里は、山あいに広がるちょっとした湖の畔にある。ぎりぎり湖、というくらいの規模の、そう大きくは無いものだ。
周囲の山々から流れ込む三本の清流のおかげで、水源としては常に豊かであり、棲み着いた多くの生き物たちは、昔から里の生活を基盤から支えていた。
その湖の中央には、ぽつりと小さな島がある。そこには太古からの樹木に埋もれるように、古い古い祠がひとつ建立されていた。
不思議なことに、その小島には常に靄がかかっていて、晴れた日でも岸辺からはよく見通せない。年に一度張り替えられる注連縄で守られた、みだりに立ち入ることは厳禁とされる聖域。その場所こそ、この里を、ひいてはこのあたりを古くから護って下さっている龍神の神籬──龍神の巫覡であろうとも滅多なことでは近付くことすら許されない、神聖不可侵な信仰の核だった。
いったん屋敷に戻った小夜香は、午後の禊のために支度を整え、一人でその湖の畔を訪れていた。
里の者達が漁に使ったり、子どもたちが遊ぶようなあたりからは、ここは場所が離れている。ここへと到る道には、気持ち程度の注連縄が張られていた。禊場として使われるここもまた神聖な場所とされているから、里の者達は、用がなければ、あえてやっては来ない。
普段は朝と夕方の二回、巫覡は祭壇の前で龍神に跪拝する。毎日のことだから、さすがに身なりは略式で許されているけれど、そのぶん事前にこの場所、龍神湖の聖なる水で禊をし身を清める約束事は、徹底されていた。
今は暑いから水浴びも気持ちが良いけれど(禊を水浴びだなんて言うとまた叱られそうだが)、寒くなってくると、小夜香にとって、禊は文字通りの苦行だった。
しかも真冬の早朝ともなれば、まだあたりは真っ暗。運が悪いと雨やら雪まで降っている。そんな中で一人きりで禊をしていると、がちがち震えるほど凍えるし、とんでもなく孤独だし、極論、死にたいような気持ちにすらなった。
畔の一角に敷かれた白い玉砂利の上で、身に着けていた衣を、残らず脱ぐ。素足をつくと、夏の強い陽差しを受けて、玉砂利は熱いほどだった。
「あっちっち。やば、火傷しそう」
あまり素足の裏をつけないよう、ぴょんぴょんと子鹿が跳ねるように湖に向かう。爪先から水に浸けると、人肌にはちょうど心地良い程度にぬくもっていた。
山から吹き下ろす風で、澄んだ湖面には、ささやかではあるが漣が立っている。静かに沁み渡る水音に、折り重なる蝉の声。様々な野鳥たちの声。急に水に入ってきた人間に驚いて、銀色の魚たちが、ぱっと泡を煌めかせながら逃げ散ってゆく。
「んー。気持ち良い」
夏であれば、禊もまあ嫌いではなかった。たくさんの生き物の気配がするから孤独ではないし、人目を離れた清浄な場所で肌を清めることは、単純にすっきりする。
ぬるく重たい血の通う人間の身体も、いっときとはいえ、清水のように穢れなく生まれ変わるようだ。神と接するために身を清める、というのはもっともだが、執り行う者にとっても、身心を整えるという意味で、案外無駄では無い儀式なのかもしれなかった。
水の中に入ってからさらに少し歩いて、緑の木々が天蓋のように張り出している処まで行った。
ここのあたりまでくると、水深が少し下がって、腰まで水に浸かることになる。もっと浅いところで水を掬いながら浴びても良いのだが、というよりも正しい作法に従えば本当はそうなのだが、夏場であれば、ここまで来て全身を浸からせてしまう方が手っ取り早かった。
あまり日焼けしないたちの、すべらかな小夜香の肌は、夏の間でも輝くように白い。透明な水面に波紋を生む細く薄い身体に、長い濡れ髪が絡まるように貼り付く。
