曲夢 (十)

栞をはさむ

 里に、いよいよ収穫の時期がやってきた。
 作物の熟れ具合によって、今日はこっち、明日はあちらと、里中が収穫作業で賑やかだ。
 小夜香は巫覡の日々の勤めと、この後すぐにやってくる秋祭りの準備が優先ではあったが、可能な限り収穫の手伝いにも加わる。なので毎日が、かなり慌ただしい。
 そんな状態だったから、槐が姿を見せる日は減っていた。
「人目がありすぎて面倒くさい。あまり姿は見せんが、やることはやってやる。安心しろ」
 そんなことを槐は言い、実際その言葉に嘘はないようだ。時折物陰や何かの影の中に、もごもごと蠢いている得体の知れないもの──気配があの死穢を思わせるものと同じ──を見かけることがあったが、いずれもすぐに消えていた。
 ここしばらく毎日のように顔を合わせていたから、槐の姿があまり見えないことに、小夜香は一抹の寂しさと物足りなさを覚えていた。槐はなにしろ見かけが良いし、話していると案外楽しいし、無害でさえあるなら、毎日会うことだってやぶさかではない。むしろ槐が訪れることを、近頃は心待ちにさえしている。
「夜なら私も屋敷に戻るし、一人になるが?」
 あるとき顔を合わせた槐にそう言ってみたが、槐は嫌そうな顔をして答えた。
「あの守り人に鉢合わせると面倒だ」
「まあ、それはそうかもしれないが。一度会ってみたらいいじゃないか」
「前に一度会ったことはある」
「え。そうなのか?」
「とても仲良くなれそうもなかったぞ。奴も敵意が剥き出しだったからな」
「それは……まあ、でも、そうだよな……」
 秋人と槐が遭遇したとして、その場を想像してみると、二人が穏やかに分かり合うなど到底無理では、とは小夜香も思ってしまった。
 槐は基本的に「人間」を見下している──というよりも眼中にすらないといった方が正しいのかもしれない──し、槐のような不審かつ不遜な妖がいきなり現われたら、秋人だって好意的になどなれないだろう。小夜香自身だって最初はそうだったのだから。
「おまえがもう少し丸くなってくれたら、秋人兄様にもおまえのことを話しやすいんだけどなあ」
 小夜香は溜め息をついた。
 互いの理解を得られるなら、さっさと引き合わせるなりしたいところだが、とても双方が打ち解けられるとは思えなかった。秋人は秋人で、生半可なことでは警戒を解かないだろうし、槐に「理解を得られるようにもうちょっとしおらしく振る舞え」と言ったところで、無駄でしかないという自信がある。
 こんな具合だから、小夜香は未だに、槐から聞かされたあれこれについてを、秋人に訊ねることが出来ていなかった。話をするならば、その情報源について、つまり槐についても話さないわけにはいかない。だがこのぶんでは、槐のことを持ち出した途端、話がこじれてしまうだろう。
 だが、そもそも──とも思う。
 もし槐の語ったことが本当だったとしても、それを秋人に問いただしたところで、何がどうなるものでもないのだ。
 小夜香自身も半信半疑のまま、かといって何をどうする事も出来ないので、巫覡として変わらずに過ごしている。話が仮に真実だったとしても、秋人を責めたり追及するようなことでもない。
「でも、いずれは話さないといけないよな。このままっていうのも、隠し事みたいで気が引けるし……」
 何より、槐の言うことが本当であれば、小夜香たちが龍神と呼んでいる『あれ』に施された封印とやらが緩んでいる、という。それは看過していても良いことなのだろうか。それとも、このままでは何か恐ろしい災厄でも起きるのだろうか。
 考えているうちに、ふと小夜香は、ここ最近よく起こるようになった地震についてを考えた。このあたりでは、皆無ではないにしろ、もともと地震は多くない。それが近頃は目に見えて増えている。強くはないけれど先日も揺れたし、里の皆も、騒ぎ立てたりはしないけれど、少し不安に思っているようだった。
 あの丘で怪異に襲われたとき、あれらが顕われる直前に地震が起きていたことも、小夜香は思い出す。
 もしかしたら、何か関係しているのだろうか。「地底深く」に『あれ』は封印されているという。それが解けかかっているから、それが何かしら影響して、地震という形で顕われていたりはしないか。あの怪異も、元を辿れば『あれ』に関わるものだから……。
