夕凪を蜩の声が震わせる中、葵は寺の裏庭にある井戸で水を汲んでいた。
下手をしたら物の怪でも出そうなほど、寺は半ば廃墟じみた有り様だが、幸いなことに井戸水は澄んでいる。今の夜光の状態を考えると、冷たい清水を豊富に使えるのはありがたかった。
あれから夜光は、ほとんど眼を覚まさない。熱は上がったり下がったりを繰り返し、下がったときは薄く眼を開けることはあるが、意識が朦朧としているのか、あまり会話も成り立たなかった。とくに寝苦しそうであったり、うなされるといったことはないのが、せめてもの救いだ。
熱が高いときは額を冷やし、身体を拭いてやり、衣を換えてやりながらつきっきりで看ているが、それ以上のことが何もできない。せいぜい、飲まず食わずで眠り続けている夜光の唇を湿らせてやるくらいだ。
夜光は半妖であるから、並みの人間などよりはよほど丈夫とはいえ、さすがにこの状態が続いて大丈夫なのかと心配になる。
夜光の容態が比較的落ち着いているときに、一度山を下りて近くの町まで出てみたのだが、やはり医者を連れて来るのは無謀だと判断し、薬を買うだけにとどめた。その薬すら、役に立っているのか甚だ怪しい。
「最悪、終の涯に頼るようだな……」
終の涯──夜光の故郷である、妖たちの棲む異界の街。そこを治める長、夜光の義父でもあるかのひとであれば、夜光を救うことなどたやすいのではないかと思う。そしてそれは、まず過信ではない。
「そもそも、本当に夜光が危ういのであれば、向こうの方から手を出して来るんじゃないだろうか」
それが頭の片隅にあるから、葵もそこまで深刻にならずにすんでいるのはある。夜光をこよなく愛する終の涯の長が、どれほど隔たれた異界のことであれ、夜光の危機を見過ごしておくはずがない。
とはいっても、それで完全に安心できるほど、楽観はできなかった。想い人が説明のつかない異常事態に陥っている、というだけで、安心しろと言われても出来るわけがない。
それに大前提として、「いざとなれば終の涯に頼れば良い」と甘えるのではなく、出来る限りは自力で対処していきたかった。でなければ、あえて終の涯から──長の庇護下から離れ、この蓬莱の地に居る意味が無い。目が醒めていれば、夜光も同じように言うだろう。むしろ夜光の方が、終の涯を頼ることを頑なに拒否するかもしれない。
「夜光の声が聞きたいな……」
はあ、と溜め息をつきながら、水を汲んだ木桶を下げて部屋まで戻る。声だけではなく、元気に笑う夜光が見たい。葵に向かって様々な表情を見せてくれる、いつもの夜光に会いたい。
「駄目だ。夜光がいないと、俺は本当に情けないな」
しっかりしなければ。自分を叱責しながら、破れかけの壁から夕暮れの光が差し込んでくる薄暗い廊下を歩いてゆく。強い光線に、埃がちらちらと光って見える。歩くとぎしぎし音を立てる廊下は陰気で、その曲がり角の向こうに物の怪が立っていても驚かないなと、歩く度に葵は思う。
「……うん?」
間借りしている部屋がもうすぐそこ、という角を曲がったところで、葵は思わず、ぎくりと足を止めた。
部屋の前に、黒い影が無言で佇んでいる。幽鬼のようなそれは微動だにせず、じいっと食い入るように、部屋の中──横たわる夜光を見つめていた。
「……明慶殿……?」
その黒い影の正体を見て取り、葵は窺うように呼びかけた。黒い影──明慶は、葵が近くにいることに気付いていたのかいないのか、ぴくりとも表情を変えずに首を巡らせた。
「おや。これはまた、失敬」
ぼろぼろの僧衣を纏った姿が、夕闇に陰鬱に浮かび上がっている。皺深い顔の中、ぎょろついた眼が葵を捉えた。左半面の古傷が恐ろしげな陰影を生み、その怪異じみた薄気味悪さに、思わず葵は腰が引けた。
「どうも、明慶殿。どうかなさいましたか?」
愛想笑いをしながら声をかける。夕暮れの残照に浮かび上がる明慶の顔を、まるで目玉のある不気味な骸骨のようだと、葵は内心で思った。
「お連れの方は、まだ快復されないようですな」
明慶は葵の問いには答えず、感情の伺えない声で言った。
「はい。それほど苦しんでいる様子はないのですが。ただ眠り続けていて、どうしたものか……」
「ふむ」
明慶は室内の夜光に眼を向けた。
「まあ、お顔の色はそこまで悪くも無し。まだしばらく様子を見てもよろしいのではないですか」
「そうですね……」
他に言い様がなく、葵は曖昧に頷いた。明慶は小さく葵に会釈し、重たげな足取りで歩き始める。ぎしぎしと黒い床板を軋ませながら、僧衣の後ろ姿は、そのまま廊下の奥へと消えていった。
思わず息を詰めてそれを見送っていた葵は、姿が見えなくなると、ふうと息を吐き出した。
「下手な物の怪よりも恐いな、あの御仁は」
思わず呟き、世話になっているのに失礼なことをと、慌てて首を振って打ち消す。重い水桶を持ち直して、葵は夜光の横たわる部屋へと歩を運び、──その入り口で再びぎくりと強張った。
宵闇に沈んでゆこうとしている部屋の中。横たわった夜光が、仰向けのまま眼を開いていた。
その眼は抜け殻のように、あるいは何を見ているとも知れぬように、なんの感情も浮かべていない。見ているのだとしたら、それはきっとこの世の外にあるものを見ている。虚空へ向けられたその眼は、鬼火のような異様な燐光をうっすらと放っていた。
「や……夜光……?」
思わず呼ばわった。その眼の光が、あまりに尋常でない。そこにいるのがまるで夜光ではないようで、葵はその枕元に慌てて取りついた。
「夜光。夜光、どうした。しっかりしろ」
葵の呼びかけに何ら反応もせず、夜光は再び、ゆっくりと瞼を閉じる。じきに静かな寝息が聞こえてきた。
葵は呆然として、そんな夜光を見下ろしていた。
「何なんだ、いったい……」
夜光のこれは、ただの病などではない。
──明らかに夜光の中で、何か得体の知れないことが起きている。
幕間 ─ 夕闇 ─
