一週間後に咲く花へ (2)

栞をはさむ

 慧生はどうにか苦心の末に入稿を終えると気が抜けたようで、空気が目に見えて和らいだ。
 仕事を終えて気が緩んだ今夜なら、いつもよりもうちょっと食べてくれるかもしれない。今日は鶏肉があるから、バジルをきかせた塩焼きにして、豆腐にルッコラとトマトを添えた和風サラダと……と、冷蔵庫の中身を確認しながら、アゲハはざっと献立を考えた。
 あまり食欲がないという慧生のために、アゲハはできるだけ食べやすくてエネルギーを摂りやすい食事を用意する。全てにおいてそうであるが、アゲハは「知識」だけはあっても実経験がないから、特に「食事」というナマモノの扱いは、なかなか思案するところだった。
 数日前に試してみた生姜と揚げを入れて炊いたごはんを、どうやら慧生は気に入ってくれたようだったから、今夜もそれにしてみようと思った。炭水化物は、元気がないときほどとても大事なのだ。
「あ」
 キッチンの戸棚をあけたアゲハは、あまりもう中身が残っていないオリーブオイルの瓶に気が付いた。
「しまった……買ってくるの忘れちゃったな」
 予備知識だけはあるアゲハだが、慣れない見知らぬ「人間の街」で慣れない「買い物」をするだけでも、まだけっこうな冒険だ。特に先日は、締め切りが差し迫っていた慧生を付き添わせるわけにいかず、初めて一人で買い物に出た。お店であたふたしているうちに、買わなければと思っていたのを、すっかり忘れてしまっていた。
 まだ夕食には間があるし、オリーブオイルなんてどうせ普段から使うものだから、買ってきておこうかな。
 ざっと下ごしらえをして、炊きあがるまでに時間のかかる生姜ごはんも炊飯器にセットしてから、アゲハは外に出ることにした。
「慧生さん。僕、ちょっとお買い物にいってきます」
 アゲハはエプロンを外しながら、ソファに凭れてぼうっとしていた慧生に告げた。それを聞いて「俺も一緒に」と、慧生が立ち上がりかけた。
 疲れているだろうに、さり気なく慧生が「人の街にまだ慣れていない」ことを気遣ってくれているのが分かり、あぁこの人のこういうところがやっぱり好きだなと、アゲハは微笑した。
「僕ひとりでいってきます。すぐそこだし、慣れてきたから大丈夫ですよ。慧生さんは、ゆっくりおやすみしていて下さい」
「……ああ、うん。じゃあ、頼む」
 慧生はさすがに億劫ではあったのか、すんなりと頷いてアゲハを送り出した。
 たったのこれだけでも役に立てることが嬉しくて、アゲハは慧生に買ってもらって間もないまだ真新しいスニーカーを履き、いそいそとマンションを出て行った。

 この街はある有名大学の最寄り駅にもなっているせいか、若者が多くて通りも賑やかだ。
 慧生のマンションからは、ショッピングモールや駅、コンビニ、焼きたてパン屋にドラッグストア、飲食店やお役所や各種病院……等々、生活に必要なあらゆるものが、ほんの徒歩五分から十分圏内におさまっている。都心へのアクセスも良く、全体にお洒落で区画整備の行き届いた街には緑や公園も多く、賑やかなわりにごちゃついた感じはしない。夜になって店が閉まる頃になると、学生の姿も消えて、急に静かになる。
 人の社会を知らないアゲハながら、住み心地の良さそうな街である印象を受けた。
 慧生のマンションは一人住まいにしては広すぎたし、彼は「誰か」を迎えてここで暮らすことも視野に入れていたのかもしれないと、煉瓦を模したタイルで舗装された道を歩きながら考える。
 その「誰か」というのは、やはり慧生の大学時代からの恋人​​​──「日下くさか美玲羽みれは」だろうか。
 美玲羽は、アゲハにとっては映像や情報を通してしか知らない人物だ。
 画像や写真で見る限り、美玲羽は聡明そうに澄んだ瞳をした、綺麗で快活な女性だった。二人が付き合い始めた頃から知っている鷹司礼二曰く、当初はとにかく美玲羽の方が、慧生に対して積極的だったらしい。
「けどまあ、慧生もああいうガードが堅いというか、感情をあんまり表に出さない奴だからねえ。なんだかんだで、美玲羽ちゃんにべた惚れよ。たまに一緒に飲んで、酔わせてのろけさせるのが楽しかったなあ」
 礼二にも「美玲羽ちゃん」と呼ばれるほど、慧生とずっと一緒にいた女性。慧生の生み出す世界をアゲハと同じように愛し、そして先日は慧生を追いかけるように小説の新人賞を取った女性。そして、その出来事によって慧生の平常心を奪い、一度は「書く」ことを捨てさせるところだったひと。
「日下美玲羽」は、慧生にとって、特別な存在であることは間違いない。
 情報としてしか知らない「彼女」のことを考えながら、若者達の賑やかな声の流れてゆく歩道を、黙々とアゲハは歩いた。
 アゲハが慧生のもとを初めて訪れたとき、マンションはひどい有り様だった。慧生は食べるものもほとんど食べず、カフェインとアルコールばかりを摂っていた。身のまわりのことにも手が回らず、だいぶ以前に辞めたはずだった煙草の吸い殻が、灰皿に溢れかえっていた。
 慧生は本来真面目で几帳面で、自律に優れた人だ。あの荒れ果てた光景は、そこまで追い詰められてしまった、まさしく慧生の心象風景そのものだったのだろう。あのままだったら、遠からず慧生は倒れていたに違いない。

