秋人は背筋を伸ばし、切り換えるように顎を引く。
「それで、小夜香。──とりあえず、いろいろ聞いたけれど」
「はい」
秋人にならって、小夜香も姿勢を正す。そこにいる秋人は、もう少しも取り乱したところもなく、落ち着いた居住まいを取り戻していた。
「あの妖の言う通り、蛇神の封印が緩んでいることは俺も感じている。数百年か、下手をしたらそれ以上の時間をかけて少しずつ緩んできていたものが、ここにきていよいよその撓みが限界近くにきている──ようにみえる」
「……やっぱり、本当にそうなんですか……?」
小夜香には小夜音と違って、そういったものを感じ取ることの出来る力が無い。だからどうしても、疑うというより、そんなことは信じたくない気持ちの方が先に立つ。
「肉眼で見えることではないから、本当なのかと問われたら、俺も証拠を示すことは出来ないけれど。でも何より、とても嫌な感じがするんだ」
秋人は眉を顰めて、視えないものを視るような、少し遠い目付きをした。
「地面の底から、何か……たとえるなら、黒い炎のような、死の穢れとしか言いようのないものが、だんだん這い上がってくる。それは昔からあったんだけれど、ここ数年とくに、無視できないほど近付いてきているんだ。それが何かは分からない。でも、そいつのせいで地面がまるごと抜けて、真っ暗な底の底まで落ちて呑まれてしまうような……そんな感覚がある。それが、とても気持ちが悪い」
「死の、穢れ……」
「漠然とした言い方しか出来なくてごめん。しかも俺は、感じ取れるだけで、それ以上のことは何も出来ないし。俺もたいがい役に立たないな」
「そ、そんなことはありません」
小夜香は慌てて否定した。実際、本来は巫覡である小夜香の方がそういったことには敏くあるべきで、守り人には霊力や神通力のようなものは要求されない。偶々秋人が、目に見えないものたちへの感覚が開けているだけなのだ。
「正直に言うと、仮にもしも封印が解かれることがあるなら、そのとき何が起きるのかは想像もつかない。古に起きたという災厄が再来するのかどうか。このままであれば、果たして封印がいつ解けるのか、ということもね。……槐というあの妖が、小夜香を何故か気に掛けていて、何度か助けているようなのは、どうやら確かみたいだけれど」
秋人が思案を巡らせるようにしながら言った。
「こんな状態のときに、あんな力の強い妖が顕われたことが偶然だとは、やっぱり俺には思えない。しかもあいつは、封印のことに気付いている。この機に乗じて何かを企んでいるか、やもすれば裏で糸を引いている可能性すらあるんじゃないのかと思う」
「いえ、あの、兄様。信じられないかもしれないけど、それは本当に偶然なんです」
小夜香はそこは否定した。確かに状況だけなら「何かある」と考えても少しもおかしくはないのだが、ことこれに関しては、小夜香は槐を信頼していた。
秋人は釈然としない面持ちで、小夜香を見返す。
「その根拠は?」
「根拠っていっても……演技には見えなかったし。本人がそう言っていたし……」
ごにょごにょと小夜香は言う。あらためて問われると、なんと根拠の薄いことかとは、小夜香自身も呆れる思いではある。
でも、突然現われたあのときから、槐は一貫して嘘はついていない。何を考えているのか読めないし、気ままで身勝手だが、それだけは小夜香は疑っていなかった。
「信じられないのは分かります。私も、最初から信じていたわけではないし、何しろあんな奴だし……でも槐には、私のことも、里に対しても、害を為そうと思えば、本当にいくらでもその機会はあったんです」
考え考え、小夜香は言った。事実を脚色して伝えることはない。小夜香が感じ、結果信頼できると思うに到ったそれを、そのまま伝えれば良い。そうすれば秋人は、きっと信じてくれる。槐を──というよりも、槐を信じる小夜香を信じてくれる。
