禍夢 (十二)

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 その龍の高く美しい一声を聴いたとき、槐は咄嗟に状況が把握できなかった。
 なんとかあと一太刀、と思いながらも、完全に手負いの獣となった蛇神の挙動もますます苛烈さを増し、斬り込むことはおろか近付くことすらろくに出来ない状態が続いていた。
 いくら相手も弱っているとはいえ、片腕と片脚が使えない状態でこんな化け物を相手取るのは、あまりにも分が悪すぎた。攻めきれないうちにさらに反撃を食らい、傷ばかりが増えていく中、それでもなんとか斬り込もうと宙に駆け上がったそのとき、高く響く龍の咆哮を聴いた。
 突然、横ざまに青白い清冽な輝きを纏うものが突っ込んでくる。それはうねりながら夜空から翔け降りてきた龍だった。
「なっ……」
 青白く輝く龍は、槐と蛇神の間にその長い胴を割り込ませるように通過してゆく。蛇神との間を分断され、槐は空中で体勢を崩しつつも、振り仰いでその姿を見直した。
 さすがに、呆気にとられて声も出ない。青白い龍は牽制するように蛇神のまわりを旋回している。眷属の力を借りて宙にとどまったまま、槐はしばらくぽかんと、その様子を眺めていた。
 そうやって見ていると、青白く輝く龍は、大きくはあったが蛇神ほどではなく、またかたちも鮮明なものではなかった。はっきりとした克明な形があるというよりも、光が集まってぼんやりとした象を結んでいる。実体があるのか、と言われたら、無いように見える。
 だが龍は、明らかに蛇神を敵と認識しているような動きを見せていた。長い髭をそよがせ、鬣を靡かせながら蛇神の巨体の周りを舞い、動きを封じ込もうとしているように見る。
「は………はは」
 思わず笑ってしまっていた。
 ──なんということだろう。龍神は居ないのではなかったのか。だが実際に今こうして、見事な龍が目の前に顕現している。
 快哉を得て、こんなときだというのに声を立てて笑ってしまった。
「──小夜香か」
 あれが本当に「龍神」と呼べる存在なのかは分からない。だが、遠い過去から今このときまで、幾星霜をかけてこの里で絶え間なく行なわれていた龍神の祀りが、人々の捧げてきた祈りや願いが、そしてこのあたりの生きとし生けるすべてのものたちの生命の輝きが、星屑を集めるように龍神の巫覡を通して集積し、祈りそのものである「龍神」というひとつの象を成した。
 小夜香が類い稀なる巫覡の才を秘めていることは分かっていた。だがそれは堅く深く閉ざされたままで、いっかな解放される気配も見せていなかった。
 それがまさか今このとき、最も必要としているときに顕現するとは。
「心強い」
 もうほとんど力の入らなくなっている右手で、だがしっかりと、太刀を握り直した。あの龍神が何をどこまでやれるのかは分からないが、絶望的な孤軍奮闘が一気に出目を変えてきたのは間違い無い。
 明確な実体を成せてはいない時点で、あの龍神は、顕現したとはいえそこまで強固なものではない。牽制の動きしか見せていないから、おそらく攻撃に類する能力も持ち合わせていない。存在を構成する因子に不安定なものを感じるから、おそらく、そう長時間を顕われていられるものでもない。
 だが今のこの状況で、これほど頼もしく有り難いものはなかった。
 槐は気を集中させ、すぐさま攻撃に移った。自力で滑空出来るような余裕は既に無い。完全に眷属頼みになりながら、龍に纏い付かれてこちらへの注意を散じている蛇神に、その死角から急接近する。全身がもはやどこがどう痛んでいるのかも分からない中、歯を食いしばって全身全霊を太刀に載せ、蛇神の頸に斬りかかった。
 既に一度は斬り付けているその同じ箇所に、文字通りの死力を絞って刃を振り下ろし、赤黒い肉を斬り裂いてゆく。ぶつかった骨を半ばまで押し切った。
