曲夢 (十五)

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「っっっはーーーーー。つっかれたああぁーーー」
 戻って来た社殿の控えの間にて。ぐん、と全身を思い切り伸ばして、小夜香は爪先まで大きく伸びをした。亜矢が持ってきてくれた水を一気にあおり、ぷはーっと息を吐く。
「うっまあーーい。亜矢ぁ、水がうまいよぉ。こんなに水って美味しかったんだー。もっとちょうだいー」
「はいはい、ちょっと待ってくださいな」
 小夜香にねだられた亜矢が、苦笑い全開で新しい水を椀に汲んでくる。水のおかわりをこの上なく美味しそうに飲み干している小夜香を見て、亜矢もそのまわりの女たちも、皆やれやれというように肩をすくめた。
「まったく。さっきまでの小夜香様は幻だったんですかねえ」
「本当に。舞台を降りて、装束を解いた途端にこれですよ。なんだったんですかねえ、さっきまでは」
 呆れたように言い合うが、その表情や声音には、いずれも無事に大役を終えた巫覡を心からねぎらう、穏やかな安堵とあたたかさが宿っている。
 小夜香は神楽を舞っていた間のことは、正直あまりよく覚えていないのだが、神楽が終わって観覧席の人々にお辞儀をしたら、驚くほどの拍手喝采につつまれた。
 袖に下がったところにすぐに駆け付けた颯介などは、小夜香が言葉を差し挟む余裕もないほど神楽の出来を絶賛して褒め倒し、その後に来てくれた秋人も、珍しく頬を紅潮させて瞳を輝かせ、小夜香の手を握り締めて「よく頑張ったね」と褒めてくれた。
 小夜香としては、秋人にそんなふうに褒めて貰えただけでもう満足してしまって、あとは何の気兼ねもなく、社殿に戻ってくるなり装束を解いてしまった。
 神楽装束はそれは綺麗だったけれど、窮屈で気を遣って仕方が無かったから、化粧を落として髪もほどき、全て取り払っていつもの姿に戻ってしまうと、小夜香は心の底からの解放感に満たされた。
「はぁ。もうお神楽なんてたくさんだよー。もうやらないよー。っていうかおなかすいたー」
「はいはい。こちらのほうに、皆からたくさん差し入れが届いていますよ。好きにおあがりくださいな」
 小夜香が解放感に満たされて置き畳の上でぐだぐだしていると、真麻たちがお膳に載せて、これでもかというほどたくさんの料理を持ってきてくれた。まずは真っ白な白米に、豊富な根菜や菜っ葉などを入れて作った汁。新鮮な川魚、雉肉や鹿肉に猪肉などを、煮たり串に通して炙ったりしたもの。小豆や栗に椎茸、芋類や胡桃などを惜しまず使って調理された、和え物や煮物、餅に団子。熟れた柿や山桃やひめ林檎などは、そのまま食べやすいように切って盛られ、山葡萄や干した桑の実が器を彩っていた。
「うっわあ。なにこの御馳走。みんな張り切りすぎじゃない?」
 目の前にずらりと並べられた美味しそうな料理の数々に、小夜香はすっかり心を奪われて瞳を輝かせた。遠慮無く手を伸ばして箸を取り食べ始めたが、しかしなにしろ料理の種類と量が多い。見ているうちにもおなかがいっぱいになってきて、すぐに「これはとても食べきれない」ということを悟った。
「──ねえねえ、亜矢。これね、私はもう十分いただいたから。あとは、みんなで食べちゃってよ」
 ちょいちょい、と亜矢を手招きし、小夜香は囁いた。
「えぇ? でも、いいんですか?」
「いいからいいから。みんなだって、私の支度を手伝ってくれたでしょう。ねぎらうなら、私だけじゃなくて、みんなも同じだよ」
 言いながら、置き畳を立ち上がる。
「あら、小夜香様? どちらに行かれるんです?」
「もう今夜の私のお役目は終わったからさ。あとは私も好きにさせて。ちょっと散歩してくる。それじゃあねぇ」
