盂蘭盆を過ぎるとツクツクボウシの鳴き声が目立つようになり、朝晩の空気が日毎に涼しさを増してくる。
今年の稲穂は順調に色付いており、収穫に向けて、人々はそれぞれ稲縄をこしらえ始めたり、稲刈り用の道具の手入れをしたり、
収穫の時期はとても手が足りないので、里中が総出で作業をすることになる。普段は巫覡の務めに集中している小夜香や、秋人、里長の一人息子である颯介なども、このときばかりは同様だ。
まだその時期には早かったが、実りが近付いてくると、小夜香は田畑の様子を毎日のように覗きに行く。稗や粟、大豆に蕪に大根といった様々な作物、中でもだんだん金色に熟れてくる稲穂を見るのが、とくに楽しみなのだ。順調に育っている作物や、次第に穂先が垂れてくる様子を見守っていると、無性にわくわくして嬉しくなった。
そんな日々をすごす中、槐はといえば、ほぼ一日とあけずにやってきていた。
しょっちゅう来るが、本当にそれだけだ。何をするわけでもない。強いて言えば、小夜香の顔を見て、少し話をして、それだけで去ってゆく。
「毎日毎日、おまえも本当に暇なんだな」
確かに来ても良いとは言ったが、小夜香は半ば呆れ、半ば感心して言った。妖の事情など分からないが、人間だって離れた場所に居る知り合いに、こうまで足繁く会いに行ったりはしない。
「護ってやると約束したからな」
そう答える槐は、今日は田圃近くの辻に生えている赤松の枝に座っていた。
張り出した枝は、小夜香からは少し見上げる位置にある。槐のような軽くはないだろう者が乗って折れないのだろうかと思ったが、枝はたわんでもいないので、どうやら人間が座るのとは勝手が違うらしい。
ついでに言うと、槐はこうして訪れるときは周囲に人影がない状況を選ぶ。かつ、小夜香以外の人間には姿が見えないよう、何か目眩ましのようなものを施しているようだった。継続して訪れることになった都合上、「迂闊に人間に姿を見られると面倒なことになる」という認識は持っているらしい。
「護ってやる」という言葉に偽りは無いようで、あれから二度ほど、あの丘の上で会ったものと似た怪異が出没していたが、いずれも槐がたちどころに顕われて駆除していた。夜叉、という種がそもそも戦闘能力において上位にあるようだが、それにしても槐は、妖として相当に強力な部類であるようだ。
「おまえには俺の式をつけてある。何かがあればすぐに分かるし、もし俺がすぐには来られなかったとしても、その間、式がおまえを護る」
そんなことを槐は言う。式、というのは、槐が普段から使役している、所謂使い魔、眷属のようなもののこと、だそうだ。霊感が弱い小夜香には、それらを見たり感じたり出来たことは無いが、今さら槐の言葉を疑いはしなかった。
「まあ、それはありがたいが……アレをそもそも来ないようにする、というのは出来ないのか?」
いつまでこんな状態が続くのかも分からない。槐が護ってくれる、という点は既に信用していたが、アレに遭遇すること自体が小夜香を消耗させる。あんなものがいつ顕われるのか、と常に警戒しながらの生活も気が休まらないし、もしも周囲に危害が及んだら、という心労も絶えない。
遠くに見えている龍神湖の方角に、槐が目線だけを動かした。
「今の時点では、効果的な手が見付からないな。元を絶てれば湧かなくなるが、その元を絶つのはまず不可能だ」
「そこをなんとかならないか」
「ならない。『あれ』は存在自体が禁忌だ。うかつに手を出せば何が起こるか分からん」
「そうか。おまえも意外に弱……慎重派なんだな」
「神代に起源があるような化け物を相手に思い上がるほど、さすがに俺も愚かではない」
赤松の上から、じろりと槐が小夜香を見下ろした。さらりと持ち出された「神代」という言葉にぎょっとしたが、おまえがそもそも化け物だろうと言いたくなるような槐の口から「化け物」という表現が出ることに、仔細は分からないまでも、かなり厄介な状況になっていることだけは理解する。
「そんなにやばいものなのか、『あれ』というのは」
『あれ』──小夜香たちが代々「里を守護する龍神」として信仰してきたもの。