 しかしそこで振り絞った力が尽き、食い込んだ太刀を抜き切らないうちに、ぐらりと身体が揺れた。
「くそっ……」
 離脱しなければ。と思うものの、身体がいうことをきかない。限界はとうに超えていた。蛇神の頸を切ることに、残り火のような全力を注ぎこんだせいで、恐ろしいほど総身が虚脱して眩暈がした。ひきつった喉が喘いで力無く咳き込み、地の底に引きずり込まれそうな苦しさの中、一呼吸ごとに意識が遠のきかける。
 ずるりと身体が落下しかけたぎりぎりで、太刀の柄を全力で握り、身体全体を使って足下を蹴りつけ、引き抜いた。
 頸の傷を抉られた蛇神が、大きく身をよじらせて憤怒の咆哮をあげる。龍がまとわりつくのも構わず、蛇神は強引に首を振って、落下してゆく槐に向かって巨大な赤黒い火炎の球を吐き出した。
 それを認識はしていながら、空中で槐はどうにも出来なかった。火球の規模が大きすぎて、眷属の力を得ても逃げ切れない。
 そこに宙を猛進してきた龍が割って入った。巨大な炎が龍を直撃する。ギイン、という、太刀で攻撃を受ける音を何百倍にもしたような凄まじい音が響き渡り、と同時に、槐はものすごい勢いで弾かれるようにその場から吹き飛ばされた。
「っ!……」
 かなり遠くまで一気に飛ばされ、受け身も取れないまま地面に叩き付けられる。ぎりぎりで眷属に庇わせたが、そのまま弾んで何度か転がり、やっと止まった。その衝撃が、今はひどくこたえた。だが遠くに飛ばされたおかげで、まだ死穢の影響を受けていない場所に逃れることができた。
 地面に転がったまま、しばらく動けずぜえぜえと苦しい息を吐く。いよいよ手足が動かない。視界がぐらぐらと揺れ、すぐに焦点を結ばなかった。よく状況が飲み込めなかったが、龍に護られた、ということだけは分かった。
 いったん太刀を手放し、震える右手で土を掻いて満身の力をこめ、無様にもがきながら、ようやく身体を引き起こした。やっと蛇神のほうを見る。そこに龍の姿は無く、かわりに、あたりにきらきらと光の塵のようなものが撒き散らされていた。
 蛇神の巨大な火球を受けた龍が、象を保っていられなくなったことを悟った。だが、消滅したわけではない。四散した青白い光がひとつに集まり、槐のほうに流れてきて、雪のように降りそそぐ。それを受けた太刀の刀身が、やがて青白い輝きを帯び始めた。
 それをしばらく眺めていた槐は、やがて悟った。
「……これを、やつのもとまで運べということか」
 太刀に宿った龍神の強い力を感じる。それは封印の力を為していた。
 あそこまで弱った蛇神であれば、これで十分に封印の効力を発揮出来るだろう。これを蛇神のどこかに突き立てさえすれば、それで終わる。
 もはや一太刀を繰り出す力すら残っていなかったが、これであれば成し得ることができそうだった。右腕の握力も既にまったく頼りなく、眷属に命じて衣の裾を細長く裂き、太刀の柄を握った拳ごと固く縛り上げる。
「最悪、腕一本になっても、太刀が蛇神に届けば良いわけだな」
 今までに比べれば、随分と難易度が低い。そう思ったとき、覚悟していた不可避の死とは別の未来がひらけたことに、思わず笑っていた。
「──それなら、意地でも生き延びようか」
 腕一本になっても、などという考えは持たない。なんとしても生き延びる。そして一度は諦めた、小夜香のもとへ帰る。
 少しもうまく動かない全身に鞭打って、槐はよろよろと立ち上がった。右手に括り付けた太刀は、静謐な青白さで輝いている。
 今この太刀に宿っている力を何と呼ぶべきなのか、槐にはよく分からない。祈りだとか願いだとか、おそらくそういった表現は出来るのだろう。
 そんなものが集まって、あの蛇神を封じる力となることが出来るのかと、驚く思いがある。それは、槐ひとりの力よりもよほど大きなものだ。
「面白い」
 心の浮き立つような、不思議と不快でない気分で、槐は蛇神に眼を向けた。こちらももうとっくに限界を超えているが、向こうもいい加減くたびれているだろう。