重さを増した黒髪が鬱陶しくて、小夜香は髪を手櫛で束にし、片方の肩にまとめた。
「はー。せめて禊の間くらい結わせてほしいなあ」
全身を清めなければいけない、という理屈は分かるが、乾かすのだって面倒なんだし。と、ぶつくさ言いながら、黒髪以外は一糸纏わぬ裸身に水を掛けてゆく。そのときだった。
ぴくり、と、自身の腕にすべらせていた掌が反応し、止まった。自分がいったい何に反応したのか、その瞬間には分からなかった。
──血の臭いがする。
咄嗟に目を向けたのは、湖面にまで緑の天幕を張り出してきている、畔に繁茂する樹木の奥。
小夜香のいるあたりでは、湖の縁は少し盛り上がっていて、生い茂る木々を見上げるような斜面になっていた。
鉄錆びた血の臭いが鼻孔をかすめ、それと意識するよりも先にどっと襲いかかってきたのは、圧倒的な妖気の塊──そうとしか表現しようのない、晒されただけで人の身を打ちのめし縛り付けるほどの、なにものかの禍々しい気配だった。
ガサガサッと、深く生い茂った緑が大きく揺れた。細かい枝を乱暴に払い折る音。身動きもできずに莫迦のように見ていると、「それ」は樹木を割って、視界の先に姿を顕わしていた。
──白い、獣。
いや。白いその全身は、恐ろしいほどの赤で斑に染まっていた。額から天へと真向かって伸びた一対の角は、真紅に染まっていても尚分かるほど、焔を纏うように白く輝いている。
全身が生き血にまみれた白い獣の、爛と耀く紫の双眸が、真正面から小夜香を強烈に捉えた。その眼は、瞳孔が刃のように縦に長かった。血まみれの中から向けられてくる恐ろしいそれに、小夜香は打たれたように、指先一つも動かせなかった。
──いや、違う。獣じゃない。
人と同じように、衣を纏った手足がある。白く見えたのは、その背に流れて広がる髪が真っ白く、纏う衣もまた白かったからだ。そのいずれもが、目の醒めるような血の色を浴びてはいたのだが。
──鬼だ。白い、血塗れの鬼。
恐ろしいのに、その一瞬、それはとてつもなく美しかった。一直線に結ばれた視線を逸らせず、呼吸も忘れて、小夜香は食い入るように、その白い鬼を見つめていた。
時間としては、それは文字通り、瞬き数度程度のことだった。
樹木を割って突然顕われた鬼は、そのまま勢いを殺すこともなく小夜香の目の前に落ちてくると、盛大な水飛沫を上げた。転がり落ちてきた、とまではいかないが、勢い余った様子ではあるように見えた。
その水飛沫を頭から浴びたことで、小夜香はようやく我に返った。
「な。な、な……」
──なんだ、こいつ。
そう言おうとしたのだが、今さら驚きが全身を駆け巡って、すっかり動けなくなっていた。今目の前で起きていることに、理解が追いつかない。
──えぇ? 鬼? しかも血まみれ? ここは聖域だぞ。なんでよりにもよって、こんな化け物が顕われる? しかも鬼のくせに、頭から勢いよく水に落ちるというのもどうなのだ。
完全に固まっていると、白い鬼がばしゃりとずぶ濡れの袖をはねのけ、やっと水の中から立ち上がった。
目の前に立った全身ずぶ濡れの姿に、小夜香は思わず仰け反った。
大きい。小夜香はかなり小柄ではあるが、それにしても見上げるほどに上背がある。
白い鬼が身につけていたのは、どうやら白い狩衣だった。喉元や手の甲のあたりに、肌を隠すようなぴったりとした黒い下衣が見えるのが、小夜香の見知っているそれとはいささか異なっている。そして右の手には、白銀に耀く美事な太刀がある。鬼の緩く波打った腰よりも長い髪も、また白い。ただしそれらのいずれもが、べっとりと赤く血塗られていた。
