曲夢 (十一)

栞をはさむ

 里の皆は作業に出払ってしまっているので、道すがら、ほとんど誰とも行き違うことはなかった。
 ひよどり百舌もずが、青空に声を響かせている。小夜香は最初は懸命に先を行く秋人に追いつこうとしたが、どうやらお屋敷に戻っていくようだ、と察してからは、歩を緩めた。
 あんなに恐くて強い表情をした秋人を、小夜香は初めて見た。それほど秋人にとって、槐の──突然里に侵入してきた妖の存在は許容し難かったのだろう。
「何を考えているんだ、槐は……」
 せっかく二人の関係を取り持とうと考えていたのに、これでは台無しではないか。槐のことが腹立たしいが、今はそれよりも、秋人の方が気に掛かる。ひどく気に病んだりしていなければ良いが。
 今日は下働きの者たちも総出で作業に出払っているため、お屋敷はいつになくしんと静まり返っていた。慣れ親しんだ自分の家なのに、なんとなく息をつめて、そろりそろりと足を運んでゆく。
 居間や厨房などに人影は無いことを確認すると、真っ直ぐに秋人の書斎に向かった。
「……秋人兄様?」
 板戸は締め切られてはいなかった。そっと覗き込むと、障子越しの白い柔らかな光の中、文机に半ば凭れるように座っている、ひっそりした秋人の後ろ姿が見えた。
 半ば開かれた障子からは、明るい縁側と、その向こうの庭が見えている。長閑な雀の鳴き声がしていた。
 秋人はとくに驚いた様子もなく、身体ごとで小夜香を見返ると、かすかに微笑した。
「小夜香も抜け出してきたの?」
 作業を、ということだろうか。そう言う秋人は、いつもの優しく穏やかな秋人だった。どこかにほんの少し、細い糸が張り詰めたような気配はあったけれど。
 咄嗟に追ってきてしまったけれど、何をどう言えば良いものか迷って、小夜香はただこくりと頷いた。秋人は小さく笑う。
「いけないね。みんな大忙しなのに」
「秋人兄様だって。……私なんかより、兄様がいなくなるほうが、みんな慌てるし困ります」
 秋人にはそれには何も言わなかった。ただ穏やかに、目線で小夜香を室内に促す。
「そこに」
 言われるままに、秋人と少しの距離を開けて向き合う格好で、板の間に敷かれた畳表たたみおもての上に座った。
 秋人も正座をし直す。その山奥に湧く静謐な泉のような瞳は、障子越しの光を受けて、いっそう透けるようだった。
「──小夜香は、あれと何度か会っていたの?」
 静かに秋人が切り出した。小夜香はしばし言葉に詰まり、やがて諦めるように肩の力を抜いた。秋人は察しが良い。小夜香がここで騒ぎ立てていない時点で、小夜香と槐の間に既にかなりの接点があることを見抜いているのだろう。
「はい。……黙っていてごめんなさい、兄様」
 先程の秋人の様子を考えると、ひどく怒られるか呆れられるかするのではないか、と小夜香はすっかり身を小さくした。誰よりも大好きで大切な秋人からそんなふうに叱られるだなんて、想像するだけで身が竦んでしまう。
 だけれど秋人は、特に何も言わなかった。声を荒げることもせず、しばらくの沈黙の後、「……そう」とだけ呟いた。
 どうしよう。その静けさが逆に不安を煽り、思わず小夜香は秋人に訴えていた。
「兄様、でも、違うの。兄様にきちんと話すつもりだったの。隠すつもりじゃなかった。この収穫が終わって、秋祭りも済んだら、落ち着いてちゃんと話すつもりだったの」
 どうしようと必死に訴えるうちに、不安と焦りがつのって、次第に涙声になっていた。目頭が熱を持ってくる。どうしよう。秋人に呆れられて、嫌われてしまったら。もうおまえなんか知らないよと言われてしまったら。
「ごめんなさい。ごめんなさい、兄様」
 正座をした膝の上で手をぎゅっと握り、涙が出そうになるのをうつむいてこらえながら、小夜香は繰り返した。小夜香にとっては無窮とも思える沈黙があったが、やがて小さく溜め息をつき、秋人が言った。
「小夜香、そうじゃない。おまえに怒ったりはしていない。大丈夫だから、顔をお上げ」
 そう言われて、おずおずと小夜香は涙目を上げる。秋人は仕方がなさそうに小さく頬を崩した。
「でも、早く言ってほしかったというのが本音だ。おまえは少し迂闊なところがあるから、さして大事だとも思わなかったのかもしれないけれどね」
「……ごめんなさい」
