身に迫ってくるような暗闇は、まるで質量を伴っているように感じられた。手燭を掲げていても、ほとんど手元と、数歩先がぼんやり程度にしか見えない。
こんなところで、間違って足を滑らせたら大事になる。颯介は片手を壁に添えながら、慎重に、ゆっくりと石段を降りていった。
濡れた土と黴の臭いがひどく、胸が悪くなりそうだった。ゆらゆらと頼りなげに揺れる灯りに、自分の影が、まるで恐ろしい化け物のように大きく伸び上がって見える。実際に何度か、壁に映って揺らめく自分の影にぎょっとし、幾度となく足を止めて、きょろきょろとあたりを見回した。
息が詰まるような暗闇を降りてゆくうちに、次第に時間の感覚が薄れてゆく。聞こえるのは自分の立てる臆病そうな物音と、知らずに抑えている呼吸音だけ。何の生き物の気配もせず、ただひたすらにうち沈むような闇と静寂だけがある。
石段は随分長いように感じられた。ようやく階段が終わり、そこに平らな地面が続いていたとき、颯介は心からほっとした。
「……ここが底かな?」
まったく音を通さない空間であることを物語るように、思わず呟いた小さな声が、驚くほど反響した。
手燭をかざして、あたりの様子を伺ってみる。さして広い空間ではなさそうだ。壁は土が剥き出しだが、崩れないように仕込まれた坑木が見える。明らかに人の手が入った場所だった。
すぐに、少し進んだ先に小さな祠があることに気が付いた。歩み寄って観察してみる。
台座に載せられた石造りのそれは大層古びていて、ちょうど颯介が見下ろす程度の位置に、金属製の格子戸がついていた。
おやと思ったのは、これも地震のせいだろうか、その格子戸が開いていたことだ。開いた中から、何か十字の形をしたものが、半ば飛び出していた。
何気なく手を伸ばし、それにふれた。ちょうど手で握れる程度の、いうなれば折れた刀剣のような形をしている。持ち上げてみると、意外に見た目よりずしりと重かった。黄ばんでいるというか、土のような色をしており、表面は随分とざらついている。
「骨、か……?」
よくよく見ると、十文字に交差したあたりに、加工が施された跡が見て取れた。どうやら、二本の同じ素材を組み合わせたもののようだ。見た目や感触的に、それはやはり骨のように見えた。
「なんだろ、これ。これが御神体か?」
それにしては、随分とありがたみのない貧相なものに思える。こういう場所の御神体ともなれば、鏡とか、玉とか、何かそういったものを勝手に想像していた。
なんにせよ、これが蛇神とやらにまつわるものであれば、こんな勿体ぶったところからは持ち出してしまうのが早いだろう。とりあえずそれを懐に突っ込み、颯介は祠の後ろにある壁に近付いてみた。
この壁だけ、明らかに周囲の土壁とは異なっていた。すっかりかぶっている土埃を指先で払ってみると、思いのほかその壁面はつるつるとすべらかだった。
木製ではない。こんこんと叩いてみると、意外によく通る音がした。土を焼いて作った類いの材質でもない。では思い当たるとすれば、何かの金属だろうか。音の響き方からして、どうやら表面にだけ塗装されたものではないようだ。
「へぇ……すごいな、これ」
錆びている様子も無かった。こんなに大きな、しかも材質もよく分からない金属の壁が、誰も知らないような大昔からここに設置されていたというのが、にわかには信じ難かった。今でさえ、全てが鉄や銅の扉一枚ですら、よほどの場所にでもなければ用いられないほど貴重だというのに。
よく見ると壁面には、上から下まで、うっすらと一本の線が通っていた。紙燭をかざしながらその線の上に指を這わせてみたが、指先には何も感じないほど凹凸は無かった。
「行き止まりかな」
