一週間後に咲く花へ (6) -完結-

 瞼の裏にうっすらと明るさを感じ、アゲハは目を覚ました。
「ん……」
 引かれたカーテンの隙間から、爽やかな朝陽がリビングに差し込んでいる。いつもと変わらない、穏やかな朝。そのはずが、すぐ傍らに違和感があった。
 寝ぼけまなこで何気なく横を見て、アゲハは心臓が口から飛び出るかと思った。
「けっ……」
 傍らでラグに腰を下ろした慧生が、ソファに凭れるように眠っていた。
 寝起き直後に至近距離で慧生を見た、しかも初めて見るその寝顔に、アゲハは一瞬のうちに心拍数がハネ上がる。起き抜け早々の破壊力が高すぎる状況に、アゲハは真っ赤になって呼吸が止まりそうになった。
 うわ。うわ、うわ。慧生さん、すごい睫毛長い。鼻筋も通ってて、唇も顎の線も形が良くて……綺麗。
 少し毛先の乱れた黒髪が首筋にかかっているのは、無防備な色気がありすぎて無理だった。
 硬直したままアゲハが動けないでいると、慧生の睫毛が揺れた。どうやら深く眠っていたわけではないようで、すぐに瞼が開く。
 毛布の中で真っ赤な顔になり硬直しているアゲハを見ると、慧生はいつものやや淡白な調子で言った。
「ああ。おはよう、アゲハ」
「お、おはようございます……って、何をしてるんですか慧生さんっ!」
 やっと我に返ったアゲハは、毛布をハネ飛ばして飛び起きた。
「こ、こんなところで寝たりして! カゼでもひいたらどうするんですかっ!」
 空調は効いているとはいっても、まだまだ朝晩は冷え込む季節だ。真っ赤になりながらも叱り飛ばす勢いで言ったアゲハに、慧生は一瞬やや押されたような顔を見せた。
「毛布あるし、大丈夫だと思うけど」
 確かに慧生はきちんと毛布にくるまっていて、肩には暖かそうなブランケットもかかっている。
「だ、だからってっ……」
 こんなところでそんな姿勢できちんと休めるわけがないと、さらにまくし立てようとしたアゲハの口の前に、すっと指が立てられた。男性のものにしては白い、慧生の真っ直ぐで形の良い指。
 慧生はアゲハを、位置関係上だけではないような若干の上目遣いで見上げ、ふわりと薄く笑った。
「アゲハがそうしろって言ったんだけど?」
「っ、っ、っ……ッ!」
 悩殺(アゲハ比)。の一言がふさわしいような慧生の仕種に、アゲハは頭に血が昇りすぎて、しばらく酸欠の金魚のように、ぱくぱくと口を開け閉めしていることしかできなかった。
「っっち、ち……ちがいます! ぼ、僕は、僕が眠るまでここにいてって……!」
「そのまま俺も寝ちゃった。それだけ。いけなかった?」
「い、いけなくは……いえ、でも、だって、大切なお身体なのにっ……!」
「分かったよ」
 くつくつと慧生が笑い出した。大きな声ではなかったが、基本的に表情の変化に乏しい彼は普段は笑顔といっても微笑む程度で、声を立てて笑うところなんて初めて見たアゲハは、またぽかんとしてしまった
 慧生は立ち上がりながら、大きな手でアゲハの頭をくしゃりと撫でた。
「今度から気を付ける。手は痛む?」
「あ……えと、手は……だいじょうぶです」
 手の傷のことなんかすっかり忘れていたアゲハは、慧生のペースに巻き込まれるというか振り回されるまま、素直に答えていた。
「そう。後でガーゼと包帯取り替えるから」
「あっ、はい……ありがとうございます」
「朝メシは適当に作る。おまえはもう少し寝てろ」
 毛布を抱えて歩き出した慧生に、アゲハはようやく正気に返ると、「え!!」と叫んでソファから立ち上がった。
 とんでもない、食事を作るのはアゲハの仕事だ。慧生にやらせておいていつまでもだらだらと寝てるなんて、そんなのダメだ。
「い、いけませんっ。僕がごはんは作ります! 慧生さんはゆっくりくつろいでてくださいっ!」