 しかし考えているうちに、小夜香はわけがわからなくなってきた。
「もー。わっかんないよ。槐ももうちょっとハッキリ教えてくれればいいのにさぁ」
地底に何かが封じられているという話も、最近の地震はそれが原因なのではという仮説も、まったくの荒唐無稽でしかない。
 だが、もしも『あれ』とやらの話が本当で、それが原因でこの先この里に何か大変なことが起きる可能性があるのであれば。それは与太話だといって看過出来る話では、到底無い。
「何ができるとも、そりゃあ思えないけどさ……」
 ──人間如きに何ができる。
 そう無情に言い棄てた槐が甦る。強力な妖である槐が関わることを断固拒否しているほどなのだから、そりゃあ人間ごときには、何かしようにもどうにもならないだろう。だけれど。
「はー。もうやめやめ。今ここで、いくら考えてたってしゃーないわ」
 自分一人で考えていてもどうにもならない。ここはやはり、なんとか槐と秋人の関係を良い方向に持っていくことを優先したほうが良い。
「いろいろ片付いたら、思い切って秋人兄様に話してみよう」
 そして、時間はかかるかもしれないけれど、槐と秋人の間を取り持とう。妖である槐がもしも本当に味方になってくれるならば、人智を越えた出来事を前に、これほど心強いものはないのだから。
 だから、今はまず、目下のあれこれ──一通りの収穫と、秋祭りを無事に乗り切ることだ。何もかもはそれから。小夜香はひそかに心を定め、頭を切り換えた。


 澄んだ秋空に雲が薄く高く伸び、田畑の畔をあざみや曼珠沙華が彩る頃。いよいよ黄金が波打つように十分に実り、稲刈りが始まった。
 この期間はまさしく、里中が総出で作業をする。雨の日以外は、今日はこちらの田、明日はあちらで稲刈り、といった具合に、何日もかけて作業を進めていく。
 稲を刈るだけでなく、稲木はざ掛けという、それを干す作業も必要になる。干した稲が乾いてきたら叩いて脱穀して、それを藁袋に詰めて籾蔵にいったん保存する。
 そういった一連の作業を並行して進めていくから、里中がてんやわんやだけれど、そこには明るい歓びが伴っている。秋の実りは里中を賑やかに彩り、大人も子どもも笑顔にする。だから小夜香は、忙しくても、秋のこの豊かな時期が好きだった。
「はーーー。つっかれたぁー」
 田の脇にずらりと並べて設置された稲木掛けに、刈り取って作った稲束をばさりと掛け、小夜香はうんと腰を伸ばした。ずっと腰を曲げて作業をしていたから、腰がだるくて痛いし、すっかり全身が強張ってしまっている。
 このときばかりは、いつもは降ろしている黒髪も、邪魔になるのでまとめて結い上げている。久方振りのそれが懐かしくも新鮮で、うなじをくすぐる爽籟とした風が心地良かった。
「あはは。巫覡様も、こうなると形無しだなあ」
「このときばっかりは、巫覡様も何もないよねえ」
 近くで作業をしていた者たちが、笑いながら軽口を言う。小夜香は去年までは巫覡でもなかったし、それ以前の元気で男まさりな小夜香の記憶が人々の間でも強いから、皆今でも気楽に小夜香に接してくる。小夜香にとってもそれが当たり前だったし、下手に崇め奉られる方が居心地が悪かった。
「小夜香ちゃん。こっちはもう終わるから大丈夫よ。そこで足を洗って、籾蔵のほうに行っておくれ。──って、ああ、小夜香ちゃんなんて言っちゃった。いけないわねえ」
 稲木掛けに並んで掛かった稲束を整えていた女が、さして悪びれずにからからと笑う。用水路から汲み出した水で泥だらけの足を洗いながら、小夜香も笑った。
「小夜香ちゃん、でいいんだけどなあ。小夜香様なんてガラじゃないよ」
 秋茜が飛び交う畦道を、身軽な子鹿のように駆けてゆく小夜香を見送りながら、人々は少しだけしんみりしたように頷き合った。
「まあ、でも、実際よくやってるよねえ。小夜音様が亡くなったときは、どうなることかと思ったけれど」
「だなあ。あれでさすがに、小夜音様似のべっぴんだし。今年の秋神楽が楽しみだなあ。あと数年もすりゃあ、ちゃあんと一人前の、立派な巫覡様になってるだろうよ」


 籾蔵のあたりも、様々な作業をしている人々で賑わっていた。先に収穫を終えて乾かされ、脱穀まで終わった籾が、藁袋に詰められてどんどん運び込まれてゆくのが見える。