これ以上は、もう何もなさそうだ。この壁だけは興味深い発見ではあったが、戻るしかないか、と思いかけたそのとき、
──かたん。
颯介の手元あたりの壁から、指ほどの太さの金属の棒が二本、揃って飛び出してきた。
「え?」
長さは大人の掌ほど。それが壁から飛び出て、上側の端だけそのまま残るような形で下がる。まるで見えない何かが悪戯でもしたような一連の動き。次いで、かたり、と、壁の中から何かが外れるような音が聞こえた、
「……なんだ、これ?」
紙燭をかざして、まじまじとそれを凝視する。突然何も無かったような場所から現われ、二本並んだそれは、明らかに把手のように見えた。
壁を見上げ、ふいに気付いた。
「……扉だ」
この壁は。
二本の把手のちょうど真ん中を通る形で、あの縦の線が、壁を割るように走っている。
壁の中から先程聞こえた、かたりという音は、何か鍵が外れる音にも似ていなかったか。
どくり、と心臓が強く打った。
「隠し扉だ……」
これは、この先にこそ、神島の核心があるのではないのだろうか。いかにも秘匿されたようなこの扉の向こうにこそ、古代の者たち、代々の守り人たちが隠してきたものの正体が秘められているのではないだろうか。
ためしに把手を握り、手前に引いてみたが、びくともしなかった。もしかしたら、と横に引いてみたら、いとも簡単に、まるで向こう側から何かが手を貸しているのではと思うほど、するすると動いた。
あたりに響く鈍い音とともに、閉ざされていた分厚く頑強な扉は、ゆっくりと左右に開いていった。
手燭の明かりをかざしてみても、まったく先が見えなかった。洞窟か、通路のようにはなっているようだ。
ひときわ闇が密度を増したように見える中に、無意識に息をつめたまま、慎重に踏み出した。
足下の感触が土から変わったことに、すぐに気付いた。それは固くならされており、まわりの壁面を探ると、どうやらこの通路は全体が石で作られているのが分かった。明らかにここより手前までとは様相が違う。
身を押し包むような圧倒的な暗闇に、行く先はまったく見えない。手燭の明かりが、むしろ闇をいっそう濃く感じさせる。
何か空気が重くなったような、うなじがざわざわするような感触があった。闇が纏わり付いてくるようだ。颯介は神経を張り詰め、足元に注意しながら、少しずつ奥に進んでいった。
やがて視界の先に、ぼんやりと何かが見えてきた。
何かがいるのかと、心臓が飛び出るほど驚いた。だがしばらく立ち止まって見ていると、それは無機質な印象で、少しも動く気配は見せなかった。
手燭の小さな明かりが照らせる範囲は狭く、かなり近付くまで、それが何かは分からなかった。警戒しながら、じりじりと距離を詰める。
見えていたものが、突き当たりの壁に描かれた何かであることを、やっとその前に立って颯介は理解した。
「絵……?」
手燭をかざして、灯りが届く限りの様子を確認する。
突き当たりの壁面は、白っぽい石壁で塞がれていた。壁には一面、紋様のような何かが彫り込まれている。塗料はほとんど落ちているが、彫り込まれた何かは弱い明かりを受けて陰影を生み、おぼろな象を浮かび上がらせていた。
「なんだろ、これ。模様……鱗……?」
灯火をかざしながら手を伸ばして、その何かを描く上に、指先がふれたとき。
「いっ──!」
ばちん、と、その指先が跳ねた。まるで何かに反発したような衝撃。その一瞬、暗い中にはっきりと、跳ね上がった手の輪郭をなぞるように、暗く奇妙な赤い光が走ったのが見えた。
弾かれた左手に沢山の針で刺されたような痛みが生じ、思わず紙燭を持っていた右手で押さえてしまう。あっと思ったときには、手燭が落ちて、少し離れた足元でからからんと音を立てた。
