体勢はやや低め、いつでも武器を抜けるようにして身構える。
これまでの状況や、今目の前に顕われた蛇神の様子からして、これはどうやら死の穢れ、死にまつわる様々な陰と負の因子の塊だ。死穢、腐敗、それから死に対する拒絶や恐怖や怒り。転じて、生あるものや生命そのものへの嫉みや憎しみ。そういったものが「双頭の蛇の象」に凝縮している。黄泉のものではないが、性質が極めてそれに近い。
正直、あまり相手取りたい質のものではない。攻めるにあたって何が有効であるかの具体的な情報も無い。何より大前提として、互いの力に彼我の差がありすぎる。こちらも身のまわりに死穢の浸蝕を防ぐ護りを展開してはいるものの、一撃でももらえば、下手をすればそれで命を落とすか、戦闘不能になりかねない。
蛇神はこちらの存在は認識しているだろうが、現状はさして警戒もしていない。ならば警戒されていないうちに一気に仕掛けるか。こうしている今も、蛇神から膨大な死穢が滲み出し、その近辺からじわじわと土が死んでいっている。そのあたりで跳ねていた魚もたちまち腐り溶けて、骨だけの姿と化しつつある。あらゆる意味で、時間をかけるのは得策ではない。
──であれば、最初の一手で手応えを見極め、二手目で仕留めることが最適解。
そこまでを数瞬で思考し、思考したときには槐は動いていた。引き下げた左足で地を蹴り、最短距離で一気に蛇神に接近する。
穴から出てきたばかりの蛇神は全体に黒い靄を纏っていたが、それが徐々に晴れてゆこうとしていた。全長は、正直想像もつかない。胴の太さは二間程もあるか。どす黒い血の色をした舌をちらつかせ、口腔からは絶え間なく赤黒い炎が漏れ出ている。双つの頭の位置は、そうしている限りは九から十間の高さに見える。しかし何しろ自由自在に動く蛇であるから、体高に関しては見当をつけてもあまり意味がない。
あれに攻撃を加えるには、こちらも地上から離れなければならないが、自前の妖力だけで長時間を滞空するのは消耗が大きい。駆けながら、従える眷属たちに素早く呼びかけて顕現を促した。完全な一対一で勝てると思うほど、自惚れてはいなかった。
蛇神のいくらか手前で踏み切り、空中で眷属に輔佐させて、さらに高く跳躍しながら太刀を抜き放つ。靄が晴れて覗いていた漆黒の鱗にむかって、手加減無しに白銀の刃を斬り降ろした。
刃と接触した瞬間、鱗から強い抵抗と黒い稲光に似た光が生じた。刹那に生じた押し合いに、槐は躊躇わずに妖力の出力をほぼ最大限度にまで上げる。白銀の刃が白く燃え上がるように耀き、漆黒の鱗を割った。
太刀を握る両腕と全身に返ってきた抵抗を、それ以上に強い力で押し下げる。鱗とその下の赤黒い肉が、どす黒い蒸気を生じながら白刃に斬り裂かれてゆく。骨に達する前に刃を返し、全身を使って斬り上げた。
大きく胴を抉られた蛇が、身をうねらせて叫ぶ。斬ったところが回復する様子はない。防御面において強固でしぶとくはあるが、その性質上、再生能力は持ち合わせていないらしい。それだけでも大きな朗報だ。
それを完全に見届ける前に、駆け上がった勢いと眷属の支援を絡め、槐はその頭部まで跳んだ。次の一刀にすべてをこめるべく、妖力と意識を集中させる。
一太刀目で把握したが、この相手は、ただ力まかせに斬るだけでは鱗に刃が阻まれる。身に宿る妖力のほぼ全てを火力に変換して、斬る一瞬に太刀に載せれば肉まで断てるが、同時にそれは、斬る瞬間はまったくの無防備になることも意味していた。
攻撃を加え、かつ安全に離脱するためには、蛇の速度を上回る他にない。出来る出来ないは考えなかった。真っ直ぐに蛇の頭部に肉薄する。頸を狙った一太刀は、過たずに狙った部位に食い込み、鱗を突き抜けて肉まで斬り裂いた。
──浅い。
ちっと、思わず舌打ちした。一撃は狙い通りに入ったが、思った以上に相手の守りが堅い。
蛇神の力を削ぐのに頭を落とすのが有効なのかは分からなかったが、斬ろうとした一瞬に、確かに蛇はそこを庇おうとする動きを見せた。ということは、こいつも生き物の範疇ではあるということか。少なくとも無効ではないということだ。