 考え事をしながら歩くうち、アゲハはショッピングモールに入った広大な食品売り場に着いていた。
 いったん頭を切り換え、案内表示を見つつうろうろし、品出しをしていた店員さんに親切に案内してもらって、ようやくオリーブオイルの並ぶ陳列棚に辿り着く。
 ずらりと何種類もあって困惑したが、できるだけ色が綺麗なグリーンのものが良い、と何かで読んだので、あれこれと悩んだ末に、オイルが一番澄んだ緑色をした瓶を手に取った。
 何度か慧生と一緒に買い物をしたし、先日は自分一人でも来たので、買い物の手順は分かっていた。ちらちらと周囲の視線を浴びつつレジ待ちの列に並び、「いらっしゃいま」と言いかけたところで動きが止まったレジのお姉さんに二度見された後、お会計をしてもらう。
 自分の容姿について、自由な格好をした若者の多い街とはいえそれでも目立つ方であること、まさしく「人形のように」綺麗であることをアゲハは自覚していたから、邪気のない顔でにこりと笑い、「ありがとうございました」とお礼を言ってからレジカウンターを離れた。
 慧生をわずらわせることなく、なんとか一人で買い物ができたことにほっとした。

 外に出ると、だいぶ風が冷たくなっていて、西の空が夕暮れの気配を帯び始めていた。
 煉瓦の舗道には、行きよりも人通りが増えている。皆、きっと帰り道なのだろう。
 マンションに向かって、行き交う人を避けて道の端っこを歩くうち、アゲハは再び「日下美玲羽」に頭を引き戻されてしまっていた。考えるまいとしても、どうしても思考が向いてしまう。
 ……慧生さんは、美玲羽さんのことがやっぱり好きなんだろうか。……好きなんだろうな。
 嫌えるのであれば、あれほど悩みはしないのだろう。羨望と不安、好意と嫉妬。大切な相手にさえ醜い感情を抱いてしまう、自分への嫌悪。それらに、慧生は何重にも縛られている。
 アゲハは直接には、日下美玲羽という女性のことを知らない。慧生の中にどんな苦悩が渦巻き堆積しているのかも、想像はできても本当のところは分からない。慧生もアゲハに対して、美玲羽のことを一切口に出さない。
 あの夜のことを思い出すと、アゲハの心と身体に、鈍い痛みともつかない、切なく甘いような震えが生じた。
 あの日慧生に抱き締めてもらって、キスをされて、涙が出るほど幸せで嬉しかったけれど。
 何故? と、強く思った。
 慧生は美玲羽がいるのに。あの夜どうして、自分にキスをしたのだろう。
 きゅっと、知らず握った白い手を、胸の上に押し当てていた。生身とそっくり同じような「鼓動」を刻む、胸の奥。慧生のことを考えていると、そこがぎゅっと締め付けられるようになって、喉の奥や指先が痺れるようになって、泣きたいほど甘くて幸せな気持ちになる。同時に、とても切なくて苦しくなる。
 あの夜、自分が慧生に言った言葉を、胸を刺すような痛みとともに思い出した。
『あなたが望まないなら、僕はこれ以上あなたにふれません。あなたの邪魔はしません。だから、どうか……お願いします。どうか僕を、ここに……このまま、あなたの傍に居させてください』
 あの言葉を言うのは、とても苦しくて、哀しくて。自分は「機械」なのに、胸が張り裂けそうだった。
 本当は、慧生にもっと近付きたい。データではない、生身の慧生のことをもっと知りたい。そして、慧生にもっとふれたくて……ふれてほしい。
「ふれてほしい」のところで、一瞬あの夜のことを思い出してしまったり、「それ以上」のことをうっかり想像してしまったりして、アゲハはぼっと真っ赤になった。「うわわわわっ」と慌ててそれらを振り払い、深呼吸して、ひとつこほんと咳払いをする。