「そろそろ終わりにするぞ、蛇神。俺の力ではないことが口惜しいが」
 一歩を進めることすら困難で、滑空するために眷属の力を借りる。接近してゆくと、蛇神は断たれかけた骨の覗く首を恨めしげに巡らし、赤黒い眼を輝かせ、しゃああああと激しい威嚇の声を発した。
 蛇神のまわりには、砕け散った龍が破片になったような光がきらきらと浮いている。どうやらそれに遮られて、蛇神はうまく動けずにいるようだ。
 それでも、もがきながら牙を剥き、出鱈目のように火炎を吐き出してくる。槐はぎりぎりでそれらを回避しながら、蛇神を目がけて宙を翔けた。何かを考える余裕は持てない。今はただ、なんとか蛇神に届いて、最後の一撃を加えることだけだ。
 龍の光の拘束と、蛇神自身の攻撃の精度が下がっていることから、その身に届く道筋がようやく真っ直ぐに見えた。槐は息を止め、もう残っていない力を無理やり引きずり出して、迷わずその一点を突破した。
 蛇神の高くもたげた首を目の前に臨み、勢いと自身の体重を借りて、右腕に括りつけた太刀を、その眉間に突き立てる。太刀が青白い光をひときわ強く放射させた。瞬く間にそれは広がってゆき、光の膜で覆うように蛇神の巨大な全身を包んでゆく。
 網にでも捕われたように蛇神がもがき、暴れて、空気をびりびりと振動させるような恐ろしい声で叫んだ。だが光の膜は強固で、むしろさらに光を増して蛇神の姿を覆い隠してゆく。
 太刀を蛇神に突き立てたとき、槐は半ば以上意識を喪っていた。右手を固く太刀に括りつけてあるから、逃れることが出来ない。だがもう太刀を抜く力も残っていなかった。
 そのときまるで何かの力が働いたように、太刀の刀身にぴしりと罅が走って真っ二つに折れた。槐は半ば放り出されるように、空中に投げ出された。
 そこに、白い翼のかたちをした焔のようなものが、遠く離れた湖畔から空を翔けてきていた。それは落ちてゆく槐を受け止め、そのまま一目散に離脱する。
 遠ざかるその背後で、もはや青白い光の塊となった巨大な蛇が、叫ぶような咆哮をあげた。悲痛にも聞こえたそれを最後に、象全体が崩れて、地面にぽかりと空いている巨大な穴に引き込まれてゆく。やがてそれが見えなくなってしまうと、穴の中からごぼごぼと水が湧き始めた。
 まるで穴に落ちたすべてが還ってくるように、湧き上がってくる水はたちまち湖を満たしてゆく。やがて水位は普段と変わらない位置まで戻り、その頃には湖面もすっかり凪いで、美しい夜空と晴明な月を静かに映し出していた。
 ただ、やはり神島だけは、どこにも見えなかった。
 何事もなかったかのような静けさが戻ってくる。やがてそのあたりから、様々な美しい虫の声が響き始めた。


 槐は白い翼に載せられ、ほとんど朦朧としたまま、小夜香のいる湖畔に運ばれた。翼はぐったりした槐を地面に降ろすと、白焔を纏わせながらいくらか姿を変える。そこに顕われたのは、大きく真っ白な、琥珀の瞳を持つ美しい梟だった。
「槐!」
 小夜香がそこに駆け寄ってくる。その後ろには、いささか離れて、亜矢や真麻もいた。
 仄かに光る白い梟は、眼を開けない槐の鼻先を覗き込み、心配そうに嘴でつついた。小夜香たちも息をつめて、そのすぐ横で槐の様子を覗き込む。
 やがて槐の瞼が小さく震え、その眼が薄く開かれた。
「……ハク……?」
 槐に名を呼ばれた梟が、その頬に、自身のふわふわとした羽毛の頭をすり寄せる。槐はそれで意識が戻り、瞬いて、起き上がろうと身じろぎした。
「…………っぐ、……う、……」
 人目がある手前、なんとか声は抑えたが、それでも力無い呻きが洩れた。震えながらも、やっとのことで上体を起こす。誰かがいる場所で地べたに突っ伏していることなど、何がどうあっても矜恃が許さなかった。