濡れ髪を鬱陶しげに掻き上げながら、鬼が小夜香を見下ろした。人間のものならぬ紫の双眸を持つその貌は、あらためて目にしてみると、恐ろしく整っていた。
「……何だ。人間か」
しばし小夜香を見下ろした後、白い鬼がそう言った。少しは驚いた様子であるのは、
相手の鬼にとっても同様のようだ。だがさして興味も無いように、すぐにその視線は小夜香から外された。
鬼は太刀を一振りし、血滴を払ってから、流れるような動作で鞘に収める。そうしながら、ぐるりとあたりを見回した。
「ということは、ここは蓬莱か。俺を弾き跳ばすとは、今際の際とはいえ、なかなかやるな」
独り言だろうか、よく意味の分からないことを言っている白い鬼から、小夜香は眼を離せなかった。
この世のものならぬ存在を感知すること、現世の道理では説明のつかない怪異と関わることは、身にひいた血筋ゆえに、小夜香には珍しいことではなかった。だが、これほどまでに人型に近い、そして明らかな実体を持つ怪異と相対することは、さすがに初めてのことだった。
何よりも、こうして相対すると、否応なしに伝わってくる。この鬼は、とても強い妖だ。肉眼でも可視化できそうなほどの、肌がぴりぴりと痺れるような強烈な妖気。白い焔のような妖力の渦とでも言えば良いのか、そんなものが逆巻くようにこの鬼を取り巻いているのが視える。
遭遇の驚きと衝撃が去ると、その強烈な妖気は、たちどころに小夜香を呪縛した。本能から来る畏れが込み上げ、自覚のないうちに、身体が細かく震えていた。
そうだ。社殿ほど強固ではないものの、ここも聖域のはずだ。何故こんなものが、この場所に顕われたのだろう。ここはこんな、得体の知れぬ妖が出現して良い場所ではない。
そもそも、木っ端の物の怪であれば、神域であるこの湖に近寄ることすら出来ないはず。それが平気な顔でそこにいること自体、この妖が一筋縄ではいかない存在であることを物語っていた。
「お、おまえは……なんだ。何をしに来た?」
ぐっと震えを飲み込んで、ようやく声を発する。それに、おや、というように、妖が反応した。
「ほう。俺を前にして喋れるのか、人間」
恐ろしいような人外の瞳が小夜香を見下ろし、にいっと、その形の良い口角が釣り上がった。
小夜香に向かって押し寄せてきた妖気に、ざわりと全身の毛が逆立つ。血染めの鬼によるそれは半端な迫力ではなく、その開いた唇にちらりと覗いた、牙というより他に無い長く伸びた犬歯に、小夜香はさらにぎくりとした。
妖の意識がこちらに向いたことに、本音を言えば怖じ気付きそうだった。
だが自分は、この里を守る龍神の巫覡であり、この里を守る義務があった。こんな得体の知れない物の怪に、他の誰でもなく小夜香が遭遇したというのは、むしろ幸いであったのかもしれない。
ひとつ息を吸い、肚の底に氣を溜めるようにする。なにしろこちらは真っ裸で、出来れば身を覆えるものが欲しかったが、こうなっては仕方が無い。胸を張って、正面から鬼を睨み付けた。
「此処は龍神様のおわす神域。我はそれに仕えし巫覡ぞ。此処はおまえのような血の臭いのする妖風情が立ち入って良い場所ではない。早々に立ち去れ」
勢いよく祓うように腕を振る。恐ろしかったし、この妖に自分は殺されるかもしれないと思ったが、そうはっきりと声を発したことで、かえって覚悟が決まった。
小夜香を見る妖の眼が、明らかにそれまでと色を変えた。面白そうに紫の双眸が耀き、興味深く注視するそれに変わる。
「ほほう。随分と威勢が良いことだな、娘」