 一週間前、ケースの中から目覚めたあのときは、平気でアゲハから慧生にふれていくことができたのに。なんだか日が経つにつれ、慧生のことを知ってゆくにつれて、慧生に対してどきどきする度合いが強まってゆくようだ。
 僕、どうしちゃったんだろう……。
 自分に困惑しつつも、どうにか冷静さを取り戻してから、アゲハはまた考え始めた。
 慧生にすれば、アゲハは「突然押しつけられたわけのわからないアンドロイド」にすぎない。そんなアゲハに、あの夜、あれ以上踏み込むことなんてできなかった。ましてそこに、彼を追い詰める「日下美玲羽」の存在を感じてしまったから。
 けれど、慧生はアゲハを遠ざけなかった。それどころか、翌朝には彼の嵌めていたとても綺麗なブレスレットをくれて、身の回りの世話をすることを受け入れてくれた。
 だから、少なくとも疎まれてはいないのだろう、とは思う。
 けれど慧生は「大人」だし、何より美玲羽がいる。アゲハは言うなれば極度の耳年増というやつだったので、「恋人同士」が「愛情を示す」ときに何をするのかとか、そういう行為についての知識だけは持っていた。
 いつの間にか立ち止まって、アゲハは考え込んでいた。
 ああいう「キス」とか「抱き締める」というのは、恋人同士でするものじゃなかったのかな。それとも、そうとも限らないのかしら。
「うーん……」
 慧生さんに、どうして僕にキスをしたの? と訊ねてみようか。とチラと思った途端、またしても、ぼぼっと耳まで真っ赤になった。
「いやいやいや無理だっ」
 そんなことを聞けるわけがない。あのときのことを思い出すだけで頭に血が昇ってしまうのに、とても平静に話せるわけがない。
 胸がどきどきして、一瞬で火照ってしまった頬を両手でぱたぱたと仰ぎ、ふう、とまたアゲハは大きく深呼吸した。
 ──これ以上は、贅沢だ。
 そう自分に言い聞かせる。
 そばに置いてくれただけでも、少なくとも嫌われてはいないだけでも、充分だと思わなきゃ。あんな状態のときにいきなり押しつけられたアゲハを、慧生は突き返すこともできたのに、そうしていない。それは、とてもありがたいことなのだ。
 これ以上を望んだら駄目だ。
 自分に言い聞かせながら、ちくりと、胸の奥に痛みが走った。
「……美玲羽さん。あなたは、ずるい」
 悔しいような哀しいような情けないような思いに、胸がざわついた。
 あなたは「人間」で「大人」で、「恋人」で。その上、「書く」という最も強固な絆で、慧生さんと繋がっている。
「僕には何もないのに。あなたはずるい、美玲羽さん……」
 慧生が自分に好意を持っていてくれたらいいとか、そんな図々しくてあさましい期待は、とても持てない。そもそも慧生は「機械相手」なんてありえない人なのだから。
 美玲羽がずるいだなんて、こんなのだってただの嫉妬で逆恨みだ。こんな感情はとても汚いものだと、自分でも思う。
 なのに、どうしても胸が苦しくて切なくて、涙が出そうになる。
「うー」
 脳裏に直接会ったこともない美玲羽の姿がちらついて、アゲハはごしごしっと目許をこすり、虹色を帯びた白銀の頭を振った。
「ダメだ。しっかりしなきゃ」
 慧生の前では笑っていたい。本当はこんな醜くて汚い、嫌なことを考えているだなんて、慧生に知られたくない。
「僕は、あの人を困らせるために来たんじゃない」
 それに、愛してもらうためでもない。僕は、あの人に尽くすために来たんだ。
 アゲハはひとつ大きく息をつくと、顎を持ち上げ、くっと唇の端を締めて、また歩き出した。
 じきに、そう離れてもいなかったマンションが見えてくる。
 歩きながら向けた視線の先に、──そのときアゲハは妙な人影を見つけた。

栞をはさむ