 下手をしたら小夜香を傷つけてしまいそうな、右手に括り付けられた折れた太刀だけは、巻き付けた布を解いて外そうとする。その様子を見て、小夜香が穢れることもことも厭わず、布を解いてくれた。自由になった手をついて、ふらつく身体を支える。
「え、槐。槐。動かないで。すごく痛そう」
 それを見ながら、小夜香がおろおろと泣きそうな顔で訴えた。槐の身を支えようとする様子は見えるものの、あまりにも槐の惨状がひどく、どこをどう触って良いものかも分からないようだった。
「お、お医者さん……お医者さんを呼べばいいかな。槐、いいから動かないで。死んじゃうよ」
 小夜香の大きな瞳が、懸命に言いながらも、今にも泣き出してしまいそうだ。そこでやっと槐は、小夜香の素肌から残らず黒い蛇神の鱗が消えていることに気が付いた。
 思わず槐は頬を崩した。それはとても弱々しくはあったが、安堵に満ちた混じり気のないものだった。
「阿呆。人間の医者なんぞに、これが手に負えるか」
 やっと発した声は、我ながらひどいと思うほど掠れていたが、それでも精一杯の虚勢を張った。小夜香の大きな美しい瞳を、これ以上曇らせたくなかった。
 だが、それもすぐに限度がくる。こうしているうちにも、自身から流れ続けている血が、周囲の玉砂利を次第に濡らしてゆくのが分かる。
 既に視界もかすみかけていて、槐は手探りで、すぐ近くにいる小夜香の手を握った。その柔らかな手を痛めないための力加減すら必要がなかった。
「小夜香。必ず戻ってくる。だから、待っていろ」
 息継ぎをしながら、やっと言った。小夜香は、槐がもう本当に限界であることを理解しているのだろう。槐のぼろぼろになって穢れきった手を、その白く小さな手が、精一杯のように握り返した。
「うん。うん、槐。大丈夫。待ってる。待ってるから、安心して」
 その懸命な声が涙声になる。槐は己の不甲斐なさが悔しく、苦笑いした。
 今、小夜香を抱き締めてやれたらいいのに。だがもう、本当に、指一本すら動かせない。
「──白。俺を連れてゆけ」
 命じると、白い梟が槐の上にふわりと舞い上がり、白い翼を大きく拡げて包んだ。白を戦線から離脱させて小夜香につける選択をしたのは、正しかったようだ。他の眷属たちは、大幅に数を減らした上に、残っているものも軒並み槐同様にぼろぼろだった。
 白い大きな梟の翼が、槐を護るように包みこみ、そのまま異界へと連れてゆく。そのときにはもう、槐は完全に意識を喪ってしまっていた。


 白い翼の形をした焔につつまれたかと思うと、槐の姿は、霞のように消えてしまっていた。あとには血塗れの折れた太刀と、赤く濡れた玉砂利が、月明かりに光っているばかりだった。
 嘘のように、あたりも静かだ。いつもの夜と何も変わらない。小さな波を寄せる静かな湖面が、優しい水音を奏でている。
 小夜香は立ち上がって、怪我をしないように慎重に、槐の残していった太刀を拾い上げた。太刀など初めて持ったが、それは半ばから折れていても尚驚くほど、ずしりと重かった。
 太刀に絡む血で汚れることも構わず、胸の前で抱くように持つ。そうしながら、満月より少しだけ欠けた月が映り込んでいる湖を眺めた。
 いつもと何も変わらない風景の中、当たり前に見慣れていた神島だけが無い。
 見ているうちに、黒い瞳に涙が生まれて、頬にこぼれ落ちた。
「秋人兄様……」
 この眼で見たわけではないが、神島と共に、秋人がもうこの世のどこにも居なくなってしまったことは分かっていた。今あたりを見回しても、やはり、生身の者たち以外の姿も気配も無い。さっき確かに感じたと思ったものは、全部幻か、夢だったのではないかとも思う。
 でも、そうではないと否定する。秋人も小夜音も、あのとき、確かに此処にいてくれた。未熟な小夜香を助けるために、彼岸と此岸のあわいを抜けて、確かに逢いに来てくれた。
「兄様……姉様……」
 ひくっとしゃくりあげたら、もう止めることができなかった。手で押さえても、次々に溢れてくる涙には何の役にも立たない。
