Farasha (4)

 暗い窓は、風に煽られた水滴が硝子に当たる、ほんの微かな音を室内に這わせていた。
 書斎として使っている部屋の中、木製のシンプルなデスクに向かって、慧生は何をするわけでもなく座り込んでいた。
 美玲羽の受賞を知るなり無言で立ち上がり、書斎にこもってしまった慧生に、アゲハは一度だけ心配そうに様子を伺いに来た。
 施錠していたわけではなかったが、アゲハはドアを開けようとはせず、ただ夕食をどうするかだけを訊ねた。慧生が無言でいると、それ以上声は掛からなかった。
 意図してアゲハを無視しようとしたわけではなかったが、身のまわりの出来事に対しての認識力、対応力が、甚だしく低下していた。
 室内灯は暗いまま、部屋の隅の間接照明だけが、淡く壁を照らし出している。遠い雨音だけが弱く響き、自分がこの部屋にこもってからどれくらいの時間が経ったのかも、慧生にはもうよく分からなかった。
 ……何がこんなにショックなんだろう?
 翡翠色の瞳をぼんやりと宙に向けたまま、慧生は漠然と考えていた。
 美玲羽の方が自分よりもよほど良い文章を書く、というのは、出会った頃から慧生自身も認めていた。聡明で明るく前向きな美玲羽。彼女は軽妙なコラムやエッセイを得意とし、少なくとも付き合い始めた当初は、彼女の常に新鮮な感性と文才に感嘆こそすれど、何ら負の感情など抱かなかった。
 その一方で、慧生は書いたものが売れるほど、次第に文章を書けなくなっていった。
 書いたものが評判になるほど「アイドル人気」を揶揄され、著作を叩かれるようになった。橘慧生の才能は新人賞で涸れただの、新人賞はともかく文学賞は完全にヤラセだの。悪いことに慧生で自身すら、どこかで実家の影響力を疑う思いを拭い切れなかった。
 思うように書けない不安と焦燥が積み重なり、さらに書けなくなってゆく、という悪循環を生んだ。それと闘いながら必死の思いで書いても、評論家や専門家達ばかりでなく、ネットでも叩かれる日々が続いた。慧生の文筆活動には、元々のネームバリューの大きさや「アイドル人気」をあげつらう声が、常についてまわった。
 そうするうち、純粋に書きたいから書いていたはずのものが、当たり前のように綴り続けていた言葉が、気が付いたら自分の中から何も無くなっていた。
 真っ白に何もない自分の中を見て、慧生は茫然とした。そのときには、既に「小説」と呼べるものは、断筆に近い状態になっていた。
 そうした中、好ましかったはずの美玲羽の伸びやかさと感性が、疎ましくなり始めていた。だがそれでもまだ、慧生の文章が好きだと言ってくれる美玲羽の言葉を嬉しく思うことができ、なんとか自分を取り繕っていることができた。
 それができなくなったのは、いつからだろうか。
「……ああ。そうだ」
 独り呟きながら、慧生は記憶の中にある光景を振り返る。
 ──自分を取り繕えなくなったのは、美玲羽が「小説」を書いて、慧生が通ったのと同じ新人賞に応募したと告白した、あのときだ。
『私ね。ずっと、小説家としての慧生にも憧れてたの。ずっと、慧生みたいに書いてみたかったんだ』
 美しい瞳を煌めかせながら、美玲羽はそう言った。
 だがそんな純粋な彼女を前に、慧生の胸をあのとき浸蝕してきたのは、裏切られたような強い衝撃と、おぞましくどす黒い感情だけだった。
 ──自分の領域を侵される。
 そんな思いと共に噴き上げてきた、浅ましく見苦しく醜いこの感情を、どう表現すればいいのだろう。恐怖、怒り、憎悪──嫉妬。
 自分は書けなくなってしまったのに。何も書けなくなってしまったのに、なんでのうのうと、そこに踏み込んでくる?