一歩も退くことなく、小夜香は言い返した。
「無駄口は要らん。穢れた妖風情と話す口など持ち合わせていない」
「穢れた、と言うか。何をもって穢れたと言う? 貴様ら虫螻以下の人間風情のほうが、よほど身の程知らずにも専横跋扈して蓬莱を蝕み、不徳の限りに荒らしまわっているではないか」
「おまえこそ、そんな血まみれの姿で何を言うか。おおかた、か弱きものたちを、いいように甚振ってきたのだろうが」
この妖自身は、とくに弱ったふうにも見えない。見たところ衣が破れているとか、目に見える傷を負っているようにも見えない。であれば、この鬼を染めている赤い色は、返り血ということだろう。
言われた妖は、はたと己の姿を見下ろした。そして、にやりと嗤う。その笑みの凄みに、小夜香は内心びくっとした。
「確かにな。否定はせん。だが、俺とて望んだわけではないぞ」
「適当なことを」
「適当ではない。戦に呼ばれて、然るべき相手を討った。それだけのことだ。俺と相対することになった相手には、まあ同情する」
「戦?」
思わず、小夜香は問うていた。妖の世界にも戦があるのか。そんな勢力争いのようなものは、人間の間で起こるくらいのものだと思っていた。
妖は湖の水をばしゃばしゃと掬い、顔や手を汚している血を拭った。もしかしたら妖自身にとっても、あそこまで血糊で汚れたままなのは、あまり良い感触では無かったのかもしれない。
それにしても、龍神の力の宿る聖なる水で妖がそんな穢れを流すな、とは言いたくなった。この妖は、余程豪胆なのか、それとも無頓着なだけなのか。
血汚れが落ちると、妖の容貌がますます露わになり、小夜香はまた心の臓が跳ねた。白い鬼は、そうしてまじまじ見ると、やはりとんでもなく貌が良かった。
「妖の世界にも戦はある。だが性質的に争いに向かないもの、武に長じていないものも少なくない。我ら夜叉の一族は、そういった連中に、打ち物としてよく雇われる」
小夜香の問いかけに、妖は意外にもすんなりと答えた。妖と会話が成り立っていることに驚きながら、小夜香は呟いた。
「夜叉の一族……」
ではこの白い鬼は、夜叉という妖なのか。言い伝えや文献などでは名を聞くが、実際にそんなものにお目に掛かったのは初めてだった。
それと知ると、何やらこの夜叉の語る人ならぬ世界のこと、小夜香には到底知り得ぬ幽世の話に、やおら興味をそそられてきた。意外にもこの夜叉が、気さくな様子であるというのか、聞けば答えてくれそうな雰囲気であることが、小夜香をつい油断させていた。
「それは、つまり傭兵のようなものか?」
「そうだな。対価も得るが、我ら夜叉にとっては道楽のようなものだ」
「道楽?」
「夜叉の一族は、種として他より群を抜いて武勇に優れている上に、闘いを享楽とする者が多い。退屈しているところに呼ばれれば、大体喜んで闘いに興じる」
「随分と物騒な一族だな。戦というなら、それで命を落とすことだってあるのだろうに」
「あるな。だが、よほどのヘマを踏んだのでなければ、本望というものだろう」
「負けて、殺されてもか?」
あまりに価値観の違う話に、小夜香は思わず聞き入りながら問いを重ねてしまった。
白い夜叉は、そこでふいに小夜香に視線を流した。紫の眼を眇め、ふっと、心胆寒からしめるような薄笑みを浮かべる。
「娘のわりに、おまえも随分と物騒なことを平気で口にする」
話にのめりこみ、つい妖である相手との距離感を忘れかけていた小夜香は、ぎくりとして思わず身を引きかけた。
その剥き出しの左腕を、ぐいと大きな掌につかまれた。一瞬のうちに、小夜香は白い夜叉の懐深くに引き込まれていた。
