一週間後に咲く花へ (4)

栞をはさむ

「ただいま戻りました、慧生さん」
 アゲハが帰宅すると、慧生はリビングのソファから、広げた何かの本を読みながら「ん、おかえり」と返事をした。
 何かとデジタル化が著しい世の中、読書もデジタルとアナログを選べるが、慧生は新聞や雑誌、さっと読み流すだけのものは電子版、それ以外は紙の本で​​​、というふうに原則区別しているようだ。
 この家には慧生の書斎の他にも、本や資料保管専用の部屋があり、鍵がかかっている以外のところは自由に見ても良いと言われていた。アゲハは自分の携帯端末の類いを持っていなかったから、手に取れる本が多くあることは嬉しかった。
 それはさておき、アゲハは慧生の様子をそろりと確認してから、リビングには入らず廊下に引き返した。洗面台で、さっと手と袖を洗い流す。血の跡は完全には落ち切らず、しょんぼりしながらシャツの袖をまくってそれを隠すと、あらためてリビングに足を向けた。
 ダイニングと続き間になったリビングは、この家の中でもいちばん広々としている。リビングには天然木のローテーブルと座り心地の良いソファが、ダイニングにはカウンターキッチンの他に揃いのテーブルと椅子があって、食事は基本的にはこちらでとるが、慧生の気分でリビングで食べたりもする。
 晴れた日には大きなテラス窓からの採光と風が特に気持ち良い一角には、リクライニングのついたローソファも置かれている。目に優しい色の観葉植物がふとしたところにあったり、ちょっとしたインテリアや間接照明で控えめに空間演出されていたりと、この家は派手さは無いが静かで寛げて、居心地が良かった。
「ごめんなさい、迷ってたらちょっと遅くなっちゃいました。すぐに夜ごはんの支度をしますね」
 明るく言いながら、アゲハはオリーブオイルの入った袋を下げ、ぱたぱたとキッチンに向かう。
 その白い姿を何気ないように目で追った慧生が、翡翠の瞳に怪訝な色を浮かべた。
「手、どうかした?」
 その問いかけに、アゲハはぴたりとキッチン手前で足を止めた。暑いわけでもないのに大きくまくり上げた袖に、違和感を抱かせてしまったのだろう。
 まずいと思ったが、何も知らせたくなかったのでありのままも言えず、アゲハはたどたどしく答えた。
「あ、ええと……その、ちょっと転んで。袖を汚してしまいました」
 それが異常を悟らせてしまったらしい。慧生は立ち上がると、長い脚を運んでアゲハのもとまでやって来た。
「見せて」
 真正面に立たれ、そうはっきり要求されてしまえば、アゲハに逃げ隠れすることなどできなかった。
 掌を下におずおずと両手を持ち上げると、慧生がその手首を取り、上に向けて返した。ずくずく疼いていた傷口に痛みが走り、アゲハは思わず顔をしかめてしまった。
「……どうしたの、これ」
 生傷だらけになって止まり切らない血が滲み、到底「転んだ」だけには見えないアゲハの両手を見て、慧生が僅かに目を瞠った。
「ええと……」
 慧生に嘘は言えない、と思いながらも、アゲハは言いよどんだ。聞かれてしまった以上は答えなければいけないが、どういうふうに話せば慧生に少しでも不快感を与えずに済むだろうと、必死に考える。
 そのアゲハの様子に、慧生はしばらく黙っていたが、やがて軽い溜め息をついた。
「多少の外傷なら自然治癒するって仕様書には書いてあったけど。それくらいの怪我は、どう?」
「うんと。パーツや基幹部が破壊されたりっていうような、そこまでひどい損傷じゃなければ、時間が経てば自己修復されます。これくらいなら大丈夫です」
 一見したところ、アゲハの傷口は生身の人間のそれと変わらない。損傷度合いとしては、人工皮膚の表層にいくらか傷がついた程度だ。
「そう」
 慧生はそれだけ言うと、アゲハの前を離れて歩き出した。
「慧生さん?」
「そっちに座ってろ」
 慧生はぶっきらぼうに言い置いて、部屋を出ていく。
