外に出てみると、村の外に続く道のほうに、金色に光る何かが見えた。大きなものではない。葵の膝丈まであるかないか、というくらいの、まるで小型の獣か、さもなければ幼児くらいの大きさだ。
葵が気が付いたことを察したように、すっとそれは遠ざかる。少し慌てて追いかけると、また視界の先に、まるで葵を待っているかのように、金のそれが光っていた。
やはり誘われているように思う。夜空は蒼く晴れて星月は明るく、松明など無くとも足元には困らなかった。それに葵は、暗夜であってもかろうじでものの形は分る程度には、夜目が利く。
そうして光るものを追いかけ、遠ざかるのをまた追いかけ。さほどもせずに、その応酬は終わった。
金色のものは、水の張られた田畑が切れるあたりに止まっていた。葵の目線よりもやや下がるあたりの高さ、晴れた星空を背に、それはふわふわと浮いていた。
それは、山吹色の衣を纏っている。年端もゆかぬ童──の姿をしたもの──だった。
さすがに少し驚きながら、葵は近付いて、よくよく眺めてみた。丈の短い衣の裾から覗く、白く傷ひとつない小さな素足。耳のあたりで真っ直ぐに切り揃えられた黒髪は、よく梳られたように艶々している。全体に小作りの顔は人形のように愛らしく、ぱっちりと大きな吊り目気味の瞳は金色に輝いて、何か可笑しそうに葵を見ていた。
夜光の言うことが正しいなら、昼間どうやら葵は、他の子供たちと共に、この山吹色の童とも遊んでいたらしい。だが、言われてみればそうだったような気もするし、やはりその覚えは無い、とも思う。
可愛らしい姿をしている。そう思うのに、しかし目を逸らしたら、そのときにはもうどんな姿だったのか分からなくなっている。そんな印象があった。そしてそれは、実際にそうなのだろう。しっかり見ているはずなのに、それの明確な姿を記憶に留めておけない。この金色のものには、そんな不思議な作用が働いているらしい。
「──ふふ。くふふ。くふふふ」
葵を見ながら、山吹色の童は笑った。ぷくぷくとした幼子らしい手を口許に当て、可愛らしく、面白そうに含み笑っている。
「俺に何か用か?」
どうにも誘い出された気がするので、葵は訊ねてみた。
「くふふ。そうだね。用事はねぇ、あるよ」
声も可愛らしかった。男児なのか女児なのかも分からない、幼子特有の高い声だ。
山吹色の童は、空中でくるりと、まるで輪を描くように回った。そして近付いてくると、葵の顔を覗き込むようにして、金色の瞳を細めた。
「おまえを喰おうと思ってさ」
「俺を?」
無邪気な声であっさり言われて、葵は繰り返した。殺気とか、邪気とか、そういう本能に迫る恐ろしげなものが感じられないせいか、言われたことの実感がいまひとつ湧かなかった。
「いや、それは困るな。つれあいが居るし、喰われてやるわけにはいかないんだが」
「そうだねえ。白い綺麗なつれあいがいるねぇ。喰われるわけにはいかないよねえ」
「うむ。すまんが他をあたってくれ。喰われる以外のことでなら、俺に何か出来ることがあればする」
「おまえに出来ること、ねぇ。そうだねぇ。あるかなあ」
「それは、あるなら言ってくれ。おまえの望むものが何なのか、俺には分からん」
くふふ、と、山吹色の童は小さな肩をすくめるようにして笑った。
「ふふ。くふふ。おまえ、おもしろいねえ」
「そうか?」
「わしが恐くはないのかえ」
「恐くはない。少なくとも今はな」
まだ何かをされたわけでも無い。葵が察知出来ていないだけかもしれないが、害意や邪なものも感じない。であれば、恐れる理由は無かった。これはなんだろう、と不思議には思うが。
くふふふ。と、山吹色の童はいっそう含み笑った。
「そんなことを言っているそばから、喰われるかもしれんぞえ」
「それは御免蒙る。それに、俺なぞを喰っても美味くはないと思うぞ」
「くふふ。たれがおまえの血肉を喰らうと云うた?」
金色の瞳が細められ、ひとつ瞬きをする。次に開いたとき、その瞳孔が、きうゅっと縦に小さく寄った。まるで瞳の中に鋭い両鎬が顕われたかのようなそれは、瞬きひとつの間に、あきらかに童の纏う空気を一変させていた。
はっと身構えかけたときには、葵はその空気に呑まれていた。人とは決して境界が交わらぬもの。人がまともに対峙してはならぬもの。そこに在るのは姿形こそ可愛らしい童のままだったが、醸し出され押し寄せてくる圧迫感や指先までびりっと震えるような慄きが、魂から縛り付けるように葵の身動きを奪っていた。
