禍夢 (六)

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 颯介が階段をまろぶように駆け上がって、逃げてゆく。それを秋人は一瞬追おうとしたが、この場の状況のあまりの異常さに、そうすることが出来なかった。
 ぐるりと室内を見渡す。壁際に、赤黒い炎をまとったものが落ちている。あれは、この祠におさめられていたもの……その昔に蛇神の骨で造られたという、御魂剣みたまのつるぎだろうか?
 その剣が納められていたはずの小さな祠は、格子戸が開いて空になっていた。何よりその向こうに見えるものに、秋人は凝然と立ち竦んだ。
「どうして、開いてるんだ……」
 祠の向こうにある壁。そこが大きく左右に開かれていた。
 それは古より、決して開けてはならない禁忌の扉とされていた。扉はいつもぴたりと固く閉ざされ、手がかりになるようなものも無く、開け方自体が伝わっていなかった。
 だがそれが、今は大きく開かれている。そればかりか、その先に見える通路の奥が、何かおぞましく光っている。洩れ出すその光は、そこに落ちている御魂剣が纏う赤黒い炎と、同じ色をしていた。
「何が起きた……?」
 里長の屋敷に行き、颯介がこの神島に向かったと聞いて、秋人はすぐさま後を追ってきた。
 島の中央にある祠に着いてみれば、どうやら昨夜の地震で石碑が倒れたらしく、その下に隠されていた地下への階段が、ぽかりと開いているのが見えた。
 階段への入り口を塞いでいたはずの石板は、大きくずらされていた。周囲の薄の様子からして、こちらは明らかに人の手──颯介がやったものだろうと見当がついた。
 神島の祠の下には、守り人だけが知る秘密の地下室がある。そこには神島の本体とも言えるもうひとつの祠があり、「蛇神封印の要」とされる、蛇神の骨で作られたという御魂剣が安置されていた。
 それは蛇神伝説にまつわる最大の呪物であり、決してふれてはならないとされているものだった。もし何らかの事情でふれなければいけないときは、事前に何日も身を清め、お祓いをした浄布で幾重にも押し包んだ上で、決して直接はふれないようにしなければいけない。そう強い戒めが残っているほどだ。
 当然、秋人もふれたことはない。そもそも、この場所まで降りてくることは、守り人でさえ生涯に二度だけなのだ。先代守り人に連れられ、龍神信仰の真実を伝えられるとき。それから次は、次代の守り人たる者に、それを託すとき。
 ──だが、何も知らない颯介であればどうだろう。
 颯介は、蛇神自体にも懐疑的だった。そも、この禁域たる神島に、巫覡と守り人以外が足を踏み入れること自体が、強く戒められたことだ。それをあえて犯したとなれば、もはや颯介は、龍神も蛇神も畏れていなかった、ということになる。
 そんな颯介が、もしここに続く階段を見付けたら。そして降りてきてしまったら。
「…………」
 恐ろしいような予感が、ひたひたと身を浸してくる。
 あたりの様子を、あらためて見渡した。奥に開いた通路から洩れてくる赤黒い光のせいで、もはや手燭すら必要がない。本来は永劫のような静寂と闇に閉ざされていたはずのここに、今は明らかな異常事態が生じている。
 離れた壁際に転がっている御魂剣を見た。あれがあんなふうに耀くところなど、当然今まで見たことも無いし、聞いたこともなかった。
 ここに侵入した颯介が、いったい何をしたのかは分からない。だがおそらく、颯介はあの剣にふれ、どのようにしてか禁忌の扉を開けてしまった。
「颯介。どうしてこんなことを……」
 思わず呻いた。放っておくわけにもいかず、御魂剣のもとまで足を運んだ。
 剣もまた、幻影のような揺らめく赤黒い炎に包まれている。ぞっとするほど禍々しく、近寄ることすら躊躇ったが、このままにしておくことも出来なかった。
 近付いても、熱はそれほど感じない。やはり現世の炎とは違うのだろう。
