季節をいくらか早とちりしてしまったらしい一匹だけのひぐらしの澄んだ声が、深まってゆく夕暮れの空に響いていた。
村のあちらこちらで、夕餉のために煮炊きする匂いと湯気が立ちのぼっている。地面を歩けば影法師が揺らめきながら長く長く伸びてゆく、そんな頃合いになって、やっと葵は小屋に戻ってきた。
「おかえりなさいませ、葵。さぞ疲れたでしょう」
幸い使うのに不自由はない囲炉裏で、夜光は小さな鍋を掛け、気の良い村人達から分けてもらった雑穀で雑炊を作っていた。
「ただいま。さすがにくたびれたよ」
葵は朗らかに笑いながら言い、だが疲れた様子は隠さず、筵を敷いた囲炉裏の前に腰を下ろした。
空き家になってしばらく放置されていたというここは、天井も壁も場所によっては崩れかけてはいたが、ひどい雨風でさえなければ、まだ充分に凌げるしろものだった。中はさすがに荒れて、土間には様々なものが散らばっていたが、最初にこの空き家を訪れたときに、葵がそれらを片付けて数日滞在するには充分な程度に整えてくれた。
「足の具合はどうだ? まだだいぶ痛むか。すまなかったな、一人にして」
一日中子供たちの相手をし、合間には都や珍しいものの話を聞きたがる大人たちの相手をし、ときには手伝える仕事は手伝い。すっかり土埃やら何やらで汚れてしまっていた顔や手足を拭きながら、葵は言った。
鍋で煮えている雑炊を木の匙でゆっくりかき混ぜながら、夜光は軽く笑って答えた。
「大丈夫ですよ、子供ではないのですから。もうさほど痛みません」
「そうか。なら良かった」
ぱちぱちと、小気味の良い音を立てながら、鍋の下で薪が燃えている。夜光は囲炉裏端で軽く立て膝になり、着物の袖が邪魔にならぬよう片手を添えて押さえながら、もう片方の手でゆっくりと、焦げ付かないように鍋を混ぜている。
その様子を、寛いだ様子で葵は眺めていた。その視線はしみじみと嬉しそうでも、愛おしげでもあった。
それはいつもの葵であり、夜光はあえて表情を変えず、手を止めることもせずに、いつも通りの声音で言った。
「葵。そこの椀を取って下さいますか」
「うん? ああ、これか。夜光、あとは俺がやるからいいぞ。座っていろ」
「おまえさまこそ、お疲れでしょう。私のことはお気になさらずに」
答える夜光を、葵は何か、椀を手にしたまま、しばしじっと見つめた。そこに生じた若干の間に、夜光は「葵?」と視線を巡らせる。そこで初めて、二人の目が合った。
葵はとりたてて表情を変えているわけでもない。いつもと変わらない様子のまま、かたりと、取り上げたはずの椀を元あった場所に戻した。そして崩し気味だった膝を引き寄せて、心持ち姿勢を直した。
「夜光。何かあったのか」
声音も変わらない問いかけだったが、夜光はすっと心に切り込まれたようにどきりとした。だがそれを表には出さず、あえて葵の視線を受け止めて笑った。
「いいえ。何も。どうしたのですか、急に?」
葵は少しばかり片眉を寄せる。だがそれは表情を険しくするものではなく、何か奇妙な手応えのものを判じかねているような、それを探りながら考え込むような様子だった。
と、やおら葵は立ち上がった。夜光のすぐ傍まで移動すると、正面に見て腰を下ろす。
夜光は何事かと、匙から指を放して葵を見た。特になにも後ろめたいことなどないはずなのに、隠し事や悪戯を見咎められてしまったような、若干の居心地悪さがあった。
「葵?」
「夜光。俺では役不足か」
夜光を見つめ、やわらかく葵は言った。
適当に誤魔化せば良かったものの、葵がいつもと変わらず穏やかだったからこそ、夜光は一瞬、言葉に詰まってしまった。
蒼然たる夜空のような色をした葵の双眸が、鏡のように夜光の姿を映し出している。あたたかく静かだが、少しだけ寂しそうな眼差しに、夜光は装っていた平静に罅が入るのを感じた。
「……葵……」
思わず、膝を折ってうなだれる。白い指が、きゅっと自身の着物の膝あたりを握った。
ああ、駄目だ。どんなに秘めておこうと思っても、葵の前では何も隠しておけない。