「小夜香様、お疲れ様です。お茶をどうぞ。獲れたての麦で作りましたから、とっても香ばしいですよ」
 小夜香に気が付いた女が、竹を割って作った器にお茶を注いで渡してくれた。
「ありがとう。──うん、美味しい。もう一杯もらっていい?」
「かまいませんよ。たくさんあがってくださいな」
 働く皆の邪魔にならない場所で、追加で入れてもらったお茶を飲みながら一息つく。小夜香はご満悦であたりを眺めた。お茶も美味しいし、見たところとくに問題もなく、順調に作業は進んでいるようだ。
「お、小夜香。お疲れさん」
 しばし寛いでいると、少し離れた場所にあった籾蔵の中から颯介が出てきた。いつものような着流しではなく、動きやすいように袖や裾をたくし上げた格好をしている。あちらも丁度作業が一段落したのか、小夜香のほうに歩を運んで来た。
「颯介もお疲れさま。はかどってる?」
「まあまあだな。このぶんなら、今日明日で西側の田圃は全部片付きそうだ。稲のつきも、一粒の重さもいい。今年は豊作だな」
「小夜香が頑張って、毎日祈ってくれたおかげかもしれないな」
 と、そんなことを言いながら、籾蔵から秋人も姿を覗かせた。手に帳面のようなものを持っているから、中で運び込まれた籾袋の重さや数を確認していたのかもしれない。
「秋人兄様。兄様もお疲れ様です」
 秋人を見た瞬間、小夜香がぱっと瞳を明るくする。いそいそとお茶をもらってきて秋人に手渡す小夜香を見て、颯介が口を尖らせた。
「小夜香よぉ。俺のときも、それくらい喜んでくれてもよくねえ?」
「なんで颯介なんかに会って喜ぶのさ」
 秋人にくっつきながら言う小夜香に、ますます颯介が情けない顔になった。
「おまっ……真顔で言うんじゃねえよ。さすがの俺も傷つくだろ」
「あはは。色男の若様も、小夜香様にかかっちゃあさんざんだなあ」
 まわりから、からかいまじりの声がかかる。「ほっとけよっ」とそれらに声を投げてから、颯介は秋人にかみついた。
「おい秋人。お兄様として、おまえからもここは小夜香にちょっと言うべきじゃないか? 礼儀作法的な何かをさ」
「うーん。小夜香は礼儀は分かってる子だからなあ。相手を選んでるだけで」
「ほう。じゃあ俺が、礼儀を払うに値しないとでも?」
「そうは言っていないけれど。でも颯介。あまり畏まった態度を取られるよりも、いっそ仲が親しいふうにも見えるよ。小夜香は格式張ったことは苦手な子でもあるからね」
 おっとりと諭すふうにでもなく秋人に言われ、颯介は目を瞬いた。その視線が、確かめるように小夜香を見返る。
 お茶を飲みながら、小夜香はにっこりと笑ってあげた。小夜香的には肯でも否でもないが、そうすれば颯介が何かしら納得して、ついでに張り切って仕事に向かってくれそうだと思ったのだ。
 案の定、颯介は「ほほー……」と何やら一人で納得した面持ちで頷くと、小夜香と秋人に向かって、とても良い笑顔を見せた。
「そういうことなら仕方ねえなあ。特別に許してやるよ。じゃあ俺は、もうちょっとあっちで働いて来るわ。小夜香、俺が頑張ってるところをちゃーんと見ておくんだぞ」
「はいはい。いってらっしゃい」
「おうっ」
 どたばたと騒々しく、颯介は走り去っていった。その様子を眺めながら、小夜香は軽く嘆息した。
「あいつもなあ。いつまでも私なんかに構ってないで、早いところ誰かと落ち着けば良いのに。いくらでも来手はあるんだろうしさあ」
 実際、こうして話している間も、里の若い娘たちの何人かは、ちらちらと颯介に熱の籠もった視線を投げていた。颯介は言動が少々喧しくて子どもっぽいが、上背もあってなかなかの美男だし、何よりも里長の跡継ぎだしで、狙っている女性がけっこういることを、小夜香は知っていた。
「まあ、そうだな。颯介もちょっと可哀相だけれどね」
 隣でお茶を飲みながら、秋人が仕方のなさそうな顔で笑いながら言った。その表情と言い方が何か引っかかって、小夜香は秋人を見上げた。
「可哀相って、どうして?」
「うん。まあ、いいよ。たいしたことじゃない」
 やんわりと秋人は言って、それ以上は何も答えなかった。
「ふうん……?」
