寝具に横たわっていた小夜香が、何の前触れもなく、ふっと眼をさました。
「あら、小夜香様。お目覚めですか」
たまたま様子を見に来ていた亜矢が、それに声をかける。
小夜香はそれに見向きもせず、眼を見開いて虚空を見回した。
「……秋人兄様?」
ぽつりと、その唇が呟いた。「え?」と亜矢が首を傾げるのも無視し、小夜香は弱々しく寝具の上に身体を起こした。
「秋人兄様……?」
この場のことが何も見えていないように、黒い瞳がひどく不安そうにあたりを彷徨う。そしてふらりと立ち上がった。
「小夜香様? 起きても大丈夫なんですか」
驚いて追いかける亜矢の声が聞こえていないように、小夜香はよろよろと歩き出す。いかにも手足に力の入らない、今にも倒れてしまいそうな足取りで、だが一心不乱に、目指すところがあるように。
小夜香は素足のまま社殿を出て、禊場へと続く小道を降り始めた。
「小夜香様。小夜香様。どうなさったんですか、いったい」
その後ろに、亜矢と、亜矢が呼びかける声で様子に気が付いてやってきた真麻も、おろおろと追いすがる。明らかに尋常で無い様子に、引き留めようとその肩や腕に手をかけても、小夜香は振り払ってしまう。手荒なことも出来ず、眼を離すわけにもいかずで、二人は後に着いてゆく他になかった。
あたりにはもう宵闇が裾を広げ、西の空の端あたりにだけ、生き血が滲むような夕暮れの残照が光っている。
やがて小夜香は、玉砂利の敷かれた禊場に到着した。亜矢と真麻も、非常時と判断し、いつもは足を踏み入れることのないその聖なる場所に、意を決して続いてゆく。
東の空には欠け始めたばかりの月が浮かんでいる。その月はやけに大きく、昨夜の金色の満月とは似ても似つかない、世にも不気味な赤い色をしていた。
「秋人兄様……」
暗い水面を湛える湖の際まで、小夜香はふらふらと歩いてゆく。湖の中央を辿った大きな黒い瞳が、何かを畏れるように見開かれ、濡れるのも構わず水に踏み込んだ。
その足取りは、湖に入ってゆくというよりも、そこに水があることが眼に入っていないかのようだった。懸命に冷たい水と空気を掻いて、小夜香は前に進んでゆこうとする。
「小夜香様!?」
さすがに、亜矢と真麻が仰天して、それを追った。もう腰あたりまで水に入ってしまっている小夜香を、抱くようにして止める。亜矢と真麻の二人がかりで、後ろからつかまえられてしまえば、ただでさえ弱り切った小夜香にはどうしようも出来なかった。
「いや……」
だが相変わらず、自分の身を捕らえている二人のことを、小夜香は見ようともしない。湖の中央──そこに浮かぶ神島を食い入るように見つめる瞳に、ふいに大粒の涙が盛り上がった。
「いやだ、兄様。いや。いや……!」
その頬に、ぼろぼろと涙の粒が零れ落ちる。小夜香は悲痛な声で泣き叫んだ。
「兄様、いやだ。いなくならないで。小夜香をひとりにしないで。秋人兄様……!」
堰を切ったように、放置された迷子のように泣き始めた小夜香を、亜矢と真麻は、なんとか懸命に岸辺まで連れ戻した。
小夜香はそこで体力が尽きてしまったように座り込み、それでもまだ、神島の方へと這って行こうとした。
「小夜香」
──そこに横合いからふわりと現われて、小夜香の前をふさいだ白い姿があった。
白い狩衣姿の槐が、小夜香の視界を遮るように立つ。突然影も形もなかったところに現われた槐に、亜矢と真麻は「えええ?」と眼を丸くした。
小夜香もまた、初めて悪い夢から醒めたように、瞳を瞬かせた。槐を見上げる泣きはらした瞳に、確かに正気の光が灯る。
「槐……」
