一週間後に咲く花へ (1)

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 アゲハが橘慧生のマンションを訪れてから、一週間が過ぎようとしていた。
 その間、抱えていたいくつかの原稿の締め切りが近かった慧生は、難しそうな顔でパソコンを睨み、溜め息を繰り返し、ほとんどそれにかかりきりだった。
 本調子でさえあれば、本来そこまで悩んだり時間のかかる仕事でもないのだろうけれど​​​──と、そんな慧生を見てアゲハは思う。
 アゲハにできることと言えば、できるだけ慧生の邪魔をしないこと。それから、少しでも慧生の生活環境を快適にすること。
 だからアゲハは、リビングのソファでパソコンと向き合っている慧生を、家事をしたりコーヒーを淹れたり食事を作ったりしながら、おとなしく眺めていた。

 主に看護シュミレーターや筋電義肢を製造しているアルファトリニティ社で、慧生の叔父に当たる人物である鷹司礼二の責任監督下において開発された「次世代型アンドロイド」のアゲハは、事前に「マスター」である慧生について、ある程度の情報をインプットされていた。
 大学時代に華々しく文壇デビューし、名のある文学賞まで受賞した慧生は、しかし徐々に深刻なスランプに陥り、ここ数年は長編の新刊をまったく出していなかった。
 とはいっても、鮮烈なデビュー作や、一躍ベストセラーとなった文学賞作品の長編小説を始め、作品数こそ多くないものの、慧生の著作はコンスタントに売れ続けている。
 繊細で情緒豊かな言葉が、瑞々しく響き合う珠玉のように連なり、ときに優しく時に残酷な、透明な青空の涯てにも澱んだ泥沼の底にも、甘く詩的な歓楽の園にも煉獄の赤黒い炎の中にも、読者を自在に導き陶酔させる……そんな小説である慧生の作品は、著作によって様々なテーマや作風を持ち、幅広い年齢層のファンを獲得していた。
 一方で、慧生の著作を「設定が派手なだけで中身がまるで無い」だとか、「大衆受け狙いの幼稚で浅はかな駄作」だとか「金持ちのおぼっちゃんのままごと小説」だとか、酷評する書評も多い。そんな奴らの口なんて二度とものが言えないようにしてやろうか、と思うほどむかむかするアゲハだが、思ったところで仕方がないので、ぐっとこらえている。
 ともあれ、文明開化の頃から日本の海運業を支え、今では当時の財閥は解体したとはいえ国内有数の企業グループを形成している、その元総帥家である「橘家」の三男であること、当人のルックスが良いことも手伝って、「橘慧生」の話題性は申し分がない。そのネームバリューと老若男女問わない人気から、雑誌やアンソロジー等への寄稿依頼も、ちょくちょく寄せられているようだった。
 あまりものを知らないアゲハではあるが、立地も設備も良いこのマンションが、それなりに高額であろう想像くらいはつく。
 一人の住まい、というには部屋数が多いここは、通路も広く天井も高い。この街では高層建築は奨励されていないこともあって、九階にある窓からは充分に見晴らしも良かった。南向きのリビングからは、そこそこの広さのルーフバルコニーに出ることもできるし、地下駐車場には慧生所有の品の良い乗用車も停まっている。
 慧生の実家は確かに大変な金持ちではあるが、慧生自身は小中高は公立の学校に通い、大学進学を機に一人暮らしを始めていた。勿論実家からの支援はあっただろうが、基本的にはバイトをして生活費を賄っていた、とデータにはある。
 そして在学中に文壇デビューし、文筆家として収入を得始めてからは、実家の支援も絶っていた。その上でこの生活を維持している、ということは、つまりそれだけ著作が順調に売れ続けている、ということだ。
 家柄にも財力にも容姿にも恵まれ、その上で作家というクリエイティブな職種を生業としている「橘慧生」という人物は、世間から見れば間違いなく華やかな「成功者」であり、同時に妬み嫉みを受けることにも充分な要素を持っている、のだろう。