「いや。もう終わったことだ。私も、取り乱してすまなかった」
「そんなことは」
「皆のことも、驚かせてしまったな。後で謝っておかないといけないね」
「兄様……」
 秋人は優しいが、そのときふと、どこか本音で対峙してくれていないように、小夜香は感じた。それはかすかな違和感だったが、幼い頃からずっと間近で慕い、なついてきた小夜香だからこそ感じ取れた、小さなずれのようなものかもしれなかった。
「あの、兄様……私も、兄様に聞きたいことがあるんです」
 訊ねるなら今かもしれない。ふわりと優しく躱して、まるで小夜香に目隠しをしてしまうような秋人の中に切り込むためにも。
 意を決して口を開いた、いつになく真に迫った小夜香の様子に、秋人も何かを感じたように表情をあらためる。その眼差しの奥が、何かを見通すように、すっと深みを増した。


 これまで秋人に伝えていなかった、槐と二度目に会って以降のことを、小夜香は包み隠さず話した。いや、槐に対して小夜香が抱いている、一部の極めて個人的な感情は伏せたので、必ずしも全てとは言えなかったかもしれないが。
 槐のことも、おかしな怪異に襲われたことも、それから槐が断片的に告げる『あれ』にまつわることも。秋人──龍神の守り人は全てを知っている、と槐に言われたことまで含めて、出来る限り順序立てて、ひとつずつ伝えていった。
 小夜香の話すことを、秋人はほとんど何も言わず、時折確認するような一言二言を挟む程度で、文机に身を凭せながらじっと聞いていた。
 小夜香自身も知っていることは少ないので、話し終えるまでに、そう時間はかからなかった。
 やがて小夜香の声が途切れると、秋人はひとつ長めの息を吐き、「そうか……」とだけ呟いた。
 そのまましばらくの時間が過ぎて、小夜香は続く沈黙に、また落ち着かなくなってきた。槐のことはできるだけ公正に伝えたつもりだし、秋人なら知っているはずだ、という部分についても、出来るだけ感情は交えずに話したつもりだ。だがそれでも、秋人にしてみれば、かなりの衝撃を伴う内容だっただろう。
 やがて秋人は、また溜め息をつき、文机に肘をついたままの手で目の上を覆った。乾いたような、かすかな笑い声が落ちた。
「まいったな。……おまえに知られるなんて、思ってもいなかった」
 その声が、脱力したように、本当に疲れきったように聞こえた。まるで身を支えていたつっかえ棒が、外れて落ちてしまったように。
「兄様……」
「正直を言えば、俺にだって真偽は分からない。でも、代々の守り人にだけ伝えられている、絶対に秘匿するように固く戒められた伝承がある。──おおよそおまえの、というよりも、槐というあの妖の言った通りだ。この地に、龍神は居ない」
 あっさりと告げられた言葉に、小夜香は少しの時間を置いてから息を呑んだ。半信半疑でいたことを、真実だと突きつけられ、いざそうなると、そこには思っていた以上の衝撃があった。
「嘘……でしょう、兄様……?」
 信じてきた龍神が居ない。その事実が、じわじわと喉元を締め付けるように突き刺さってくる。気が付くと身体が細かく震えていて、自分がひどく衝撃を受けていることを、小夜香はようやく自覚した。
 それなら何が居るのだろう、自分はいったい今まで、何に、何のために仕えて祈ってきたのだろうと、突然足元の梯子を外されてしまったような、途方もない心細さを覚える。だがその衝撃に打ちのめされている間もなく、秋人が淡々と続けた。
「少なくとも、守り人にはそう伝わっている。この地の深くに眠っているのは、龍じゃない。蛇だ」
 蛇。
 普段から聞き慣れたはずのその言葉が、このとき小夜香の背筋を、ぞっとする怖気をもって撫であげた。
「蛇……?」
「と、言うには、あまりにも可愛くなさ過ぎるものではあるけれどね。起源を辿れば、神代の混沌より災厄そのものとして誕生した怪物がいたそうだ。ふたつの頭、二股に分かれた胴を持つ、うみひとつ程度なら簡単に飲み干してしまえるような、恐ろしく巨大な大蛇だったらしい」
 死穢と破壊と混沌の炎を纏う大蛇は、いくつもの国を滅ぼし、大地を焼き尽くす勢いで暴れ回った。だがその蛇を、何世代もかけて少しずつ弱らせ、力を削ぎ、ついには討伐して封印せしめた者達がいた。それがこの里の民の、遠い遠い祖先だという。