 言い残すと、小夜香は引き留められるよりも先に、さっさと社殿から外に出てしまった。


 心なしか火照った頬や手足に、秋の夜風はひんやりと気持ちが良かった。
 小夜香はひとり、いつも足を運ぶ禊場まで降りてきた。大きな肩の荷が下りて、少し一人になりたい気分だったし、お社からすぐに降りてゆけるよう道が繋がっているから、ゆっくりと余韻に浸りながら夜風を浴びるには最適な場所だった。
 静かに広がる龍神湖に、満点の星空と、美事な満月が映り込んでいる。対岸近くに見える祭りの灯火はまだまだ盛況で、祭り囃子や人々の歌い踊る賑やかな声が、風向きによってはさんざめくようにここまで流れてきていた。
 それらを眺めていると、小夜香は自然に、満たされた心地で微笑んでいた。
 こうして一人になって気が抜けてみると、手足が重くて全身が気怠い。けれどその疲労感も心地良かった。頑張った、やり切った、という、誇らしいような充足感が、胸の奥から湧いてきて、指先までも満たしている。
「ありがとうございます。龍神様」
 自然と湖に手を合わせた。湖に、果てしなく広がる頭上の空に。
 こんなに皆で今年の収穫を喜んで、笑い合って、もたらされた実りに感謝する夜を過ごせている。祭りが終われば、人々はその余韻を楽しみながらも、次はこの後すぐにやってくる冬への備えが始まる。それとともに、来年の春に向けた準備も始め、そうして冬になり、春がやってきて、また夏になり、秋になる。これほど尊く美しい命の巡りがあるだろうか。
 この里を護り、人々をよみするものは、間違い無く龍神だ。小夜香には龍神を降ろすことは出来ないけれど、それは確かに此処に居るのだと、小夜香は晴れ渡った心で思った。
 禊場には白い玉砂利が敷かれているが、日当たりの良い場所なので、そのまわりには充分な青草が残っている。その上に小夜香は両脚を投げ出して座った。
 しばらくそうやって祭りの灯と湖を眺めていると、
「良い舞だったぞ」
 と、そんな声がした。振り返ると、そこにはいつのまにか、槐が立っていた。
「おー。くるしゅうない」
 いつになくおおらかな気持ちになっていた小夜香は、にっと笑って、自分の隣の芝生をぽんぽんと叩いた。
「ここに座れ。そんな後ろに突っ立っていられると落ち着かない」
 くつくつと槐は笑う。長い脚を運んできて、槐は言われた通りに小夜香の隣に座った。
「この俺にそんな口を叩くのは、この世におまえと、あと一人くらいだ」
「へえ? 私以外にも、おまえの無礼さを見過ごさない道理と分別のある賢人がいるのか」
「道理と分別があるかは分からんが、まあ、たいした賢人ではあるな」
「ほほー。どんな人なんだ、それは?」
 ちょっと興味がわいて訊ねると、槐は顎に手を当てて考えこむ風情になった。
「恐ろしく見目形は良い奴だ。だが、恐ろしく手の読めない曲者でもある。俺が唯一、喧嘩を売ろうとは思わない相手だな」
 小夜香から見れば、槐も十分に見目形は良いし曲者なので、その槐にこう言わしめるとは、いったいそれはどんな存在なのかと想像力が捗った。
「ほっほーう。それはお目にかかってみたいなあ。いったいどんな御仁なんだろう」
「案外、おまえも気に入られると思うぞ。今度会いにいってみるか?」
 いと易く言われた言葉に、小夜香は「えっ」と不意をつかれた。
 槐は小夜香を見て、いかにも気軽い雑談のような具合で続ける。
「異界の者ゆえ、この蓬莱──人の世を離れる必要はあるが。俺が伴っていれば、人間でも行って帰って来られない場所ではない」
 急に降ってわいた突飛にすぎる話に、小夜香はすぐには二の句が継げなかった。人の世を離れる? 異界? それはいったい、どういうとんでもない話なのだ?