 ……でも、何もかもが望んだ通りというわけじゃないんだろうな。
 仕事をしている慧生から距離を取り、カーペットの上に正座をして洗濯物をたたみながら、アゲハはとりとめもないことを考える。
 慧生が「書けなくなってしまった」理由には、いくつもの要因が絡んでいて、なかなか他者に推し量れるものではない。
 けれど他者から見ても確かなことは、まともに「小説」を書くこともままならない慢性的なスランプに陥ってしまっていながらも、慧生は苦心しながら、短くてもなんとか人目にふれさせるに値する文章​​​──本人は納得していないにせよ​​​──を書き続けている、ということだ。
 それはやはり、筆を折りたくないという、文筆家としてどうしても曲げられない、切実な本能に近い思いが根底にあるからなのだろう。そして苦心の末になんとか文章を綴っていても、それが納得のできる「小説」ではないことが、じわじわと慧生を蝕み続けてもいるのだろう。
 一週間前の夜、「書きたいんだ」とかすれた声で呟いた慧生が、アゲハの脳裏に思い出された。あのときの追い詰められたような慧生を思うと、アゲハもまた胸が苦しくなった。
 表向きの華やかさとは裏腹に、慧生の中にある鬱屈と懊悩は深い。少なくともアゲハには、片鱗だけでもそれが見えている。
 アゲハは慧生の綴る言葉とその世界を知ったときから、ひたすら慧生に憧れ、会えるときを夢見つつ、アルファトリニティでの日々を過ごしてきた。自分こそが世界一の慧生のファンだと、心ひそかに自負してもいた。
 橘慧生なる人物が「マスター」なのだと、奉仕型アンドロイドであるアゲハは、プログラムの絶対基盤上にインプットされている。だがそれをさておいても、自分が慧生に憧れ傾倒する気持ちは、何より情操を司るクオリアシステムと「学習による成長」の影響だ、とアゲハは考えていた。
 ​​​──だって、直接会う前から好きだったけれど、こうして実際に会ってみたら、前よりももっともっと「この人が好きだ」と思うようになったもの。
 気難しい顔でノートパソコンのディスプレイに視線を縫いとめている慧生を、やや離れて眺めながら、いつの間にかアゲハは洗濯物をたたむ手を止めてしまっていた。
 透明なルビーのような、そして虹色の不思議な艶を帯びたアゲハの瞳が、いつしかぽやんと惚けた色を帯びる。
 普段の慧生はちょっと長めの艶のある黒髪の毛先がばらけて、首筋や肩に無造作にかかっている。家にいるときは、適当な感じで後ろでひとつにまとめていることも多かった。時々髪をかきあげたり、長い指で形の良い耳にかけたりする仕種が、ほぅと溜め息をついてしまうほど綺麗で、そこはかとなく色っぽい。
 異国の血による深い翡翠色の瞳と、目許の涼しげな整った顔立ちに、少し長めの黒髪はとても似合っていた。アゲハの欲目かもしれないが、欲目だって別に構わないと思う。実際に「ルックスの良さ」も人気要因だとマスコミにあげつらわれるくらいだから、慧生の容姿は贔屓目なしに良いはずだ。
 ぽーっと慧生の仕事姿を眺めながら、アゲハはとりとめもなく考える。
 素顔やサングラス姿ももちろん大好きだけれど、僕がいちばん好きなのは、この眼鏡姿……かな?
 なぜって、近視のせいか普段は少し目つきが悪いのだけれど、眼鏡をかけているときは、心なしかそれが柔らかくなるからだ。
 それに眼鏡のときは、自宅にいることが多いせいか、慧生が笑顔を見せてくれる頻度が比較的高い。慧生はあんまり笑う方ではないから、そういう顔は貴重だし、特によく覚えているのだ。
 だいぶ長いことアゲハが見つめていたせいか、ふと慧生が視線を上げて見返してきた。アゲハと目が合うと、彼の眉間に寄っていた皺が消え、険しかった表情がやわらいだように見えた。
「あ……」
 その表情の変化と、視線を向けてもらえたことが嬉しくて、アゲハは洗濯物を手に持ったまま、ぼっ、と赤くなった。
 何事もなかったように​​​──いや実際に彼にとってはどうという出来事でもなかったのかもしれないが​​​──慧生はすぐにまたパソコンに視線を戻した。アゲハだけが雪のように白い頬を林檎のように赤くして、どぎまぎと硬直していた。
 落ち着け僕、と無理やり慧生から視線を外してうつむきながら、アゲハはどきどきと高鳴っている胸元を、白い小さなこぶしで押さえた。
 ……でも、だって。本当に、綺麗に笑うんだもの。この人は。
 慧生は普段あまり表情を変えないし、口数も多くはないけれど、でも決して怖い人なわけではない。性格に少しきついところはあるが、やはり育ちのせいなのか、何につけても落ち着いていて余裕のある人だ。
 そしてたまに微笑すると、それが本当に優しい。
 でもその一方で、慧生は一週間前の夜、仕事道具であるノートパソコンを床に叩きつけて破壊し、何にも代えられないものであるはずの、処女作の原稿を破いてしまった。アゲハが止めたから一部だけで済んだが、止めなければ全部破いてしまっていたはずだ。
 あのとき慧生の中に垣間見た嵐のような激しさこそが、彼の本質なのかもしれない。と、アゲハは思う。
 尚、あのとき慧生が破いてしまった原稿は、その後アゲハがなんとか修復した。といっても、出来たことはパズルのように当て嵌めて貼り合わせた程度だったが。