幸い蝋燭は消えなかったが、途端に視界が悪くなる。だがそれに気を取られている間もなく、その次に生じたことに、颯介は大きく息を飲んだ。
「な……」
ぼんやりと、壁全体が光り始めた。それは蛍火よりも弱い光だったが、紙燭が遠ざかったことと、この果てしない暗闇の中では、十分すぎるほどの明るさとなって颯介の眼に映し出された。
見上げた壁全体が光っているように見えたのは、そこ一面に彫り込まれた紋様が光を帯びていたからだ。光は、僅かに赤みを帯びて暗い。赤を認識しているのに、まるで墨汁よりも暗く黒い、濁った光に見える。見ているだけで全身に鳥肌が生じた。胸が不快に脈打ち、呼吸が喉で絡まる。嫌な脂汗が、一気に滲んできた。
「な、なっ……なんだよ、これ……?」
赤黒く濁った光が不気味に浮かび上がらせている、壁一面を覆う入り組んだ紋様と図柄。それらの囲む中央には、大きく描かれた何かが鎮座していた。それは古の壁画に見るような、抽象化された、とぐろを巻く双頭の蛇の姿だった。
「っ!……」
颯介は大きく飛び退いた。しかしその眼が、何かに固定されているように、どうしてもその蛇の絵から離れなかった。
「蛇って……嘘だろ。まさか……」
秋人から聞かされた、蛇神の話を思い出す。そうしているうちに気が付いた。
──懐の中が、妙に熱い。
「な、なんだ……って、え……?」
手を突っ込んで引っ張り出したのは、途中のあの祠から持ってきた、十字に組み合わさった骨だった。
手にしてぎょっとしたほど、それは明らかに熱を持っていた。
立て続けの異様な事態に、呪縛されたように身体が強張る。咄嗟にその骨を投げ捨てれば良かったのかもしれない。だが一瞬硬直したその隙を見逃さないように、骨にさらに異変が生じた。
眼を見開いて凝視するその先で、骨からぱちりと火花のようなものが飛ぶ。一瞬の間の後に、骨は、赤黒い炎を纏って燃え上がった。
「うわ……!」
不思議とそれほど熱くはなかった。だがあまりに予期せぬ恐ろしい出来事に、ろくに悲鳴も上げられないまま、颯介は大きくよろめいた。
燃えているはずなのに、骨の様子は何も変わらないように見えた。炎は、壁に蛇を浮かび上がらせている光と同じ色をしている。幻のような奇妙な炎だった。颯介が知っている、囲炉裏や篝火の暖かくあかあかとした火とは、何かが決定的に根本から異なっている。
──この世の火ではない。まるで、死者の国の炎のようだ。
恐慌状態の一歩手前で、颯介はその燃えている骨を手放そうとした。だが、指が貼り付いたように動かない。いや。──骨に実際に貼り付いている。
「な、な、なッ……なんだよ、これっ! なんだよぉッ!」
なんとか骨を引き剥がそうと、脇目もふらずに腕を振り回した。ガリッと、その腕に衝撃があった。慌てて見ると、振り回した手の握る骨が、扉に描かれた赤黒く耀く双頭の蛇の絵をかすり、大きく抉っていた。
途端。
どん、と、地底から突き上げられるように、地面が大きく揺れた。それと同時に、さらに深い地の底から湧き上がってくるような重低音の何かが、地軸を震わせて響き渡った。
それは耳を塞ぎたくなるような、この世のものではない何かの上げる、低い低い咆哮だった。
「あ、あ、あ……」
颯介は手から骨が離れないまま、可能な限りに後ろに下がり、突き当たった壁に背を押しつけた。なんとか身を支えて、身も世もなくがたがたと震える。恐怖のあまり、うまく呼吸をすることが出来なかった。
揺れと恐ろしい咆哮は長く長く尾を引き、おさまった後も、まだ暗闇の中にわんわんと反響を残していた。その中に、何かが聞こえてくる。やはりこれも低い、重い音だ。太鼓を低く打ち鳴らすような、でも聞いたこともない、こもったような不気味な音。
──鼓動だ。
