禍夢 (十)

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 連日の大きな地震に驚いて各々の家から飛び出してきた里の人々は、それに続いた光景に揃って肝を潰した。
 赤い満月が不気味に照らし、湖が海のように波立った中を、神島が崩れながら沈んでゆく。沈んでいったあとに巨大な渦巻きが発生し、さらには湖の水という水が、そこに吸い込まれてゆく。
「いったい何が起きてるんだ、こりゃあ……」
 湖畔に立ち尽くした人々は、茫然とし、あるいはへたりこんで、この世の終わりだと怯えて泣き出した。
 人々がただ見守るしかない先で、さらに信じ難い光景が出現する。湖の水が残らず落ちてしまった大穴から、闇を凝縮したような、そして恐ろしく巨大な双頭の蛇がゆっくりと顕われ、天が落ちるかと思うような声で咆哮した。
「な……なんなの、あれは……」
「に、に、逃げろ。逃げろおぉっ」
 恐慌状態に陥った人々が、我先に逃げ出し始める。だがその中の何人か、まだしも少しは冷静だった者達が、遠くで首をもたげている巨大な蛇の様子に眼を眇めた。
「まって。何か……何か、白いひとがいる。あの蛇と闘ってる……? みんなまって、みんなもよく見てよ」
「ええっ? ……いや、確かに。なんだ、ありゃあ」
 確かに遠くに、蛇と共に小さな白い光のようなものが見える。人々は混乱しながら眼を凝らす。
 湖としての規模はそこそこだった龍神湖だが、その水がすべて干上がったとなれば、その広さは相当なものだ。蛇にしてもその中央あたりにいるものだから、細部まではあまりよく見て取れない。
 だが確かに、蛇と共に白い誰かがいる。鬼か天狗のように速く駆け、巨大な蛇に届くほどに自在に高く跳び上がる。しかも時折月光を反射するものが太刀であるなら、あれは、あの蛇と闘っているように見えないだろうか。
「──おい、ちょっと待て。ありゃあ、もしかして軽業師の兄ちゃんじゃねえか?」
 そのうち、とくに眼の良い者たちが、そう言い出した。
「格好が全然違うけど。でも確かに、あれはそうだわ……軽業師さんに見える……」
「うわ、こりゃーたまげた。軽業にも程がねぇか、ありゃあ」
 ざわざわと人々はざわめきながら、遠目にその様子を、固唾を呑んで見守り始めた。何が起こっているのかは分からないが、誰もが皆、そこから眼を離してはいけないような気がしていた。


 槐は背後から腹部を貫かれたまま、視界の隅で蛇神を見る。一頭の頸は半分以上が切れかかっており、苦しげにもがいている様子からして、さすがに相手もまったく痛手がないというわけにはいかないらしい。
 とはいえ、うかうかしている余裕はない。気力を絞って瞬時に護りを張り直し、奥歯を噛み締めて太刀を握り、身に纏わり付く死穢の蛇どもを斬り捨てる。背後から食い込む杭のようになったそれは、式に命じて打ち払った。
「っ、……う……」
 身を支えていたものが無くなり、開いた孔から一気に血が溢れ出して、膝が折れかかった。咄嗟に太刀を立てて身を支えた。
 体内に死穢の浸蝕を許してしまったから、肉や骨が徐々に腐食されてじくじくと溶け始めていた。生身の内を直接灼かれるようなその感覚と、大量の失血も手伝って、呼吸をするだけで手足が震える。どっと吹き出してきた脂汗が目に沁み、何度か瞬きをする。
 落下のときにぎりぎりで身を捩ったから、肋骨ごと肉や内臓はもっていかれたものの、背骨はほぼ損傷していなかった。──まだ動ける。傷口から溢れ出した血でどろどろになった太刀の柄を、ぎりりとと強く握り直して突き立てた地面から抜いた。両脚で足下を踏みしめて構え、双頭の蛇を睨む。
「……強いな、さすがに」
 一気に劣勢に追い込まれつつ、しかし血で濡れた唇に笑みが洩れた。