過去に一度だけ、槐は『あれ』についてを「夜刀神の流れを汲む禍霊」だと言及した。
祀ってきたものが「龍神である」ことを疑ったことなど無かったし、里の皆もそうだろう。その龍神に仕える巫覡である小夜香としては、実は龍神などではない、と言われること自体が看過出来ない話だ。
だが、顕われた怪異の死穢そのもののようなあのおぞましさ、身が芯から震え上がる恐怖は、小夜香が身をもって味わった「現実」だった。そしてあの怪異は、槐の口ぶりからすると、どうやら『あれ』に関わるモノであるようだ。
槐の言うことが、そもそも全て偽りである可能性もある。だがそうだとすると、強力な妖である槐が、なぜわざわざそんな嘘をつき、茶番を仕立ててまで小夜香に構うのか、ということが謎になる。単に小夜香を構いたいだけであれば、この気ままで傲慢な妖のことだから、特に理由付けなどせずにそうするのでは、と思えるのだ。
たいした霊力もない小夜香には、龍神に仕えてはいるものの、玉響──ひらたく言えば龍神と交感すること──も出来ないから、事の真偽を測れるだけの材料が無い。
だが、身を取り巻くこれらの全てを加味して考えるとき、「槐は嘘は言っていない」ということを直感が告げる。昔から、小夜香は霊力自体は弱いが、直感だけは姉の小夜音よりも優れていた。だからといって、勿論全てを鵜呑みにはできないが。
小夜香の問いに、槐は何も答えない。槐は『あれ』についてを「口にすること」がもう嫌であるらしいから、こうなると喋らせることは難しいことも、既に小夜香は学習していた。
なので小夜香は、直接『あれ』についてを訊くのではなく、質問の方向を少し変えてみることにした。
「あの怪異どもは、そもそもなんで急に現われるようになったんだ?」
小夜香の質問に、槐はすぐには答えず、ちらりと視線だけを向けてきた。答えてくれるか否かは分からないが、聞けるものなら聞いてしまえと、小夜香は続けた。
「以前おまえは、おまえのせいじゃないのかと言った私に、引き金にはなったかもしれないと答えたな。あれもどういう意味なんだ。おまえがあいつらを招き入れているとは、状況的に考えにくい。それにアレらは、何故私を狙う?」
「俺が幽世のものだから、あやつらを多少なりとも活性化させているのはある」
槐はそう答えた。小夜香は眉間を寄せた。
「え。じゃあやっぱり、おまえのせいなのか」
「いや。俺が居ようと居まいと、あいつらは湧いて来ていた。俺がいることで、あいつらにとっておまえの姿が少しばかり見えやすくなった、といったところだな」
「うん……?」
首を傾げている小夜香に、槐は枝の上で脚を組み替えながら続けた。
「言っておくが、俺が来ることにはそれ以上の利点があるんだぞ。俺の気配や気の残滓があれば、それだけで雑魚どもは恐れて近付いて来ない。時々網目から抜ける奴は居るがな」
「ほほう。便利なものだなあ」
「そうだ。だからもっと俺に感謝するがいい」
「感謝はしているぞ。いつもすまないな、槐。今度、とっておきの美味い茶と団子を御馳走してやろう」
「甘いものは好かん。酒はないのか?」
「人がせっかく感謝の気持ちを示してるのに、その言い草はないだろう。もうちょっと人付き合いってものを学べ」
小夜香がむくれていると、槐は何が楽しいのか、くつくつとしばらく笑っていた。それから表情をあらためて、また話し始めた。
「急に現われたというよりも、あれらはずっとこの地に存在していたものだな」
「ずっと? でもあんなものは初めて見たし、あんなものが出たというような話も聞いたことはないぞ」
小夜香が問うと、槐は言い淀むように、そこでしばし押し黙った。口にするべきことを選んでいるように見えたので、小夜香はあえて何も言わず、槐がまた口を開くのを待った。
「……遠い古に『あれ』に施された封印の箍が、長い歳月のうちに緩んできている。そこから洩れ出したものがあやつらだ。『あれ』はおまえを、仇であり餌だと認識している。だから洩れ出した末端も、自然とおまえに向かう」
聞かされた内容に、小夜香はぞっとした。仇であり餌?
