八重山振りの君 (七)

栞をはさむ

 瞬間。
 ぱあん、と、音ならぬ音が鼓膜を叩いたようだった。濃霧に閉ざされていたようだった視界が、瞬時にして晴れ渡る。
 涼みを帯びた夜風が、心地良く頬に吹き付けた。気が付けば葵は、すっかり息を切らしながら、抜き身の太刀を手に、静かな夜道に立ち尽くしていた。
「え……?」
 今の今まで、自分がどこで何をしていたのか、よく分からなくなっていた。ただ、気が触れそうなほどの悪夢の中にいたような覚えはある。それから、ひどくだるい。魂が抜けかかっていたのを無理矢理引き戻したら、こんなふうになるだろうかと思うほど、全身が重い。
「おお。おみごと」
 わけが分からずにいると、頭の上の方から、やけに無邪気な声と共に、ぱちぱちと拍手する音が聞こえてきた。山吹色の衣の童が、夜空を背にぷかぷかと浮かびながら、何やら興味深げに葵を見下ろしていた。
 その金色の大きな瞳が、にんまりと笑み細められる。童は美味いものでも食べた後のように、ぺろり、と赤く可愛らしい舌で唇を舐めた。
「ごちそうさま。まあなかなか、青いなりに濃厚で美味であったぞ。なあ、おまえ。おもしろいやつだのう」
「え……は?」
「途中で破られてしまったのが口惜しいが。しかしまあ、大目にみてつかわす。昼間、わしと遊んでくれた礼ぞ」
「は……?」
「ほれ。いいかげん、その物騒なものをしまわぬか。無礼なやつだのう。特別に許してつかわすが、本当なら死ぬるまでしゃぶり尽くしてやるところなのだぞ」
 何を言われているのかよく分からないが、とりあえず今ここで抜いておく必要はないようだと判断し、葵は太刀を鞘におさめた。そうしながら頭を整理しているうちに、薄々は察するものがあった。
 やや首を傾けて、浮いている童を葵は見上げた。
「おまえは、喰うのか。その、心を」
 他にどう表現すれば良いのか分からずそう言った葵に、にまあっと、童は唇の両端を吊り上げた。
「心のおりの底。魂魄の奥。かたくなに封じられ秘められていればいるほど、それらは美味いのだ。ずいぶん腹が減っていたから、余計に甘露の如しであった。久方振りに腹がくちくなったぞ。しかもおまえのはまた、いろいろな味変があって飽きなかったのう。どうだ、また喰わせてくれんか?」
「いや、勘弁してくれ。身がもたない」
 あまりにもあっけらかんと言われて、葵は怒る気にもなれず、たださすがに弱々しい苦笑を返しながら即答した。
 結局何をどう「喰われた」のかよく分からないし、そもそも童の言うことの理屈自体も意味が分からなかった。だがひとまず、この童の姿をしたものにひどい目に遭わされたことだけは間違い無い。どうやら自分は昼間この童と遊んでやったようだが、遊んでやった上に喰われたというのに、なぜこちらが大目にみられなければいけないのか。それも腑に落ちなかったが、あまりに相手が悪びれない上、すっかりくたびれてしまっていて、責めようにも毒気が抜けてしまった。
 それに考えたところで、「人ならぬもの」の都合や思うことなど、葵には理解もできないことの方が多いのだ。
「帰ってもいいか。疲れた」
 問いかけると、童はこくりと頷いた。
「許す。気を付けて帰るがいい」
 ひとつ溜め息をつき、葵は村の方角へ踵を返した。と、そこで、ふと気が付くものがあって見返った。
「おまえ。昼間、夜光に何かしなかったか?」
「やこう? ああ。あの、綺麗な白いのか」
 童はあっさりと答えた。
「わしは何もしておらん。だがわしが近くにいて、たまたま波長が合うと、わしの影響を受けて心が弱ったり、病んだりするものは居る」
「なるほど」
 夕餉前、夜光が口にしたあれこれを思い出す。あれは夜光の心の底から出たものではあっただろう。だが、なぜ急に、と思うところはあった。
 知らず太刀にかかりかけていた手を、葵は下ろした。
「わざとで無かったなら、いい」
「おお。おっかないのう。ほんに、おまえはおもしろいのう。くわばらくわばら、ぞ。くふふ」
 大きな瞳をさらに丸くしながら、深刻味のかけらもなく、けたけたと童は笑っている。そして空中から葵を見下ろしたまま、言った。
「村の者達ばかりを喰っていては、どいつもこいつも死ぬるか、腑抜けてしまうのでな。出来る限り、よそからきたものを喰うことにしておるのだ。だからおまえと、白いのの気をひいた」
「ということは……」
 そもそも雑木林の中で夜光の前に飛び出し、怪我をさせたあれは、よもやこの童の姿をしたものの仕業だったということか。
「だから、そうおっかない顔をするでない。本当なら、出がらしになって干からびるまでしゃぶり尽くしてやるところなのだぞ。大目にみてやる、と云っておるではないか。おまえたちは、わしにきちんと礼節を通したからな」
 思わず険のある目付きになっていた葵だが、ぽろりとそんなことを言った童に、「え?」と声を上げかけた。
 だがそれに答えることもせず、童はふわりと山吹色の衣をひるがえしてさらに高くまで浮かび上がる。と思うと、夜空にとけるように、霞のように姿を消してしまった。
 礼節を通した、と言われると、ひとつ心当たりがないでもなかった。ということは、あの童の正体はそういうことか、と思う。思うが、だがそれにしても、その言動があまりにもおおらかすぎて理解しきれず、考えていると頭がくらくらしてきた。
「やめた。どうせ考えても分からん」
 人でないものの考えることなど、本当にわけが分からない。もっと腹を立てても良い気がするのに、相手ののらりくらりとした調子のせいで妙にそんな気になれないところまで含めて、なかなかに厄介だ。
 いろいろな意味ですっかり疲れた葵はまたひとつ溜め息をついて、今度こそ村の方向、かりそめの宿に向かって歩き始めた。

栞をはさむ