「……それは、おまえのような妖が棲む場所、ということか?」
「そうだな。終の涯という。俺はそこに棲んでいるわけではないが、そこの主がその相手だ。何かと面白い上に利便の良い奴なので、ちょくちょく足を運んでいる」
「利便の良いって。それじゃあおまえは、その人にしょっちゅう世話になっているってことじゃないのか」
「うむ。訪ねないときは、数年無沙汰にするがな」
「おまえ……ほんっとうになんというか、自由な奴だなあ」
 もはや呆れ果てて小夜香は言った。こんな好き勝手に奔放に振る舞う槐を、その上いきなり訪ねて来られても受け入れてやるその御仁とやらは、それこそ仏か菩薩のような心寛き人格者に違いない。
 そんなことを考えていると、槐が続けて言ってきた。
「どうする? 行くというなら、すぐにでも連れていってやる。終の涯は美しいぞ。桃源郷というものが本当に存在するのなら、それはあそこのような場所をいうのだろう」
「そんなになのか」
 おそらく小夜香などよりもよほど見聞が広いであろう槐の言うことに、小夜香は確かに心が動いた。桃源郷のような場所。それは物語や絵巻物の中でしか見たことのない場所だ。そんなところが本当にあるのか、と思う、小夜香にしてみれば夢物語でしかない場所。
 しかし槐は、実際にその場所に、何度も通っているようだ。手を伸ばせば、幻のような場所すぐにでも届いてしまう、そんな感触を槐の受け答えから得た。
 それはまさに夢のようで、素晴らしく興味のそそられる話で、現実離れした話で、──そこに確かに心を誘われるほど、小夜香は同時に、自分をこの地に強く引きとめるものを感じた。それは決して束縛や不自由といったものではなく、いうなれば、あるべき場所に自分を繋ぎ止める、正しく歪みの無い認識のようなものだった。
 しばらく考えて、小夜香は首を振った。
「いや。興味をそそられるが、私は行かない」
「ほう?」
 槐がその意を測るように小夜香を見る。小夜香は槐を真っ直ぐに見返した。
「私はここで生きていて、まだまだ満足もしていないからな。少なくとも、今は行く気になれない。ここでやれることをやり尽くして、十分に楽しんだら、そのときはその場所に行ってみたいと思うかもしれない」
 そんな小夜香を見返す槐は、次第に、意外そうな面持ちになっていく。それを見て、小夜香は慌てて付け足した。
「いや、興味はすごくあるんだぞ? おまえがそれほど美しいという場所なら、一度は見てみたい。桃源郷なんて、それこそ夢みたいな話じゃないか。ただ、それは今じゃないっていうだけだ。ええと──」
 小夜香は懸命に頭を回転させて言葉を探し、だがうまい言い方が見付からず、結局そこで途切れさせてしまった。なんとなく膝の上でからめた指をもじもじさせてしまう。槐が何も言わないので、考え考え、小夜香はゆっくりと言葉を継いだ。
「……今は、まだ私はここに居たい。そんな場所を見て、もしそこに居たいって思ってしまったら、私はきっと罪悪感を持ってしまうし、そこに心も残してしまう。それなら、想像だけの綺麗な夢物語であってほしい」
 小夜香は槐を見て、なんとか伝わってほしいと思いながら言った。決して槐の申し出を無下にしているわけではないのだと。
「だから、いつか私がそこに行ってみたいと思ったら、そのときはおまえが連れていってくれないか。我が儘かもしれないけれど。行くのなら、私はおまえとそこに行ってみたい」
 何気なく言ってしまってから、はたと小夜香は気が付いた。これではまるで、この先もずっとおまえと一緒だぞ、と言っているようなものではないか。それにこれでは、まるで槐に言寄ことよっているようだ。
 それを自覚した途端、小夜香はぼっと顔から火が出るような思いで赤面した。大慌てで、両手をぶんぶん振り回す。
