曲夢 (十四)

栞をはさむ

 金色の大きな満月が、澄んだ濃紺の夜空に昇っている。夜の王に付き従うよう、見渡す限りの晴れた夜空に、降るような星々がきららかにまたたいている。
 神楽殿の袖、他の誰からも見えない場所に、白布で囲われたささやかな斎垣いがきが設置されている。小夜香はそこで一人、舞台の出番を待っていた。
 ひんやりとした夜気の中、あたりに潜む秋の虫たちの声と、神楽の始まりを待つ人々の、ざわざわとした熱っぽいざわめきが聞こえてくる。
 神楽が始まる刻が近付くにつれ、小夜香はいよいよ緊張で心臓が痛いほどになっていた。
 この日のためにたくさん稽古をしてきたけれど、いざ本番となったら、振り付けが頭から飛んでしまいそうだ。小夜香はまだとても、「神を降ろす」ための忘我の域で舞えるほど、神楽舞に馴染んでいない。
 どうしよう。どうしよう。大丈夫だろうか。もし裾を踏んだりして転んでしまったら。うまく舞えなくて、棒立ちになってしまったら。小夜香が失敗してしまったら、小夜香だけではなく、お神楽を演奏してくれる皆のことも巻き込んでしまう。今夜の秋神楽を楽しみにしている里中のみんなのことも失望させてしまう。
 知らないうちに大幣おおぬさを持つ手が震え、そこに下げられた紙垂しでが、かさかさと小刻みに揺れて音を立てた。
 ──ああ、神様、龍神様。どうかきちんと小夜香を舞わせてください。龍神様に捧げるお楽舞なのに、龍神様にお願いするのも駄目なのかもしれないけれど。
 と、そのとき。
「──邪魔するぞ」
「ッ…………ッ!!」
 いきなり背後からかけられた声に、小夜香は文字通り飛び上がった。叫ばなかった自分を誉めたいほど、早鐘を乱打している心臓を押さえ、振り返る。
「っ…………ッ、お、お、驚かすな。驚きすぎて、し、死ぬかと思ったじゃないか」
 そんなぎりぎりの状態の小夜香を見て、むしろ面白そうな顔をして立っていたのは、不遜を絵に描いたような白い鬼──こと槐だった。
 身綺麗にしてはいるが、今日もやはり槐は裁着袴姿だ。初めて籾蔵の前で見たときは思いきり吹いたが、何度か見かけるうちに慣れるもので、今ではその姿も小夜香の目にはかなり馴染んでいた。
 槐の長く豊かな髪は、今日は頭の高いところで括られている。最近見ていたように編んでいるわけではなく、ひとつに結われた雪白の髪がふわりとまとまって背に落ちており、それが少し新鮮だった。
「随分楽しそうにしているな。元気そうで何よりだ」
 言った槐に、やっと少しは動悸が落ち着いてきた小夜香は、咳払いをしながら返した。
「これのどこが、楽しそうに見えるんだ」
「楽しくないのか? 歌舞音曲は、戦事いくさごとと酒の次に楽しいだろう?」
「どういう価値基準をしているのか知らないが、私は今は楽しいどころじゃない。……こういう場でさえなければ、嫌いじゃないけれど。おまえは、歌や踊りが好きなのか?」
「うむ。見るのも好きだしるのも好きだぞ。心が浮き立つし、大抵の憂さも晴れるからな」
 意外な回答に、思わず小夜香は大仰に目を丸くした。
「おまえでも晴らす憂さがあるのか。それは驚きだ」
「あるに決まっているだろう。むしろなんで無いと思うんだ」
「悩みとか鬱屈とかいうものとは、からっきし無縁に見えるからなぁ」
「ひどい言われようだ。心が痛む」
「本当に心が痛んでるなら、むしろおまえのことを少しは見直すよ」
 軽口のようなやりとりをかわしていると、だんだん小夜香は緊張がほぐれて、普通に笑いがこぼれるようになっていた。
 そうしながら、つくづくと槐を眺める。美しく整えられた白い狩衣姿に比べれば、今は身なりそのものは貧相だが、このような身軽な姿も、その長くしなやかな手脚やいかにも剽悍そうな身体つきが映えて、決して悪くないように思える。というよりも、見目形が図抜けて良い者は、だいたい何を着ても似合うのだ。卑怯なことこの上ない。
 ちなみに槐は、あれからほぼ毎日、日中は里のどこかで人々の手伝いをして過ごしているようだった。
「旅の軽業師」とかいう甚だ怪しい触れ込みだが、里の人々は今やすっかり槐を歓迎し、受け入れている。里が一番忙しい時期に現われて、嫌な顔のひとつもせずにどんどん力仕事をこなしてくれるとなれば、それは皆が嫌う理由はない。小夜香もありがたいことだとは思う。限りなく胡散くさいことは置いておいて。
 そして、槐が里に居つくようになってから、ぱたりと怪異の出現はおさまっていた。ただ、槐は常に里に居るわけではない。そして夜は、何処へともなく姿を消す。
 槐の思惑は正直よく分からないのだが、本人が随分楽しそうにしているし、何より兄の秋人が一切を黙認していたから、小夜香もとりあえず口出しは差し控えている。
「皆に妖だとばれないように暗示をかけているようだ」ということだけは聞いていた。槐の話を持ち出すと、秋人はとても嫌そうな顔をするので、二人の間で何があったのか、立ち入った話は聞けていないのだが。