茫然としたようなその黒い瞳に、またみるみるうちに涙が溢れ出した。しゃくりあげながら、小夜香は槐の白い袖をつかんだ。
「槐。秋人兄様が。兄様が、死んじゃう。いなくなっちゃうよ。槐……!」
そのまま槐にすがりつき、小夜香はわあわあと声をあげて泣きじゃくる。槐は何も言わず、小夜香の前に屈んで、その小さく薄い背中を白い袖の中につつんだ。
あたりに異変が生じたのは、そのときだった。
どこからともなく、地の底から響いてくるような、低い地鳴りが聞こえてくる。亜矢と真麻が、「えっ?」とたちまち青ざめた。
地鳴りはしばらく続き、夜だというのに、あたりの森で休んでいた野鳥たちが、昨夜のように一斉に飛び立った。ぐらり、と地面が動く。と思うと、恐ろしく大きな揺れが来た。
昨夜の大きな地震の記憶も新しく、後ろにいる母子は悲鳴を上げて、互いを抱き締め合いながらその場に座り込んだ。
小夜香も眼を見開き、悲鳴も上げられず、ただ槐にしがみついた。その眼前で、湖の水が、まるで海のように揺れて波を立てる。ぎゃあぎゃあと、やかましく騒ぎ立てる鳥たちの声が、あたりに降りそそぐ。鳥達は群れをなし、黒いかたまりとなって、狂ったように空を埋め尽くす勢いで飛び回っていた。その空に、東の方角から、血のように赤い色をした大きな月が、次第に昇ってゆく。
小夜香を懐に抱いたまま、槐の眼は真っ直ぐに、湖の中央に浮かぶ神島を捉えていた。その様子が、いつになく息を詰めているように見える。
そうするうちに。
「……解けた」
とだけ、槐が呟いた。「え?」という小夜香の小さな声にかぶさるように、先程とはまた違う地鳴りがしてきた。低く低く轟きわたるそれが、しかし地鳴りではないことに、小夜香は突然に気が付いて身が竦んだ。
地の底から、遠雷のように重々しく響いてくる。それは何ものかのあげる、恐ろしい咆哮だった。
それが聞こえてくるのは、湖の中央に浮かぶ神島のあたり。そして波立つ湖水に囲まれた神島の様子に、明らかに異変が生じていた。
小さな島全体が、まるで地底から揺さぶられているように震動している。それがひときわ大きくなったとき、島の中央から、何かが崩れるような重い音と、夜目にも分かるほど大きな土煙が上がった。
神島は地中から握り潰されるように撓んでゆく。そしてあちらこちらから土煙が上がり、それに連鎖して、全体が崩れ始めた。
赤い大きな月に照らされながら、神島はゆっくりと崩落し、湖の中に沈んでゆく。
やがて完全に神島が見えなくなったあとには、大きな渦が生じていた。
息を呑み、もはや嵐の海のように荒い白波を立てている湖面を見ていた小夜香は、ふと恐ろしいことに気が付いた。
「水が……」
減ってゆく。湖を満たしていた豊かな水が、神島の沈んだあとに生じた巨大な渦に、引き込まれてゆく。
それは信じられない光景だった。やがて水を呑み込みながら、湖の中に、大きな穴が開き始める。湖の水位が見る間に下がってゆく。それにつれて地面の揺れは次第におさまっていき、それが逆にそら恐ろしかった。
やがて湖は、すっかり干上がった。剥き出しになった湖底で跳ねている無数の魚が、月明かりに無情に照らし出されているのが見えた。
湖の水がすべて落ちていったそこには、大きな穴が見えていた。黄泉まで続いているような、まったく底の見えない澱んだ闇が、そこには満ちている。
いつの間にか、あれほど空を飛び回っていた鳥たちが、残らず姿を消していた。恐ろしいような静寂の中、まるで釜の底が抜けたようなその巨大な穴から、何かが這い出してきた。
「ひッ……!」