 どうしよう、怒らせちゃったのかな。とアゲハは不安になったが、どうできるわけでもないので、言われたままに慧生が座っていたソファの傍らまでいき、床にぺたりと座った。
 フローリングの床には毛足の長いラグが敷かれているので、座ってもふかふかしている。ソファに座っても良いのかもしれないが、慧生と同じ高さ、まして隣に腰掛けることを、アゲハは遠慮してしまっていた。
 慧生はさほどもせずに、クリーム色をした箱を手に戻ってきた。それは、いつもは廊下の収納棚にしまわれている救急箱だった。
「えっと……慧生さん。僕は感染症を起こしたりもしませんから、特に手当てもいりませんよ?」
「傷口をそのままにはしておけないだろう」
 何を言っているのかといわんばかりに、慧生が呆れた調子で返した。
 慧生はソファにではなく、アゲハと同じ高さに合わせるようにラグに直接腰を下ろした。その指の真っ直ぐな手がアゲハの白い手にふれ、再び上向かせる。彼の指の感触に、思わずアゲハの胸の奥がどきりと揺れた。
 慧生はそんなアゲハをよそに、血の滲んでいる傷口を痛々しそうに見る。
「アンドロイドの自己修復機能については、俺にはあんまり分からないけど。おまえには痛覚だってあるんだろ?」
「それは、ありますけど……」
「だったら手当てされておけ。このままじゃロクに何も触れないだろうし」
 慧生は問答無用で、救急箱を開いてガーゼと包帯を取り出した。
 言葉や態度は素っ気なかったが、アゲハの手を取る慧生の仕種には、極力痛みを与えまいとする気遣いがあった。長い指がアゲハの掌にガーゼを当て、器用に包帯を巻きつけてゆく。
 その動きを、手にふれてくる慧生の指の感触を、アゲハは高鳴ってくる鼓動を抑えられず、どきどきしながら全神経と視線とで追っていた。
「​​​で。どうしたの、これ」
 手当てをしながら、慧生があらためて訊ねた。アゲハは口ごもったが、問われてしまえばやはり隠しておくことはできなかった。
「……マンションの下に、雑誌のライターさんがいたので」
 何のために、とはアゲハは言わなかった。
 一瞬だけ慧生の手が止まり、その翡翠色の瞳が持ち上げられて、うつむき加減のアゲハの顔を無言で見た。
「ちょっと腹が立ったので……カメラを壊してしまいました」
 真綿のようにふんわりと笑っているアゲハの告白に、慧生は驚いたようだった。
「おまえが?」
「はい。これは、そのときに。僕の不注意です」
「そいつらは、まだ下にいる?」
「帰ったんじゃないかと思います。少し脅かしてやったから、もう来ることはないんじゃないかな。慧生さんにも、ご迷惑はおかけしないかと思います」
 普段の柔和なアゲハに似合わぬそれらの言葉に、慧生がますます驚いたように目を丸くした。
「……そうか」
 だがそれに対しては、慧生はそう言っただけだった。
 ​​​慧生さん、どう思ったのかな。
 なんとなく顔を見るのが怖い気持ちで、アゲハは下を向いた。
 慧生はきっとアゲハのことを、いつでもふわふわと笑っている無害な存在だと思っていただろう。慧生をマスターとしているのだから、実際に慧生に対しては絶対的に無害だ。
 でも、慧生以外に対してであればそうではない。勿論むやみに危害を加えるような真似はしないが、慧生に害を為す者がいようものなら、アゲハはそれを阻むためにどんなことでもする。
 ​​​意外に思われたのかな。もしかしたら呆れられたり、幻滅されちゃったのかな。
 でも僕は、あんな連中はどうしても許しておけなかった。
 嫌われてしまったのかもしれないと思うと、不安と怖さで涙が出そうになった。
 顔を上げる勇気が持てないアゲハに、慧生は何も言わずにその両手に包帯を巻き、綺麗に留め、道具を片付けて救急箱の蓋を閉めた。
「あ……ありがとうございます」
 うつむいたままでいたら、慧生が小さく息をつく声が聞こえた。それがアゲハを責めているように思えてしまって、じわりと薄く涙が滲んだ。
 やっぱり嫌われちゃったんだ。小さく下唇を噛んだとき、アゲハの頭をふわりと慧生の大きな掌が撫でた。