 受けた傷は浅くはないし、全身が何重もの鎖で大地に繋がれたかの如く重い。少しの予断も許さない状況は変わらず、むしろ確実に悪くなっている。
 だが、ぎりぎの命の遣り取りに背筋がぞくぞくし、追い詰められるほど血が滾るのは、これはもう性だ。次は必ず首を落とす。屈壊することを知らない天傲の気が強く燃え上がり、集中力と全神経を、研ぎ澄ませた刃のように収斂させてゆく。
「榮、双、峰、豪! あれの首を落とすぞ! 他は全て俺の支援に回れ!」
 裂帛の気合いとともに号令し、槐は強く地を蹴った。出来る限り眷属たちは温存したかったが、そんな悠長なことを言っていたら本体である自身が保たなそうだ。
 片方の首が落ちかけてもがいていた蛇神が、接近に気付いて四つの眼を見開き、妖しく耀かせた。しゃあああ、と、実際の蛇の威嚇さながらの声を立てる。先程までは威嚇すらしなかった。確実に相手も弱っている。
 ほとんど瞬きもせずに蛇神を見据えたまま、纏わり付こうとする死穢どもを寄せ付けないほどの迅さで急接近した。無事な方の蛇が首をたわめて顎を開き、そこに赤黒い炎を吐き出す。
 死穢そのものでもある蛇神の吐き出す炎は、派手で威力は高いが、そのぶん小回りが利かない。広範囲の殲滅には向くが、槐のような矮小な唯一人を灼くには過剰火力でもあった。
 それを既に見抜いていた槐は、赤黒い炎の帯を紙一重でかいくぐり、眷属の助けを得て空中を駆け上がる。
 目の前に見えた火を噴く蛇の頸を、歯を食いしばり全力で斬り付けた。どうせどちらの首も落とさなければ斃せない。鱗を割り、その下の肉に達した太刀を最大限の力で振り抜くと、胸郭の中で鼓動が痛いほど跳ね上がっていた。そのとき首の落ちかけたもう一体が、牙を剥き出しに猛然と襲いかかってきた。
 咄嗟に反応仕切れなかった槐を、式の一体が庇った。自らが消し飛ぶことと引き換えに、蛇神の頭を逸らす。手負いの相手も死の物狂いになっていた。すぐさま身をうねらせて攻撃に転じてくる。
 槐に先んじて、眷属たちがそれを迎撃する。彼らがほんの僅かな時間を稼いでいる隙に、槐は暴れる心臓を無視して、一呼吸たりとも休むことなく、落ちかけている蛇神の首まで宙を駆けた。骨まで断たれて赤黒い肉や内部の器官が剥き出しになっているそこに、全霊で太刀を叩き込む。
 蛇神の首のひとつが完全に断たれ、遂にその胴を離れた。赤黒い血液のようなものと炎の尾を纏いながら落下してゆき、轟音と共に地面に落ちる。夜空と大地を震わせて、残ったもうひとつの首が、恐ろしい怒号をあげた。
 全力で斬り込んだ後、槐は余力が無く空中で体勢を崩した。深い傷を顧みず立て続けに無理をしたせいで、心肺が痙攣し、息を吸いたくてもまず吐き出すことが出来ない。喉から気管が割けそうな痛みを伴ってひきつり、四肢が痺れる。
 眷属たちがそこを庇おうと、あるものは槐を護り、あるものは蛇神に向かったが、一体一体であればあまりに格が違いすぎ、彼らには為すすべもなかった。吐き出された炎で瞬く間に焼き払われ、振った尾にたやすく弾きとばされて四散する。
 首をひとつ喪い、猛り狂った蛇神は、槐がろくに動けない状態であることを見て取ると、続けざまに炎を吐いた。
「ぐっ!!」
 かろうじで避けたものの、避けきれなかった。左脚が赤黒い炎に巻き込まれる。死穢を帯びた炎が身体を灼きながら溶かす、その味わったことのない苦痛に、声を抑えきれなかった。まともに息がつける状態であれば叫んでいたかもしれない。
 ──こんなものに、あの守り人は耐えたのか。
 しかも蛇神の瘴気に蝕まれた上、全身をその炎で灼かれながら精神力だけで七間近い距離を歩いて、封印のしるしに御魂剣を突き立てたのだ。ただの生身の人間の身でありながら。そんなことを為せる者など、妖であろうとそうそう居ない。
