、あの様子ではまだ当分、子供たちから解放してもらえなさそうだ。何かやけに億劫な心地で、夜光は痛む右足を庇いながら、その場に立ち上がった。
 去り際にあらためて振り返ったとき。夜光はふと、つぶやいた。
「……葵。楽しそうだな」
 放っておいたら、飽きること無くああして子供たちと遊んでいそうだ。それは葵の美徳のひとつであり、夜光にとっても愛すべき資質であるはずだった。
 だがふいに。寂しいような、つかみどころのない物悲しさが、冷たい隙間風のように胸をよぎった。怪我のせいで、少し弱気になっているのだろうか。
 ふと疲れたなと感じたときに、普段は胸の奥にしまいこんでいる仄暗い物思いが、蓋を開けてそろりと忍び寄ってくるように。そんなふうに、ふいにひとつの物思いが、夜光の心の隙間にすべり込んだ。
 ──葵は本来、ああいう、とても人並みな幸せの似合う人なのだ。
 葵を中心にはしゃいでいる子供たちを見る。物陰から葵を熱心にみつめている村娘を見る。
 それらは「まっとう」に、「ごく普通」に人として生きていれば、そもそも葵の身近にあるもののはずだった。当たり前に人として生き、人間の娘と結ばれて、子をなして親となって。「人並みの幸せ」を育んで生きる。それができる資質を葵は充分持っていることを、夜光は皮肉なほどよく知っていた。
 ざらついた不安に似た何かが這い上がってきて、思わず無意識に、夜光は自分の胸元を押さえていた。
「葵……」
 ふと、思う。もしかしたら自分は、葵の本来あったはずの、平穏な幸せを奪ってしまっているのではないだろうか。夜光と共に居ることで、葵はその、人並みに生きることの出来る道を歪められてしまっているのではないだろうか。
 夜光と出逢った後も、まだ葵が人の世に戻れる道筋は残されていた。だが夜光と深く関わるにつれ、葵からその道筋は遠のいた。
 それを選んだのは自分だ、と、葵なら言うだろう。わざわざ聞かずとも分かる。葵は、夜光のせいだなとどは微塵も思っていない。夜光にまっとうな幸せを奪われたなどとは、露ほども思っていない。
 だけれど、夜光を選ばなければ、葵は「人並みの幸せ」を得て生きることが出来ただろうこともまた、確か。
 ふいにそれに気付いてしまい、そう思ったら、夜光は胸苦しくなった。子供たちと笑っている葵を見ていることが、にわかに切なくつらくなる。こんなことに気が付かなければよかった、と思った。
 目を逸らして歩き出そうとした刹那。きらり、と視界の隅で何かが光った。
 意図するよりも先に辿らせた視線の先で、あの山吹色の衣を着た童が、夜光をじっとみつめていた。
 そのくるりと大きく愛らしい瞳が、衣と同じ金を帯びた山吹色に光っていた。愛くるしいのだが、男児なのか女児なのかも分からない。山吹色の童は、夜光を見つめたまま、何か悪戯含みのように、にんまりと吊り気味の目を細めて笑った。
 そして、ひとつまばたきをした後には、もうその童の姿は広場のどこにも見えなくなっていた。
「え……?」
 茫然と、夜光は佇んでいた。何だったのだろう。邪なものであるような気配は無かった。それを裏付けるように、夜光の袂の中にあるタマフリの鈴は、かすかな玉音たまねひとつ鳴らしていなかった。
 あの童は、どうやら人間では無い。それは間違いないと思う。それなら何なのかというと、よく分からない。意味ありげに夜光に笑いかけて消えた、その意図も分からなかった。
「いッ……」
 そのとき右足首に鋭い痛みが走った。ぼんやり佇むうちに、まだ癒えていない右足に体重をかけてしまったのだ。その痛みで、夜光は我に返った。
 あたりには何事も無かったかのように、否、実際におかしなことは何も無かったのだろう、平穏な光景が続いていた。本当に目を開けたまま夢でも見ていたのでは無いかと、夜光は自分を疑った。
 なんだかやたらと疲れた気がした。夜光は胸に溜まったものを吐き出すように、ふうと大きめの溜め息をついた。
「……戻ろう」
 広場から響く賑やかな声を耳にしたまま此処に居続けるのは、今はどうにもいたたまれなかった。広場の方を見ないようにしながら、右足を庇いながら踵を返す。
 片脚を引きずるようにしながら、夜光はかりそめの宿である小屋に戻っていった。

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