「それに、槐は実際に何度も私を助けてくれています。あいつが何を考えているのかなんて私にも分からないけれど、でも、受けた恩をないがしろにはしたくない。あいつは本当に、不遜で傲慢で、どうしようもないけれど、でも……その心根にまことがあると、私は感じます。人も妖も、心にまことがあれば、信じ合うことが出来る。こんなことは、槐に逢うまで私も考えていなかったけれど……でも今は、そんなふうに思うんです」
小夜香が少しの時間をかけて、思うことをなんとか言葉に換えると、しばらく秋人は黙り込んでいた。眉間に軽くしわを寄せて思案に暮れ、やがてふうと溜め息交じりに口を開いた。
「そうか。小夜香がそこまで言うのなら、一考の余地が無いでもないか」
「秋人兄様」
思わずぱっと表情を明るくした小夜香に、秋人は戒めるように言う。
「限りなく怪しい状況でしかないから、逆に何も裏は無い。そう考えることも、確かにできなくはない。でもね、小夜香。俺はどうしても、あいつを信頼しきれない。あいつにはろくな印象が無いからね」
そう言う秋人の眼の奥は厳しく、まだ少しの気も許していないことは容易に伺えた。だがそれでも、小夜香の言葉を否定することはなく、秋人は頷いてくれた。
「分かった。今はひとまず、あいつの真意については預けておく。どのみちわけのわからないことをしているから、放っておくわけにもいかない。俺もあらためて、あいつと話してみる」
「はい」
秋人の心が完全にほぐれたわけでないことは重々承知していたが、それでも小夜香は嬉しくて、思わず元気に返事をしてしまった。それを見て、秋人が苦笑いした。
「おまえのそういうところは、毒にも薬にもなるな。でも少し、羨ましい」
「え?」
秋人が、小夜香を羨ましい? そんなことがあるのかと眼をぱちくりさせていると、秋人は話を切り上げるように立ち上がった。
「さて。それじゃあ、ひとまず仕事に戻ろうか。だいぶ勝手をしてしまった」
「はい」
追って、小夜香も立ち上がる。先に立って部屋を出て行こうとした秋人を、小夜香はふと思わず、呼び止めていた。
「あの。兄様」
「うん?」
「小夜香は、兄様のことを誰よりも信じています。……私の話を聞いてくださって、ありがとうございます」
秋人は小夜香の言葉を聞くと、ふわりと頬を崩した。それは小夜香の大好きな、あたたかな光に透けるような微笑みだった。
その日も夕方まで作業は続き、手元が見えなくなってしまう前に、人々は道具を片付けて、各々引き上げ始めた。
あれから結局、どうやら槐は、すっかり里の人々の間にとけ込んで野良作業に勤しんでいたらしい。秋人が人々にさり気なく問いただしたところ、なんでも「旅の軽業師が道に迷ってここに出た。行くあてもないから、作業を手伝うかわりに当分ここに滞在することになった」という話だそうだ。
何もかもが胡散臭いことこの上ないのだが、人々は疑ってもいないらしい。さらに言えば、槐は上背があり手足が長く、力も常人よりはるかにあるから、槐ひとりがいるだけでおそろしく作業が捗っていた。
その上槐は、見ていて驚くほど気易く人々と接し、何を頼まれても嫌がる素振りを見せなかった。むしろ状況を楽しんでさえいるように見える。
そこに加え、人外の色合いであることは別として、あの見惚れるほどに整った容姿だ。見目形が大層良い上に受け答えが気易く、びっくりするほど頼れる働き者、となれば、誰も喜ばないわけがない。
秋人が三々五々人々が散って行く辻に立ち、深まる夕闇の中で様子を眺めていると、そのうち槐のほうから歩み寄ってきた。歩み寄った、というよりも、単にやることが無くなったから人々が流れる方向に歩いてきた、というようには見えたが。