 体勢を維持できないまま、槐は血と炎の尾をひきながら地面に落下した。地べたに這いつくばり、なんとか通るようになってきた呼吸を喘ぐように繰り返す。左脚はまだ燃え続けている。強固な呪いを宿す炎は通常の炎とは異なり、そう簡単に消すことはできない。
 だがそこに、式の一体が動いた。槐の燃えている左脚に自身を覆い被せるようにして蛇神の炎を抑え込む。式のすさまじい絶叫があがった。炎が式を飲み込み、いっそう大きく燃え上がったかと思うと、やがて式ごと消失してゆく。
「輪!」
 思わず槐はそれの名を呼ばわった。彼らは槐に恭順し、あるいは懐柔されて付き従っているものたちで、個や感情が無いわけではない。
 左脚は焼け焦げ、骨まで溶けかけて、見るも無惨なありさまだった。しかし完全に喪うよりはずっとましだ。命じられるでもなく身を挺して主を救った眷属に、槐が感謝する間も与えず、あたりから死穢どもが無数の蛇のように躙り寄って来た。
 槐は太刀を杖に立ち上がろうとした。それより一瞬早く、真っ黒い蛇のような死穢どもが、ずるりと左腕に這い上がってきた。
 そのまま腕に巻き付いて、恐ろしい力で捻り上げる。ごきごきと嫌な音を立てて、骨が無造作に折り砕かれた。捻られた腕のあちらこちらから、皮膚を破って折れた骨が飛び出し、血と肉片が飛び散った。
「っ!!──ッが、ぐう……っ!」
 さすがに喉を苦鳴が割った。めりめりという嫌な音を立てて、死穢の蛇どもは、そのまま槐の左腕をねじり切ろうとしている。
 衝撃と痛みに揺らぎかけている視界に、少し離れたところにいる蛇神の様子が映った。地に落ちた首のほうに行って覗き込むようにしている。転がったきり動かない首を、鼻先でつついていた。その様が、何か妙に哀しげに見える。
 だからすぐにこちらには来なかったのか。納得しつつも、その様子が少し意外ではあった。この蛇神には、身内を悼む心のようなものがあるのだろうか。
 だが今は、そのことに頭を巡らせている余裕は無かった。見る間にこちらの胴や右腕や右脚にも死穢どもは這い上がってくる。絡みつく蛇のようなそれらを、気力を振り絞って白焔で燃やし、よろめきながら立ち上がった。震える手で太刀を握り直すと、あたりに群がる死穢どもを斬り払う。
「やってくれる……っ」
 ぜえぜえと肩で呼吸をしたまま、少し離れたところにいる蛇神を睨んだ。
 頭がひとつだけになった蛇神は、既にこちらに視線を戻していた。ちろちろと舌を覗かせながら、その赤黒い眼には、先程までよりもいっそう激しい憤怒と、赦してなるものかという意思が燃え上がっているように見えた。
 相手も首をひとつ喪ったが、こちらの損害も大概なものだ。大きく貫かれた背から腹部は出血が止まらず、体内で死穢の浸蝕も続いている。左脚は痛みを無視すれば杖程度にはなるが、左腕はもう使い物にならない。体力の消耗が激しくて、一呼吸ごとに心肺が軋み、呼吸を落ち着かせることすら出来ない。眷属も火力に秀でたものは喪ってしまった。どう贔屓目に見ても、あの蛇神のもう一つの首を落とすことなど、さすがに出来そうも無かった。
 ──だが、あと一太刀であれば。
 槐はちらりと湖の中央にぽっかりと空いた大穴を見る。あの穴の奥には、まだあの蛇神を封印していた呪力の残滓が残っている。何よりもあそこは、何百年、下手をしたら数千年もの間、あの蛇神を囲っていた檻だ。それを成しやすい環境が、あそこにはまだ維持されている。
 斃すことができないのであれば、あそこの中に誘い込み、自身もろとも地底に引きずり込んで穴を閉ざす。それは当然生還を意味しない。だがそれ以外にあれを無力化する方法が思い付かず、ならばそれを選択することに躊躇は無かった。
