曲夢 (五)

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 それからしばらくは、何事もなく平穏に過ぎた。
 社周辺や禊場に注連縄が増やされ、侵入者や害獣対策である里周りの鳴子も増強されたが、幸いにして変事のひとつも生じていない。
 あの禊場での出来事を思い出すと、今でも若干腹が立ったが、腹が立つこと自体が既に悔しい。なので小夜香は件の妖については極力頭の隅に押し込め、注意だけは怠らず、日々の勤めに勤しんでいた。


 そんな中で、小夜香の日課に加わったことがある。それは秋祭りでの神楽舞、通称「秋神楽」の稽古だった。
 山よそおう頃に催される秋祭りでは、龍神への感謝と翌年の豊穣祈願のため、巫覡が舞を奉納することになっている。去年の秋祭りの頃はまだ小夜香の役目では無かったから、秋神楽を舞うのは今年が初めてだった。
 神楽舞にはいくつかの種類があり、ぱっと見るとどの舞もあまり変わらないように見えるのだが、やってみるとその実とても複雑だ。ちょっとした手や指の型や足の運び、目線の動きや身体の捻り方、地の踏み方ひとつにも決め事があって、それらがいくつも組み合わさっている。ひとつひとつの型がすべて「神と対話するための作法」でもあるから、小さなことでもおろそかにできない。しかも本番では、やたらに裾のひらひらと重なった、素敵ではあるが動きにくい専用の舞装束を身につけることになる。
「姉様はすごいよなあ。こんなのをあんなに優雅に舞ってたんだもん」
 傍目には美しい舞にしか見えないのに、巫覡の舞とは実はかくも難儀なものなのかと、小夜香はつくづく舌を巻く。
 ちなみに神楽舞のときは、巫覡に神様が降りてくるのだとも言う。神楽を舞う機会は年に何度かあるのだが、残念ながら小夜香には、今までそういった超常的な経験は無い。
「どうせ巫覡っぽい力なんて無いしなぁ私。……って、いやいや。兄様も言ってたじゃないか、形をなぞることも重要なんだって」
 それを考えるとまたへこみそうになるので、小夜香はぶんぶんと首を振り、自分を叱咤した。
「はりぼてだからこそ、出来ることは全力でやらなきゃ。誰にも文句を言わせないくらいに」
 そんな調子で、舞の伝書とにらめっこをしながら、社の板の間やお屋敷の空き部屋で、毎日のように小夜香は稽古を重ねた。
 秋人が稽古を見てくれるときもあったし、なんなら手本を見せてくれることもあったが、彼も忙しいから毎回というわけにもいかない。それに型さえ覚えてしまえば、あとはひたすら反復動作を繰り返して精度を高めていくだけだ。
 幸い小夜香は、身体を動かすことは得意だった。舞については「筋が良い」と褒められていて、これまで舞ったものに関しては、思っていたよりも周囲からの評判は良い。
「皆も神様とか見えるわけじゃないからなあ。降りてきてるのかなんて分からないだろうしな」
 まぁそのほうが、ぽんこつ巫覡としてはありがたくはあるのだけれど。
 形だけの神楽でも、そこには小夜香なりの心を籠めている。願いや祈りこそが神を喚ぶのだ、とも聞いたことがある。であれば、自分だけではなく里の皆の祈りを受け止めて舞うことは、こんな自分であったとしても、きっと意味はあるはずだろう。