「いや、待て。仇だなんて身に覚えがないぞ。それに、私なんて喰っても美味くないぞ?」
「おまえ自身のことではない。おまえの遠い祖の話だ。古に『あれ』を降し、封印せしめた者達だな。巫覡とは、元々は生け贄として捧げられていた者がそう呼ばれていた。今ある龍神の巫覡、守り人とされる一族は、そやつらを源流としている。そもそもこの里の興りが、古に『あれ』を討伐した人間どもがそのままここに根付いたことに始まるようだ」
「へえ……? って、なんでそんなことまで知ってるんだ」
「障らん程度に情報を集めたからな。関わりたくはないが、なればこそ、大まかな事情は知っておいた方が良い」
「それもそうか。知らずに虎の尾を踏みたくはないもんな」
どうやら直接『あれ』についてのことでなく、その周辺情報のようなものであれば、槐は訊き方によっては答えてくれるようだ。
小夜香は考え考え、さらに槐に問うてみた。
「それにしても、私の知る話とはあまりに違うな。私達には、このあたりを潤し豊穣をもたらしてくれる龍神様を、人々が慕い祀り始めたのが里の始まりだ、と伝わっているが」
「言い伝えなど、いくらでもいいように改変されているだけだろう」
「なんでそんなことをする必要があるんだ」
また槐は黙り込んだ。話したくないのは分かるが、こちらだって当事者なのだから、出来るだけ情報は得ておきたい。もしかしたら話してくれるかもしれない、と期待をこめて、じいっとその顔を見つめていたら、やがて根負けしたように、槐がいささか渋い顔で口を開いた。
「何度も話さんからな。──『あれ』は、ただでさえ禍霊だったものが、降され封印された恨みと怒りが泥濘の如く凝って、文字通りの祟り神となっている。『あれ』の存在を認識し、そういうものだ、と識ること自体が呪となり、『あれ』の力となり、蘇りへの呼び水となる。ゆえに一切を秘事とし、まるで異なる善なる神性を当て嵌めた。龍神信仰それ自体が、さらに封印を強める十重二重の箍となり、檻となり、楔となった。そんなところだろう」
「なるほど……」
識ること自体が呪となり、力となる。「神」とは急にそこらに生えてくるわけではない。人々の認知と信仰と、どちらが卵で鶏なのかは曖昧だが、人々が信じ、祈り、祀ることで「神」は生まれ──あるいは「神」と成り、存在と力を増してゆく。
だから『あれ』についての話は、その力を少しでも削ぎ落とし弱めるために、龍神信仰を隠れ蓑とし、禁忌として一切を秘匿された。
考えながら、ふと小夜香は疑問を覚えた。
「いや、でも。何も知らない里の皆は騙せても、巫覡や守り人を騙し通すのは、さすがに難しくないか? 特に巫覡は、代々強い神通力をもって龍神様と交信してきたんだし」
「相手は、それほど悪辣で力が強いということだ」
「ふむ?」
「封印が健在であるうちは、『あれ』といえど顕現することは出来ん。それを理解しているから、あえて大人しく身を潜め、力を蓄えることに集中しながら、封印が緩むときを待っている。力の強いものは、己を偽ることも巧い。代々の巫覡たちは、見事にそれに騙されてきたということだな」
「そうなのか……」
小夜香自身は、そもそも神通力めいたものなどからっきしだから俎上に載せることすらできないが、あれほど優れた巫覡だった姉の小夜音ですらそうなのかと思うと、複雑な気分だった。いや、それこそ相手は「神」、人智を越えた存在なのだから仕方が無いのかもしれないが。
だがそうなると、次に気になってくるのは、槐が口にする「封印」とやらについてだ。「箍が緩んできている」と言うが、それはどういうことなのだろう。
正直をいえば、実はそんな恐ろしげなものが封印されているのだ、といきなり聞いても、実感は湧いていない。出現し始めた怪異を見ていても尚、それは小夜香にとってあまりに突飛な話だったし、半信半疑くらいが本音だ。
考えているうちに、槐が話を切り上げるように言った。
「幾分推測も入っているが、おおよそ間違っていないと思っている。まあ、気が向いたら、あとはあの守り人にでも訊いてみるがいい」
「守り人って、秋人兄様のこと?」
「確かそんな名だったな」
どしてここに秋人のことが、と小夜香が怪訝に思っていると、槐は事も無げに言った。
「龍神の守り人は、代々この秘事についてを受け継いでいる。守り人が護っているのは、何のことは無い、龍神ではなく禁忌の方だ」
「えっ……」
「あやつはなかなか霊感も強いようだな。漠然とではあっても、封印が弱まっていることに勘付いている。だからといって、人間如きに何ができるとも思わんが」
「ち……ちょっと待ってくれ。どういうことだ。秋人兄様が、なんだって?」
いきなり槐が言い出したことについていけず、小夜香は問いただそうとした。槐はそれに答えようとせず、ちらりと辻の先に目をくれた。そこには、農作業の途中らしい里の者が歩いてくるのが見えた。
「では、またな」
それだけ言って、槐が赤松の枝からふわりと降り──たように見えたときには、その姿は霞のように消え失せていた。
「おや、小夜香様。こんなところでどうなすったんです。お散歩ですか?」
近付いてくる里の者が、小夜香に気が付いて暢気に声をかけてくる。小夜香はそれに「ああ、うん」と曖昧に返事をしながら、心の中で槐の残した言葉を繰り返していた。
──龍神の守り人は、代々この秘事についてを受け継いでいる。
「秋人兄様は、全部知っている……?」
龍神信仰がでたらめだということ。本当は恐ろしい化け物がここには封印されているのだということ。歴代の巫覡たちは騙されてきたのだということ。
真実だとすれば恐ろしい、こんな話を。