 ただ、それを為すにも、せめてあと一太刀は頸に入れなければ、蛇神の力を削ぐには足りない。
 ──『死んじゃやだよ……』
 それらを考えたとき、よぎったのは小夜香だった。
 あれは不思議な娘だ。強く脆く、しなやかで柔らかい。くるくるとよく表情を変え、日華の如く明るく強い光を瞳に宿し、只人でありながら、出逢ったときから少しも槐のことを恐れない。
 美しくはあるが、あれよりもよほど見目形が良いものなど、これまでにいくらでも見てきた。それでもどうしてか、槐の眼には、あの娘が誰よりも美しく、愛しいものに映る。
 闘いの中で、こんなふうに闘い以外のことを考えるなど、ましてや誰かを思い出すことなど、生まれて初めてだった。兄の死を察し、槐におまえまで死んでくれるなと子どものように泣いていた小夜香の姿が、胸に痛い。初めての感覚に、これを「切ない」というのだろうかと思う。
 不思議と穏やかな笑みが浮かんだ。常に自分の死は想定している。死ぬものか、と言った気持ちは本物だが、それでもどうにもならぬことがあるのも承知している。
 槐ひとりであれば、いや、やろうと思えば、小夜香を連れてここから逃げることなどたやすい。なぜそれをしないのかと、自分でも少し不思議に思う。野放しになったあの蛇神がいくら暴れて人間どもを殺し、土地を焦土に変えようと、そんなことはまったくもって知ったことでは無いはずだった。
 だが、龍神の守り人は、槐を信じて命を張った。その託されたものを引き継がぬことなど、あり得ぬ生き恥だ。そしてこの地は、小夜香にとって大切な、生まれ育った故郷だ。
 自分の選択を愚かしいとは思うが、こうするほうが胸がすく。自分がここに踏みとどまる理由なら、それで十分だった。
「やるしかなかろうよ。それが必要であるなら」
 それもこれも、あの蛇神を軽々と屠ることができない自分の未熟さ、力の無さゆえだ。
 気が付けば槐の狩衣も髪も、出血と泥と死穢の穢れで、すっかりもとの白は見る影もなくなっていた。立っているだけでも苦しく、少し気を抜けば全身の痛みと眩暈に負けて膝が崩れる。
 だが、それがなんだというのか。そんなものは退く理由にはなりはしない。右腕だけで血まみれの太刀の柄を強く握り、槐は蛇神を見据えて傲然と笑った。
「どうした蛇神よ。俺はまだ倒れていないぞ。太古から生きる蛇神ともあろうものが、たかが妖一匹に手こずっているとは随分なお笑い種ではないか」
 相手がとんでもない化け物であることなど、最初から分かっていたことだ。長年の封印や龍神信仰による枷がかかっていて、尚これだ。
 相手には恨みも憎しみも無い。むしろあるのは強者への敬意だった。そして自分が死力を尽くしても尚及ばないであろう、そんな相手に限界を超えて挑むことに無上の歓びを覚える。この期に及んで血潮が滾り、衰えぬ昂ぶりで背筋がぞくぞくしている。
 今は蛇神と闘えることが、大声で笑い出したいほど愉快でならなかった。


「おい……あれ、やばくねえか」
 湖の湖畔でその様子を遠目に見守っていた人々が、次第に騒然とし始めた。
 遠い上に暗くてよく見えないが、巨大な蛇相手に最初は身軽に動き回っていた白い影の動きが、次第に精彩を欠いてくる。巨大な双頭の蛇の頭のひとつを落としたときには歓声が上がったものの、とくに眼が良い者などは、悲鳴をあげて見ていられないように顔を覆ってしまう者も出てきた。
「ね、ねえ、やっぱり逃げたほうがいいんじゃないの。あんなもの、どう考えたっておかしいわよ」
「で、でもよう。兄ちゃんが頑張ってるんじゃねえか。あれを置いて行くのかよ?」
「だって、やられちゃったらどうするの? あの蛇がこっちに来たらどうするのよ!」
 人々があちらこちらで揉め始めた、そのとき。
「っ──!」