「面白い娘だ。この俺を怖れないところも興味深い」
夜叉の手が、遠慮の無い仕種で小夜香の小さな顎にかかり、上向かせた。間近から覗き込んできたその縦長の瞳孔は、まさに獲物を物色するように、妖しく禍々しく耀いていた。
その恐ろしげな眼差しと、自分よりもはるかに身体の大きな相手、しかも恐ろしい妖の懐にすっぽり抱き込まれたことで、さすがの小夜香も身を強張らせた。まして小夜香は今、それこそ一糸たりとも身につけていない。あまりに無防備で、このような妖に対しては赤子の如くまるきりの無力であることを、嫌でも思い知らされた。
「さて、おまえをどうしてやろうか。妖の世界に連れ去って、適当なところで魑魅魍魎どもの中に放り出すのも面白いな。ああ、それよりも、どうせならそこの祠の前で喰い殺してやるのも良いか」
低く囁くように言いながら、夜叉の長い爪が小夜香の頬を撫でる。骨まで凍りそうな恐怖と怖気が這い上がってきたが、それ以上に、夜叉の弄ぶような心無い言葉に、臓腑がカッと燃えあがった。
この妖は、祠の前、つまり龍神の前で、あまつさえ巫覡である小夜香を喰いものにしようというのか。なんという侮辱、なんという不遜な畏れ知らず。
あまりの怒りに黒い瞳が燃え上がり、恐怖も押し流した。あえて身動きも抵抗もせず、ただ真正面から、思い切り夜叉の貌を睨み上げた。
「痴れ者が。私を喰いたければ喰うがいい。ただし喰ったなら、他には一切手を出すな。それで、とっとと棲み処に帰れ」
少しは話せるような気がしたが、こいつは所詮、人とは相容れぬ化け物だ。この鬼は、きっと嬉々として小夜香を喰らうだろう。だがそれなら、せめてこの里だけは守りたい。こんなことを言ったところで、相手は妖。何の確約にもなりはしないことも、分かってはいたが。
さあやるならやれ、とばかりに睨みつけていると、何やら夜叉がぽかんとした顔付きになった。何度か瞬きをすると、まじまじと小夜香の顔を凝視する。
何のつもりか、と警戒していると、夜叉が顔を伏せるなり、やおら吹き出した。そのまま堪えきれないように、声を立てて笑い始める。
「なんなんだ、おまえは。本当に面白い娘だな。人間の娘とは、こんなに面白いものなのか。いや、おまえが面白いだけだろうな、きっと」
腹を抱えそうな勢いで笑い始めた夜叉に、小夜香はそれはそれで身動きできず、先程までとの落差に当惑した。何がそんなに面白いのだろう。死を賭して臨んでいる相手に対して笑い出すなど、失礼千万ではないか。
「なんなんだ、はこっちの台詞だ。喰わないなら放せ。この人でなしが!」
イラッときて、その腕の拘束から逃れようと手足をじたばたさせた。すると、それを封じるように、夜叉の袖が小夜香の薄い身体を抱き込んだ。
夜叉の指先が、挑発的に、また小夜香の顎を掬って持ち上げる。如何にも可笑しくてたまらないように眼を眇め、白い鬼は小夜香の黒い瞳を覗き込んだ。
「さあ喰え、という相手を喰ってもつまらん。もっと怯えて、命乞いをしてもらわんことにはなあ」
くつくつと笑っている夜叉に、小夜香は顔をしかめた。心の底からの軽蔑を込めて、その貌を見返す。
「貴様、最悪の趣味だな」
見た目は良いのに、天の采配とはこうも歪なものか。いや、そもそもこんな性悪の妖は、天の采配の下には存在していないのかもしれないが。
そんな小夜香に構わず、夜叉はまだ可笑しそうに笑っている。いい加減にしろ、と思った頃になって、やっと笑いをおさめると、夜叉は大きな掌で、小夜香の両頬を存外に優しく挟み込んだ。
