そっと小屋に戻ると、夜光は幸い目を覚ました様子はなく、穏やかな寝息を立てて眠り続けていた。夜光が気が付いて心配してはいないかと、それが気懸かりだったので、葵はほっとした。
眠っている夜光の顔を見たことで、葵も糸が完全に切れた。ひどい疲労感もあって、どうにか寝床の上まで這っていくと、そのまま気絶するように眠り込んでしまった。
──それだから、しばらく経った頃、窓の外にちらりと金色の光が揺れたことに、葵が気付くことは無かった。
翌朝になると、驚いたことに、夜光の右足首の捻挫が完治していた。白い肌に痛々しく走っていた切り傷や擦り傷までも、痕も残さずきれいに治っている。
「不思議ですね。もう少しかかるかと思っていました」
いくらもともと人間よりは回復が早いとはいえ、夜光自身も驚いていた。立ち上がって、足首の具合を確かめるように、つまさきでとんとんと地面を突いている。
「大丈夫です。でも、良かった。あまり足を引っ張ってしまうのも嫌でしたから」
「そんなふうには思っていないが。でもまあ、治ったなら良かった」
葵も夜光の様子を確認すると、不思議には思ったが笑った。想い人の不自由も痛みも、無いなら無いに限る。
すぐにでも夜光は出立できそうなくらいだったが、葵の方がひどくぐったりしてしまっていて、結局もう一日、二人はその小屋を借りて滞在することにした。
「大丈夫ですか? 熱はないようですが……本当にどこも苦しくはありませんか?」
「大事ない。少し疲れただけだよ。休めば治る」
時と共にますます記憶は曖昧になっていたが、この泥のような疲労感の原因はあの童に「喰われた」せいなのだろうということは、葵は分かっていた。
珍しい葵の不調に、ただでさえ不安そうにしている夜光をさらに心配させるのも忍びなく、葵は昨夜の出来事は黙っていた。詳細な記憶が曖昧になりつつあるせいもあったが、あれは夜光には話さずとも良いことだ、とも思った。葵の最も暗く、奥深い澱に沈むもの。あの童が言ったように、それは鬼や魔物と呼ばれるもののようにも、葵は思う。
だが、あえて夜光には話さなかったが、葵はどこかで分かってもいた。きっとわざわざ口に出して言わずとも、夜光は葵の奥に居るそれらのことを理解している。ここまで連れ添ううちに、夜光も葵に様々なものを見てきただろう。その上でこうして共に居てくれているのだから、それで良いではないか、と思う。
あの童も困ったものだが、あれはあれで、存在を保つためには喰わねばならぬのだろう。さらりといくつも恐ろしげなことを言ってはいたが、あれは葵に手を出せる、あるいは手を出して良い相手ではない。あれはあれなりに、きっと「御役目」を果たしている、この土地には必要なものなのだ。
そんなことを考えながら、その夜は葵は夜光をそばに引き寄せて、抱き締めながら眠った。深い深い眠りに、夢は見なかった。
翌日になると、葵はすっかり回復していた。天気も良かったので、二人は村の人々に礼を言い、子供たちに別れを告げて、昼になる前に出立することにした。
見送りに来てくれた子供たちに手を振りながら、二人は村の外へと続く道を歩いてゆく。そのうち村に入るときにも通った、古びた道祖神の建つ山吹の繁る辻まで来た。
夜光は村に入ったときと同じように、道祖神に向かって礼をして手を合わせた。葵はいささか思うところはあったものの、まあ今となってはもういいかと、夜光にならって同じように手を合わせた。あれには、世話になった村人たちの平穏を護って貰わねば困る。せっかく「喰われた」のだから、貸しにしておいてやろう。
「葵。なにか?」
手を合わせながら若干難しい顔をしていたのか、夜光が訊ねてきた。葵は「いいや」と答え、そこでふいに、ひとつ思い当たった。
「そうか。夜光の足を治したのは、もしかしたらおまえか」
それくらいしか、この小さな不思議の理由が思い付かない。もしかしたら、せめてもの礼、あるいは詫びのつもりなのかもしれない。
「え?」
道祖神に向かって呟いた葵に、夜光がぱちぱちと瞬きをする。それから合点がいったように微笑して、同じく道祖神に目を向けた。
「そうかもしれません。ごあいさつをしたから、良いようにはからってくださったのかもしれませんね」
「……まあ、そうかもしれないな」
そもそも夜光が怪我をしたのは、あれのせいなのだが。
言いたいことはいろいろあったが、それらを全部押しやって、葵は苦笑気味に笑った。説明しようとすると、葵があれになかなかひどい目に遭わされたことも話さなければならない。そうしたら夜光は、相手が何ものであれ激怒するだろうし、下手をすればこの道祖神の像も破壊しかねなかった。村人達の安寧を思うと、それは葵の望むところではない。
なので、葵は次の目的地の話などを振りながら、然り気無く夜光を促して歩き始めた。そして振り向くことなく、その辻を後にした。
歩み去ってゆく二人の後ろ姿が、次第に遠くなってゆく。それを見送るように建つ道祖神の上に、ふわりと小さなつむじ風が巻いた。それは繁る山吹と同じ色を帯び、一瞬幻のように、像の上にちょこんと腰掛ける童の姿を浮かび上がらせた。
──ふふ。くふふ。まあ、美味かったからなあ。見逃してやるわえ。達者でなあ。
童の可愛らしい口許がつぶやき、そしてきらりと金色の光が散る。あとには古びた道祖神の像が、初夏の陽差しの中、ひっそりと佇んでいるだけだった。
(了)