 全員が同時に、額を何かに弾かれたように揺らいだ。額を押さえたり、あたりを見回したり、茫然と瞬きをする。
 槐のかけていた暗示が、このとき、いっせいに里の人々から解けていた。蛇神と闘ううちに消耗し、維持が出来なくなったことによるのだが、人々にとってはまさに突然夢から覚めたも同然だった。今までは槐の姿を見てもそれ自体には何とも思わなかったものが、にわかにその正体に気がつき始める。
 人々は、あらためて蛇神と共に居る白い姿を見、ヒッと息を呑んだ。
「ち……ちょっと……あれ」
「まるで鬼じゃねえか。どっちも化け物だぞ……?」
「えぇ……? 軽業師さん、私達を騙してたの? 本当は化け物だったの……?」
 ざわざわと、先程までとはまた違う、疑惑と困惑によるざわめきが人々に広がってゆく。
「ど、どうなってんだよ、いったい」
「ばか、どうもこうもないよっ。どっちも化け物だってことだろう。どっちみち、逃げなきゃ殺されるよ!」
 化け物。殺される。
 その言葉に、いっせいに人々が恐慌をきたした。多くの人々が我先に逃げ始めようとする中、しかし数人が、慌てて声をあげる。
「ちょ、ちょっとまって。まってよ、皆。殺されるって、それ本当なの? あの軽業師さん、私達を殺そうとなんかするの?」
「なぁにバカ言ってんだ。あれを見ろよ、化け物なんだぞ! 俺らを騙してたに決まってんじゃねえか!」
「でも。でも、だって、皆、あの人にたくさん助けられたじゃない。あの人、ここで悪いことなんかなんにもしてなかったじゃない」
 中の一人が、勇気を絞るようにして強く言った。それで一瞬、場が鎮まった。
「確かに……そうだよねぇ。私も、あの人に随分助けてもらったわ」
「うん、俺もだよ。重いものも片っ端から運んでくれたし、収穫が間に合わない畑は手伝ってくれたし」
 それに続いて、頷き合う人々が現われる。
「まあなあ。ふらっと現われて、最初は何かと思ったけどよ。あの人が来てから、すんげえ今年の作業楽になったもんなぁ」
「あたし、積んだ米俵が崩れてきて下敷きにされそうになったときがあったの。でもあの人が助けてくれたんだよ。軽々と米俵を押さえてくれてさ」
「お祭りの櫓やら神楽殿作るのも助かったしなあ。力もだけど、あのひとなんか、長さとか真っ直ぐかとか曲がってるかって、目測ですごい正確なんだよ。ほんとに何か悪いこと企んでるなら、あんなことまでするか?」
「そうだよね。何か変なことをしようっていうなら、もうとっくにしてるんじゃないのかな……ましてあれ、あの蛇とさ。闘ってるんだよ?」
 ざわざわと交わされるそれらの声を、だが強く否定する怒声が上がった。
「バカ言ってんじゃねえよ! ここに居たけりゃ残りゃいいだろ。俺は逃げるぜ。あんな角の生えた化け物が信用できるか!」
「ほんとだよ。助けられたとかくだらない。そんなもの、そうやってあたしらを騙すために決まってるじゃないか。そうやってまんまと思う壺だ、ここにいたけりゃいればいいさ」
 残念なことに。それを聞いて、煽られるなり怯えるなり、頷いてしまう者の方が、ずっと多かった。多くの人々が、怯えて悲鳴を上げながら逃げ散ってゆく。それぞれ家にこもったり、近くの山の中まで逃げたりして、湖畔に残った人々は三割にも満たなかった。
 しかしその三割は、その場に踏みとどまった。そして祈るように、恐ろしい巨大な蛇と対峙する白い鬼をみつめた。そのときにはもう、血と泥と死穢とですっかり汚れて傷つき、それこそ幽鬼とも見間違えるようなありさまになってしまっていた、それでも尚一歩たりとも退こうとしない姿を。

 

現在の更新はここまでになります。次回の更新をお待ちください。

 

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