「そういうことか……」
読み取った洪水のような情報と、長いこと限度を超えて集中し続けたせいで、頭がふらついた。事態を把握したことで、一瞬気が緩む。ふっと、そのまま意識が落ちそうになる。
身を支えることが出来なくなり、そのまま棒のように横ざまにに倒れ込んだその痛みで、秋人は正気付いた。だが一度倒れてしまったら、起き上がることが途方もなく困難だった。
──駄目だ。今この事態を把握しているのは、そして何とかできるのは、自分しかない。
土床を掻き、なんとか身を起こそうともがく。胸郭の中が異様に熱く、咳き込んだら、ばたばたと地面に血が落ちた。
蛇神の瘴気に、生身でかなりの時間を晒されている。全身の消耗が激しく、節々も軋むように痛んで、力がうまく入らなかった。ひどい眩暈と頭痛と吐き気もおさまらず、いっそもう何もかも投げ出してしまえたらどんなに楽か、と思った。
かなりの時間をかけて、やっと上体を引き起こした。それだけで、喉がぜいぜいと痛むほど、息が切れていた。
なんとか呼吸を整えながら、秋人は右手の中にある御魂剣を握り締めた。
──このままでは、下手をすればもう今すぐにでも、封印が破れる。
しかも、緩んで膨張した末に破れることより、いっそう事態は悪い。正しく働かなくなった術式は暴走して、蛇神自身にも作用を始めている。このままであれば、蛇神はほつれた部位から封印を食いちぎり、すべてを飲み込んで、己を封じてきた力すら我が物として復活することになる。そのときは、その衝撃だけで、あたり一帯が崩壊してしまうだろう。
「そうなれば、里は終わりだ……」
いや、里ばかりではない。このあたりに点在する、他の村落や街も同じことだ。
そして蘇った蛇神は、長い間封じ込められてきた鬱憤を晴らすため、さぞや存分に暴れ回ることだろう。数え切れないほどの命と自然とを滅ぼしながら。
「……そうなる前に、今ここで、封印を解くしかない」
何もなければ、それこそ指を咥えて見ているほかにない状況だったが、秋人の右手には御魂剣があった。事情を知り、また事態を読み解くことが出来る秋人が今ここにいること、そして剣がここに残されていたことは、まさしく千載一遇の巡り合わせだった。
剣から古の情報を読み取ったとき、秋人はひとつ知ったことがあった。この剣は、蛇神の封印装置であると同時に、何かあったときに封印を消滅させるためのものとして用意されたのだ。おそらく長い長い歳月を経るうちに封印が弱まり、今のような事態が生じることを、古代の人々は想定していたのだろう。
だから象に掠っただけでも、これほど封印が揺らぐ。それならば次は、剣を象に突き立て押し込んでやればいい。そうすれば、双方からの激しい反作用で、封印を構成する術式そのものが分解される。
この方法であれば、封印が解けることの影響それ自体は生じない。緩みきって弾け飛ぶより、蛇神が封印の力を喰らって蘇るよりも、いっそはるかにましな状況を導ける。
息を切らしながら、御魂剣を杖に、なんとか立ち上がった。
ふらふらとよろめきながら、懸命に一歩ずつを進み、蛇神が恐ろしい顎を開いて待っているかのような通路に向かう。
赤黒い炎が音も無く這い回り、燃え盛っているその入り口で、一旦足を止めた。
──ここを進めば、自分は生きては帰れない。
そう思ったときによぎったのは、恐怖でも絶望でもなく、ただ小夜香のことだった。
「……小夜香……」
まだ数え十六でしかないのに。自分までいなくなってしまったら、あの子は今度こそ一人になってしまう。どれほど寂しがるだろう。どれほど悲しがるだろう。
「ごめん、小夜香……」