 無神経に奔放に伸び伸びと「小説」を書くことができる美玲羽が、おかしくなりそうなほど憎らしく嫉ましかった。息詰まるようなそれを自制しきれず、そのあたりから急速かつ劇的に、慧生と美玲羽の間には衝突と喧嘩が増えた。
 美玲羽の処女小説が、最終選考に残ったことを知ったのが一ヶ月前。
 それを知ってから、慧生は耐え切れず美玲羽を突き放した。最低だと自覚し、この感情が醜悪で救いのないものだと頭では分かっていたが、彼女の声が聞こえ姿が視界に入っていると、どうしても攻撃せずにいられなかった。せめてこれ以上彼女を傷つけないためには、そうする他になかった。
 慧生は焦りに追い立てられるまま、無理矢理に何か書いてみようとしたが、言葉が指をすり抜けるように何処かへ消えてゆき、何一つ文章が意味をなさなかった。それは慧生をいっそう追い詰め、身のまわりのことも手に付かなくなっていった。
 家の中も荒れるに任せ、鬱々と無為に日々を過ごし、そしてとうとう先日、「話がしたい」と家にやって来た美玲羽と、過去にないほど盛大な喧嘩をした。それっきり、美玲羽とはまったく接触していない。

「……カッコわる」
 ふと、笑いが込み上げてきた。
 いい大人の男が、いったい何をやっているのだろう。書けなくなった、ではない。結局、自分が選んでそうしただけではないか。本当に書きたかったのならば、悪意と偏見に満ちたくだらない連中の戯言になど耳も貸さず、書き続ければよかったのに。
 空虚に歪んだ笑いが込み上げて、慧生は額を押え込むようにして低く笑い始めた。
 なんだかんだと言い訳をして、まるで被害者面をして、大事なものを守るための死に物狂いの努力もしなかった。そして順調に躍進してゆく美玲羽に難癖をつけて逆恨みをし、自分は何の努力もしていないくせに、羨んで嫉妬した。
 愛しい、と思ったはずの恋人さえ大事にしてやれない自分の情けなさに、醜悪さに、もう笑うしかない。
「何なんだよ、俺……」
 ​​​──分かっている。分かっている、分かっている。美玲羽は何も悪くない。ただ嫉ましいだけ、うらやましいだけだ。書きたい、と自由に真っ直ぐに思えることが。書く、ということを当たり前にできる彼女が。
 自分もかつては、息をするように、水を飲むように言葉を綴ることができた。なのに今は、何を書きたかったのかすら、もう分からない。それなのに未練がましく筆を折ることもできず、しがみつくように場当たり的な仕事で繋いでいる。
 ​​​けれど、このまま繋いでいったところで、この先に何があるのだろう。 
 もう自分には書けないのだ、と認めてしまえばいい。これ以上じたばたしても仕方がないだろう。まともに書けもしないくせに作家を名乗るだなんて、あまりにも惨めだ。「もう自分は駄目なのだ」と、いい加減に認めたらいい。
 慧生は深い翡翠色の瞳を見開くようにして、自分の裡から響いてくるその声を聴いていた。
 今まで決して耳を傾けまいとしてきた、耳をふさいできた、その声だった。だが、もうごまかしきれなかった。
「……ッ……!」
 激痛と共に、胸を見えない刃に貫かれたような錯覚があった。一瞬呼吸がひきつったときには、慧生は弾かれたように立ち上がっていた。
 何も考えないまま、デスクの上に置いてあったノートパソコンを開くと、振りかぶって床に叩き付けた。軽くて薄いそれは、けたたましい音を立てて固い床に跳ね、あっさりと接続部分や画面が割れ砕けた。
 続けて引き出しを開け、そこにケースに入れて整然と収められていた原稿用紙の束を取り出した。大学生の頃に書いた、新人賞作品の下書き。「今時原稿用紙か」と周囲にはからかわれた、けれど紙面に使い慣れた万年筆を滑らせる音と感触が好きで、あえて下書きだけは手書きした原稿。