 今は斎戒沐浴をする時間も、浄布を用意する余裕もない。気は進まなかったが、おそらく今はかつてない非常時であり、やむを得なかった。
 おそるおそる、指先を近くまで伸ばしてみる。さわれないほどの熱ではない。
 手が震え、何度か大きく息を吸った。軽く、とん、と骨の表面を叩いてみた。赤黒く燃え続けてはいるが、特に何が起こるでもなかった。
「…………」
 覚悟を決めて、秋人は骨の剣に手を伸ばした。白い指でそれを拾い上げ、握ってみたが、そのときには拍子抜けするほど何も起こらなかった。
 ややあってから、剣を握った掌の違和感に気が付いた。
 ──皮膚が、剣の柄に貼り付いている。
 剣を握った指を広げようとしたが、縫い付けられたように、少しも動かせなかった。
 そしてふと、剣が自分のものではない鮮血で汚れていることに気が付いた。
「……颯介か……?」
 ──なぜ。
 颯介の血で汚れた自分の手を見ていたら、ふいに胸の奥から、颯介への哀しいような憤りと、何より自分自身に対する怒りが突き上げてきた。
「どうしてだ。……俺はどうすれば良かったんだ、颯介」
 ──なぜこんなところに入った。なぜ剣にふれた。
 この場そのものだけではなく、明らかに秋人からも逃げていった颯介を思い出す。颯介が何を考えてこの禁域に踏み込んだのかは分からないが、その動機には必ず秋人が居るだろう。
「俺のせいなのか……?」
 颯介の中で捻れてしまったものを、秋人は汲み取ってやることが出来なかった。そうであれば、この事態は秋人にも責任があると言えないか。秋人自身も、様々なことが起きて許容量が限界になっていたが、それでも、もっと颯介にも寄り添ってやることは出来たのではないのか。
「……やめろ。今は、考えているときじゃない」
 ぐっとこみあげてくるものをこらえて、秋人は自分に言い聞かせた。
 後悔ならあとでいくらでもする。颯介が何かどうにもならないものを抱えてしまったのなら、あとでいくらでも聞く。次こそは間違えないように。でも今は、それよりもやらねばならないことがある。
 秋人はゆっくりと、奥に開けた扉、その先の通路に眼を向けた。
 先程よりも、洩れ出してくる不吉な赤黒い光が強まったように思える。そこの奥で何が起きているのか、それはまったく分からなかったが、想像したいとも思わなかった。
 見ているだけで後ずさりそうになる。それはまるで、無明の地底へ、死者の国へと続く通路の入り口に見えた。
 ゆっくりと、出来るなら逃げ出してしまいたいほどの恐怖をこらえながら、可能な限りの距離を取りつつ、通路の中が見える程度の場所にまで移動する。しきりに身体を悪寒が這い、全身の産毛が逆立っているのが分かった。
 あと一歩進めば中の様子が見える、という位置で、思わずぎゅっと眼を閉じ、──一歩を進めてから、じりじりと開いた。秋人は顔を引きつらせた。
「……なんてことだ……」
 封印が歪んでいる。一目で、それだけは分かった。
 通路の最奥から、赤黒い炎がねろねろと吹き出していた。そこから生き物のように這い出した炎の舌が、床を、壁を、天井を舐めている。
 思わず、秋人は後ずさった。赤黒い炎の他に、まるで煙が充満するように、通路には猛烈な瘴気のようなものが蜷局とぐろを巻いていた。命そのものに対する圧倒的な憤怒と憎悪と、それを破壊しようとする衝動が斑に絡み合った、もはや妖気という言葉ですら生ぬるいもの。
 どろどろとした瘴気が、まるで秋人がそこにいることに気付いたように、通路から流れ出してきた。下がろうとする間もなく、それが正面から身体を包み、途端、猛烈な吐き気と割れるような頭痛に襲われた。
「ぐっ……!」
 あやうく後ろに倒れそうになったのを、どうにか踏みとどまる。
 かつてないほど胸が悪くて、たまらず膝を折り嘔吐した。だが、吐き気はおさまる気配もない。苦い胃液まで吐き尽くして、もう吐けるものもなくなった頃には、全身が震えるほど消耗していた。
