禍夢 (一)

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 あれほど晴れていた夜空には、いつの間にか重い靄雲が垂れ込め、天からの明かりを遮っていた。
 かつてない大きな地震に、祭りに興じていた人々はすっかり肝を潰し、一転して恐慌に見舞われていた。
 湖畔に設営されていた神饌台は崩れ落ち、祭櫓には篝火から火が燃え移って、一時期は大変な騒ぎになった。幸い、巨大な火柱と化した櫓が湖の側に倒れ、そこを皆でよってたかって水をかけて無事に鎮火はされたものの、もはや祭りどころではなくなっていた。
 しかも中には「地震のとき、湖の真ん中が赤黒く光るのを見た」という者が、ちらほら居た。そのときにはもう、誰の目から見ても湖に光るものは無かったし、混乱した挙げ句の見間違いか与太話だろう、で片付けられたが、誰もの中にひどく不吉な思いが芽生えていたのは否めなかった。
 月が隠れてしまい、あたりを片付けようにも真っ暗で、下手に火を焚いてまた地震が起きても恐ろしい。里長の判断で、この夜はもう各自引き上げることになった。
 不安に思う人々が、それぞれ帰りしな無意識に、少し離れた場所にある高台を見やった。そこにある龍神の社殿は、皓々と焚かれた灯火に、闇を祓うように照らされていた。


 社殿のあたりには各処に注連縄や封じ石が敷かれ、怪異にせよ妖にせよ、なまじっかなものは近付くことも出来ないようになっている。
 だがその効力が、明らかに弱まりつつあった。この場所を護る力そのものが衰えているのか、闇から這い出した怪異どもが繰り返し向かってくるせいなのか、それは槐には分からないが。
 兎に角、湧き出してくる怪異どもを放っておけば、ますます社殿の護りが弱まる。
 槐の白銀の太刀が一閃し、今もまた境内に近付こうとしていたあやしのものを斬り捨てた。続けてわいてきた、どろどろとした泥濘、死穢の塊のようなそれらを、難なく薙ぎ払って消滅させる。
 いったんそれらの出現がおさまったところで、槐は太刀を納めると、軽く地を蹴って跳びあがり、あたりを見渡せる社殿の頂に降りた。
 長い雪白の髪がふわりとなびき、真白い狩衣が風を孕む。社殿の頂に軽々と立ち、あたりを睥睨する槐の姿は、うっすらとした白い焔に取り巻かれているように、星明かりひとつ見えない闇夜に浮かび上がって見えた。
 今は湖のほうには何も見えない。あの赤黒い不吉な光は、あの後すっかりなりを潜めている。闇夜の中であろうと視界にさわりのない槐の眼からも、湖の中央にあるはずの小島を見て取ることは出来なかった。それはつまり、妖である槐の眼ですらも、そこにあるものを見通せないということだ。
 今に始まったことではなく、何やら近頃は、あたりに湧く怪異どもがやけに増殖していた。日中は槐の気配を恐れて里にやってこないが、夕刻から夜になると、目に見えてそれらは活発になり、領域を犯そうと動き始める。
 なので槐は、ここのところは毎夜、それらが里に侵入して来ないように監視し、もし侵入してこようとすればすぐさま排除していた。だがそれにしても、今夜の様子は異常だった。
 次から次へと湧いてくる怪異どもにはきりがなく、何度撃退しても、しばらくするとまた湧いて出る。幸いなのは、やつらが里の人々の住む集落の方には行かず、脇目も振らずにこの社殿へと向かってくることだ。
 この社殿。すなわち、龍神の巫覡の居る場所へと。
ヨウセンソウホウ。」
 槐はあたりを見下ろしながら、従える眷属たちを喚んだ。すぐさまどこからともなく、人の頭ほどの大きさの灯火のようなものが、宙に四つ顕われる。
「しばらく護れ。一匹たりとも中に入れるな」