 万年筆の黒インクや、赤や青の文字で手直しや校正をぎっしりと加えられたこの原稿には、不器用ながら純粋にのびのびと、ただ自由に思うまま言葉を書き綴っていた頃の、煌めくような美しい夢と憧れが、歓びが凝縮されている。
 自分の中の不可侵領域そのものだった原稿用紙を鷲づかみにし、強く手に力を込めたとき、ドアが開いて白い姿が部屋に飛び込んできた。

「慧生さん!」
 音を聞きつけてとんできたのだろうか。いや、それにしてはやけに早かったから、ひょっとしたらずっと部屋の前にいたのかもしれない。
 何にせよ飛び込んできたアゲハを、慧生は見向きもしなかった。
 数枚鷲づかみにした原稿用紙を、力任せに引き裂く。無理矢理に加えられた力は、原稿ばかりでなく、それをつかんだ慧生の指や掌も傷つけた。
 それにも構わず、さらに原稿を引き裂こうとした手を、飛びつくように駆け寄ってきたアゲハの白い手が、強く掴んで止めた。
「駄目です! 大事な……大事なものでしょうっ?」
「……放せ」
 喉が妙にからんで、やっと出た声はしゃがれていた。
 慧生の腕にしがみついたアゲハが、ぶんぶんと頭を振った。
「放しません。駄目です、慧生さん」
 白い指がぎゅうと慧生の手と指を掴み、必死に原稿用紙を守ろうとする。白い指が無理矢理開こうとする慧生の掌から、鷲づかみにされてひしゃげ、破れかけた原稿が、ばさばさと床に落ちた。

 ここしばらくの不摂生もたたり、慧生は不意に眩暈に襲われて、足元をよろめかせた。
 ふらついた慧生を、アゲハが支えようとする。しかし大人と子供のような体格差は大きく、結局アゲハも一緒に床の上に座り込んでしまった。
 慧生の張り詰めて雪崩となりかけた衝動は、完全に崩れるその寸前で、かろうじで食い止められていた。だがアゲハが飛び込んでこなければ決壊していただろう感情の渦は、それを否応なく正視してしまった慧生の精神を、これ以上にないほど打ちのめしていた。
「……あ……」
 慧生はデスクに凭れて座り込んだまま立ち上がれず、小刻みに震える掌で顔を覆った。
 動けない。何も言葉が、声すら出て来ない。
 長いことそうして、慧生は顔を覆っていた。遠い雨の音だけが響き、その間アゲハもまた、黙って動かなかった。
「……慧生さん」
 かなりの時間が経過した後、アゲハが遠慮がちに様子を伺うように、口を開いた。
「少し早いけど、今夜はもう休みませんか。おやすみ前に、何か温かいものを入れてきますから」
 顔を覆ったまま、慧生は震える唇を噛み、ただ首を振った。
 拒否や拒絶がしたかったわけではない。ただもう頭がうまく働かず、感情も何もかも焼き切れてしまったように、五感が上滑りしていた。
 手探りで闇雲にもがいているような、確かに息は吸えるのに呼吸ができないような感覚。理屈や理性が押し潰されて、形を為さなくなったその下から、やがて途方に暮れた声が零れた。
「……よ」
「え?」
 アゲハが虹色がかった赤い瞳で、慧生の顔を覗き込んだ。
 慧生はますます強く、掌で目元を押さえ込んだ。すべてから逃れて目をそむけたかった。
「……書けないんだよ。なんで、こんなことになったんだよ。俺は、書きたいんだ……なのに、なんで」
「慧生さん」
 アゲハが小さく息を飲み、支えるというよりもすがりつくように、慧生の腕にふれてきた。
 それに気付くこともできないまま、慧生は喉を引きつらせた。
「何もない。俺の中にはもう何も……もう、書けない」
 不安定になった慧生の呼吸音だけが、空気を震わせた。
 顔を覆ってうつむいたまま慧生は動かず、しばらくの時が過ぎた後に、アゲハの白い手がそろりと動いた。