「い、いや、違う。こっ、これはそういう意味じゃなくてだな、ええと」
 するとたまらなくなったように、槐が吹き出した。
「どう『そういう意味』じゃないんだ。おまえは本当に面白い奴だな」
 そのまま槐は、可笑しくてたまらないように、ひとしきり声を立てて笑う。小夜香はその隣で、なんとも所在なく、かといって何をどう言えば取り繕えるのかも分からずに、ただあわあわと顔を赤くしているしかなかった。
「──っ、あ、あのなあ、槐! 前から思ってたんだが、その、人をつかまえて面白いだのなんだのと大笑いするのはやめろ。別に私は、お前を面白がらせようなんて思っていない」
 いたたまれずに思わず強く言うと、槐はやっと笑うのをやめた。
「当たり前だ。おまえが大真面目だからこそ面白いんだろう」
「だから、その面白いっていうのをやめろ」
「褒めてるんだぞ? 俺をこんなに楽しませる相手には、今までなかなか会ったことがない。数日斬り結んで、ようやく勝った相手くらいに面白い」
「なんだその、喜んでいいのか悪いのか分からないような例えは」
 小夜香がむうっと頬を膨らませていると、また槐はおかしそうに笑った。
「褒めているんだと言っている。この俺を滾らせるものは、血湧き肉躍る闘い以外には無いと思っていた。いや、それともおまえは少し違うが、それでも」
 槐の手が持ち上がり、斎垣の中でそうしたように、小夜香の頬にふれる。その紫の瞳は、高い空のように晴れ渡って混じり気のない明るい光を宿し、小夜香を真っ直ぐに捉えていた。
「俺はおまえのことが、真心から好ましいようだ。いいぞ。おまえが望むなら、いくらでもおまえの側に居てやろう」
「──────……は?」
 突然もたらされた言葉の内容に、小夜香は完全に呆けて馬鹿のように口をあんぐりと開けた。槐は面白そうに首を傾げる。
「喜ばないのか? 俺はこれでも、おまえにつきあうことを楽しみにしているが?」
「は? え? ────……ええぇ……?」
 もう何をどう言っていいやら分からず、どんなふうに反応していいやらも分からず、ただ小夜香はますます顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせていた。
 なんだろうこれは。どういう状況なのだろう。これはもしや、槐のほうからも言寄られている、ということなのだろうか? いやでも、まさか。
 困惑も極まった顔のまま、小夜香が何も言えないでいると、さすがに槐が手を引き、どうやら本気で首を傾げた。
「む?これは、どうやら俺の勘違いだったか? おまえにもさぞ心憎く思われているのだろう、と踏んでいたのだが」
「えっ……いや、その」
「そうか。俺の勘違いか。これはしたり。俺の慧眼を持ってしても見誤ることがあるとは思わなんだ」
「いや、だから」
「今言ったことは取り消すとしよう。わずらわせたな、小夜香。許せよ」
「──いや、だから。話を聞けっ!」
 小夜香は思いあまって、槐の腕を思い切り両手でつかんでいた。初めて自分から、槐にふれていた。
 とても顔を見られないし、見せたくもないので、真っ赤な顔のまま下を向く。喉の奥から、ようやく声を絞り出した。
「そうじゃない。そうじゃないんだ。私は、その──…………おまえのことを、きらいじゃない。その、たぶん、誰よりも」
 生まれて初めての状況と、初めて口にするような言葉に、小夜香はますます頭に血がのぼってきた。槐の腕をつかむ手が、かたかたと細かく震え始めている。自分が今、恐いのか、震えるほど緊張しているのかも分からないまま、小夜香はただ必死で、続けざまに声を発した。