 その日も日中は神楽舞の稽古に費やし、社で夕刻の勤めを終えてから、小夜香は屋敷に戻ってきた。
 あたりには物悲しいような蜩の声が響き渡っている。縁側を通りかかったとき、小夜香は思わず立ち止まった。
「すごい空だ……」
 連なる稜線を光らせながら、太陽が西の果てにすべり落ちようとしていた。空一面にたなびいた薄雲に夕焼けが照り映え、見上げた視界すべてが、荘厳な朱と金を帯びている。屋敷から見える湖面にも光が反射して、眩しいほどの輝きを散らしていた。
 小夜香はしばらく見とれていたが、ふと思い立った。僅かな時間ではあるけれど、昼間にやったところの復習が出来るかもしれない。夕餉までにも、まだいくばくかの猶予がある。
 小夜香は縁側からするりと庭に降りた。沓脱石に置かれていた草履を履いて、ひらけたあたりまで歩み出る。
 自分の影も黄昏の色を帯びて、長く地面に伸びていた。ぴたりと構えて手足を止めると、閑寂たる境地に五感が誘われる。呼吸を整え、昼間の稽古を思い出しながら、ゆっくりと舞い始めた。
 難しいな、苦手だな、と思うところだけは特に気を入れて、あとは流れに任せることを意識しながら型を辿る。そうすると、普段と同じ舞のはずなのに、いつもより軽く手足が動いた。
 夕映えの中、軽やかに袖や裾が翻る。ふわりと黒髪が風に攫われる。今このときだけの入相いりあいの舞台の眩耀が、幻惑されるような没入感を招く。
 まるで黄昏の光と空気とに、舞ううちに融け合ってゆくようだ。不思議な陶酔感に、小夜香はほとんどうっとりしながら舞っていた。
 一通り舞い終えると、少し息が弾んでいた。うっすらと汗ばんだ素肌に、夕暮れの風が心地良かった。
 ぱちぱちと瞬く。舞い終わると、まるで夢から醒めたようだった。なんだか束の間の白昼夢でも見ていたようだ。
 さっきまでよりも、いっそう空は赤みを強めていた。いよいよ夜が近い。東の空には薄く光る月が昇り始めている。現世と幽世の隔てが融けるとされる、昼でも夜でもない束の間のあわい。
「たまには、こんなふうに気楽に舞うのも良いな」
いつもより舞に入り込めたのは、この稀有なる茜の舞台と、あまり気負わずに舞ったおかげかもしれない。
 軽い疲労感も快く、小夜香は鼻歌を歌いながら、庭の隅にある井戸端まで足を運んだ。
 澄んだ井戸水は真夏でも冷たい。水を汲み上げて手足と顔を洗う。すっかり晴れた気分で、帯に挟んでいた麻布で顔を拭っていたときのことだった。
 麻布に半ばふさがれた視界の隅に、白い何かが見えた。顔に麻布をあてた格好のまま、小夜香は硬直した。
 ──白い、人のかたちをした何者かが、横に居た。
 いつから? いつのまに?
 そろそろと眼だけを動かす。視線が辿った先に立っていた白い鬼は、そこにいるのがまるで当たり前のような顔をしながら、何の気負いもなく声をかけてきた。
「なかなか悪くなかったぞ。おまえは良い舞い手だな」
 忘れようにも忘れられない。堂々たる立ち居に、真白い狩衣、佩かれた鞘におさまった白銀の太刀。流れ落ちる雪白の髪と、白焔のような燐光を帯びる一対の角。
 それらの一切が、朱金の夕陽を浴びて、神々しいほどに輝いている。真横に立っているそれをはっきりと認めた瞬間、小夜香はものすごい勢いで飛び退いていた。
「ッ……ちょあッ──な、なっ……!」
 驚愕のあまりまともな叫びも上がらず、飛び退いた先で腰が抜けかかり、転げるように尻餅をつく。
 茫然と見上げると、白い妖は、見るからに面白そうににやにやと笑っていた。明らかに小夜香が驚愕することを見越しての、底意地の悪い笑い方だったが、そんな様すら絵になっているのが腹が立つ。
「な、な、なっ……な、何をしに、来た」
 想定外にすぎる遭遇に、心拍数が一気に跳ね上がっていた。口から心臓が飛び出そうで、声が喉の奥で絡まってうまく出ない。それでもどうにか口を開くと、これまた至極当然のような落ち着きぶりで、白い鬼──槐は答えた。
「おまえに会いに来た」
「は……?」
「言っただろう。ついこの間のことをもう忘れるほど、その頭の中身は残念なのか」
 言いながら、槐は難なく数歩を歩み寄ってくる。その類い稀なる宝玉のような紫の瞳が、真っ直ぐに小夜香を捉えている。笑みを含んだそれが、不思議なほど敵意や害意といったものを含んでおらず、ただ興味深いものを見るように子どもっぽく輝いてすらいるのが、小夜香をいっそう当惑させた。
 先日のような強烈な禍々しさも、今日はなりをひそめている。そしてしばらく振りに見たその容貌は、やはりやたらと見目が良かった。何なら、記憶にあるよりも良い。それがなよなよとしたものではなく、何処かしら武人然とした佇まい、凜然とした覇気を纏っていることが、またことのほか小夜香に刺さる。これは頭中将でも敵わない。見とれまいと思っても、視線が、意識が吸い寄せられてしまう。
 いけない、これでは引きずられる。小夜香は見上げる目許にきゅっと力をこめ、つっけんどんに返した。
「驚いた。よっぽど暇なのか、おまえは」
「まあまあ暇だが、時と場合によるな。おかげで、あれからすぐには来られなかった」
「私は、来るなと言わなかったか? おまえのほうこそ、そのご大層な頭の中身は随分とお粗末な出来のようだな」
「おまえも口が悪いな。嫌いではないぞ、そういうのは」
 気を悪くするどころか、むしろ槐は楽しそうだ。これも至極当たり前のように、槐の手が小夜香の手を引いた。
 相手があまりに落ち着き払っているので、小夜香もつい、つられて素直に立ち上がってしまった。その間ふれた手の感触は、人間と変わらずに温かかった。秋人のそれよりも大きく力強く、だが無骨な感じはしない。
 こいつ、何を考えているんだ。
 小夜香はただ槐を見返す。警戒は解けていないが、「敵意や害意が感じ取れない」ことが、何より小夜香を戸惑わせた。

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