幕間 ─ 曲夢 ─

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 それは不思議な感覚だった。
 そこにいるのに、そこにいない。澄んだ水面や、蝉時雨の降る木陰や、見知らぬ軒下、初めて見る部屋の片隅。ふと気が付いたら、そういったところに佇んでいるようで、けれど手足の感覚がない。そもそも、「自分の姿」というものが、そこにはないようだ。
 ──なんなんだろう、これは……?
 よく分からない。夢の中にいるようで、何もかもがふわふわと現実味がない。
 見える景色の中で、誰かと誰かが会ったり、話したり、あるいは一人でいたり、様々なことが起きているのだが、薄沙を隔てたように一切が遠くて、ふと気になっても干渉は出来ない。
 それはまるで、既に起きたことを、傍から眺めているだけのよう。
「既に、起きたこと……」
 夜光はぼんやりと呟いた。呟いてみたら、そうか、としっくりきた。
 分かった気がする。これは多分、本当に夢なのだ。夢なのだけれど、夢ではない。どこかで実際にあった光景を、なぜか自分は、夢というかたちで追体験している。
 なぜそう思うのかも分からなかったけれど、まるで見えない何かにそう誘われているような、妙な確信があった。
 そんな不確かな泡沫うたかたを漂う中で、小夜香と呼ばれている、とくに眼をひく娘がいた。
 その名前に、どこかで聞き覚えがある。腰まで流れ落ちる艶めいた漆黒の髪、闇を射貫くような射干玉の瞳。強い光を宿す娘の眼差しは、恐れ気も無く真っ直ぐで、どんな闇をも払いのけてしまいそうだ。
 そしてもうひとり、眼をひくものがいた。それは射干玉を纏う娘とは正反対の、雪のように白い髪、白い焔を纏う一対の角を持った、威風堂々たる妖だった。
 何故だろう? 見たこともないはずなのに、その姿が、どうしてか懐かしく思える。
 不思議に思いながら漂っていると、ふいに妖の目許が見えた。白い髪の下に見えた双眸に、夜光は呼吸が止まる思いがした。
 ──咲き初める紫苑のような。闇を孕むほどに深く鮮やかな紫水晶のような。どんな玻璃よりも澄んで透明な、その類い稀なる瞳の色。
「……おとうさま……?」
 槐。その妖の名はそういうのだ、と分かったとき。夜光は呟いていた。
 ──ああ、そうか。
 そういえば、聞いたことがあったではないか。自分がまだ赤子のうちに他界した母親の名は、小夜香というのだと。
 人間であった彼女は、かつて妖の父と出会い、結ばれて子をなした。それが自分だ。人間と妖、双方の血をひく、曖昧で不確かなあわいにいるもの。人でも妖でもない、妖であり人でもあるもの。
 夢の中で見る槐の姿は、夜光が知っているそれとは、まったく異なっていた。夜光の見知っている槐は、闇をも吸い込む黒髪に全身が傷だらけの、無惨に潰れた顔を面の下に隠している、不吉そのもののような姿をしていた。
 だけれど、分かる。あの白い鬼は、間違い無く父だ。垣間見える瞳の色は、夜光自身とそっくり同じ紫。髪の色も、夜光のそれととてもよく似ている。月光を編んだような、光の加減で様々な光を映す、乳白色の淡い髪。
 あの白い焔のような、美しくも猛々しい姿こそが、槐のかつての……夜光の知らない、本来の姿なのだ。
 そう思って聞けば、かのひとの声には、確かに覚えがあった。夜光の知る槐の声よりも、随分と張りがあって若々しく聞こえる。夜光の知る声の方が穏やかだけれど、声の奥底に窺える揺るがぬ自信、強固な自負は変わらない。
 ──ああ……そうか。そういうことなのか、これは。
 不思議な中を漂いながら、夜光は何か、泣きたいような気持ちになった。
 実際には見たこともない。会ったこともない姿をした父と、覚えてすらいない母。本当なら知ることも叶わなかったその様子が、なぜだか今、そこにある。
 ──ああ。私は今、ありし日の父と母の姿を見ている。

 

現在の更新はここまでになります。次回の更新をお待ちください。

 

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