「おまえなんか妖だし。人間のことを見下してるし。私と全然違うし、全然何を考えているのか分からない。でも、おまえに会うのは嫌じゃない。おまえと居ると、楽しいんだ、私も。だから、そんなふうに言うな。私もっ……」
 ──私も、おまえと一緒にいたいんだ。
 こみあげる感情が喉に詰まって、ふいに泣きそうになってしまって、小夜香はそこで言葉を途切れさせた。
 ぎゅうっと槐の腕をつかんだままの手に、槐が空いているほうの手を伸ばす。思いがけず柔らかな仕種で、その手が小夜香の手を解かせた。
 解いた小夜香の手を、槐がそれよりもずっと大きな手で、軽く握り直す。まるで脆いものを確かめるような、それは繊細な仕種だった。
「見下してはいない。少なくとも今は、俺は人間もそう悪く無いと思っている」
 槐の言葉に、小夜香は驚いて眼を上げた。
「そうなのか?」
「そうだ。おまえを見ていたら、そんな気持ちになっていた。だからこの里に、人の姿に身をやつして入り込んだ。おまえを取り巻くものが、人間どもが、いったいどういう存在なのかを、この眼で確かめてみたくなったんでな」
 いや全然少しも身をやつせていないんだが、とは思いつつも、小夜香は槐の話すことに聞き入っていた。
「俺のことをこんなふうに変えるものが居るだなんて、思ってもいなかったぞ。おまえはもっと、自分のことを誇れ。なにしろこの俺に選ばれたのだからな、おまえは」
「……そうだったのか」
 相変わらずいちいち自信満々な言い様に、小夜香はちょっと笑ってしまった。だがそのおかげで、少しずつ、知らず強張っていた肩の力が抜けてきた。
 何よりも、一切を飾らない槐の物言いが、小夜香の心に真っ直ぐに届いてくる。それは驚くほど心地良くて、かつて知らない嬉しいようなくすぐったいような歓びに、自分の中がゆっくりと満たされてゆくようだった。
 自分の手を握る槐の手を、さらにその上から、小夜香はてのひらでつつむ。つつむといっても、槐の大きな手に比べて、小夜香の手はそれこそ子どものように小さかったから、載せるかかぶせるか、といった具合にはなってしまったが。
「おまえがそういうふうに、私や、里の皆にも、眼を向けてくれたことが嬉しい」
 小夜香は心から言った。槐のことは本当に分からないことだらけだが、それでも通じ合えるものがあるのだと、その生まれたばかりの柔らかく仄かに光る珠のようなものを、そっと胸の奥で確かめた。
「ありがとう、槐。私もおまえが好きだ。おまえに逢えて良かったと思う」
 驚くほどするりと、そう口に出来ていた。真っ直ぐに見やった槐の瞳が、やや驚いたように丸くなり、次いで子どものように嬉しそうな笑みにほどけた。
「あのとき、この場所に落とされたことも、無駄ではなかったようだな」
 言った槐に、小夜香はやや口許を曲げる。
「いや。できればもうちょっと場所を選んでほしくはあったぞ」
「俺とて、好きで跳ばされたわけではないと言っただろう」
「それはそうだが。それならもう少しくらいはしおらしくしないか。何度も言うが、ここは龍神様の聖域なんだぞ」
 小夜香がそう言ったときのことだった。ふっと、身体が──いや、地面が揺れた。
「あ……」
 ゆらゆらと、船に揺さぶられるような緩い揺れがやってくる。思わず無意識に、槐の手を強く握った。
「嫌だな。また地震だ」
 何度体験しても慣れない、そわそわと這い上がってくるような恐怖に、小夜香が身を強張らせる。その声に、低く低く、どこからともなく湧き上がるような、何かが唸るような、不気味な音が重なった。
「何だ……?」
 小夜香はますます身を強張らせる。それは、聞いたことも無い地鳴りだった。地の底から湧き上がり、唸り轟くように、夜の森を、山々を揺らす。静かだった湖の水面が、細かく波立ち始めた。
 思わず小夜香は、槐にしがみついていた。地鳴りが呼び起こしたように、大きな揺れが地の底から突き上がってきた。