──同じ部位を、さらに三度か四度斬って、首を落とす。それしかない。
斬った直後のまだ空中でそれを考えていたとき、全身にぞわりと悪寒が走った。
攻撃直後の無防備なその瞬間を狙い、もうひとつの頭のほうが、槐に向かってその巨大な顎を大きく開いていた。
今まさに自分を一呑みにしようとしているそれを見た瞬間、心拍と全身の緊張が猛然と跳ね上がった。考えるよりも先に身体が動く。自分を咥え込んだ顎が完全に閉まるよりも僅かに速く、その牙に向かって刃を立て、全身を撥条にして弾き返すように振り抜いた。
強く弾かれた蛇が顎を緩め、その隙に、足下を強く蹴りつけて離脱する。蛇の口から危うく逃れた勢いのまま槐は落下し、地についた足を大きく滑らせ勢いを殺しながら身構えた。
至近距離にいる蛇神を見上げる。圧倒的優位を物語るように、槐よりも遙かに巨大な双頭の蛇の動きは悠然としていた。だが今の一連で、どうやら明確に、槐を敵だと認定したらしい。その二対の眼が恐ろしいような赤黒い炎を灯し、地上の槐を睥睨していた。
それを見上げながら、槐は全身の血がざわざわと昂ぶって騒ぎ、指先に到るまでの神経が熱く快く痺れるのを感じた。見開いた眼がいっそう耀いて、蛇神の偉容を映す。
「──そうこなくてはな」
愉しんでいる場合ではないことは分かる。だが初手からほぼ全力をぶつけても尚悠然とそこにいる姿に、ほんの一瞬反応が遅れたら死んでいたことに、五感が強烈な昂揚感をもってひときわ覚醒する。その昂揚を受けて、身を包む白焔がなおいっそう盛んになる。
蛇を睨みながら、めまぐるしく頭を回転させる。問題は、やはり攻撃のその瞬間だ。加減をしていたら有効打を与えられないが、今の一連で相手もこちらの隙に気付いただろう。相手が実質二体いるのも厄介だ。
槐は乾いてきた唇をぺろりと舐めた。
──幸い、速度はこちらが僅かに上らしい。出来るだけ相手の気を散じて隙を作り、二対一の時間を減らす。かつ、僅かでも反撃されない時間を作る。
「斂、旋。援護しろ」
太刀の刃を地とほぼ水平にし、低い体勢で身構えながら言う。応じた眷属たちと共に、槐は足下を蹴り、一息に蛇神との間合いを詰めた。
その眼前で突然、どろどろとした闇の塊が立ち上がった。死穢を煮詰めたようなそれに行く手を遮られ、槐は一瞬出鼻を挫かれる。
咄嗟の判断で、斬り払うことはせずに直前で高く跳躍して躱した。躱した先で、待っていたように蛇の頭のひとつが口を開いている。
──相手もこちらの動きを読んで誘導している。それくらいのことはしてくる相手だ。であれば、こちらが更にそれを上回れば良い。
その牙が身に届くよりも先に、槐は瞬間的に眷属に作らせた見えざる足場を蹴りつけて、急激に身を旋回させた。ばくりと何もない空を噛んだ蛇の巨大な頭部に、横あいから後ろに回り込みざま、局地的な雷を操る式神の加勢を得て、強烈な連撃を叩き込む。
蛇が叫び声をあげて頭部を揺らがせた。だがこの程度では、やはりその鱗を貫通するには及ばない。
「旋!」
鋭く叫んだそれに、呼ばれた式神は迅速かつ忠実に応えた。もう一体の蛇の眼に向かって、雨霰のように鎌鼬の刃を降り注がせる。それは牽制にしかならないが、その役目を確実に果たした。
幸い、頸に一太刀を入れてある蛇は最初に仕掛けてきたほうだ。蛇が揺らがせた頭部を立て直すよりも早く、まったく同じ箇所に、全身の力と妖力を集中させて太刀を振り下ろした。
肉を斬り裂いてゆく刃が、頸の中でガツッと抵抗を受ける。骨に当たったのだろう。やはりそう簡単に斬らせてはくれない。槐は深追いせずに離脱した。間一髪で、先程まで槐がいた空間を、牽制から立ち直ったもう一頭の吐き出した赤黒い火炎が横切った。
勢いを殺さずいったん地上に着地し、だがそこに間髪入れず、どろどろとした死穢どもが向かってきた。こちらは速度はたいしたことはないが、とにかく際限なく湧いてこちらの動きを阻んでくる。一呼吸、ひとつの挙動ごとに全力で蛇神に意識を割いている今は、鬱陶しいことこの上ない。