 あやすようなその感触に、アゲハは恐々、白銀の髪の下から潤みかけた紅い瞳を上げた。
 慧生は怒った顔はしていなかった。あまり表情が豊かな人ではないが、その瞳の端には、アゲハをいたわるような色が宿っていた。
「悪かったな。ごめん」
 言われて、アゲハは驚いて小さく息を呑んでしまった。
「どうして、慧生さんが謝るんですか?」
「だって、俺のせいだろう」
「違います。僕があいつらを許せなかったから」
「俺のために怒ってくれたんだろう?」
 やんわりと、けれど遮るように、はっきりと慧生は言った。
「アゲハがそいつらを追い払ってくれて、助かった。ありがとう」
 アゲハ、と優しい声で名前を呼んでくれたその響きが、アゲハの中に沁み渡った。視線を離せないままに、アゲハはただ慧生の顔を見上げていた。
 嫌われてしまったのかもしれない、という不安や怖さが、春の陽光にふれた雪のように、一瞬で溶け崩れてゆく。嬉しさがアゲハの小さな胸の中をたちどころに満たして、泣きそうなほど幸せな心地に変えた。
「いえ……いいんです。僕の方こそ」
 瞼と頬が熱くなるのを感じながら、アゲハは慧生の手当てしてくれた自分の両手を胸元に抱き込み、ふるふると首を振った。
 僕の方こそ、たくさんあなたにお礼を言わなきゃいけない。僕には、あなたがすべてだから。あなたの役に立てるなら、僕はどんなことだって平気だ。
 ずくずくと手の傷は疼いていたが、その痛みでさえ、アゲハには勲章のように思えた。
 アゲハがすっかり感極まってしまったせいか、慧生は苦笑じみた顔をした。彼はついと指を伸ばして、包帯でぐるぐる巻きになってしまった白い手にふれた。
 小さな痛々しいありさまのアゲハの両手を、慧生はしばらく手をふれたまま見つめていた。穏やかだが痛ましげな、だがそれ以上に、何かをじっと考え込んでいるような眼差し。
「慧生さん……?」
 何を考えているのかな。ライター達やマスコミのこと、小説のこと、それに美玲羽さんのこと……かな?
 美玲羽のことを思うと、ちくりと胸の奥が痛む。それを顔には出さないように首を傾げると、慧生はアゲハの手から視線と指を放した。
 そのときには慧生はもう普段の淡白な顔つきに戻っていて、救急箱を持って立ち上がった。
「晩メシは俺が作るよ。何を作る予定だったのかだけ教えてくれ」
「あっ、は、はい。すみません、作れなくなってしまって」
 アゲハも慌てて立ち上がった。そういえばこれじゃごはんの支度ができないや、と気付いてしゅんとなる。
 明日は調理用の手袋を買ってこよう、と思いながら、アゲハは慧生と一緒にキッチンに移動した。
 夜ごはんを作れなくなってしまったことは残念だったけれど、慧生が自分からきちんと食事をとる意欲を見せてくれたことが、アゲハは嬉しかった。
 タイマーをかけておいた生姜ごはんはもう炊きあがっていて、キッチンは美味しそうな良い香りがした。慧生もその匂いに気付いたのだろう、「あ、これ」と呟き、ほんのりと目許を和ませた。
 慧生のそんな表情が珍しく、自分が用意した生姜ごはんでそんな顔をしてくれたのだと思うと、アゲハは小躍りしたいほど嬉しくなってしまった。
「僕も、できることはお手伝いします。簡単なことならできますから」
「うん」
 慧生と一緒に夜ごはんの支度をしながら、アゲハは胸の奥が少しだけしくりと沁みる、けれど幸せな気持ちで思った。
 ──これだけで満足しよう。慧生さんがこんなふうに穏やかな顔をして、ごはんを食べてくれるだけで充分だもの。
 これ以上のことを望んだら、きっと慧生さんを困らせてしまう。だから、僕はこれ以上を望んだらいけない。

 やがて夕食が並び、一緒のテーブルについて食べ始めたところ、包帯のせいでアゲハはうまく箸が持てなかった。
 見かねた慧生が食べさせてくれようとしたのを、真っ赤になって慌てて断って、あわあわしながらスプーンとフォークを用意するという一幕がありつつも、穏やかに時間は過ぎていった。

栞をはさむ