 波打ち際にくずおれて、脚を濡らす冷たい水に構わず、小夜香は声を憚ることなく泣き始めた。そうしながら、こんなふうに子どものように泣くことは、もうこれで最後だと思った。
 この後からは、もう泣かないで頑張るから。大好きで大切なひとたちがみんな居なくなってしまったけれど、でも自分はここに生きていて、守るもの、やるべきことがある。だからちゃんと頑張るけれど、今は泣くことを許してほしい。
 ぼたぼたと次々にこぼれ落ちる涙が、胸に抱えた太刀を濡らし、下まで落ちて、寄せては返す透明な水に融けてゆく。
 泣きじゃくっている小夜香を、亜矢と真麻は少し離れてた場所で、心配げに見守っていた。長い時間をかけ、やっと泣き声がおさまってきた頃に、二人は子どものように小柄な巫覡にそっと歩み寄っていった。
 まだ完全には泣き止むことができない小さな姿が、優しく付き添われて社殿へと戻ってゆく姿を、ただ湖面に映る星月が、静かに照らし出していた。


 翌日。明るくなってから、人々はあらためて昨夜に何が起きたのかを語り合い、あたりの様子を調べてまわった。湖の水は普段と変わらず穏やかに澄んでおり、銀色の魚がその尾をひるがえしながら泳いでいるのが確認された。
 昨夜の騒動のあと、姿を消してしまったのは二人。龍神の守り人である秋人と、あの奇妙な軽業師だ。蛇神と闘っていた白い鬼がその者であったことを、今や誰も疑っていなかった。
 昨夜いったい何があったのか、人々は結局よく分からないままだった。だが突然に湖が干上がり、この世のものではない恐ろしく巨大な双頭の蛇が顕われたこと、白い鬼が瀕死になりながらそれと闘っていたことは、事実としてその眼で見ていた。そして龍神の巫覡が喚んだ、青白く輝く星霜の龍の姿もまた。
 いったい何があったのか。その真相は、小夜香は黙して語らなかった。黒く毅然とした瞳は、人々を見据えて、ただ「襲ってきた恐ろしい蛇の化け物を、あの槐という白い鬼と、それから龍神様が討ち祓い、護ってくれたのだ」とだけ語った。
 ──そしていつしか時を経るうちに、顕われた蛇については、誰からともなく、まことしやかに人々の間で「夜刀神」と呼ばれるようになる。


 あともう一人。あの騒動の後、夜が明けてからもしばらく発見されなかった者がいる。里長の一人息子だった。その姿がどこにもないことにやがて気が付くと、人々は騒然となった。
 人々は総出で、颯介の姿を求め、あたりを捜し回った。やがてその姿は、里からは正反対の湖畔、そこに広がる森を少し入ったあたりで発見された。
「颯介様。颯介様!」
「ああ、良かった。息がある。颯介様!」
 あたりの草木は、まるで恐ろしい威力の暴風にでも薙がれたように倒れている。その中にまぎれるように倒れていた颯介の姿も、傷だらけになっていた。
「う……」
 肩を揺すられると、颯介は呻きながら眼を開けた。衣があちらこちら破け、いたるところに痛々しい傷が出来て出血していたが、腕や脚の形が大きく歪んでいる様子は無かった。
「おいたわしい。大丈夫ですか、颯介様」
「……なんだ、これ。おまえたち、どうしたんだ。何があった……?」
 人々が心配そうに取り囲む中、颯介はぎこちなく起き上がる。皆に視線を巡らせたその左半面が、髪の生え際も巻き込んで、大きく引き裂かれて真っ赤に濡れていた。その血は眼の中まで赤く染めている。
 痛みを感じていないのか、颯介はぼんやりと人々を見返していたが、視界がやけに赤いことに気が付いたのか、何気なく左手を持ち上げて目許にふれようとした。
 その左手も、上腕から甲にかけて、大きく無惨な傷が走っていた。そして小指と薬指が、その傷を負ったときに巻き込まれたものか、無惨にもがれて無くなっていた。

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