「──あの湖は、大蛇が討伐されたときに落とした涙の滴から生まれたものだそうだ。蛇の涙が落ちたその場所に、湖と小さな島が生まれ、古の民はそこに祠を建てて不可侵の禁域とした。祠には大蛇の骨を削って作った剣を納め、大蛇を神として祀って、そこから蛇が永遠に出てくることのないように閉ざしたという」
 秋人の語る昔語りに、小夜香はただ息を飲んで聞き入っていた。あの湖、とは、すなわち龍神湖のことだろう。あそこの中央には、確かに小さな島がある。いつも靄のかかった不思議なそこは神域とされていて、巫覡である小夜香ですら、年に一度、注連縄を張り替えにいくときににしか、足を踏み入れることを許されていない。
「……あそこの島には、確かに小さな祠があります。でもそんな、剣だとか、そんなものは見たこともありません」
「剣というよりも、もうすっかり朽ちているから、十文字に近い形の何かだな」
 まるで見てきたように言う秋人に、小夜香は「え?」と首を傾げる。秋人はそんな小夜香に、まるで世間話のように言った。
「あそこの祠は、本体はもっと地下深くにあるんだ。地上に出ているあの祠から入ることは出来るけれど、出入り口はうまく隠された上に固く閉ざされている。まあ、これもすっかり朽ちて土に還りかけているから、知ってさえいればなんとか開くことは出来るけれどね。そこを辿って、ずっと降りてゆくと、地下にもう一つの祠がある。そこに納められているのが、その蛇の骨で作られたという剣だ。御玉剣みたまのつるぎ、という名前がある」
「兄様。それ、もしかして……」
「うん。実際に地下に降りて、見てきた。かなり昔だけれどね。守り人は代々、一生に二回だけ、あの場所に降りていく決まりがあるんだ。一度目は、先代の守り人から一切を受け継ぐとき。二度目は、次代の守り人に引き継ぐとき。その先代から引き継ぐときに、守り人は全てを知らされる」
 小夜香は思わず口許を覆い、言葉を失っていた。秋人が「守り人」を受け継いだのは、先代が世を去る間際、確か十歳にもならない頃だったはずだ。そんな頃から、秋人はこんな恐ろしい話を知らされていたのか。たった一人で、誰にも言うわけにはいかない恐ろしい秘密を、ずっと守り続けていたのか。
「大蛇を──蛇神へびがみを龍神と偽り、すり替えて里の護り神とした理由は、だいたいあの妖の言う通りだよ。人々の祈りと信仰の力を檻とし、蛇神を封じる鎖とした。だから俺は、龍神と偽ったこと自体は、とくに責めるべきものでもないと思っている」
「それは……でも……」
 頷くことのできない小夜香に、憐れむように秋人は笑った。その憐れみは、誰に向けられたものだったのか。
「小夜香には納得がいかないだろうね。それはそうだ。分かるよ」
 ずっと龍神の巫覡として、龍神がそこにいることを信じて仕えてきたのだから。
 小夜香が考えを纏められず、何も言えないでいると、秋人はふっと笑みを消した。
「確かに湖に祠はあるし、地下深くには蛇の骨で作られたという剣がある。でも、だから、それが何だ?」
「兄様……」
「この里を護っているものであれば、極論、龍だろうが蛇だろうが構わない。俺はそう思っているよ。伝説になるような古い時代の出来事なんて、今さら真偽の確かめようも無いしね」
 それは、確かにそうだ。だけれど、それはとても大上段で、乱暴な考えでは無いだろうか。それこそ、神も仏も恐れないような考え方だ。
 小夜香が何も言えずに黙っていると、秋人は顔をそらすようにして下を向いた。深々と息を吐き、額に拳を押し当てるようにする。
「……いや、すまない。こんなことは、言ってはいけなかったな」
「兄様」
「失言だ。忘れてくれ」
 秋人はそのまま、顔を上げようとしなかった。その様子が本当につらそうで、いたわしくて、小夜香は自分の胸にも、たまらずに叫び出したいような哀しみがこみあげてくるのを感じた。
 ──きっと兄様は、そう思わなければやってこれなかったんだ。
 ふと、そんなことを思う。里の皆だけでなく、巫覡すらも騙して。それは好き好んでの偽りではなかったにせよ、罪を背負ったままで、誰に口外することも出来ず。
 誰にも言えないということは、誰にも許して貰えないということだ。恐ろしい蛇神を龍神だと偽る罪を、ずっと一人で抱え続けなければいけないということだ。