千も万もの刃で斬りつけられるよりも余程、葵の澱みない眼差しは凶器じみている。自分ひとりでは整理のつかない感情や葛藤を、いともたやすく見抜いて、夜光が負うものは自分もまた共に背負うべきものなのだと、一切合切を包み込んでしまう。
しばらくうつむいたまま、夜光は唇を噛んでいた。昼間からずっと、しこりのように胸に留まっていたこと。一度そう思ってしまったら、考えずにいられなかったこと。自分が葵の、あるはずだった平穏な幸せを奪ってしまっているのではないか、と。きっと、言わないほうが良いことなのに。
「……葵。子供が、ほしいですか?」
顔を上げることができないまま。夜光はやっと、そんな言い方をした。
子供たちといると、いつも楽しそうにしている葵の様子を思い返す。葵が子供好きなのは明らかで、そして子供は葵にとって「人並みの幸せ」の象徴であるはずだった。同時に、夜光の存在とはあまりにも断絶したもの。それを問いただすのは、膝の上で握り締めた指先が震えるほど、恐ろしかった。
だが夜光の気負い様とは裏腹に、その言葉を聞いた葵は、完全に意表を衝かれたようにぽかんとしていた。
「子供?」
「はい」
夜光はうつむいたまま、蚊の鳴くような声で、かろうじで続けた。
「おまえさまは、本当は子供が欲しいのではないかと……そう、思うのです。血を分けた我が子と、普通に……親というものに、なりたかったのではないかと」
いきなり何を言い出すのか、と、すっかり面食らった様子でいた葵だが、それを聞くと、やがて表情をやわらげた。
葵の手が伸ばされ、その皮膚の硬い大きな掌が、夜光の膝の上で握り締められていた白く柔らかな手に重ねられる。
いつもと変わらぬ落ち着いた声音で、葵は切り出した。
「俺が不甲斐ないばかりに、変に悩ませてしまったみたいだな。すまない、夜光」
「そんなことは」
思わず目を上げた夜光を、葵は穏やかに見返す。それは夕凪の空のように、ひときわ澄んだ払暁の空のように、どこまでも静かで凜とさえした目の色だった。
「俺はもうずっと昔から、妻は娶るまい、子はもうけるまいと決めていた。俺の妻となる者も、俺の血を引く子も、幸せになれるとはどうしても思えなくてな」
夜光は言葉を失う。葵は穏やかに語っているが、それは本当はとてもつらいことであったはずだ。
「葵……」
「子を持てぬからこそ、出会う幼子たちには出来るだけ良くしてやりたいとも思う。そもそも、俺は子供が好きだしな。自己満足と言えばその通りだ。だがな。もし子供がいたら、これが自分の子であったら、というような想像は、不思議なほどに一度もしたことが無いんだ」
見上げている夜光に、葵は混じり気無く笑った。
「俺はこれで良いんだ、夜光。一切何ひとつ、後悔はしていない。おまえがそういうふうに俺を思い遣ってくれることは嬉しく思う。だが、すべてありえなかった『もしも』の話だ。ここまでの道程も含めて、一切が俺にとっては必然だった。何もかもが、おまえとこうして寄り添うことに結びついていた。これほど幸せなことは、他にない」
一気に言い切ると、葵は夜光を強く、だがいたわるように、その腕に抱き締めた。
「ありがとう。そういえば、こんな話は一度もしたことが無かったな。もっと早く、きちんと話しておくべきだった」
「いいえ。いいえ、葵……私のほうこそ、いたらなくて。申し訳ありません……」
葵の言ってくれた言葉のひとつひとつが、その体温とともに、不安に震えて怯えていた夜光の心に沁み渡ってゆく。そこに嘘など無いことを、言葉の向こうにある葵の秘められた強さが、そのしなやかさが、疑いようも無く夜光に浸透させてゆく。
今にも泣き出してしまいそうな安堵と共に、夜光は葵の背を抱き返し、その存在と体温を再確認した。こんなふうな葵だから。こんなに頼りなく、何かあるとすぐ迷ってしまう弱い自分でも、道を過たずに共に居られるのだ。
「だから、おまえが詫びるなというのに。謝らなければいけないのはこっちのほうだ」
腕をゆるめ、少し目許が潤んで赤い夜光の顔を見て、葵は苦笑した。葵がいつもと同じようにおおらかに構えていてくれるおかげで、夜光も肩の力を抜き、やっと小さく笑うことが出来た。
