桜花舞いて廻り来る

栞をはさむ

 頬の近くを横切った花びらに、文机に向かって書き物をしていた長は、ふと面を上げた。
 何処からともなく花の香が漂う、眠たくなるような春の宵。少し朧な白い月の見える、開け放たれたままの半蔀から、誘われるように桜の花びらが舞い込んでくる。それは時ならぬ雪のように、はらりはらりと舞い、音も無く床に落ちて重なってゆく。
 目許に一筋だけあかい刺青の刺された金の瞳が、それをしばらく眺め、僅かに身の重心をずらして力を抜いた。ほうと、あえかな息を吐く。関節の目立たないなよやかな白い指が、かたりと筆を置いた。
「良い風情ですねぇ……」
 四季折々に美しい終の涯だが、冬の間は固く閉じていた蕾がほどかれ、一斉に花々が咲き乱れる春は、中でもとりわけうららかに煌めくようだ。その頃に終の涯を訪れたものたちは皆、口を揃えて「桃源郷のようだ」と褒め称える。
 数えることも無意味な程の遠い昔に、無数の異界の漂う狭間に「この地」を創った長──そのときはまだ「長」ではなかったが──は、その後永い時間をかけてこの地を拓き、ひとつずつ整え、やがて芳しい四季のあふれるようになった中に、ひとつの街を造った。そこでは一切の争い事は禁止された。来るものは拒まず、去る者は追わず。ただのんびりと、心ゆくままに美しく溢れる季節と安寧とを嗜むために存在するそこは、「終の涯」という呼び名が示すように、一切ののりから切り離された、まるで最果ての楽土さながらだった。
 半蔀からひらひらと舞い込む花びらの一枚が、夜風に煽られて、部屋の少し奥まで入り込んだ。風に遊ぶ花びらが、文机に向かっていた長の月白げっぱくの裾や、腰あたりまで流れ落ちる美事な黒髪に、ふわりとからむ。
 広大な最玉楼の敷地の中でも、長が普段住まうこの小さな寝殿造りの館は、特に静かな一角にあった。やわらかな春宵の空気に、長が眠気を覚えて、そのまま脇息に凭れて白い瞼を閉じたときのことだった。
 ──どん! と、部屋の奥まった方から音がした。
 やにわに夜気を震わせて響いたその音に、おや、と長は少々眠たげに首を持ち上げる。音がしたのは、広廂へ続く分厚い遣り戸のあたり。外側から、まるで誰かが強く板戸を叩いたようだった。
 音がしたときには、長はもう、板戸の向こうに生じた気配を読み解いていた。それは昔から馴染みのある、とある白い夜叉の気配だった。だが少々、様子がおかしい。
「やれやれ。また何か、あの無鉄砲はしでかしましたか」
 さらりと衣擦れの音を連れて、長は立ち上がった。羽織った淡い鴇色の長着ながぎを軽く整えながら、音がした板戸まで足を運ぶ。
 板戸は強い音を一度立てただけで、その後は微動だにしていない。長が細い指をかざすと、ひとりでに分厚い戸が開いた。風に流されて桜吹雪がぶわっと舞い込み、雪のようにあたりで躍った。