と、小夜香たちの後ろで震えながら抱き合う母子が、ひきつった悲鳴を上げた。
その巨大な穴から這い出してきたものは、何か真っ黒い、どろどろとした煙のようなものだった。粘度すら所有しているようなそれは、まるで這い出してきた無数の蛇のようだ。その次々に湧き出してくる黒い何かが、度々顕われていた死穢と同じ気配を纏っていることに、小夜香は気付いていた。
赤い月が照らす中、やがて暗い穴の中から、ゆっくりと巨大なものの影が顕われてくる。それはとてつもなく大きかった。そして一切の明かりを吸い込んでしまうような、黄泉の闇そのもののような暗黒を纏っていた。
「っ……!……」
小夜香は恐怖のあまり、身をひきつらせた。あれはいったいなんだろう。何かは分からないが、ただひとつ言えることがある。
──あれは、この世に存在してはならないものだ。
ゆっくりと姿を顕わしてくるそれは、巨大な二つの頭を持っているように見えた。まだその全貌は見えない。そのとき、微動だにせずにずっとその様子を凝視していた槐が、ふいに動いた。
動けない小夜香を抱え上げ、後ろで怯えている母子の近くに移動して、そこに降ろす。
「あ……え、槐……?」
身が強張ってろくに手足を動かせない小夜香に、槐は言った。
「おまえに、俺の一番信頼している式をつける。──白」
槐が呼ばわった声に応えるように、何も無い空間に突然、白い鬼火──焔が渦を巻くようにして生じた。
「必ず守れ。絶対に傷ひとつつけるな」
槐の声を聞き届けたように、白い焔はくるりとその場でまわる。そのまま小夜香に近付くと、ふわりと拡散し、小夜香をつつむように広がった。そして薄れて、すぐに見えなくなってしまった。
白い焔が広がったときに感じたあたたかさと、そのものの持つ感触のようなものを、小夜香は覚えていた。それはあの山桜のある丘でのこと。あそこで怪異が顕われたとき、身を寄せた桜の木から感じた、あのあたたかな気配と同じだった。
だが小夜香がそれについて言及する間もなく、槐は白い衣の裾をふわりと揺らして立ち上がった。
槐が視線を巡らせた先を一緒に見て、小夜香は四肢を凍り付かせた。
巨大な穴から姿を覗かせつつあったものは、今やその全貌を顕かにしようとしていた。これほどの距離があっても尚見上げるほどに大きいそれは、星々の明かりを飲み込んで、無明の中にそこだけ灯る赤黒い双眸を、ゆっくりと瞬かせるように開く。それはふたつの頭に一対ずつ、あわせて四つ耀いていた。
──闇が凝ったような、死穢を纏う双頭の蛇。
小夜香は恐慌に陥るぎりぎりで、なんとか踏みとどまる。がちがちと奥歯が音を立てて震えていた。その視界の隅に、ここからいくらか回り込んだあたりの湖畔に広がる、里の灯りが映る。集落のほうが騒然とし始めているのが分かった。
身動きすらできずに小夜香が見ている先で、赤い月に照らされながら、双頭の蛇はゆるりと天に向かって鎌首をもたげた。
いったいどこから発しているのかと思うような、文字通り魂を削られそうな咆哮が、天地に轟いた。
びりびりと空気を振動させたそれは、浮き立つような歓喜に満ちているようにも感じられた。それと同時に、生命そのものに向けられた、命あるものを残らず滅ぼそうとする、底知れない憎悪と怒りに満ちている。それが不思議なほど克明に伝わってくる。
その様を、先程から黙ってじっと見つめている槐に、小夜香は視線を向けた。震える声で問いかける。
「え……槐。あれが、蛇神、なの……?」
「そのようだな」
槐はいつもとさほども変わらない、気軽いほどの調子で答えた。だがひたりと蛇神に据えられた眼は、一寸の油断もなく鋭い。