全身の痛みよりもなお強く鋭い軋みを、胸が生じた。苦痛のせいではなく、目頭が熱を持つ。こらえることもできずに喘いだ頬を涙が伝い、顎の先から次々に落ちていった。
こんなところで死にたくはない。なぜ自分でなければならなかったのかと思う。でもそれらの胸が潰れそうな思いのすべてを押しのけて、誰より小夜香を死なせたくないと、強く思う。
「……槐。すまないな」
ここで秋人が死んでしまえば、槐にすべてを押しつけることになってしまう。死ねと言っているようなものだ、と、昨夜話したときに槐は言っていた。まさしく、その通りになろうとしている。秋人は少し笑った。
「死ね、と言うようなものだが……いや。でも、おまえは生きてくれないと困る」
でないと、小夜香が本当にひとりになってしまう。
小夜香を思い、傲岸不遜な白い妖を思い、最後に不思議なほど穏やかに笑うことができた。自分に出来ることはここまでで、ここが限界だ。どれほど口惜しくても、心残りでも、仕方が無い。
覚悟を決め、大きく息を吸い込んで肚に溜める。正面を睨むようにぐっと見据えた。
通路の幅は一間ほど。突き当たりにある封印の象までの距離は七間弱ほどと、意外にそれほど長くはない。だが今の秋人にとっては、それすらも途方もない道行きに思えた。
「──賭けるぞ。妖」
俺が蛇神を引きずり出してやるから、あとはおまえが何とかしろ。斃せずとも、なんとしてでも無力化して、地底に叩き還してやれ。でなければ、死んでやる甲斐が無い。
奥歯を噛み締めて全身に鞭を打ちながら、秋人はその通路に踏み込んだ。
幸いなのは、どれほど力を失おうと、右手に貼り付いているおかげで御魂剣を取り落とすことはない、ということだ。貼り付いて離れないのは、本来は呪いの賜物だろうが、今となってはありがたい。
無防備に領域に入り込んできた、身の程知らずな人間に向かって、蛇神の赤黒い炎が、待ちわびていたように伸びてゆく。一歩を歩くことすら困難な身に、いっそう濃さを増した瘴気と、地獄のそれを思わせる赤黒い炎が絡みつき、這い上がった。
「っ!!……あ、ッ……!」
直接生身にそれがふれたことで襲いかかってきた衝撃は、これまでの痛みや苦みですら易い思ってしまうほど激烈だった。
直接吸い込んだ瘴気が、口の中を、喉を、気管を、肺を灼いてゆく。現世の火とはまるで違う蛇神の炎は、少し肌にふれただけでそこを爛れさせ、皮膚を焼いて、その奥を燃やしながら溶かし始める。
一度に襲いかかってきたそれは、言語を絶する恐ろしい苦痛だった。容赦無く全身に絡みついてきたそれに、足が止まる。息が出来なくなる。
──動けるうちに、立っていられるうちに、やらなければ。
これでは長くはもたない。それをたちどころに理解し、全身全霊の力で、さらに足を踏み出した。
じわじわと身体に取り憑いて浸蝕してくる瘴気と炎とに、いっそ気が狂いそうな中、秋人はただ眼を見開いて、ひたすらに視界の先に見える象を目指す。
こんな恐ろしい役目を、他の誰にやらせることなど出来ようか。これは守り手としての仕事だ。蛇神を見守り続けることを義務づけられた、龍神の名を冠する守り人の仕事だ。
徐々に頭が朦朧としてくる。膝が折れそうになって、大きくよろめき、傍らの壁に叩きつけられるようにぶつかった。喘ぐと、焼き爛れた喉から、獣が唸るような声が出た。
壁に左手の爪を立てたら、あっけなく爪がぱきりと割れて血が吹き出した。その血も、身を伝ううちにすぐに渇き、赤黒い筋となって蒸発してゆく。
がくがくと膝が震えて落ちそうだった。何も考えられなくなりそうな中で、秋人は自分を叱責した。