 あたりの枝々で休んでいた鳥たちが、いっせいに暗い空に飛び立った。群れを成して飛び回り、恐慌するように騒々しく鳴き交わす声が、ますます恐ろしいもののように空に蓋をする。
「いやっ……!」
 耐えきれず、小夜香は悲鳴を上げていた。恐怖に強張り震えるその身体を、槐が引き寄せ、窺うようにあたりに視線を走らせた。
 やがて揺れは横揺れになり、まるでこの世の終わりのように、大きく地面は揺れ続けた。今や音をたてて、湖は波立っている。小夜香はその耳慣れない水音に、真っ青になって震えながら、槐の腕の中から湖に眼を向けた。
「……え……?」
 その眼が、湖の中央に吸い寄せられた。
 湖の真ん中が、ぼんやりと赤黒いような色に光っている。湖の中心には、小さな島がひとつ浮いている。そこはかしこき神の御舎みあらか、うかつに足を踏み入れることの許されぬ神籬ひもろぎ。普段は靄に覆われてよく見えない、その小さな神の島は、いつのまにかすっかり何も遮るものもなく見通せていた。
「な……何……?」
 赤黒い光はその島から放たれていた。ひどく不吉な、まるで地獄でくべられている炎のような光。小夜香は何が起こっているのか分からず、ただ吐き気がするほどの恐怖と畏れとにがちがちと震え、槐にしがみついていた。
 小さな島は、全体が太古からの杜に覆われている。光はその中から洩れており、何が光っているのかは、杜に遮られてここからは分からなかった。だが小夜香は、喉が干上がるような怖気と混乱の中で、まるで目の前で見えているかのように、その正体を確信した。
「祠だ。祠が、光ってる……」
 震えるあまり、吐息のような声になった。
 小夜香を抱く槐の手に力がこもった。見ると槐も、まったく同じ方向に眼を向けていた。その紫の瞳が、夜の中で薄く光り、湖に浮く小島を強く見据えている。
 そうこうするうちに、ようやく揺れがおさまってきた。あたりを見回しながら、小夜香が少しは緊張を緩めかけたそのとき。
「────っ……!」
 見えない何かに、ふいに全身を鷲づかみにされたようだった。ぎりぎりと、まるで締め付けられるような痛みが、全身にやってくる。何が何だか分からず、声もまともに上げられない痛みに、小夜香は喉をひきつらせて呻いた。
「な……なに、これ……っ、なに……?」
 痛みのあまり、しがみついた槐に爪を立てる。じくじくと全身が火に炙られているようだ。苦痛のあまりろくに息も継げず、脂汗を浮かせて身を捩らせる小夜香に、槐が初めて顔色を変えた。
「小夜香。小夜香!」
 強く呼ばれるが、それに応えることもできない。そのうちなにか、手足を奇妙な感覚が這っていることに気が付いた。まるで無数の蚯蚓が素肌の上を這うような、おぞましく耐え難い感触。
「……?……」
 かろうじで眼を開けて、自分の身体を見下ろしてみる。そして小夜香は息を呑んだ。
「な……なに、これ……?」
 ──鱗。
 そうとしか思えないものが、自分の手の甲に、腕に、着物の裾から覗いている脚に生じていた。黒々と光るそれは、蚯蚓が這うような不快極まる感触とともに、じわじわと白い肌を蝕み広がってゆく。それはまるで、禍々しい漆黒の蛇が小夜香の身に絡みつき、這い上がってくるようだった。
「いやっ……いや、いやだっ……何、これ……こわい、槐っ……!」
 完全に小夜香は錯乱し、恐慌をきたして、泣き喚きながら槐にしがみついた。その身体を、強く抱き締められる感触がする。だがそれ以上はもう、何も分からなかった。
 小夜香は真っ暗な地底に引きずり込まれるように、ぶつりと意識を失った。

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