その、夜半過ぎ。ふっと、葵は目を覚ました。
よく寝ていたように思う。何故自分が目を覚ましたのかよく分からず、葵は仰向けになったまま、ぼんやりとあたりを眺めた。
光源が囲炉裏の小さな火種だけなせいで、小屋の中はほぼ夜の帷に呑まれている。粗末でささやかな、だがありがたい仮の宿だ。破れかけた壁や屋根の隙間から、月の光が細く差し込んでいた。闇に目が慣れているせいか、それだけの光源でも、存外にまわりがよく見えた。
外では、夜に鳴く虫の声がさかんに響いている。遠くで野の獣が吠える声がする。ぱちり、と、時折囲炉裏で火種が弾ける音がやけに大きく聞こえるくらいに、静かな夜だった。
妙に目が冴えてしまっていて、葵はむくりと起き上がった。隣を見ると、夜光は深く静かな寝息をたてながら、よく眠っていた。痛む足を庇いながら動いているのも疲れるだろうし、きっと今日は、あれこれと気疲れもさせてしまったのだろう。
いたわる思いと愛しさがこみあげて、その頬にやや乱れてかかっている白い髪にそっとふれ、梳いた。人間にはまずありえない、周囲にある様々なものの色や光をふんわりと含んで光る、月の光を集めたような美しい髪だ。昔見たことのある「真珠」というものの不思議な色合いや纏う光を、葵は思い出す。夜光の髪の色は、月か、あれによく似ていると思う。
髪ばかりではなく、今は白い瞼の下にある夜光の紫の瞳も、透明な宝玉のように深く美しい。人ならぬ天女のような、神秘的で美しい夜光の姿が、葵はとても好きだった。勿論、姿形ばかりが好きなのではない。その心の有り様、少し歪で傷つきやすい、時折幼子のような表情を見せることもある魂のかたち。葵に示してくれる溢れんばかりの愛情や信頼。それらのすべてが限り無く愛おしく、今の葵の幸せを形作っている。
「何かあったんだろうか……」
夕餉の前に夜光が急に言い出したことを思い起こしながら、起こさないようにそっと、その白い髪を撫でる。夜光は心を解してくれたようだったが、あんなふうに悩ませてしまったことが申し訳なかった。
葵は自分が子供好きであることを隠したことは無かったし、旅の通りすがりに子供たちを構うことは、今までもよくあった。
あのときは、急に何を言い出すのだろう、と思ったが、もしかしたら今までも、夜光は複雑な物思いを抱えていたのかもしれない。葵が子を持つということや、人としてまっとうな家族を作るということ。「人間」というものの、親から子へと繋いでゆく、生き物として自然な、そして本来あるべき営みのこと。
自分は子は持たぬ、妻も娶らぬと決めていたのは、夜光に出会うよりもずっと前からのことだ。それは人の世で生きていた頃、葵を憎み疎む実の兄に、自分はいずれ殺されるだろうことを予感していたからだった。
運命の悪戯で幽世にある終の涯に流れ着いてからは、そういった人の世でのしがらみから解放され、夜光という得難い畢生の伴侶を得た。半人半妖である夜光と寄り添って歩むために、現世の理からは確かにいささか逸脱した生き方をすることになった。
そうなる前に、人の世に戻り「普通の人間として生きること」を選ぶことも、勿論できた。それをしなかったのは、人の世に未練がなかったわけでも、価値がないと思ったわけでもない。ただ一切を凌駕して、夜光が何にも代えがたい、葵の命そのものになっていたからだ。
古い傷が染みたように、葵は、僅かに睫毛を揺らした。
「本当は……」
本当は、自分はこんなふうに、愛する者の傍でのうのうと幸せを噛み締めていて良い人間ではないことを知っている。これまで葵の通ってきた道筋には、それこそ葵のために無惨に命を落とした者達の、葵が殺してしまった者達の、無数の屍が転がっている。
それらの重さ、自分の罪深さを知っていて尚、葵は夜光の傍にいると決めた。それは、今や葵を失えば夜光もまた生きてはいられない、と知っているからでもある。だが、それだけではない。何よりも誰よりも、葵がそうしたい、と思ってしまったからだ。
夜光のすべてが愛しい。その笑顔を見ていたい、その隣で共にありたい。夜光の見る喜びも哀しみも、共に自分もこの目に映していたい。夜光の瞳と魂を、暗れ惑う哀しみに閉ざすことなど耐えられない。
本当は、夜光のためですらないのかもしれない。夜光を失いたくない、共に生きていきたいという、ただの葵の我が儘。どの口がそれを言うのか、と自分でも呆れてしまうほどの、笑えるほどの手前勝手だ。
そんなことに思い巡らせていたとき。ちらり、と、後ろのほうで何かが光った気がした。
「うん?」
何だろう、と首を巡らせる。狭い小屋の中、すぐ後ろには薄く粗末な壁があった。立ち上がれば目の高さになる程度のところに、明かり取りの窓がある。
そこから、金色に光る眼が覗いていた。
ぎょっと、それを見上げたまま、葵は硬直した。「それ」の姿形は、目を凝らしてみても、不思議なことに輪郭がぶれてしまってよく把握できない。ただ、眼だろう、と分かるふたつの金色の丸いものが、じっとこちらを覗き込んでいることだけは分かった。
硬直している葵に、その「何か」は眼を細めた。笑った、ように見えた。
そのまま、ふいっと、金色の眼は窓の向こうに見えなくなる。瞬く間の後には、そこにあるのは静かで変わり映えの無い、夜の光景だけになっていた。
何だ、今のは。
それの居た窓を見上げたまま、葵は瞬間のうちに、様々なことを考えた。
金色。目にしたそれが、夜光が話していた「金色に光っていた山吹色の童」の話に反射的に繋がる。同じものであるのかは分からない。だが、そうである、と思う方が、時期といい状況といい、むしろ自然なくらいではある。
正体も、意図も分からない。だが何故か、葵は「あれ」が、出ておいで、と誘っているような気がした。こちらの気をひくためにわざわざ姿を晒し、隠れもせずに葵を見下ろしていたように思える。
夜光の袖の中に常にしまわれているタマフリの鈴は、鳴っていない。ということは、少なくともあからさまに害意や悪意のあるもの、葵の手に負えぬほどの強大な力を持つ畏きものなどではない。
とはいえ、念のために太刀を手にした。夜の闇の中では、護身用として弓では心許ない。終の涯の長から授かったこの太刀は、人ならぬ邪なものや、こちらに害意あるものを斬ることができる宝刀だった。ただそこにあるだけで、力の弱い木っ端の物の怪などであれば寄り付いてこない。抜かずとも、携えているだけで魔除けになる。
「あれ」がなんであるのか、正直気にもなった。葵は夜光を起こさないように、物音と気配を立てず、そうっと小屋から夜の闇の中に脱け出した。