 応えるように、四つの灯火は尾を引いて四方に散った。槐は白い衣をひるがえして、境内に飛び降りる。着地したときには、羽毛のように足音もしなかった。
 社殿の正面側、向拝口のほうに周っていくと、境内にある灯篭のいくつかが、先程の地震のおかげで横倒しになったままなのが見えた。
 正面から数段の階を上がって、躊躇なく中へ向かう。御扉を開いて押し通るその一瞬、僅かに見えない膜が弾こうとするような抵抗があったが、あえなく散じて白い鬼の侵入を許した。
 拝殿の奥に寝所が設けられ、そこで小夜香はやすんでいる。
 あれから槐は、すぐさま小夜香を連れてこの社殿に移動し、そこにいた亜矢や真麻たちに小夜香を任せた。身体のあちらこちらに黒い鱗の浮いた小夜香の惨状に、亜矢たちは最初は悲鳴を上げたが、さすが龍神の巫覡に仕えるだけあって、すぐに落ち着きを取り戻した。
 じきに駆け付けてきた秋人に、簡単に経緯を説明し、そこからは社殿目指してにじり拠ってくる有象無象の怪異どもを退けることに集中して今に到る。
 社殿内でも様々な物が倒れたり崩れたりはしていたが、建物自体は極めて頑丈で、歪みひとつ生じていなかった。散らかったりしたものは、とりあえず人がよく行き来するあたりだけは片付けられている。といっても、とりあえず邪魔にならないところにまとめただけ、という様子ではあったが。
「入るぞ」
 一応一言かけ、入り口に厚い幕のかかった奥の間に入ると、そこにいたや亜矢たちが一様に不安げな眼を向けてきた。秋人はさすがに取り乱してはいないが、ほんのわずかな刻のうちに、随分憔悴しているように見えた。
「一時的に、ここの護りは式どもに任せている。しばらくであれば支障は無い。小夜香の顔を見てくる」
 それだけを言い置き、ほとんど足を止めることもせず、槐はそのまま奥の部屋──小夜香のいる寝所へ向かった。秋人が声をかけてきそうな素振りを見せたが、視線も向けずに入り口の幕を避け、寝所に入った。
 部屋の明かりは抑えられており、几帳が立てられ、入り口からすぐには小夜香は見えないようになっている。几帳を回り込んでいくと、置き畳を並べた上にしつらえた寝具に、小夜香がぐったりと横になっているのが見えた。
 衣で見えない部分は勿論、手の甲や首まわりにまで、黒い鱗が浸蝕している。長い黒髪は髪箱に纏められ、弱い灯火にほんのり光っていた。
 小夜香は眠っているようだったが、槐がその枕元に近付いて腰を下ろすと、ふっと睫毛を揺らして薄く眼を開いた。
「……槐……?」
 小夜香はゆっくりと首を巡らせる。よほど消耗しているのか、僅かなうちにやつれて隈が出来ていた。そのいつもは星を宿したようにきららかな黒い瞳にも、まるで力が無い。首が上がらないのか、起き上がる素振りも見せなかった。
「うむ。どうだ、具合は」
 問いかけると、小夜香は枕元の槐の姿を見つめ、何度かまばたいた。槐が裁着袴姿ではなく、白の狩衣を纏っているのを、しげしげと眺める。
「……その格好に、戻ったんだな」
「あのままだと、気分が上がらないんでな」
 軽く答えると、小夜香はちいさく笑った。
「そっか。やっぱり、その格好のほうが似合ってるな、おまえには」
 言った小夜香が、何か眩しいものでも見たように目の上を覆った。掌で顔を隠して、槐から身体ごと背けるように向こう側を向く。
「……こんな姿、おまえにあんまり見られたくないなあ」
 笑ってはいるが、その声は消え入りそうに弱々しかった。
 槐はしばらく黙り、やがて小夜香の顔を覆っている手にふれた。槐に比べるとずっと小さく弱々しい、今は黒い鱗が甲にまで広がっている、痛々しい手に。
 決して無理強いする力ではなく、槐が小夜香の手を顔から外させた。