 なんだろう。変なの。と思いつつも、小夜香もこの話自体にそこまで興味も無かったし、それ以上は何も言わなかった。それに正直、秋人にここでばったり会えたことの方が嬉しい。ここのところは秋人もずっと忙しくて、同じ屋敷で寝起きしているはずなのに、ろくにゆっくり顔を会わせることもできなかった。
 小夜香は秋人の横顔が、ことのほか綺麗で好きだ。細めの鼻筋も口許も顎の線も、すんなりやわらかく通っていて、少し上向いた睫毛の長さが際立つ。額や頬にかかる艶のある黒髪が、秋の陽差しを受けて柔らかく光りながら、白い肌に淡い影を落としている。
 近頃はあまり近くでゆっくり秋人を見られなかったぶん、じいっと小夜香が見上げていると、秋人が苦笑い気味に視線を向けてきた。
「小夜香。そんなに見られると、さすがに私も恥ずかしい」
「えっ。何を恥ずかしがることがあるんです、兄様。兄様はそんなにお綺麗なのに」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど。私はそんなに大したものじゃないよ」
「大したものですよ。小夜香なんかよりよっぽどです。秋人兄様は、もう少しご自分のことをきちんと理解するべきです」
 力説する小夜香に秋人がいささか圧されている様子を、周囲の人々は、くすくすと笑いながら微笑ましげに眺めている。ほんの一年前、小夜音を喪った直後の秋人と小夜香の様子を見知っていればこそ、今そんなふうに仲睦まじく本物の兄妹のように笑い合っている二人の姿が、里の人々にとっても喜ばしく、心の和む光景だった。
 そうこうしているうちに、秋人がお茶を飲み干して器が空になった。
「兄様。ついでにお返ししておきます」
 と、小夜香が秋人の手から竹の器を引き受ける。
「ありがとう。それじゃあ、私ももうしばらく働いてくるよ。小夜香も怪我をしないようにね」
「はい。兄様も──」
 歩き出そうとした秋人に、小夜香はふと思い付いた。近頃はゆっくり言葉を交わすこともできなかったから言いそびれていた、秋祭りまで終わって落ち着いたら、話したいことがあるということ。それを、先に前振りしておいたほうがいいだろうか。
 それを察して、秋人が足を止める。
「うん? 何か、小夜香」
 小夜香が口を開きかけたとき、ざわざわと何か賑やかな気配が近付いてきた。どうやら新たに詰め終えた籾袋を、人々がまた運んで来たようだ。それを見て、小夜香は言いかけたことを止めた。
「ううん。また今度、ゆっくり話せそうなときにします。兄様も、お仕事を頑張って下さいね」
「そうか。それじゃあ、また今度話そう」
 優しく微笑してから、秋人が籾蔵に向かって歩き出す。小夜香は器に残っていたお茶を口に運び、秋人の綺麗に線の通った後ろ姿を見送りながら、近付いてくる集団を何気なく眺めた。
 見覚えのある里の若い衆が数人、賑やかに固まって歩いてくる。いずれも肩に籾袋を担いでいるが、彼らのさらに後ろから、ひときわ上背の高い人物が歩いてくるのが見えた。その人物は、左右の肩それぞれに、驚いたことに二つも三つも籾袋を担ぎ上げている。しかも実に事も無げな様子だ。
「いやあ、すごいな兄ちゃん。よくもそんなにいくつも軽々と運べるもんだ」
「さすが若いもんは違うなあ。たいしたもんだ。助かるぜ」
 そんな声をやいやい交わしている賑やかな一団を、見るともなしに眺めていた小夜香は、その籾袋をいくつも抱えた人影の姿をはっきりと見て、──そこで思い切りむせ込んだ。含んでいたお茶が器官に入って、げほげほと咳き込む。
「これくらい造作も無い。あと如何ほどあるんだ、これは」
 張りのある声が聞こえる。ここしばらくですっかり耳に馴染んだ、常にむやみな自信にあふれたような声に、小夜香はまだ咳き込みながら、やっとその声の主を見直した。
 腰まで届く雪白の髪、それを頭の高いところで一つにまとめ、邪魔にならないようにきっちりと編んでいる。身につけているのは、見慣れた白い狩衣ではなく、いかにも作業向きの身軽な裁着たっつけ袴だ。小夜香はもう、目を疑うどころかこれが現実であるかすらも疑いながら、そこで山ほどの籾袋を造作も無く担いでいる白い妖──槐を凝視した。
「な、なっ……な」
 ──何をやっているんだ、あいつは!?