 板戸を開いた先で目にしたものに、長は切れ長の瞳を瞬いた。次いで、柔らかく笑みほどける。
「──これは、ハクではないですか。暫くですね」
 板戸から続く広廂にいたのは、一匹の大きな梟だった。新雪の如く真っ白なそれは、琥珀色の瞳で長を見上げて、くう、と頼りなげに喉の奥で鳴いた。
 その向こうに倒れているものに、長は目を向けた。
「おやまあ。これはこれは」
 さらさらと衣の裾を引きながら、長はそこにいるもの──見るからに手ひどく傷ついた夜叉のもとに足を運んだ。その傍らに膝を落とす。
「また、どこぞの神と喧嘩でもしてきたのですか、おまえは。いつものことではありますが、本当に懲りないですねぇ」
 おっとりと声をかけた。その夜叉の名を、槐という。血気盛んな一族である夜叉らしく、槐は昔から、長の知らない何処かでしょっちゅう怪我をして、その治癒を求めて転がり込んでくることがよくあった。
 また今日もそんなことかと思いつつ、しかしじきに、長は僅かに眉を顰めた。
「……これはまた。随分とひどいありさまですね」
 そこに倒れたまま、槐はぴくりとも動かない。瞼が揺れる気配すらなく、完全に意識が落ちていた。呼吸も極めて弱い。その様子だけでも、この大層強情で気位の高い夜叉にして、前代未聞の異常事態だった。
 これまでも槐は、何度も負傷して長のもとを訪れているが、どれほどの深手であろうと、必ず自身の足で立っていた。それが今は、長の声にも何の反応も示さない。その意識は、非常に深い処まで沈み込んでしまっている。
 ついと、長は金色の瞳を槐の全体に辿らせた。いったい何処で何をしてきたらこうなるのやら、というほど、その全身は無惨な傷だらけだ。本来は雪のように白い髪も、白い狩衣も、全身がその身から流れ出した血と、ぞっとするような黒い死穢に塗れている。
 目を覆うような、とは、まさにこのことだった。何よりも、槐の芯を犯すように絡みついているひどく禍々しいものの気配に、長は眼を眇めた。
「──どうやら、本当に何処ぞの禍神まがつかみと喧嘩をしてきたようですね、おまえは。無茶をする」
 こちらをじっと見上げている賢そうな白い梟に、長はふとやわらいだ眼差しを向けた。
「おまえがこの莫迦を連れてきてくれたのですね。ご苦労でした。まったく、おまえにそんな心配をかけて、槐もなっていませんね」
 長は立ち上がると、あたりに視線を巡らせ、穏やかだがよく通る声で「誰か」と呼ばわった
 近くにいた側仕えが、すぐに「何でしょう、長様」と姿を現わす。それに長は続けて言った。
「この夜叉の部屋を用意してやりなさい。少し長めの滞在になるでしょうから、なるべく日当たりが良くて、眺めの良い部屋をね」