 慧生の処女作の、しかも手書きの生原稿なんて、アゲハにしてみればそれはもう垂涎のお宝だ。いや、橘慧生ファンであれば誰もにとって、値段なんてつけられない宝物だ。
 こればかりは、そんなものを破くなんて慧生さんのバカ! と思ってしまう一方、それほど慧生の苦悩は深かったのだと、様々な意味で胸が痛くなる。
 ものを感じ取り表現する能力が高いということは、それだけ感受性が豊かである、ということだ。それは感情でもあり、感性でもあり、想像力でもある。
 慧生の代表作である『氷焔』は、恐ろしく精密で容赦が無く、読む者に息を飲ませるほどに残酷で美しい。どこか張り詰めた糸にも似た、綺麗な緊張感を持っている慧生は、その奥底に強く激しいものを秘めているからこそ、あんなものが書けるのかもしれない。
 ちなみにあの処女作の生原稿であるが、アゲハは当然「読んでみたいです」と慧生にお願いしてみたものの、即答で却下された。
「読みづらいし、今さら人に見せるもんじゃない」
 と頑なに拒否しながら、うっすら慧生は赤面していたように思う。
 何をそんなに赤くなっているのかしら、とアゲハは思ったが、いつも落ち着いている慧生が見せたその珍しい表情に、それはそれできゅんとしてしまった。
 なのでそのときはそれで引き下がったが、慧生のあの生原稿をいつか読みたい、ということは、今ではすっかりアゲハの中で「叶えたい夢」のひとつになっていた。
 それらのことを思い出しながら、アゲハは自分の左手首にはまっているシンプルな玉石のブレスレットをにふれた。それはアゲハの首に掛かっていたタグプレートと「交換」だといって、慧生が自らの手首から外し、アゲハの手首に掛けてくれたものだった。
 身長の高い慧生と小柄なアゲハとでは、身体のパーツの大きさも相当に違うので、それはアゲハの手首に合うように組み直してもらってある。サイズを詰めたことで余った石は、慧生の手に返してあった。
 鈍い銀色ともつかない色をした丸い石には、孔雀の羽とも揚羽蝶の翅とも例えられる、不思議な虹色の光沢がある。美しいそれを、慧生はまるでアゲハのようだと言ってくれた。
 自分で自分の姿は普段見えないが、アゲハの白銀の髪と真紅の瞳もまた、淡く柔らかな虹色の煌きを帯びている。慧生が長年身に着けていたブレスレットを指してそう言ってくれたことが、なんだかアゲハにはとても嬉しかった。
 鷹司礼二から突然送りつけられてきたアゲハに、慧生は最初こそ困惑していたが、今では家事全般を任せてくれている。家のことを片付けたり食事を作ったりしていると、慧生はアゲハに礼を言い、褒めてもくれる。軽く頭を撫でてくれたりすることもあって、そんなときの慧生の優しい掌の感触が、アゲハは大好きだった。
 ​​​──この人のことを、もっと知りたいな。
 宝物になったブレスレットにふれながら、アゲハの視線はまた、無意識のうちに慧生に向いていた。
 データや著作を通してなら、アルファトリニティにいた頃から、慧生のことはよく知っている。けれどこうして「生身」の彼と間近で接触し、そこで得られる情報量は、絶大で新鮮だった。
 声音や直接の言葉、ちょっとした仕種や立ち居振る舞い。データとしてではなく、この人が「生きてここにいる」ということを実感する。この人は確かにここにいるのだ、ということを肌身で感じる。
 何より、あの一週間前の夜、「おいで」と言って引き寄せてくれたときのこと。
 倦み疲れた、切なくなるほど優しい声でアゲハに呼びかけ、「ありがとう」と言ってアゲハを抱き締めた慧生。あのときの慧生の腕も、衣服を通したあたたかさも、髪を撫でてくれた手も、キスしてくれた唇と体温も​​​──何もかもが、思い出すだけでも胸が締め付けられて泣きたくなるような、アゲハの大切な宝物になっていた。
 慧生が「機械」である自分に対して、何を思い、どういう理由で抱き締めてくれたのか、アゲハには分からない。慧生は「機械相手」なんて考えたこともない人だから。それは本当は、涙が出るほどとても哀しいことだったけれど、慧生にアゲハの勝手な気持ちを押しつけることは出来ないし、傍にいることを受け入れてくれただけでも幸せなことだった。
「橘慧生」は、電脳の中から生まれたアゲハの灰色で無機質だった世界に、「言葉」によって鮮やかな音色と色彩を与えてくれた人。「アゲハ」に息を吹き込んでくれた人。
 ​​​僕に「世界」を与えてくれた人だから。僕もこの人のために、何かをしてあげたい。
 そして、どんなささいなことでもいいから、世界にただ一人しかいないこの人のことを、もっと知りたい。
 熱のこもった眼差しで慧生を見つめ、アゲハはぎゅっと、無意識のうちに手元の洗濯物を握り締めた。
 そしてハッと、我に返った。
「あっ……」
 先程から何度も握り締めてしまっていた手元の洗濯物が、見事にしわしわになってしまっている。アゲハは慌ててそれを伸ばし、形を整え始めた。

 ​​​──実は毎度のことながらそんなことをしているアゲハに、慧生がちらりとだけ眼鏡の陰から目を向け、いささか呆れつつも、小さく目許をなごませた。

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