 急いでリビングのカーテンを開け、パジャマ姿のままでバタバタキッチンに駆け込んでいくアゲハに、慧生がやや呆れたような視線を投げた。
 アゲハがうまく使えない左手にもたもたし、あまり良いとは言えない手際で朝食の準備を始めていると、素早く身繕いを終えた慧生がキッチンに入ってきた。
「あ、慧生さん。いいんです、僕が……」
「いいから、おまえも着替えて来い。どのみちその手じゃ、ろくに水も触れないだろう」
 コーヒーメーカーに豆をセットしながら、慧生は素っ気ない口調で言った。素っ気ないけれど、ここ数日彼と過ごしていたアゲハは、その声音が随分柔らかいことも聞き逃さなかった。
 ──ああ、朝の爽やかな空気の中で見る慧生さんも、やっぱり素敵だ。スレンダーで締まった身体に、暗い色の服がシャープさを際立たせているようで、でも明るい朝の光がふわりとそれをやわらげていて……って、違う!
 いつものごとくついうっかりと慧生に見とれかけてしまったアゲハは、ぷるぷると慌てて首を振り、慧生に歩み寄った。
「で、でも」
 なおも納得せずにいると、慧生の翡翠の瞳がアゲハを流し見て、すうと細められた。
 慧生の人差し指の先が、それ以上の反論を封じるように、アゲハの唇にぷにっと軽く押し当てられた。
「マスターの命令は絶対。でしょ?」
「……………………はい」
 ──朝から立て続けに、こんなのはズルイ。
 と頭の中では猛烈に訴えつつも、慧生の流し目にまたしても一瞬で悩殺されてしまったアゲハには、反論なんてできるわけもなかった。
 すごすごとリビングに引き上げ、昨夜のうちに用意しておいた今日の服に着替え始める。ボタンを外すのは嵌めるよりは簡単で、そう苦も無くパジャマを脱ぐことが出来た。
 そうするうちに、今さらながらさっき慧生の指先が触れた唇が、ほわりと熱をもってきた。
 小さな火がともったように熱いそこに、無意識に指先をふれさせる。その場所は、昨夜も慧生が指先でふれてくれたところ。そして、慧生がキスをしてくれた場所だった。
 昨日までの慧生は、頭を撫でてくれることはよくあったけれど、こんなふうに気軽にふれてくることはなかった。あんなふうに冗談半分に、軽口めいたことを言うこともなかった。
 慧生のキスを思い出すと、嬉しいと同時に胸が痛み、切なくなる。
 慧生が何を考えているのかは、よく分からない。けれど、少しだけでも、慧生との距離が縮まりつつあるのだろうか。そう思ってもいいのだろうか。
 思い出すだけで、どきどきと鼓動が早くなり、頬が熱を持つ。
 甘い期待と、期待したら駄目だという戒めとがせめぎあい、アゲハは複雑な溜め息をついた。
 窓の外の明るい光に、朝からこんなことじゃいけない、とアゲハは気を取り直した。思わずぎゅっと手を握ってしまって、まだ癒えていない傷の痛みに涙目になりかけたけれど、気持ちを入れ替えるように可能な限りてきぱきと着替えをすませ、枕と毛布を片付ける。
 身支度を整えてからキッチンに行くと、コーヒーとトーストの良い匂いがして、慧生が出来上がった朝食をトレイに載せているところだった。
「あの、慧生さん」
 食事を始めてうやむやになってしまう前に、と、アゲハは慧生に呼びかけた。
「うん?」
 見返った彼に、アゲハは心なしか背筋を伸ばす。
 少し切ないけれど、それでも僕はこのひとが好きだ。『機械』であっても、生まれてこれたこと、僕が僕という意思を持つことができたことに感謝するくらい。
 だから真っ直ぐに彼を見て、ちょっと息を吸ってから、朝陽に負けないくらいとびきりの笑顔で、アゲハは言った。
「慧生さん、ありがとうございます。僕、あなたのことが好きです。大好きです」

 

(了)

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