 慧生の乾いた頬に、アゲハの細い指がそっと伸びる。血の通う人間と少しも変わりはしない体温と、柔らかさを持った指。
 それが慧生の乱れた前髪を優しく撫で、そして身を乗り出すようにして、柔らかな唇が慧生の頬にふれた。
 その感触に、慧生は不意を突かれて目を瞬いた。
 優しい仕種のもたらした小さな刺激が、濁流と化した感情に押し流されるままになっていた意識を、微かな雨音の聞こえる静かな部屋に引き戻す。
 夢からさめたように瞬いた慧生に、アゲハは小さく微笑んだ。どこかしら泣きそうにも見える表情で。
「ごめんなさい……僕はこうすることでしか、自分を表現することを知りません」
 虹色を弾く透明な真紅の瞳。世界の中でそれだけしか見ていないように慧生の姿を映し出し、アゲハが細い声で呟いた。
 その華奢な指が慧生の頬に伸び、もう一度そっと、頬にキスをする。
 振り払う気にはなれない、柔らかさとあたたかさだった。ひたむきに慕う気持ちが伝わってくる仕種と、慧生よりもずっと小柄な身体。アンドロイドだとはとても思えないぬくもりと、繊細な感触。
 思考力がどこかで麻痺してしまったままの慧生の手に、アゲハが指を重ねてきた。アゲハの首元で、銀色のタグプレートが重力に引かれてしゃらりと揺れ、照明の弱い光を柔らかく反射した。
 強引に原稿を破いたせいで、いくらか傷ついてしまっている慧生の手を、アゲハは大切そうに持ち上げる。そして愛しそうに、壊れ物を扱うように、その手の甲に唇を当てた。そのぬくもりと感触は、沁みるようにひどく心地良かった。
「……あなたの書いた『氷焔』を読みました」
 不意に言ったアゲハに、慧生は軽く目を瞠った。
「​​​え?」
 それは慧生が書いた、文学賞を取りそれによって世に知られるようになった、小説の題名だった。
 慧生にとって思いがけない言葉だったことを理解しているように、アゲハは小さく肩をすくめて笑った。顔立ちは幼いほどなのに、その微笑は驚くほど大人びていた。
「アンドロイドでも本を読むし、映画だって見るんですよ?」
「……ああ」
 知能も学習能力も、むしろなまじな人間より高度である彼らならばそれも当然なのかと、慧生は曖昧に思いながら返事をした。
 まだ鈍いながらも、慧生から反応と声が返ったことが嬉しかったのか、アゲハがこぼれるような微笑を浮かべた。小さなその手が、無意識のように、けれどひどく優しく、重ねた慧生の手を包む。
「僕は、自分のことがよく分かりません」
 アゲハがゆっくりと言葉を続けた。まるで子守唄のように静かな、まだ幼さを残す声で。
「ここにこうしていて、喋って、ものを考えている自分のことが。僕はしょせん機械で、感情も何もかも擬似的なプログラムでしかないのなら、こうしてものを感じている僕は、いったい何なんだろうって。僕の感じていることは……感情は、本物なんだろうかって」
 窓を叩く遠い雨音だけが聞こえる空気の中を、アゲハの柔らかな声が伝ってゆく。
「目を覚ましたときから、僕のマスターはあなただ、と決められていました。自分を認識するのと同時に、僕はあなたのことを既に知っていた。でも僕は、あなたのことが何も分からなかった。あなたを知ってはいたけれど、そこにいたあなたはデータでしかなかったから。鷹司先生にそう言ったら、先生がくれたんです。あなたの書いた本を」
 慧生を見上げたアゲハの赤い瞳の中に、滲むような光が揺れる。愛しくひどく大事なものを抱き締めているような、切ない微笑み。
「あなたの書いた本を読んで……この人の見ている世界は、なんて残酷で儚くて、切なくて……綺麗なんだろうと思いました。それで……この人の傍で、この人と同じ目線で、同じ世界を見てみたいと思いました」