槐は堂々と秋人の目の前に立ち、にまりと悪童じみた笑みを向けた。
「いかにも腑に落ちない、という顔をしているな。守り人」
収穫作業で泥汚れがつき、藁やら稲の屑だらけの裁着袴という姿でありながら、そこにいるのはどこまでも槐だった。そんなくたびれた格好で、なんでそこまで堂々と偉丈夫然として見えるのか、いっそ秋人は呆れるやら感心するやらだった。
「腑に落ちると思うか。この状況で」
むっとしたまま秋人が返すと、槐はむしろ楽しそうに言った。
「妖もたまには人間の真似をして、農作業に勤しみたくなるということだ」
「見え透いた戯れ言を言うな。──真意はなんだ」
秋人が相手にせず、見透かすように瞳を眇めると、槐は悪びれもせずにそれを受けた。
「人間というものに興味が湧いてな」
「ほう?」
「立ち交じってみるのも悪くないと思っただけだ。それにこのほうが、あれの傍に居て護りやすい」
「……里の皆に何をした?」
秋人が表情を変えずに問う。槐はむしろ面白そうにそれを見返した。
「俺の姿に違和感を覚えぬよう、それから素性に疑問を抱かぬように、ちょっとした暗示をかけただけだ」
「それは、皆になんらかの支障が出ることではないのか」
「そんなものは無い。そう大層なことをしたわけでもないからな。案ずるな」
「…………」
無言で、じっと秋人は槐を窺う。得体の知れない妖のいうことなど、万事が鵜呑みにするには危険にすぎる。だがこうしていても、里の人々の様子には、確かに異常や違和感はない。おかしな作用を施されているような、神経に障ってくる見えざる力の気配も無い。
今は様子を見る他にないか。秋人はそう判断した。そもそも、昼間の遭遇時にもそうだったが、この状況を作り出した時点で、槐はある意味で里の皆を人質に取ったようなものだ。この里の真ん中で、槐が正体を晒して人々に害を為すことがあれば、手の施しようが無い。あらかじめ里の周囲に巡らせてある魔物避けの護りが利かないのであれば、あやしのものに対抗できるような祓力を持たない秋人には、何も打つ手が無い。
「狡猾なことだ」
秋人は舌打ちした。結局この妖は、力にものを言わせている。小夜香がいうことも一定理解はするが、そんな相手を頭から信じ、快く迎え入れてやれるほど、秋人は心廣くなれなかった。
だがそれはそれとして、言うべきことは言わなければならないだろう。
「妖」
と、秋人は呼びかけた。どうやら槐という名であることは知っていたが、それを呼ぶ気にはなれなかった。人と妖は違う。馴れ合うことなどできない。
なんだ、というように目線を返した槐に、秋人はいささか姿勢をあらためて向き合った。
「小夜香を何度も助けてくれたようで、礼を言う。わずらわせたな」
それを聞いた槐が、初めて意表を突かれたような顔をした。その口角が、いかにも面白そうに釣り上がる。
「ほほう。おまえにも礼儀があったか」
「礼儀のれの字も知らないようなやつに言われる覚えは無い」
「誰にでもこうなわけではないぞ。なかなか礼を持って遇するべく相手に会わないだけだ」
「それを傲慢というんだ。貴様のようなやつを、どうして小夜香があそこまで信頼しているのか分からない」
「ひとを見る目の違いだろうなあ。あやつはなかなかの傑物だぞ、守り人」
「そうか。そんなことは貴様に言われずとも知っているがな。小夜香は俺の、大切な妹だ」
槐を見る秋人の瞳が、恐ろしく鋭利な薄刃のように光った。
「あらためて釘を刺すが、小夜香にも里の皆にも、一切おかしな真似をするな。もし何かあれば、俺は必ずおまえを殺す。それをよく覚えておけ」
言って、秋人は踵を返した。
夕闇の中を歩み去って行く秋人の姿を眺めながら、槐はいよいよ愉快そうに含み笑っていた。