それを理解した瞬間、颯介は、もう理性を保っていられなくなった。叫び声を上げ、燃える骨から離れないままの手をがむしゃらに振り回しながら、走り出す。その視界の隅で、双頭の蛇が刻まれた壁一面に赤黒い炎が吹き出し、どろどろと燃え上がり始めたのが見えた。だがもう、振り向くこともしなかった。
──無理だ。無理だ。無理だ無理だ。これは、人間が関わってはならないものだ。
ただただ、本能が警鐘を鳴らす。たとえようもなくおぞましく厭わしい、無数の死が闇の底で凝ってとぐろを巻いたもの。生あるものが、決してふれてはならないもの。
手から離れない燃える骨のおかげで、皮肉なことに視界には困らなかった。半狂乱で手を振り回しながら走るうち、通ってきた扉を抜ける。その拍子に、強く扉に骨がぶつかった。べりべりっという生皮の剥がれるぞっとする感触とともに、てのひらに激痛が走った。
「ッ──!っ、あ、ひぐっ……!」
思わず腕を抱え込んで、たたらを踏みながら立ち止まる。凝然と右手を見ると、半ばほど掌の皮膚が剥がれ、燃える骨に持っていかれていた。赤い肉が見えて、そこにじくじくと血が滲み出している。だがそのおかげで、半分以上、燃える骨は手から離れつつあった。
颯介は痛みと恐慌に震えながら、燃える骨と自分の無惨な手を見つめる。いくらかの躊躇のあと、大きく息を吸い、奥歯を噛み締めて、力いっぱい頑丈な扉に骨を叩き付けた。てのひらから指にかけての生皮が剥がれる、信じられないような痛みに、颯介は再び引きつった叫びをあげた。
パキン、という、何かが割れ砕ける小さな音が聞こえた。次いで、錘から解放されたように腕が軽くなる。離れた位置から、からからん、という随分軽いような音が響いた。
「──ッ!!……っが、はあ、はあ……」
汗まみれの瞼を開け、痛みに震える右の掌を見る。皮がすべて剥がれていたが、なんとか燃える骨は離れていた。骨は、少し離れた壁際まで転がり、そこで赤黒く燃え続けていた。
──もう、一刻もここにいられない。
颯介は痛む手を抱えるようにしながら、ふらふらと、地上への階段があるだろう方向に歩き出した。
その耳に、階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。
「──颯介。颯介、そこにいるのか」
続けて、珍しく張り詰めた声で颯介を呼ばわったのは、秋人の声だった。手燭を手に、やがてほっそりした人影が階段を駆け下りてくる。
「秋人……」
凝然とそれを見て、颯介は立ち竦んだ。頭の中を、まとまりを欠いた様々なことが、一瞬のうちにぐるぐると巡る。
──秋人。龍神の守り人。どうしておまえがここに。見られてしまった。禁を犯して、神域に侵入したことを知られてしまった。そればかりではなく、おそらく何か、とてつもない恐ろしいことを、自分はしでかしてしまった。
こんなつもりではなかった。だがもう、遅い。
地下室まで降りてきた秋人は、そこに佇む颯介の姿に、驚いたように眼を瞠っていた。
「颯介……いったい、その手はどうしたんだ」
問いかけた秋人を、颯介は振り切るように走り出した。階段の前を塞ぐかたちになっていた秋人を突き飛ばし、そのまま階段を駆け上がる。
「颯介!」
後ろから、秋人の呼ぶ声がした。だが、追いかけてはこない。
遠い遠いはるか頭上に、出口を示す四角い穴がぽかりと空いていた。いつのまに夕暮れになっていたのか、空が茜色と藍色に濁って暗い。
そこを目指して、何度も足を取られて転びかけながら、死に物狂いで颯介は階段を駆け上がっていった。恐ろしいこの場所から、秋人からも逃げるように。
やがてぜいぜいと息を切らして辿り着いた地上は、遠い西の空が血のような夕焼けに染まっていた。
禍夢 (五)