「おまえが俺に怯えたら喰うことにしよう。おまえ、名はなんという?」
「答えるわけがないだろう。頭が湧いてるのか」
「俺の名は槐だ。人に名乗らせておいて、おまえは名乗りもしないのか。龍神の巫女とやらの礼儀も、残念なことに、たかが知れたものなのだな」
しらっと言われ、しかも相手のほうから名乗られて、小夜香はしばし呆気にとられた。
霊域に身を置く巫覡、日常的に言霊を尊ぶ習慣から、名前を名乗るということは、小夜香には特別に意味のある行為だった。まして相手は、幽世のものである妖だ。言うなれば小夜香よりもよほど、「名」という呪文の持つ霊威や作用に縛られる生き物だ。
この夜叉が真名を名乗っている保証はない。だが通り名であれ、己の名として名乗っていること自体で、この夜叉は一定それに影響されるのは間違い。
勝手に名乗っておいてと、まことに腑に落ちなくはあるのだが、名乗られてしまえば、名乗り返さずには道理に悖る。まんまとこの夜叉のいいようにされている気がして、腹の立つことこの上なかったが、しぶしぶ小夜香は口を開いた。
「………………………………小夜香、だ」
「ほう。字はどう書く?」
「……小夜に香る、だ。いいか、もう一度言うぞ。喰わないなら放せ」
「分かった、分かった」
笑いながら、今度はあっさりと、夜叉は小夜香を解放した。
小夜香は脱兎の如く勢いでその場を離れ、玉砂利の上にまとめて置いておいた衣をひっつかむと、ろくに裏表も確認せずに肩から羽織った。濡れた身体からぽたぽたと滴が落ちるまま、夜叉のほうを振り返る。
白い夜叉はその場から動いておらず、小夜香のことを見つめていた。
「俺ももう一度言うぞ。俺の名は槐だ。また会いに来る」
「はぁ? いや、要らん。来るな。迷惑だ」
「来るなと言われたら、余計に来たくなるな」
巫山戯たことを言って、槐と名乗った夜叉は、またくつくつと笑った。直後に突風のような強い風が吹き付け、白い夜叉の長い髪と衣が大きく煽られた。
思わず腕を持ち上げて、眼を庇う。風がおさまり、次に眼を開いたときには、槐の姿はもうどこにも見えず、透明な湖面がきらきらと揺れているだけだった。
──居なくなった。
と思った途端、全身から力が抜けて、へなへなとその場にへたり込んだ。
「何だったんだ、あいつ……」
助かった。一度は死を覚悟しただけに、力が抜けると、我ながらえらく情けない声が出た。
今さら全身が震え始める。今自分が生きているのは、あの妖の気まぐれに救われただけだ、と分かっていた。
「何なんだ、あいつ。何を考えてるんだ」
何故あの妖は、小夜香に何もせずに消えたのだろう。生きているのは有り難かったが、わけが分からず、わしゃっと頭を掻き回しながら唸った。
だがそうこうしている間もなく、はたと気が付いた。いつの間にか、太陽の位置が、だいぶ西に傾き始めている。
「うっわ、まずい。急がなきゃ」
あの妖のおかげで、えらく余計な時間を食ってしまった。これでは、また夕刻の勤めに遅れてしまう。
慌てていったん濡れそぼった衣を脱ぎ、水を絞って、身体の水滴を払う。あたふたと戻る身支度を整えるうちに、また沸々と怒りがわいてきた。
あの化け物。あんな血まみれの姿で、非礼極まりなくこの神域を穢した上に、あまつさえ龍神の巫覡である自分に対し、恐ろしいまでの不届き千万。絶対に許しておかない。もしも本当にまた姿を見せてみろ。次こそは、差し違えてでも仕留めてやる。
ぷんすかと怒りながら、小夜香はろくに髪も身体も拭いもせずに、全速力で里へと駆け戻っていった。
曲夢 (二)