このものは、やろうと思えばおそらく簡単に、葵を襲えたのだ。それを確信する。それが分かったとて、何をどうすることも出来ないのだが。
くふふふ。と、これも声は変わらぬまま、童は笑った。
「さてもさても。さあ、おまえ。どうしてやろうか。どうしたい?」
言葉を返そうとして、葵は喉が完全に強張っていることに気付いた。何か声の出ないようなまじないでもかけられたのか、と思ったが、そうではないようだ。ただ単純に、葵が童の尋常ならぬ威圧感に圧倒されて、声を出せなかっただけらしい。
葵はごくりと唾を飲んで、ひとつ深く息を吸った。落ち着いてみれば、別に金縛りに遭ったわけでもない。無意識のうちに地を踏む爪先に力が入り、指先が震えてはいたが、自由に身体は動いた。
「そう言われても。俺をここに招いたのは、そちらではないのか?」
「ここに招いてなぞおらぬ。おまえが勝手についてきたのだ」
「窓から覗いていただろう」
「気まぐれに覗いただけのことよ」
のらりくらりと、童は葵の言葉をかわす。まるでからかっているようだ。童の意図が読めず、葵はいったん黙り込んだ。
この童の姿をしたものは、何かを誘っている。葵の出方をうかがっているように見える。迂闊なことを言えば、それが言質になって、一気に事が動いてしまうかもしれない。
あやかしや物の怪というものが属する幽世では、言葉、言霊というものは、ことに重要であるものだ。あやかしの誘いに乗ってうっかり返事をして、そのたったの一言のせいで「連れて」いかれた、身体を乗っ取られてしまった、というような怪談は、古今東西いくつもある。
だが童の意図について考えようにも、あまりに足がかりになるものがない。じきに葵は、下手に身構えることを放棄した。
「ならば、俺は帰る。勝手についてきておいてこの物言いも、済まないとは思うが」
未だに正体も、害があるのか無いのかも分からないこんなものの相手を、いつまでもしていたくはない。明らかに童の方がこの状況を主導していることだけは確かで、まして何がどう転ぶのかも分からない中に、いつまでも無策で居るのは危険だった。
童が糸のように目を細める。笑ったらしい。
「帰る、とな。帰れると思っておるのかえ。思うなら、ほれ。まわれ右をして、帰るがよかろ」
「そんな気がしないから、こうして言っている」
童の空気に呑まれた時点で、葵はいわば童の見えざる力の裡に絡め取られてしまっていた。先程までは鮮明だったはずの周囲の景色も、濃霧に包まれてしまったかのように、いつの間にかよく見えなくなってしまっている。この場を為している力を、妖力というのか、神通力などというのか、その呼び方は分からないが。
「くふふふ。なら、残念だわいなあ。帰れないわなあ。哀しいなあ」
山吹色の童は、顎を持ち上げて楽しそうに喉を鳴らした。
「帰れないのは、何処であろうなあ。家か。過去か。それとも、それとも。なあ、おまえ。おまえは、己のしてきたことをひどく悔やんでおるだろう? 哀しくて、哀しくて、己が巡りあわせを恨んでおるだろう?」
不意にそんなことを問いかけられ、葵は驚いた。
童の不可思議な力の影響なのか、心の臓を無遠慮に、まるで直接に鷲づかみにされたような衝撃があった。普段は強く心をよろって自制しているはずの部分に、いともたやすく、その衝撃は伝播してきた。
「……いきなり、何を言う?」
身構えてしまうのを止められず、隠せなかった。葵は思わず一歩後ずさって、童をにらむ。くふふ、と童はまた笑った。
「いきなり、驚いたかえ。そうだろうなあ。おまえは、たいそう人の好い顔をしておるからなあ。そんな顔で、ものすごい嘘を吐いているなんて、誰も思わなかろうなあ」
「嘘、だと?」
「嘘だわいなあ。おまえ、本当は、少しも物分かりなんぞ良くなかろ?」
無邪気な声音と笑顔でけろりと言ってくる童に、葵は呼吸が止まりそうになった。どうしてか、反応をごまかせない。童の言葉が本物の刃のように突き刺さって、さらに次々と、葵の身を貫いてゆく。
「俺は、嘘なんか」
「吐いていない。かえ?」
「吐いていない」
「ほれ、ほれ。それがもう、嘘だわいなあ」
けたけたけた、と、ひときわ楽しそうに童は笑い声をあげた。