「あれを放っておけば、あっという間にこのあたりは死穢に呑まれて焦土と化す。あのままにはしておけん」
その言葉に、小夜香は驚いて槐を見上げた。まさかあれをどうにかするつもりなのかと、だがその内容を考えたときのあまりの途方も無さに、小夜香は咄嗟に言葉が継げなかった。
「だめだよ……」
やがてどうにか。からからになってしまったような喉で、小夜香は言葉を発した。見開くようにして槐を見上げた眼から、また涙がこぼれ出す。栓が壊れてしまったように、涙ばかりが出る。だけれど、どうしようもない。
「だめだよ。やだよ、槐。だめだよ……」
ひくっとしゃくりあげた。ぼろぼろと、莫迦になったように涙が止まらない。
あれがどんなに恐ろしいものなのか、嫌でも小夜香には分かる。あれは、生きたものが関わってはならない相手だ。あんなものをどうにかしようとしたら、槐だってただではすまない。それどころか。
「死んじゃやだよ……」
いやだ。槐までいなくなったら、本当にもう自分はひとりぼっちになってしまう。それだけはいやだ。もう、大切な誰かが居なくなってしまうのはいやだ。
無防備な子どものように泣くことしかできない小夜香の前に、軽い衣擦れの音が聞こえた。眼を上げると、小夜香の真正面に、槐が片膝を折って屈んでいた。
夜の闇の中にあって、そこにいる白い槐の姿は、全体が仄かに光って見える。あらためてまじまじとそれを見て、──ああ、綺麗だな……と、小夜香はぼんやり思った。
この白い鬼は、本当に真っ直ぐで、己のまことを侵そうとするどんなものにも決して靡かず、挫けない。磨き抜かれた美しい白刃にも似た、その眩しいほどの純粋な強さが、誇り高さが、鮮やかな白い焔のようで。本当に、綺麗だ。
でも、だからこそ。そんな槐の静かなほどの瞳を見て、小夜香は分かってしまった。どうしても、槐を止めることはできないことを。
小夜香に眼の高さを合わせたまま、槐は落ち着いた声音で言った。
「大丈夫だ。首と心臓さえ無事なら、俺はそう簡単には死なん。案ずるな」
「そんなの……心配するなってほうが無理じゃないか」
小夜香は泣き笑いしてしまう。繰り返ししゃくりあげる喉を震わせながら。
そんな小夜香を見て、槐はにっと笑った。悪童のような、尊大なほどに強気な、いつもの笑い方だった。
「死ぬものか」
言い切り、槐は立ち上がる。そしてその背後、かつて神島があった方向を見た。
そこにいる巨大な双頭の蛇が、その不吉な赤に光る眼で、じっとこちらを見下ろしている。それに気付き、小夜香は強張った。じっとりと絡みつき、舌なめずりするような蛇神の視線の先に、他ならぬ自分がいる。頭の先から爪先までを筆舌に尽くしがたい怖気が走り抜け、声にならない悲鳴をあげた。
その蛇神の視線を断つように、槐がばさりと狩衣の袖を返し、小夜香を背にして立った。
蛇神に比べればほんのちっぽけでしかない槐の総身を、鮮やかな白焔となって、陽炎を生みながら妖気がつつむ。その背には微塵の怯懦もなく、むしろ昂揚したように、額の角が耀きを増した。蛇神を真っ直ぐに見上げる紫の瞳が、鬼火を帯びて妖しく強く耀いた。
「それにしてもまあ、随分とでかい図体だな。なりが立派なだけの木偶でないと良いのだが」
言いながら、槐が進み出る。見上げるほどの巨躯である蛇神を見据えたまま、重心を下げて身構え、太刀の柄に手をかけた。
そしてふっとひとつ息を吐く。小夜香の聞いたことのない低い声で、槐は言った。
「見事だ、人間。──蛇神よ、龍神の守り人より、貴様を討てと宿願を蒙った。推して参る」
禍夢 (八)