「おまえの美しさは何も変わらないぞ。言ったと思うが、おまえのそれは魂の美しさだ。何ものであっても犯すことなぞ出来ん」
 そう言って、槐は柔らかく笑った。
「だが、おまえが嫌がるのも分かる。すまんな。今少しおまえの顔を見ていたいという、俺の我が儘を許せ」
「それが、謝ってる態度かっての」
 小夜香が泣き笑いのように言い返した。だが明らかにその表情の強張りは和らいでおり、安心したように身体を仰向けに戻した。
 小夜香は眼を閉じて、ゆっくりと長く、息を吐いた。
「……母様が亡くなったときの夢を見ていたよ」
 何を言うでもなく、目線だけで応える槐に、小夜香は半ば独り言のように続ける。
「姉様も、母様も。雪の日に亡くなったんだ。……雪は白くて、きれいで……だから、私、ずっと雪が嫌いだった」
 小夜香が槐に黒い瞳を向ける。夜のように深い色の瞳が、限りなく愛おしそうに槐を見つめた。
「でも、おまえがあのとき、桜を咲かせてくれただろう? あのとき、私には桜が一瞬雪に見えて……うれしかった。次に雪を見たら、私はきっと、あのときの桜も思い出せるから」
 言いながら、小夜香の瞳に、透明な涙が盛り上がった。こらえきれないように溢れたそれが、眦からすべって次々に落ちる。
 小夜香の顔が歪み、たまらなくなったように喉が震えた。
「槐……私、死ぬのかな」
「小夜香」
「私の中から、声がするんだ。言葉は分からないけど……許さない、生かしておかないって。ずっと、それを繰り返してる……」
 小夜香が顔を覆い、大きくしゃくりあげた。
「死にたくないよ。せっかくおまえに会えたのに。会えたばっかりなのに、死にたくない。槐……」
 ぐっと、槐の両手が、小夜香の弱り切った手を握った。思いあまったように、だが痛みを与えないように、優しく。しっかりと。
「死なせない。俺が絶対に」
 静かな、だが強い響きを持つ声に、小夜香が涙で光る眼を開けて槐を見上げた。微塵の迷いも無い真っ直ぐな紫の瞳と出会い、しばし吸い込まれるように見つめる。
 やがて小夜香が、ふっと、仄かに笑った。
「そっか……おまえがいうと、本当にそうなる気がするよ」
 そしてその瞼が眠たげに落ち、槐の手の中にある小さな手が力を失った。力尽きたように、吸い込まれるように再び眠りに落ちてしまった小夜香の手を、槐はしばらく、そのまま握り続けていた。


 槐が小夜香の寝所から出るべく、入り口にかけられた幕をよけたところで、逆に向こうから部屋に入ろうとしていた颯介と鉢合わせた。
「おっと──ああ。あんたか。ちょっと、すまん」
 颯介にも槐のかけた暗示は効いているが、槐がいつもの裁着袴ではなく、雪のように白い狩衣姿であること、そしてその左の腰には長い太刀が佩かれていることに、かなり驚いたようだった。だが、今はそれどころではないというように、寝所に入って行こうとする。
 すれ違いざまのその腕を、槐は掴みとめた。
「ちょうど眠ったところだ。休ませてやれ」
 颯介は思わずのように槐の腕を振り解きかけ、すんでのところでそれを止めた。しばし槐をにらむように見て、自分を宥めるように、深々と息を吐き出す。
「……そっか。わかった」
 そして今度こそ槐の手を振り払うと、足音荒く壁際まで歩いて行って、そこに座り込んだ。
 秋人がそれに気遣わしげな眼を向けたが、かける言葉が見付からないようだった。文机の前から立ち上がって、槐に視線を向ける。
「里の皆は、とりあえず今夜は家に帰らせたそうだよ。──颯介は、小夜香に会ってから戻ると言ってる」
 祭り会場の方でも騒ぎが起きていたため、颯介はそちらを片付けてからこちらの様子を見に来たのだそうだ。
 亜矢や真麻たちの姿は、別室に下がらせたのか見えない。おそらくこれからこの場で話し合われることを、秋人は彼女らの耳には入れたくないのだろう。