「父も兄も、ひどかったなあ。憎かったなあ。おまえのせいでもないのに、鬼子なんぞと呼ばれてなあ。まわり中から後ろ指を指されて。ずうっと寂しかったなあ。庇ってもくれない父を恨んだよなあ。どんなに心を尽くしても一顧だにしてくれない兄が、心底恨めしかったよなあ。そのあげく、最後はあんなことになってなあ」
「違う。やめろ。俺は、……そんなふうには」
たたみかけられて、葵はますます、まともに息もつけなくなる。苦しさに思わず自身の胸元をつかみ、手が震えるほどに衣を握りこんだ。
山吹色の袖を口許に当てて、童は楽しそうにそんな葵を見下ろしていた。
「くふふ。どうした、どうした。驚いて、図星すぎて、返す言葉も無いかえ。そうだろうなあ。おまえは本当は、本当に、そういうやつなんだからなあ」
葵は眩暈がしそうだった。なんだ、この童は。この問答は何だ。どうして何も言い返せない。
「でもなあ。おまえも結局、ひどいのは同じよなあ。誰も彼も、おまえのせいで死んでしもうたからなあ。おまえが歩く道筋に、ほれ、滔々と血の川が流れておる。おまえの手足なんか、ほら。すっかり赤ぁく血塗れで。もう洗い落とせないじゃないか」
童の言葉に、思わず葵は自分の手を見て、目を見開いた。全身が震えて、声も出なかった。分かっている。分かっていた。自分の手も足も、頭の先から何もかも、血塗れで取り返しがつかない。この血がいっそ、自身の血であるなら良かった。自分は生きているだけで、まわりの大事な人々の命を奪ってしまう。それこそ、そう、生まれながらの──。
「呪わしいことじゃないか。ねえ。それこそさ、おまえは生まれながらの、本物の鬼の子なんだよ。呪わしい、哀れなやつだ。でもねえ。おまえが本当に救いが無くて罪深いのは、そんなことのせいじゃあない」
立ちこめる濃密な血の臭いの中。頭を抱え込み、もう立っていられずその場に屈み込んでしまった葵に、歌うように軽やかに童は言葉を重ねていった。
「そんなに血塗れのくせに、誰も彼もを死なせて、不幸にしてきたくせにね。おまえは、自分だけは幸せになりたいと望んでるんだ。くふふふ。なあ。とんでもない傲慢じゃあないか。これこそ本当の、人でなし、というやつだ」
もう聞きたくない。たくさんだ。これ以上聞かされたら、おかしくなってしまう。必死に押し殺し続けてきたものが、己へ向かい切り刻む刃となってしまう。
「……どうして、」
俺の心の底が、そこまで分かるんだ。そう思ったとき、はたと、葵は気が付いた。
ああ、そうか。これは──この童は、……葵の思うことを、そのまま言葉にしている。
それが分かったとき、葵は、ふいに視界が晴れた気がした。気が触れるのではないか、と思うほど苦しいことに、変わりはなかったが。
「おまえのは、口先ばかりの後悔だなあ」
山吹色の童が、頭の上からいかにも茶化すように言った。面白そうに葵を覗き込んでくる。
「結局、好きなように生きているのさ。人の好い顔をして、聞こえの良いことを言って、誰も彼もに嘘をついて。きれいな顔で、血塗れの手足を隠してさ。これを鬼と呼ばずして、いったい何と呼べばいいんだろう。なあ?」
「……その、通りだ」
やっと絞り出した声は、掠れてしまっていた。手も足も、力を入れようとして、けれどそれ自体を身体が拒否するように、小刻みに震えている。それでも葵は、この童の言葉を、自分で自分に向けてかけている呪詛を、払いのけなければならなかった。
大きく息を吸い、無理やりに声を押し出す。
「俺は、自分が正しいとも、許されるとも思っていない。俺がそんなに良い奴に見えるのか。地獄行きは覚悟の上だ」
だがそれでも、自分は夜光と共に生きると決めた。命尽きるそのときまで、夜光に寄り添い、支え、ときには支えられながら。自分のせいで犠牲になったすべての者達の命と自身の罪を背負ったまま、生き抜くと決めた。
震える手で太刀の鞘をつかみ、柄をつかみ、握り締める。これが邪なものを祓う宝刀だというのなら、その力が真っ先に向かうべきなのは自分なのにと、葵はこのとき奇妙に笑ってしまった。
いつもは軽々と扱える宝刀が、鉛のように重い。そもそも、手足に力が入らない。それでも葵は、満身の力と気合いをこめて、一息に太刀を鞘から引き抜いた。そして立ち上がりしなに、ちょうどこちらを覗き込むようにしていた山吹色の童を、思い切り斬り払った。