 その目をどうにか開いて、立ち上がれないまま、燃え盛る通路の奥に向ける。
 人間がふれてはいけない、命あるものが関わってはならない禁忌。本能が拒絶する死穢そのもの。黄泉からから漏れ出てきたような赤黒い炎が不気味に這いまわる中、突き当たりの壁に禍々しく耀く絵のようなものが見えた。
 どうやら今はまだ、蛇神の炎は通路の外には出て来られないようだ。だからかろうじで、その間近にいる秋人は助かっているのだろう。
 苦痛による涙と脂汗で、視界が滲んでいた。身体を苛むものを意識の外に置き去りにして、通路の奥を凝視する。突き当たりの壁一面に描かれた、曼荼羅のように無数の紋様と図柄で埋め尽くされたそれの中央。そこに鎮座する、双頭の蛇の画が見えた。
 その蛇の絵が、爪のような何かで荒く抉られたように傷ついている。その傷口がまるで生き物のように脈打ち、血のような真っ黒い何かを噴き出していた。
 凝視するうちに、幽世のものを見聞きする秋人の感覚はいっそう研ぎ澄まされ、開いてゆく。そこに展開している、不完全とはいえ蛇神の領域にまで、眼には見えないもうひとつの手足のような感覚を伸ばす。そこにあるものを、今何が起きているのかを読み解こうと、網目のように意識を張り巡らしてゆく。
「っ……!」
 反発と抵抗を感じた、と思った瞬間、ひときわ鋭い頭痛が貫いた。頭の中が熱を持ち、何かがじわりと広がったような、嫌な感触がする。と、視界が突然赤くなったことに驚いて、秋人は気を散じかけ、ぎりっと奥歯を噛み締めて、再び通路の奥に意識を振り向けた。
 おそらく出血している。どこから、というのは分からないが、おそらく頭の中が直接傷ついて、そこから流れ出した血が眼球を濡らし、視界を赤く染めたのだろう。口の中にも血の味がした。ぬるりとした感触が喉にまで流れ、気管に入りかけて、秋人はむせ込んだ。
 ひどくふらふらして身体が震えたが、今はそんなことに構っている場合ではなかった。ほうぼうの痛みと吐き気をこらえながら深呼吸をし、呼吸を整えて、さらに意識を集中して眼を凝らす。
「…………そうか……」
 やがて視えてきたものに、秋人は呟いた。
 蛇神の封印が危機的に弱っているのは確かだった。ただ、どう表現すれば良いのか。それは、緩んでいるというよりも、ほつれていた。
 あの蛇神の絵は、あれ全体が、蛇神を封印すべく緻密に編み上げられた無数の術式の塊だ。遠い昔、蛇神を討伐せしめた古代人たちが造り上げた封印のしるし。だが、それを織りなしている術式が歯抜けになり、戒めのいくつかが千切れてしまっているのが視える。
 秋人は、右手の中にある御魂剣を見下ろした。剣といっても、それはもはや歳月を経すぎて、骨で作った十文字の何かのようにしか見えない。剣といわれれば、刀身の折れた剣に見えなくもない、といったていのものだ。
 燃え続けて右手から離れない蛇骨の剣に、秋人の感覚は、そこに組み込まれた古の情報をも読み解いてゆく。
「……この剣で、封印の象にふれたのか」
 蛇神の骨で作られたこの剣は、その恐るべき力を反転させて逆用し、蛇神自身を封ずる楔となさしめた呪物。蛇神を封じたそのときより、この地下の祠に祀られ、永らく蛇神を閉じ込める要となっていたものだ。
 本来蛇神の身から削り出された呪物ゆえ、その本質は蛇神に近く、ゆえに取り扱いには厳重な注意を要する。
 そんなものが、永い歳月の中で次第に緩み、ただでさえ崩れ始めていた封印の象にふれてしまった。いや、あるいは。
「蛇神自身が喚んだのか。この剣を」
 ──そうして剣と象が接触したことで、双方向からの強力ないくつもの作用がぶつかりあい、不安定になっていた術式のいくつかが弾け飛んでしまった。結果、緩みながらも蛇神をなんとか封じ込めていた戒めがほつれてしまった。ここで起きたことは、どうやらそういった現象であるようだった。

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