 そうこうしているうちに、お神楽の開始を告げる乾いた拍子木の音が、あたりに高く響き渡った。小夜香はハッと我に返り、慌てて槐に言った。
「って、こんなことをしてる場合じゃない、じきにお神楽が始まる。おい、槐、おまえもだ。ここは巫覡以外は入ってはならないことになってるんだ。誰かに見られたら大目玉だぞ。早く出て行け」
「おや、もうそんな刻限か」
 槐は拍子木の響いてきた方角を見やりながら暢気に言うと、ふいに小夜香を見返った。
「俺はおまえの晴姿を見に来たんだ。舞台に上がる前に、もう一度よく見せろ」
 そんなことを急に言われ、小夜香はしばし呆けた。槐が、わざわざ小夜香の晴姿を見に、ここまで来た?
「ど……どうせおまえも、馬子にも衣装とかいうんだろう」
 考えると、心臓が先程までとは違う意味で若干乱れ始めた。小夜香は慌ててそれを隠そうと、上目に槐を睨みつけた。
「そんな風情のないことを誰が言うものか」
 槐は軽くいなした後、小夜香を正面から見下ろした。紫水晶のような稀有なる瞳が、小夜香の姿を水鏡のように映し出す。瞳孔が縦に長いその瞳の、類を見ない美しさに、小夜香は意図せず惹き込まれた。
 槐の大きな掌が持ち上がり、かたちの良い指が小夜香の頬にふれる。そのとき耳飾りにも指がふれて、ちりり、という儚い音を奏でた。
「美しいぞ」
 槐は眩しいものを見るように少し眼を細めた。それが淡く微笑んでいるようにも見えて、小夜香はまるで呪縛されてしまったように、身動きひとつも出来なくなってしまった。
 ──おまえのほうが、それこそ物語絵に出てくる貴公子みたいに、よっぽど美しいじゃないか。妖なのに、人間じゃないのに、おまえはなんで今、そんなふうに優しく私にふれるんだろう?
 槐に見つめられているうちに、なんだかどきどきと鼓動が早まってきて、耳たぶまで熱をもってきた。今日は何くれと心臓が忙しい日だ。
 このままだと槐の瞳から眼を離せなくなりそうで、小夜香はひとつ息を吸い込み、強引に視線を剥がした。顔を隠すように伏せて、なんとか誤魔化すように言葉を発する。
「そ、そうか。それは、ええと、ありがとう。皆が何くれと世話を焼いて、飾り立ててくれたからな。美しくなくちゃあ困るっていうもんだ」
「そういうことではない」
 槐は言うと、再びその手を小夜香の頬に伸ばした。だが強引に上向かせるでもなく、まるで体温を確かめるように、小夜香のすべらかな頬に指先を伝わせる。
「見目形に限ったことではない。勿論、そうして数多の珠で身を飾っているおまえは、華やかで美しいがな。それよりも、おまえの魂のかたち、おまえの裡から滲み出るものが、俺にそう感じさせるのだと思う」
 頬にふれる槐の指に誘われるように、小夜香は視線を辿らせた。紫の瞳を見上げる。いつのまにかひどく心臓が高鳴っているまま、まるで呼吸が止まりそうな思いで、天から降りてきたもののように美しい白い鬼をみつめた。
「なんで……そんなことを言うんだ?」
 やっと喉から出した声は、かすかに震えてしまっていた。そんな眼で、そんなことを言われたら、息ができなくなってしまう。それは卑怯というものだ。見目形が良いというのは卑怯だ。
 ──いや。そうじゃない。
 鼓動する胸の中で、ふいにひらめくように小夜香は自問自答した。
 見目形じゃない。いや、見目形もすこぶる良いが、自分が今こいつを前に動けなくなってしまっているのは、そのせいだけではなくて。
「さあ。俺にもよく分からん」
 槐はあっさり言い、にっと口の端を吊り上げて笑った。悪童じみた、槐がよく見せるその表情は、純粋に闊達として、心が躍っているように見えた。
「俺は思ったことしか言わない。おまえを得難いと思ったから褒めたまでだ。さあ、そろそろ出番だろう」
 槐の手が、小夜香の肩を舞台の方に向けて押す。思わず振り返ると、槐は真っ直ぐに小夜香を見て言った。
「俺はおまえが神を宿して舞うのを見たことがある。技術的には多少拙くとも、おまえの神楽は本物だ。自信を持て」
 その言葉は、真っ直ぐに小夜香の胸に届いた。早鐘を打つように乱れていた鼓動が、すうっと、ひどく美しい珠でも受け止めたように凪いで、小夜香の視界をひらいてゆく。
 あの、朱金に染まる夕焼けの中で舞ったときを思い出した。あれは槐に二度目の再会をしたときのことだ。まるで黄昏の光と空気に自分が融け込んでゆくようだった、あの不思議な感覚。
「……分かった」
 あのときのように。あの感覚を少しでも思い起こし、手繰り寄せる。ぐっと手を握り、小夜香は槐に向かって、日華の如く鮮やかに笑った。
「しっかり見ていろ。私は押しも押されぬ、龍神様の巫覡だからな」
 巫覡装束をひるがえし、幾重にも重なる花びらのような衣を靡かせて、小夜香は躊躇いなく神楽殿へと続く階に足をかけた。