 静かに語るアゲハの声音に、ひそやかな熱が灯る。赤い瞳に宿る光が揺れ、いっそう強く滲む。
「慧生さん。あなたの言葉だけが……あなただけが、僕の中に鮮やかに届いてきたんです。眩しい光みたいに、何の色もない僕の世界に差してきた。あなただけが、僕にとって『本物』なんです。僕は……自分のことすら、本物なのか分からないけれど……」
 殊更のように柔らかな声音で慧生に語りかけていたアゲハの言葉が、そこでいったん途切れた。
「……僕はずっと、あなたに会いたかった」
 吐息のような声でそう呟いたとき、アゲハの唇が震えた。きゅっと、慧生の手に重ねた白い手に力がこもった。
「あの本を読んでから、あなたに会えるのをずっと楽しみにしていました。あなたといれば、僕も『本物』になれる気がして……機械のくせにこんなふうに思うのはおかしいんだろうし、あなたに何かを求めているわけでもありません。こんなのは僕の勝手な思い込みです。でも、あなたの中にある世界に、あなた自身にふれてみたかった。ずっとずっと、あなたに憧れていました。慧生さん」
 アゲハはうつむき、顔を上げないまま、大きく息を吸い込む。そうしてやっとのように吐き出された声は、今にも消え入りそうに震えていた。
「好きなんです……あなたが好きなんです。慧生さん。……あなたが好きです」
「……アゲハ」
 慧生は白い姿を見返して、思わずその名を呼んでいた。
 アゲハの極上の絹糸より柔らかくふわりとした、夢のような虹色を帯びた白銀の髪。うつむいたままの頬にその髪がかかって、表情がよく見えない。
 アゲハが小さく息を飲んだように見えたが、やはり顔を伏せたままだった。少しの沈黙を挟んで、細い声が続けた。
「……どうか、書けないなんて言ってしまわないで下さい。あなたがあなたである限り、書けないなんてことはありません。時間がかかってもいいんです。僕は、あなたの見ている世界を、あなたが言葉にする世界を、この先も見てみたいです」
 さっきまではあれほど真っ直ぐに慧生を見上げていた瞳を、今は頑ななまでに上げようとはしないまま、アゲハはきゅうっともう一度、先程よりも強く慧生の手を握り締めた。それからゆっくりと手を離し、自分の膝の上で白い指を握り込む。
「ごめんなさい……いきなりこんな、一方的なことばかり言って。だいたい、ただでさえ大変なときに突然僕がやって来て、慧生さんが困惑するのなんて当たり前ですよね」
 ぎこちなく笑う口許だけが見えた。アゲハはいったん呼吸を詰め、小さく唇を噛んで、何かを思い切るように続けた。
「あなたが望まないなら、僕はこれ以上あなたにふれません。あなたの邪魔はしません。だから、どうか……お願いします。どうか僕を、ここに……このまま、あなたの傍に居させてください」
「​​​──アゲハ」
 何と言ったらいいのか、慧生には分からなかった。
 慧生自身も思考能力がすり切れてしまったようで、けれどそこにふわりとふれてくるアゲハの感触と言葉が、ひきつれて何もない心の奥に染み込んで来る。果てしなく暗く荒れ狂う嵐の海のようだった胸を、アゲハの存在が柔らかく鎮めてゆくのが分かる。
 アゲハはうつむいたまま、まるで慧生からの裁きを待つように、呼吸すら殺すように、じっと動かない。
 それこそ人形になってしまったように動かないアゲハに、慧生はつと腕を持ち上げ、うつむいたままの頬に手を伸ばした。
 白銀の髪の下に隠れたきりの頬に指先がふれ、あたたかい水滴が濡らした。
 アゲハがせわしなく瞬きをしながら、小さく顔を持ち上げた。綺麗な赤い瞳も白い頬も、その瞳からあふれて零れ落ちる涙に濡れていた。

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