 むせ込みと驚愕のあまり、小夜香が動くに動けないうちにも、槐は皆に指示を受け、担いだ籾袋をさっさと籾蔵に収めてゆく。身につけているものこそ質素だが、周囲の誰よりも上背が高く、身のこなしのひとつを取っても芯が通って一分の隙も無く、佇まいからして明らかに只者では無い。加えて、その容貌はそんな野良作業にまったく似つかわしくないような整い方をしているものだから、あたりの人々はことごとくぽかんと目を奪われていた。
 小夜香の頭の中を、一瞬で様々なことが駆け巡る。あいつはいったい何をやっているのかと思うが、角や特徴的な髪や瞳の色がそのまま剥き出しであることに気が付いて、さらに驚いた。あの容貌では、人間などではないことは一目瞭然だ。
 小夜香が動けないうちに、その場に踏み込んでいった者がいた。籾蔵の前で、槐を囲むようにやいやい盛り上がっている者達の中へ、躊躇いも無く割って入る。
「秋人兄様……」
 槐を囲んでいた者達も、秋人の姿を見て、ぴたりと静かになった。それほどそのときの秋人は、普段の彼とはかけ離れた、ふれるだけで切れそうなほどの張り詰めた空気を纏っていた。
 秋人の視線が真っ直ぐに槐に向いているのを見て、周囲の人々は、誰に言われるまでもなく後ずさって道をあける。
 何も遮るものの無くなった先で、槐は悠然と佇んでいた。格好こそいつもと違うが、その落ち着き払い薄笑みを孕んだ表情は、いつもの槐と少しも変わらなかった。
「……目眩ましか。白昼堂々と、舐められたものだ」
 槐をひたりと見据えたまま、秋人が低く吐き捨てるように言った。それは小夜香の聞いたことのない、凍るように冷えた声音だった。
 それを真っ向から受け止めながら、槐はまったく動じる気配もない。
「久しいな、守り人。随分と忙しそうだったから、この俺様が助っ人に馳せ参じてきてやったぞ」
 明らかに冗談交じりの口調で槐は言う。
 と、いきなり秋人が踏み出した。つかつかと槐に歩み寄り、その胸倉をいきなりつかんで引いた。見たこともない秋人の乱暴に、周囲の者達が息を飲み、一瞬ざわっと空気が揺れた。
「何のつもりだ。……今すぐにここを立ち去れ。でなければ」
 至近に寄せた槐の顔を睨みながら、秋人が押し殺した声で言う。眼差しだけで射殺せるのではないかと思うほどのそれを、槐はいなすように軽く笑って受け流した。
「でなければ、なんだ。──ここで俺の正体をばらすか? 里の者どもに囲まれている、この中で?」
 挑戦的に笑んだ槐の言葉に、秋人が、明らかにぐっと言葉に詰まった。槐の胸元をつかんでいる手が、こめられた力のあまりか細かく震え、──やがて降ろされた。
 秋人は下を向いたまま、両の拳を振るえないかわりのように固く握り締め、深く長い息を吐く。その表情は、落ちかかった髪に隠れて伺えなかった
「……何かおかしな真似でもしてみろ。ただではおかないぞ。いいか。忘れるな」
 槐にしか聞こえないような声で言い、秋人は背を返した。「秋人様」と人々がざわめいて声をかけるのに見向きもせず、そのまま歩み去っていく。
 秋人が遠ざかることで、張り詰めていた空気が緩んで解放された。「どうしたんだ」「いったい何があったんだ」「秋人様はどうなさったの?」と、人々がざわめき始める。
 それらの中にあって、誰も槐に注意を払っていないことが、事態を見守っていた小夜香の目には奇異に映った。
 まるでそこにいることが当たり前のような顔で立っている槐から、小夜香は目を離し、遠ざかってゆく秋人の姿を捜す。今は、槐よりも秋人だ。槐に対して、何をやっているんだという困惑と腹立ちはあったが、槐をこの場に残していくことに、不思議なほど危機感は覚えなかった。きっと、何かあいつなりの考えがあるのだろう。悠然と構えながら、槐が狡猾で計算高いことには疑念の余地がない。こんな茶番をわざわざ打ったくらいなのだから、心配せずとも、どうせうまく立ち回る。
 小夜香は身を返して、人々の間をすり抜け、遠ざかる秋人の姿を追っていった。

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