 秋人も明らかに面やつれし青ざめていたが、槐を見る顔付きはしっかりしていた。
「小夜香の様子は? おまえの見立てでは、どうだ。何か分かるか」
 問われて、槐は秋人に程近い、部屋の中ほどまで歩きながら答えた。
「良くないな。放っておけば、長くはない」
 その言葉に、秋人も壁際で座り込んでいた颯介も、揃って息を呑んだ。
「それは……小夜香は、今どういう状態になっているんだ?」
「以前話さなかったか。蘇りつつある蛇神の呪いを受けたんだ」
「蛇神……呪い……?」
 初めて聞くことなのだろう、横から颯介が繰り返す。
 槐はそれに答えようとはせず、秋人に向けて続けた。
「小夜香の巫覡としての潜在能力は恐ろしく高い。力が発現すれば、蛇神にとって厄介なことになるんだろう。だからそうなる前に、緩んできた封印の隙を突いて、死に到る呪いを飛ばしてきたのではないかと思う」
 秋人が一瞬、強い眩暈がしたように額を押さえた。だが踏みとどまり、さらに問う。
「……ということは、蛇神の封印自体は、まだ解けていない?」
「ああ。解けていたら、このあたりは今頃とっくに焦土と化している」
「──小夜香を助ける方法はあるのか?」
「ここから一刻も早く離れることだな。出来る限り遠くまで。あの蛇神はこの土地に縛られている。しかも今はまだ封印が生きた状態だ。ここから遠く離れてさえしまえば、呪いの効果も途切れるだろう」
「え……え? 何? どういこと。なんの話なんだよ?」
 颯介が立ち上がり、混乱しきった声をあげる。それも無理からぬ話だった。秋人が颯介をいったん手で制した。
「すまない、颯介。……まずは落ち着いてくれ。里長にも話さなければいけない話だけれど、まずはおまえに話を把握してもらいたい。それから、先に言っておくことがある」
 秋人はそこに佇んでいる槐を目線で軽く示した。
「そこにいるあいつは、人間じゃない。妖だ。いずれは話そうと思っていたけれど、まさかここまで急に状況が変わるとは思っていなかった。すまない」
「え……あや、かし……?」
 何が何だか分からない、という顔で、颯介が槐に視線を巡らせる。その遣り取りを見ていた槐は、口許だけで薄く笑った。
「暗示を解いたほうが早かろう」
「暗示? ……──っ」
 何かに額を軽く突かれたように、颯介が頭を押さえてよろめいた。一拍の後、顔を上げ、信じられないものを見るように槐を凝視した。
「って、おまえ……その、姿……?」
 槐はただ見返すだけで、とくに何も言わなかった。槐が颯介にかけていた暗示を解いたことを察し、秋人がそこに声を挟んだ。
「颯介。いいか。こいつのことをお前に伝えなかったのは俺の判断だ。後でいくらでも俺を責めていい」
「秋人。いったいこれ、どういうことなんだよ?」
 颯介が険しい眼差しを秋人に向ける。秋人はそれを受け止め、ゆっくりと答えた。
「それから、これももう一つ、おまえに話さなければならないことがある。これは龍神の守り人が代々守り続けてきた禁忌の話だ。……おそらく今は、もうあまり時間がない。だから俺達だけでも事態を把握して、冷静に状況を判断しなければならない。颯介、頼む。俺を信じて、今は話を聞いてくれないか」
 秋人のいつになく懸命な、真に迫った様子に、颯介は気圧されたようだった。颯介は凝然と、再び槐の姿を見る。
 強く狼狽しているふうだったが、やがて颯介はごくりと生唾を飲み込んだ。深呼吸をすると、ゆっくりと秋人に向き直った。
「わかった。──いや、なんにも分かってないけど。まずはとりあえず、話を聞く。秋人、今いったい何が起きているんだ」

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