 ──秋人兄様は、どんな気持ちで、小夜音姉様の傍にいたのかな。
 そう思ったら、胸がしくりと切ない痛みを発した。
 小夜音にすべて話してしまいたいと、そう思うことは無かったのだろうか。それとも、言えば小夜音も罪に巻き込んでしまうから、と思っただろうか。
 こんなことを秋人に訊ねることはできなかったが、きっと秋人なら後者だろうと思った。秋人は、大切なもののためなら、痛みでも穢れでものみこんで、素知らぬ顔で優しく笑うことが出来てしまうひとだから。
 黙ってそんなことを考えていたら、小夜香はだんだん心が鎮まってきた。
 ──そうだ。確かに龍神は、本当は居ないのかもしれない。本当に居るのは、恐ろしい蛇神なのかもしれない。
 けれど、こうも言わないか。神とは、人の祈りと願いが育むのだと。人が信じ、祈るからこそ生まれ、神と成るのだと。
 それならば、小夜香が、里の皆が信じる限り、龍神は確かにそこに居る。今このときだけではない。遠い過去から人々が捧げてきた祈りが、願いが、今もここに繋がって、龍神という護り神をかたち作っている。
「秋人兄様」
 小夜香は背筋をしゃんと伸ばし、秋人を呼ばわった。夜空のように澄み渡る黒い瞳が、濁りひとつないあかるさで、秋人を真っ直ぐに見た。
「小夜香は、小夜香がそうだと信じる限り、龍神様の巫覡のままです。龍神様は、変わらずにそこに居ます。だって、そこに居るって私は知っているし、信じているもの。私だけじゃない。里のみんなだって、ちゃんと知っています」
 観念的な話すぎて、どう言えばうまく秋人に伝えられるか分からない。言うべきことを手繰りながらの、小夜香の少々たどたどしい言葉に、秋人はしかし、打たれたように目を瞠った。
「小夜香……」
「──兄様ひとりに背負わせてしまって、兄様の代わりになれなくてごめんなさい。でもこれからは、ちゃんと小夜香も一緒に考えますから。だから、この里のことを一緒に守って下さい。秋人兄様にしかできないことです。秋人兄様は、龍神様の守り人です。蛇神の守り人なんかじゃない」
 一息に言ってしまってから、小夜香はむうっと唇を曲げた。頑張って思うことを秋人に伝えたつもりだったけれど、果てしてうまく言葉に出来ただろうか。あまり頭の良い物言いも出来ないし、正直あまり自信が無い。
 小夜香が一人で眉間を寄せて反覆していると、
「──小夜香」
 と、ふいに秋人に名を呼ばれた。小夜香がそれに顔を上げて返事をする間もなく、秋人が腕を伸ばし、小夜香の細くて薄い身体を抱き締めた。
「え。に、兄様?」
 未だかつて秋人に抱き締められたことなどない小夜香は、思わぬことに眼を白黒させ、次いで動揺した。小柄な小夜香はすっぽりと秋人の腕の中におさまってしまっているため、秋人の顔を見ることもできない。あわあわしたが、秋人の腕の力は変わらなかった。そうするうち、やがて消え入りそうな声が、耳元にふれた。
「……ありがとう……」
 その溜め息のような声を聞いた途端。小夜香はふいに理解したことに胸が詰まって、一瞬涙が出そうになった。
「秋人兄様……」
 ──ああ、そうか。兄様はきっと、小夜音姉様から聞きたかったんだ。小夜香が言った言葉を、本当は小夜音姉様に言ってほしかったんだ……。
 秋人が今抱き締めているのは、小夜香ではなく、小夜香の上に重なる小夜音の幻だ。限りなく愛しく懐かしい、そして二度と逢うことはできないひとの。
 いくばくもしないうちに、秋人のほうから腕を緩めて身を離した。秋人が泣いているのではないかと小夜香は思ったが、見上げた秋人は儚いほどに淡く微笑んでいた。それは胸が痛むような、染み入るように切ない表情だった。
 その表情が、少しだけ子どもっぽい、面目なさげなものに変わる。
「小夜香に諭されるとは思わなかった。俺もまだまだだな」
 小夜香は冗談で返そうと思ったが、秋人のことがまだ少し心配で、窺うようにその顔を見上げた。
「兄様。ご無理はなさらないで下さいね。よければ休んで下さっても構いませんから」
 問うと、秋人は首を振った。無理のない、むしろ余計な力の抜けた様子だった。
「もう大丈夫。それに、まだ話の途中だったろう」
 言って、秋人は裾を正して畳表の上に座り直した。

栞をはさむ