 長は大抵のことなら見通せる、千里眼といってもよい力を持ち合わせてはいるが、それは意図せず情報が流れ込んでくることもあれば、そうでないこともある。このとき長は、槐がおそらく何か相当に質の悪いものと闘ってきたのであろうことは察したが、それ以上は探らないでおいた。
 この傲岸不遜で、恐ろしく強い矜恃を持つ夜叉は、数多の力ある妖達が敬意を払う終の涯の長にすら、決して頭を垂れることがない。意識を保っていられない状態のところに、その心や、魂の奥に探りを入れられることは、この夜叉にとって堪え難い屈辱だろう。
 最玉楼の上の方にある、風通しの良い客室のひとつに、槐は横たえられた。今は紙燭ひとつ程度に、灯りは抑えられている。
 槐は全身を浄められ、その身から一通り死穢も落とされていたが、相変わらず意識は戻らず、容態は決して良くは無かった。
 出来る治癒から始めながら、あらためて看てやると、その均整の取れた全身は、傷が無いところを探すことの方が困難だった。外傷も酷いが、あちらこちらで骨や内臓も傷んでいる。とくに左脚は、焦げたか溶けたかしたようにほとんど原型を留めておらず、左腕は全体が捻られたようになっていて、今にもちぎれそうだった。腹にも背から貫通したような大きな孔が空き、背骨こそぎりぎりで持ちこたえているが、肋を削って肺の方まで抉られていた。よくよく見れば、その身に宿る命の珠も、明らかにいくらか消耗している。
 しかもそれらの傷のどれもが、ただの傷ではなく、生命力を削るおぞましい死穢に侵されていた。ふれるだけで生身を浸蝕し、壊死させてゆく黒い死の穢れは、本来は黄泉の国に属するものだ。それに憑かれれば、生身のものはただではすまない。
「よくもまあ、こんな状態で動くことができたものですねぇ」
 素直に、長は舌を巻いた。よくも死なずにここまで辿り着いたものだ。命さえ灯っていれば長は救うことができるが、死んでしまえばさすがにどうしようもない。ぎりぎりで踏みとどまったのは、槐の持ち前の生命力と、何よりも死を拒絶する強い意思力の賜物だろう。
 死穢に穢された全身は、長の治癒をすぐには受け付けなかった。強引に傷を癒やしたところで、たちどころにまた死穢が浸蝕してしまう。それでも長であれば押し切ることはできたが、治したそばから傷つけられることを繰り返すようなそれは、ただでさえ著しく消耗した槐には負担が大きいだろう。
「まずはこの死穢を完全に除かなければなりませんねえ。手のかかること」
 少なくとも死穢が完全に抜けるまで、長は槐を眠らせておくことにした。どうせこの男のことだから、目が覚めて少しでも動けるようになっていれば、完治していなくても動き出そうとするだろう。だが死の穢れに憑かれた状態は、普通の負傷状態とはわけが違う。完全に抜かなければ、すぐにまた穢れはぶり返し、その生命力を根本から蝕んでゆく。
 まったく、つくづくどこで何をしてきたものやらと思う。夜叉一族が種として闘いを嗜み、それこそ命と命の遣り取りをことのほか好むことは知っているが、ものには限度というものがある。その「ものには限度」をしばしば越えてしまう者も、夜叉には少なくはない。槐にはとくにその傾向が強く、昔からそれを長は危ぶんでいた。
「おまえが死ぬのは勝手ですし、止めもしません。ですが、私がそれを快く思うかは別なのですよ」
 面と向かってはあまり言ってやらないことを、横たわった槐に向かい、長は口にした。思っていることを隠すつもりはないが、言っても無駄なこと、必要のないことまでを口にすることは、普段はしない。だがむしろ「聞く者がいない」ことこそが、このときにはつい、長に本音をぼやかせた。
 と、その傍らで、ふいに白梟──槐の眷属である白が、一声鳴いて羽根を拡げた。舞い上がるでもなく、その場でバタバタと羽根を拡げ、畳の上で跳ね始める。長が目を向けると、白い梟は、まるで抗議するように、長を見上げながら白い翼を打ち鳴らした。
 その様子を見て、長はふと、目許をやわらげた。
「分かっていますよ、白。この男は本当に無鉄砲で莫迦ですが、意味の無い闘いはしない。この男なりに、何かわけがあったんでしょう」
 それを聞いて、白が羽根を鳴らすのをやめる。白い翼をたたみ、それでもまだもの言いたげにしている賢そうな琥珀の瞳に、長は慈しむ眼差しを向けた。
「おまえは偉いですね。本当は、さぞかし槐のところに駆け付けて、助けてやりたかったでしょう。でも、それをおまえがこらえたから、こうして槐は助かったのです。おまえのおかげです。本当に、よくやってくれました」
 長の優しい手が、白い梟のふかふかした頭を撫でる。白は嘴の先でそれを軽くつつき、甘えるように頭をすりつけた。
 長の瞳が、愛おしむように、いっそう柔らかく微笑んだ。
「槐は果報者ですね。まあ、しばらくは大人しくしていてもらいましょう。おまえ以外の眷属たちも、随分くたびれているようですから、皆で羽根を休めておいきなさい」
 そのままの眼差しを、長は完全に意識の無い槐に巡らせた。やや苦笑するように。
「説教は、目が覚めるまで預けておいてやります。──おまえも、今は休みなさい。よく生きて帰りましたね、槐」
 長の横で、白が一度だけばさりと羽ばたき、くう、と槐を見ながら鳴いた。その頭を、長はもう一度撫でてやる。
 開け放たれた障子の向こうでは、白い月が、その様子を伺うように、あるいは見守るように、柔らかな光を放っていた。


(了)

栞をはさむ