倒れるな。一度倒れたら、もう二度と起き上がれない。
背をついた壁にそのまま縋って、また一歩ずつ、ずるりと、身体を引きずるように歩き始める。
一歩一歩が恐ろしく重かった。七間もない距離だったろうに、たったのそれだけの距離が、どうしてこれほどまでに遠い。進む度に倒れそうになりながら、秋人は自分のかたちが次第に崩れてゆこうとしているのが分かった。
恐ろしい苦痛に気が付けなかったが、いつのまにか何の音もしなくなっていた。きっと鼓膜が破れるか焼かれるかしたのだろう。
揺らいでぼやけて、それでもなんとか見えていた視界が、急に真っ白に焼け付いた。目玉が焼ける感触、煮える感触が、頭蓋を通して直接に伝わってきた。
いけない。駄目だ。視界がきかなくなってしまえば、象の場所が分からなくなってしまう。
ここまできて、駄目なのか。これほどのものを支払っても届かないのか。
「小夜音……」
声にならない声が、喉を震わせた。
小夜音。──小夜音。
「小夜音……」
──最後に見たのは、もう一年近くも前のことだ。急に病を得て、最初は軽い咳程度だったのに、あっという間に弱って、枕も上がらなくなって。静かな雪の日に、眠るように逝ってしまった。それをただ、自分は見ていることしか出来なかった。
いつも穏やかに構え、朗らかによく笑う、誰よりも綺麗なひとだった。物心がついたときには側にいて、いつから、というのも分からないほど自然に、彼女に惹かれていた。龍神の巫覡である彼女も、小夜香の姉である彼女も、ただひとりのひととして自分の隣にいてくれる彼女も、なにもかも、すべてが愛しく大切だった。
「小夜音……」
いつのまにか。──白く、何の音もしない中に、ひとりの黒髪の娘が立っていた。
自分のいる場所から数歩先。あと何歩か進んで、手を伸ばせば届く場所。
秋人はもう無いはずの眼を瞠った。
──小夜音。
そう呼んだ声は、もう喉を震わせることすら出来なかった。
腰よりも長い柔らかな黒髪が、光の中に靡いている。小夜香に良く似た、それよりもだいぶ大人びた、優しい面立ち。秋人を見つめて佇むその白いすべらかな頬に、黒い綺麗な瞳から、ぽろぽろと珠のような涙が零れていた。
──ああ、小夜音。
もう一歩も動かせないと思う足を、彼女に向かって、秋人は踏み出す。
どうか、どうか俺を支えてくれ。君が愛したこの場所を守れるように。君の大切な妹を守れるように。どうか俺が、最後までしっかりやれるように──小夜音。
小夜音が泣きながら、白い手を差し伸べる。あと二歩。あと一歩。もう一歩も歩けない、というそこまで来たとき、指が焼け落ちて骨が剥き出しになった焦げた手が、白い手に届いた。
──壁に指先がふれる。曼荼羅のように無数の図案と術式と蛇神の姿とが刻まれた封印の象。もう少しの力も残っていない全身の、それこそ最期の全霊を振り絞って、腰だめにした御魂剣を、体当たりするように壁に突き立てた。
剣が突き立ったその箇所から、激しい音を立てて、蜘蛛の巣のように象に罅が走る。蛇神が地底から歓喜の声を上げるのが分かった。何も見えず何も聞こえない中、それ以上のことは、もう秋人には分からなかった。
足元が大きく振動して揺れるのに逆らえず倒れかかったそのとき、目の前の壁が──封印の象が割れた。割れたそこから、巨大な漆黒の力が溢れ出す。秋人の身体を、それがひっかけて跳ね飛ばした。それだけで腰から胴が脆くもがれて、それぞれ瓦礫の中に落ちていった。
そこにあったものの全てが崩壊してゆく中、蛇神のあげる歓びに震える咆哮が、天に駆け上がっていった。
禍夢 (七)