 今日このときのためにしつらえられた神楽殿は、あかあかと焚かれた篝火に照らされている。
 小夜香が階をのぼって現われると、神楽殿を囲むように集まっていた人々から、潮が引くようにざわめきが消えた。
 ぱちぱちと篝火がはぜる音が響く中を、さらさらと美しい巫覡装束の裾を板に引きながら、小夜香は進み出る。しつらえられていた小さめの祭壇に、手にしていた大幣を捧げ、かわりにそこに置かれていた神楽鈴を手にする。
 各々の神楽囃子を手にした奏者たちが、まわりを囲むように控える中、小夜香は足音を一切立てず、すべるように舞台の中央まで進み出た。磨き込まれた板敷きに、篝火の明かりが、束の間の幻想のように映り込んでいる。
 神楽鈴の柄の先に結びつけられた五色の御幣を、小夜香は片手できれいに揃えて持ち、そして神楽鈴を持った片手を、金色に輝く満月に掲げるように持ち上げた。
 見守る人々の間から、期待をこめたさざめきが僅かに生じ、すぐに空気にとけてゆく。
 天高く掲げられた神楽鈴から、しゃらららん……と、星がきらめき落ちるような澄んだ音が響いた。それを合図に、篠笛の細く透明な調べが夜気を渡り、──人々の祈りと感謝を載せ、龍神へと捧げられる神楽舞が始まった。


 舞っていた間のことを、小夜香はよく覚えていなかった。
 ただ、天頂にある満月と星々がとても明るく、神楽の音色に身を預けていると、まるでこの世ではない場所にいるような、うっとりと不思議な心地になっていた。
 神楽の奏に魂が同調して、まるで独楽になったように、軽やかにすべらかに手脚が動く。
 腕のひと振り、夜空に向けられた眼差しひとつにも、神を呼ぶ息吹が宿る。
 舞う。舞う。月光に融けるように舞う。

 ──その夜人々は、月に昇る龍の幻を視た。

栞をはさむ