死穢どもは無数の蛇の如く地面を埋めて蠢き、跳び退いたものの僅かに躱しそこねた槐の左の爪先に接触した。そこから水を得たように伸び上がって絡みついてくる。
また思わず槐は舌打ちした。太刀を凪いでそれを払いのけたものの、それが隙になる。
小癪な生き物に翻弄され、続けて痛撃を加えられた二頭の蛇は怒り狂い、同時に攻撃をしかけてきた。二頭の動きは恐ろしく呼吸が合っており、死穢を纏う火炎を織り交ぜての波状攻撃や、誘導してからの挟撃を、まさに息も吐かせず繰り出してくる。そこに地上で無数にうねる死穢も加わり、一転して槐は防戦一方にまわった。いずれの攻撃もぎりぎりで先を読み、躱し、太刀で打ち払って凌ぐが、それが精一杯の状況になる。
──まずい。
このままでは、いずれ必ずつかまって痛烈な一撃を食らう。それが分かっていても、そこから抜け出す隙がない。
極度の集中と全神経と反射を駆使しての回避行動が続くうち、僅かに反応が遅れた首元を、伸びてきた死穢の蛇がかすめた。
「!────」
たちどころに頸に絡みついてきたそれに、ぐんっ、と後ろに引っ張られる。槐はあえて抵抗せずに、そのまま倒れて転がりながら体勢を立て直した。だがその身体中に、転がった拍子に死穢どもが纏わり付いた。
ずしっと、突然身体が重さを増したように感じた。全身を覆う護りの力によって、死穢が体内に浸蝕してくることはどうにか防いでいたが、ふれたものをそれだけで腐食させる性質を完全に防ぐことはできなかった。もともとかなりの無理をして動き続けていることもあり、一気に全身に、地面に押しつけられるような重い疲労が襲ってくる。
その隙を、蛇神が見逃すわけがない。左右の頭上から、恐ろしい速度と連携をもって、二頭の蛇が牙と炎を剥き出しに襲いかかってきた。
──躱し切れない。
その槐の身体を、横ざまに、式の一体が突き飛ばす。それと同時に別の一体が、槐が転がった先に近いほうの蛇の頭を、眩いばかりの強烈な炎で包んだ。
蛇の怒りに震える咆哮を背後に聞きながら、槐は死に物狂いで身を立て直した。今の一瞬だけで、槐を輔佐した二体の眷属が、蛇の反撃であっけなく消し飛んでいた。だがおかげで、絶え間ない猛撃の流れが、数瞬であれ断ち切れた。
槐は地を思い切り蹴りつけて高く跳び、頭部がまだ燃えてもがいている蛇の胴を踏み、さらに跳ぶ。その向こうにいたもう一体の頸、既にもう二撃を加えているそこに、真っ直ぐに太刀を振り下ろした。
ガキンという骨を断つ手応えを押し切って、全霊の力を振り絞って刃を斬り下げてゆく。どうにかこれで一体の首を落とせれば。だが状況は、やはりそれほど易しくはなかった。落としきれない。あと一太刀か。
と、頸を断ちきれなかった蛇が、鼓膜が破れるかと思うほどの大きさで絶叫した。
「ッ……!!」
蛇神の未知にして底知れない呪力の宿ったそれは、予想以上に痛烈だった。単に衝撃で肉体を削る以上に、槐の身をつつんでいた護りを吹き飛ばす。さらに至近距離から喰らったそれは、巨大な見えざる張り手でも喰らったように脳震盪を引き起こした。
なんとか意識は保ちつつも、受け身もろくにとれないまま落下する。そこに待ちかまえていた死穢どもが、無数に絡み合って杭のような一本を成した。素早く伸びた何本かが蛇のように槐に絡まって引き寄せ、落下の勢いも乗せて、護りの失せた背からその胴を貫いた。
「…………ッぐ、……ッ!!」
あやうく倒れそうになったが、幸いにも背後から身を貫いたその杭状の死穢どものおかげで支えられた。腹部の広範囲を一度に抉り抜かれた凄まじい激痛と、内臓を傷つけられたことによる激しい悪寒と嘔吐感が襲ってくる。同時に体内に浸蝕してきた死穢の、おぞましいを通り越した感触に、さすがに一瞬足下がふらつき、声が洩れた。熱い鮮血がごぼりと喉から溢れた。
禍夢 (九)