「いいんです。私も、私なりに思うところがあるのですから」
「頑固だなあ」
「お互い様ですよ。というより、私なぞよりも、そもそも葵のほうがよほど頑固です」
何か言いたそうな顔をしている葵をよそに、何気なく囲炉裏の方に視線を巡らせた夜光は、「あ」と思わず声を上げた。
「うん?」
「お雑炊が。……少し煮えすぎてしまいました」
話し込んでいるうちに、すっかり汁を吸ってしまっている。焦げ付いていないかと、慌てて匙を動かす夜光に、葵はおかしそうに笑った。
「おまえと食う飯ならなんでも美味いから大丈夫だ。いや、おまえが作ってくれたものなら、なんでも美味い」
「そういう問題ではありません」
「違うのか」
「違います。お鍋が焦げてしまったら困るではありませんか」
「それはまあ、そうなんだが」
「それに、煮えすぎていないほうがお雑炊は美味しいです」
そこは譲らずに、夜光はふたつの木の椀それぞれに雑炊をよそる。やはり煮えすぎてしまった、と思っていると、不意にぐいと葵に引き寄せられた。
「おまえと食うならなんでも美味い。譲らんぞ、これは」
夜光の耳元で言った葵の唇が、そのまま頬をかすめてゆく。含み笑っている葵を見返って、夜光は思わず頬を赤くし、膨らませた。葵の唇の感触の残る耳元と頬が、ほんのりと熱かった。
「本当に頑固ですね。おまえさまは」
「雑炊くらいでそんな」
「そういうことではありません」
葵に湯気のたつ椀を差し出しながら、夜光もそれ以上怒ったふりは続かず、表情を緩めてしまった。
葵と共に囲炉裏を囲み、温かくささやかな夕餉を口に運び始めると、もう何のわだかまりも憂いもとけていた。
こんなふうに葵と共にすごせる時間が愛しい。こんなふうに、鈍色の物思いに沈んでいた後でもあっさりと笑うことができてしまう、そんな日々が愛しく嬉しい。
葵と何気ない話をし、夕餉を共にしながら、日々繰り返されるたわいもないやりとりのすべてが、夜光にはあらためてひどく大切に思えた。
「──そういえば」
夕餉も済み、その夜床に入る前。
ふと昼間の不思議な出来事を思い出して、夜光は葵に訊ねてみた。
「昼間子供たちといるときに、山吹色の着物を着た童がいませんでしたか、葵?」
あの奇妙な童が、子供たちの輪の中にいたことだけは覚えている。だが、あの童がいつから居たのかが、やはり思い出せない。いつの間にか消えてしまっていたし、葵からはあの童がどう見えていたのか気になった。
「山吹色の着物の童?」
だが葵は、心当たりがないというように、きょとんとして繰り返した。
「いや……そんな童は見なかったが。夜光は何処かで見かけたのか?」
葵は嘘をついているふうでもない。そもそも、葵が嘘をつく必要もないだろう。そうであれば、夜光自身の記憶がどうも曖昧であるのと同様のことが、葵にも起きているのかもしれない。
「昼間、おまえさまたちが遊んでいる中に居たのです。金色に光っているような、不思議な童で。ただ、いつの間にか居て、いつの間にか消えてしまったようで」
「それはまた、面妖なことだな」
「ええ。おそらく、人では無いものだったのだと思います。ただ、それなら何のために姿を見せたのか、というのが気になって」
ふむ、と葵は首を傾けた。
「ただ遊びに混ざりたかっただけじゃないのか?」
「そうかもしれませんね」
素直といえば素直にすぎる葵の解釈に、夜光は思わず頬を崩した。案外、本当にそうなのかもしれない。ああいうものが気まぐれに考えることなど、正直、夜光にもよく分からなかった。
これ以上考えていても仕方が無いと、そこでこの話は終わりになった。囲炉裏の小さな火種だけを残して、他の灯りを消し、夜光と葵はそれぞれの寝床に横になった。
今日は頭をいろいろと悩ませ、ずっと思い悩んでいたせいか、目を閉じたらすぐに睡魔がやってきた。隣にいる葵からも、さほどもせずに規則正しい寝息が聞こえてくる。それを聞いているうちに、夜光も吸い込まれるように眠りに落ちていた。